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公式ハッシュタグ令和四年6月17日骨董品ランキング1位仙台藩の主力装備である四匁筒は,井上流砲術仕様である十匁筒とその姿形がまるで異なる。その理由を明らかにすべく仙台鉄砲の起源を調べたら,井上流砲術と伊勢守流砲術に辿り着いた。仙台藩の鉄砲上の二挺が仙台藩の主力装備である四匁筒。下の二挺が仙台藩十匁筒。仙台鉄砲の四匁筒は伊勢守流砲術仕様の鉄砲だったのである。伊勢守流砲術仕様の鉄砲の火挟みと反対側に施された分銅紋座金がその大きな決め手となった。仙台鉄砲の約二割にも分銅紋座金が
トラブル度:!!!ポルトガルは日本に似たところがたくさんあります。逆に考えると,鉄砲伝来の頃,ポルトガルの食文化も日本にもたらされ,時が経つにつれ日本独自の物と思われるようなったのかもしれません。合羽は日本の物と信じている人が多いと思いますが,ポルトガルからの伝来のものです。イワシの料理などもそうかも知れません。コインブラの帰りにレストランに入ったとき,メニューにイワシがあったので注文したところイワシが6匹も調理されて出てきました。
タイトルが面白そうだったし門井慶喜さんの本だったので借りてきました。信長、鉄砲で君臨するAmazon(アマゾン)1,881円ポルトガル人によって種子島に2丁の鉄砲が届き父をも凌ぐ16歳の種子島時堯がこの鉄砲によって本土との力の差を埋めていこうと画策しようとしたという<第一話>からワクワクさせる展開で始まります。「1543年鉄砲伝来」・・・学校で習ったのはこれだけでしたし私はここの部分を詳しく小説でも読んだことがなかったのでそこの部分だけを1冊の本にしても面白そうと
GW最終日…種子島旅行二日目の記録を残したいと思いますホテル発→マングローブパーク→ジェラート→ロケット発射地→宇宙科学技術館→門倉岬(ポルトガル人漂流地)→観光土産店→レンタカー返却→港朝はゆっくりホテルの朝食を楽しみ10時過ぎに出発今日は娘に運転任せます。種子島のマングローブパークへ遊歩道が整備されています。この川をカヌーでのぼるとマングローブに行けるようですが、昔奄美で体験済みなので見るだけで次へ南種子町には、漂流したイギリス人がお礼に置いていったというインギー鶏がいま
「土浦に過ぎたるものが2つあり。時の太鼓と関の鉄砲。」と俗謡が伝える通り,関流砲術は,土浦城櫓門から朝夕二回打ち鳴らされる時太鼓とともに土浦藩9万5000石土屋家の自慢であった。土浦城櫓門の時太鼓関内蔵助勝信により1669年に成立した関流砲術伝書には,当流は南蛮流だと記しされている。確かに南蛮流の名前の通り,関流の鉄砲は,ヨーロッパの銃を思わせる雰囲気を持っている。関流砲術の鉄砲は,種子島への鉄砲伝来後,西洋から何種類もの鉄砲が入ってきたことを示唆していると私は考えている。関
軽バン(ホンダN-VAN)で車中泊しながら、屋久島&種子島へ行ってきました。新型コロナの感染者が激減したので、2021/10/31~11/19の20日間、温泉でまったりしつつ、史跡・名勝も訪れ、道の駅で車中泊しながら、屋久島・種子島まで一人旅をしてきました。1日目は、岡山県の自宅から、山口県下関市の道の駅・蛍街道西ノ市まで移動し車中泊2日目は、九州へ渡って秋月城跡を見学後、福岡県久留米市の道の駅・くるめで車中泊3日目は、熊本県の五木・五家荘を観光後、球磨郡の道の駅・錦で車中泊4日目
世間に出して、「恥ずかしくない!」そんな人間に我が子を育てたい。変わりつつはあるものの、これが一般的な日本の親御さんの気持ちなのでしょう。これに対して欧米社会はというと、ヨソに出しても、“自立して生きていける!”そんな人間に我が子を育てたいと願うもの。日本と欧米とでは、このような違いがあるといわれているのです。日本に神は存在しない、そんなことがよく言われたりもするのですが、日本人にとっての神様は『世間サマ』世間体が悪い、世間に対して申し訳が立たない。このような言い方が決まり文句
最近食べた甘い食べ物は?▼本日限定!ブログスタンプあなたもスタンプをGETしよう1543年(天文12年)種子島に1隻の大船が漂着し,この船に乗っていたポルトガル人により日本に鉄砲が伝えられました。この鉄砲伝来により,インドや中国しか知らなかった日本人が,南蛮人を知ったということも大変重要です。逆に見れば,南蛮人が日本を知り,日本への航路を発見したのです。初伝銃といわれる鉄砲その後,日本には多くの南蛮人が訪れるようになりました。貿易だけでなくキリスト教の布教のためです。彼らが
1543年に種子島へ鉄砲が伝来する以前,1501年の文亀元年に日本へ鉄砲が持ち込まれていたと関流砲術や中島流砲術の伝書は記している。この時は,鉄砲だけがあり技術や理法が伝わらなかったため,日本国内にて鉄砲が広まることはなかったという。おそらく,その鉄砲というのは,火薬を込めた金属の筒を木の柄に取り付けた手銃と呼ばれるものだっただろう。手銃発射想像図照準器も引き金もないため命中精度が悪く兵器としての魅力は,乏しいものだった。まして火薬製造技術が伝わらないのであれば,手持ち火薬を使
種子島に鉄砲が伝来したのは,今からおおよそ480年前のことである。その時,種子島の領主だった種子島時尭は,二挺の鉄砲を金2000両で手に入れた。種子島に渡来した鉄砲などこの価格について,1606年に成立した鉄炮記は,『その価の高くしておよび難し』としか記載がない。つまり『とても高かったですよ。』と言っているだけなのである。明治に著された『南島偉功伝』は,鉄炮献上の礼に2000金を贈ったとしている。その根拠としているのが,1614年に刊行されたピントの『遍歴記』で,それには鉄砲のお
友達が歌ってて好きになった曲ある?▼本日限定!ブログスタンプあなたもスタンプをGETしよう友達が歌っていて好きになった曲といわれれば,それは加藤和彦の作った「シンガプーラ」だ。だいぶ古い曲だが,シンガポール航空のCMソングにもなったから知っている人もいるだろう。今は,杏子が,カバーしている。私は,この曲を聴くと太平洋の荒波をおしわたり種子島にたどり着いたアントニオ・ダモッタやフランシスコ・ゼイモト,アントニオ・ベイショットなどのポルトガル人のことを思い出す。彼らポ
今日の何があった日は、種子島西村前之浜にポルトガル人を乗せた船が漂着した日です1543年のことでした大隅国の種子島、西村の小浦(現/前之浜)に一艘の船が漂着したそうで、100人余りの乗客の誰とも言葉が通じなかったそうですが、西村時貫(織部丞)はこの船に乗っていた明の儒者・五峯と筆談してある程度の事情がわかったので、この船を島主・種子島時堯の居城がある赤尾木まで曳航するように取り計らったそうですこの漂着により日本に鉄砲が伝来しました
こんにちは〜神戸市北区鈴蘭台で小料理屋南種子町トンミー大使の関初美です私の出身地種子島にはロケット台があります種子島と言えばロケットと鉄砲今日は鉄砲伝来のお話しを、、、種子島鉄砲伝来鉄砲伝来の諸説火縄銃は、1543年(天文12年)に種子島に漂流したポルトガル人によってもたらされた武器と言うのが定説です。一方で、種子島伝来以外にも様々な過程を経て日本にもたらされた説や、種子島へ伝来する以前から日本に伝わっていた説など、鉄砲伝来についてはいまだに議論の余地が残されています。ww
鉄砲伝来と言えば・・・1543年(天分12年)、流れ流れ着いたポルトガル人が日本に鉄砲を伝えたと言われています。その地が種子島。現在は観光業が盛んでありマリンスポーツをする移住者や日本中を興奮させた『はやぶさ2』などを打ち上げたロケットの発射場もあります。そんな種子島に産科医ご家族が移住され、5年ぶりに産科医2人体制が整ったとか♪2007年末に島では唯一の産婦人科医院が閉院したそうで、このままでは医療提供体制の脆弱さによる若い世代の島外流出を懸念して、
鉄砲伝来は,新技術の獲得ばかりでなく,インドや中国,朝鮮しか知らなかった日本人が,南蛮という異国の存在を知ったということのほうが重要だ。別な見方をすれば,南蛮人が日本への航路を発見したともいえる。鉄砲伝来後,時を置くことなく陸続として西洋の文物が,日本に入ってきた。関流砲術の伝書は,鉄砲伝来後に肥前の長崎へ鉄砲巧者の南蛮人が,幾度も渡り来たと伝えている。当然のことながら,南蛮人たちは,ヨーロッパで作られた鉄砲や東アジアで作られた鉄砲など様々なタイプの鉄砲もたらした。それらは,日本で製銃され
戦国時代の紀州は、本州最初の鉄砲伝来地で、鉄砲生産の先進地帯だった。ポルトガル人が種子島に伝えた二丁の火縄銃のうちの一丁を,紀州根来寺の僧兵指揮官だった津田算長が紀州に持ちこみ、その翌々年、刀鍛冶の芝辻清右衛門が紀州第1号の火縄銃を完成させ,紀州根来は鉄砲を量産することになったのである。紀州で生産された火縄銃は,機関部にゼンマイとカムを用いるという大きな特徴を有する。加えて,火挟みがナット止めで雨覆いはネジ止めされたものが多い。紀州鉄砲の雨覆いに関し,海外から問い合わせがあったので,調べて
どちらも白サラシの裏地付き。中央縦と上端に形状保持テープ入りです。作り方はこちらで。ご希望のかたいらしたらご遠慮なく〜(^^)。ところでこの本↓。阿刀田高著「リスボアを見た女」は、ブロ友のUさんがポルトガルに行こうと思われたきっかけになった本、と言うことで図書館から借りて読みました。内容は天正の少年使節団や支倉常長より早く、当時の大国ポルトガルの都リスボアを訪れた日本人がいた。種子島の鍛冶の娘で、伝来した鉄砲の製法と引きかえに、人身御供同様
国名:ポルトガル王国発行年:1910年(明治43年)発行枚数:200,000枚銀品位:0.917重さ:25.00gポルトガル王国最後の国王マヌエル2世のナポレオン戦争勝利100周年記念貨。1910年にこの記念コインを出した直後、ポルトガルは革命によって国が滅びます。その為か発行データは20万枚と膨大な量なのに案外現存数が少なく、鑑定実績も非常に少ない状況。現在MS64がPGCS/NGC共に最高鑑定TopPopとなっています。AWの貨幣博物館でもMS64はⓇ表記のコインとして紹介
公式ハッシュタグ令和三年4月18日骨董品ランキング3位種子島に鉄砲が伝来した後,鉄砲は将軍や大名間の進物や贈答品として利用された。それは,新兵器というのはもちろんだが,珍品としての価値があったからでもある。インドや中国しか知らなかった日本人が,鉄砲伝来により南蛮人という異民族を知ったということも贈答品としての価値を高めただろう。鉄砲伝来直後は,数が極端に少ないためどんな鉄砲でも贈答品になりえたに違いない。しかし,諸国に鉄砲が広がった戦国末期には,南蛮筒と呼ばれる南蛮で製
鉄砲を切り口として日本人を考えている。鉄砲伝来の地の種子島について調べると,面白いことが分かる。種子島は鹿児島から南約120キロの洋上に浮かぶ島である。その当時の日本人の地理的感覚でいえば,種子島は,今の私たちがアフリカやアマゾンに行くのと同じようなイメージであったに違いない。そんな僻遠の種子島にも本州からやって来た人たちがいた。初めて国産の鉄砲を作った八板金兵衛は,岐阜県の関の刀鍛冶だった。政争に敗れ種子島に流刑されたとも,種子島で刀鍛冶をするため渡ってきたともいうが,いずれかは
種子島に鉄砲が伝来した後,九州などに様々なタイプの鉄砲が入ってきたと考えて間違いないだろう。米沢の霞流砲術や土浦の関流砲術の鉄砲は,その嚆矢である。これらの鉄砲は,そのシルエットや銃身の留め方が日本の一般的な火縄銃とは,かなり異なるのである。米沢霞流10匁筒土浦関流10匁筒銃身末端が,鳶の尾と呼ばれるトンビの尾羽のような形をした鉄砲も,鉄砲伝来後,そう遅くない時期に日本に入ってきた鉄砲であろう。鳶の尾の15匁筒この鉄砲は,銃身末端の鳶の尾の部分を銃床の下
鉄砲が伝来する以前の日本国内の合戦では,補給は場当たり的で計画的とはいいがたかっただろう。自国領民からの徴発や敵領地での組織的な略奪等の当てにならない勘定が入っていたからである。弓矢の矢を運ぶ矢箱持ち。矢は敵の打ち込んできた矢を再利用することもできたし現地で矢竹を採取して作ることも可能だったから,矢の補給も場当たり的なものだったろう。しかし,鉄砲の出現により,計画的な補給を考える必要が生じた。なんとなれば,当時,火薬原料の硝石は国産できず輸入に頼
昨年の12月に弾丸で屋久島を訪れましたが、そのときまではお隣の種子島は鉄砲伝来とJAXA種子島宇宙センターくらいしかないと思ってたのですが、屋久島から鹿児島へ戻るトッピー(ジェットホイル)の船内でこんなもの見つけてしまいました。種子島観光協会のガイド冊子これを開いてみると、屋久島のように大好きな温泉がない(少ない)種子島は霧島火山帯から少しずれてるのかな?でも、けっこう見所あるやん。帰りに霧島1泊プラスしたら温泉に浸かれるしいいかも。ってことで、年末来チョコ
仕事が始まったばかり…とは思えないほど、追われてますあと1日がんばれば、また三連休とりま、がんばるっ仕事初めの前に、まずはネイルを変えねば…お正月バージョンの派手めな赤いやつだったしタイミングよく目に飛び込んできたのが、コレ雑誌JELLYいやぁ、雑誌の対象年齢から大きくはずれているのはわかるけど、思わず付録買いしちゃったよマニキュア6色+マスクストラップ2本なんともたくさんおまけに、どれもこれもかわいい色で、ハズレなし早速使ってみたけど、いい発色たまに自分の爪眺め
種子島宇宙センターから近くにある、門倉岬に行ってきました。種子島鉄砲伝来の地です!門倉岬は種子島最南端の所にあります。火縄銃を構えています。豪快ですね。駐車場からは歩いて先まで行きます。まぁ特になにもなかったです…でも見晴らしがよかったですー光が差しています!!この先にはパプアニューギニアがあるのかな来た道を振り返ります。宇宙センターの方を見ます。この先に宇宙センターがあります。ここからもよく見ればロケット打ち上げの瞬間が見えそうですね南国は海がきれいな印象があります
何ごとにおいても、“経験が大切”経験はかけがえのないもの。私たちはこのように教えられてきました。古くからのことわざに、“かわいい子には旅をさせよ”というものがあります。親としての心配や不安、いたたまれない気持ちをあえて押し殺す。心を鬼にして、未知なる世界に我が子を追いやる。知らない場所、知らない人の中にカワイイ我が子を投げ込んでしまう。そのことで経験を積み重ね、逞しく、そして立派に成長してもらいたい。そんな親としての切実な願いが込められているのです。経験は確かに大切。
2020年12月11日(金)いわさきホテルPでサーフィンして、次に向かったのは種子島の最南端の門倉岬。↑七色展望所岬に向かって走っていると、だんだん登りに入ってきます。見晴らしもよくなり、途中に展望スポットがあったので立ち寄りました。遠くに先程までサーフィンしていた、いわさきホテルの方まで見えます。曇っているのがとても残念ですが仕方ありません。↑看板七色展望所からはすぐに種子島最南端の地、門倉岬に到着。ここに来た目的は夕陽を見ることですが…。↑駐車場大きな無料の駐車場があり
日本は他国とあらゆる面で違う。。皆様もそう感じたことありませんか?教科書には書かれてない本当の歴史の一部を...(長いっす)アジアの歴史は長い間、西欧列強の植民地でしたでも、日本とタイは植民地にされた事はないのです四方を海に囲まれてるから?攻める価値がなかったから?違います。。。コロンブスは黄金の国ジパングを目指したしポルトガル、スペインなど。。日本を植民地にしようとやってきていますフランシスコ・ザビエルは布教だけが目的ではなかった彼らはキリストの名において、自分達に占領を許
北木島に続き島シリーズ『北木島笠岡諸島』東京駅丸の内駅舎日本銀行本店日本橋靖国神社の大鳥居大阪城桜門竜虎三井本館大阪市公会堂等に笠岡諸島の北木島から切り出された北木石が使われている…ameblo.jp...ってシリーズ化初めてです。種子島は言わずと知れた主にロケットと鉄砲の島宇宙センターへ白い建物はロケット発射時の中継用「ロケットの丘展望所」からの風景小型、中型、大型とロケット発射場が計3つありますが、現在使用しているのはH-IIAやH-IIBロケ
どうも、Shimyですこのブログは塾代を節約するために、幼児期からどのような働きかけをすればよいのかを元塾講師オカンが検証するブログです。うえーい!前回ちょっと沈みがちでしたが、宇宙幼児に仲間ができて、テンションMAX!!ありがとうございます!ぷっちさん!!ぷっちさんのブログわたしのような怪しの者のブログを読んでくださる皆様も、いつもありがとうございます!!と、同時に、隠の者と