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種子島に鉄砲が伝来したのは天文12年(1543年)鍛冶屋の八板金兵衛はこの火縄銃を研究、改良して日本式の鉄砲を完成させた日本人がネジを見たのはこの時(鉄砲伝来)が最初だったと言われています火縄銃の尾栓(びせん)にネジが用いられていたのです尾栓(びせん)とは銃の筒状の末端を密閉するボルト状の部分の事ですこのボルト状の部分をはずして掃除をします外周にネジが切られている雄ネジ(ボ
公式ハッシュタグ令和6年1月22日骨董品ランキング1位射撃名人のブロ友さんから,鉄砲の上手な人には,共通した特徴があると聞かされた。①器用であること。②メンタルが頑強であること。③お金に余裕があること。この三つだそうだ。たしかに射撃は,練習にお金のかかるスポーツである。毛利伊勢守流砲術を創始した佐伯藩主の毛利高政は,射撃練習で十反帆船一艘分の火薬を数年で使い果たしたというから,驚くしかない。十反帆船なら,おそらくドラム缶で12本分の積載量はあっただろし,当時火薬原料の硝
公式ハッシュタグ令和五年12月20日骨董品ランキング1位関流砲術の伝書,方圓之巻は,『鉄砲の権興は種子島也』と断言している。中島流砲術や津田流,藤岡流,丸田九左衛門の種子島流などの伝書も,表現の違いはあるものの同様のことを記している。関流砲術演武種子島に鉄砲が伝来すると,武士を始め多くの人達が種子島に渡り,鉄砲やその周辺技術を研究した。例えば,一火流流祖の藤原一火は,天正年間に種子島に渡り在島すること七年にして,砲術の妙旨を得て,一火流砲術を開いたという。南蛮船が種子
チョンマゲ太郎の種子島日記という事で、小生、昨年から仕事の関係で、本社から鹿児島県の種子島に転勤となりました。今、ニュースでも話題となっている自衛隊の馬毛島基地の建設に関連する職務のために、種子島で生活をしています。その為、種子島に関する事や自然についてなどを気ままに日記として綴っていきますので、興味のある方は是非読んでみて下さい。
11月14日(火)大阪空港から鹿児島空港乗継で屋久島~!!(笑)お泊りはTHEHOTELYAKUSHIMAの波音日和。11月15日(水)東シナ海展望場や、4月下旬から8月下旬にウミガメが産卵するいなか浜など、屋久島島内観光。高速船「トッピー&ロケット」で海路、種子島へ。お泊りは、種子島いわさきホテル。11月16日(木)種子島宇宙センターや1942年に鉄砲が伝来した門倉岬など、島内観光。種子島空港から鹿児島空港経由で、羽田空港へ帰って気マスタ(笑)おまけ11月1
鉄砲伝来は種子島である。「土浦に過ぎたるものが二つあり。刻の太鼓と関の鉄砲。」と唄われた関流炮術は,土浦城櫓門からの時太鼓とともに土浦藩9万5000石の土屋家の自慢だった。関流炮術は,大口径火縄銃による遠距離射撃を得意とする砲術流派である。関流炮術五十匁演武関流宗家の関正信師によれば,関流炮術というのは、通称であり、正式には南蛮流というのが正式な名乗りのようであると寄稿している。これは関之信の師であった丸田九左衛門が、種子島で砲術研究した後に長崎で南蛮人から遠距離射撃
JAXAのカフェテリアで食事をした後は、こんな所へ。ええっと、、、種子島の南端です。門倉岬。鉄砲で狙われました(゚Д゚)すぐ下が海。整備工事中で、鐘がありましたが、上から眺めておしまい。遙か昔に、鉄砲がやって来て、この島はたいへんだったでしょう。屋久島も見守っています。その後は北上して、かなり進みました。ついに最後の訪問場所。鉄砲館。最後は勉強でシメます。おー。ふむふむ。鉄砲という武器を手に入れたことで、人々の戦いも変化していきましたね。さあ、空港です。車を
8月25日は鉄砲伝来の日鉄砲記から⬇︎天文12年8月25日種子島にポルトガルの船が漂着したこのポルトガルの船こそ日本に初めて火縄銃が持ち込まれた船ですこの鉄砲伝来以降戦国乱世戦が大きく変わっていきます織田信長公の織田軍など鉄砲隊の配備が整った戦国大名は強いイメージ撃て〜日本最古の火縄銃天正11年の年紀があり現存する日本製火縄銃の中で在銘最古い物が大徳寺龍源院に飾られてますどうする家康手ぬぐい楽天市場どうする家康
公式ハッシュタグ令和五年8月6日骨董品ランキング3位鉄砲という兵器は,火薬や弾丸の製造技術を持っていなければ,手持ちの火薬を使いきった時点で,兵器としての寿命が尽きてしまう。つまり鉄砲は,射撃方法,火薬や弾丸の製造法,鉄砲の製作技術・修繕法,射撃術などの関係技術が鉄砲と一緒に伝わなければ,文化として定着することはないのである。1543年に種子島に鉄砲を伝えたポルトガル人は,日本人に対し鉄砲の製作技術から火薬や弾丸の製造法,射撃術にいたるまで鉄砲についての総合的な
公式ハッシュタグ令和五年7月11日骨董品ランキング1位1543年にポルトガル人が種子島に鉄砲を持ち込む以前に,日本に鉄砲が入って来た可能性は高い。京都の東福寺の僧侶の日記である「碧山日録」には,1468年に東軍の細川陣営で「飛砲火槍」を見たとの記述があり,関流砲術の伝書の方圓之巻は,『1501年の秋に南蛮国から鉄砲が渡って来た。』と記されている。また「北条五代記」は、「1528年に堺で鉄砲を一挺買って北条氏綱に進上した。」記している。おそらくその時に日本に持ち込まれた鉄砲は,中
今日は畳を張り替えた茶室で初めてのお客さんを招いての薄茶を点てた。数年来の裏千家茶道の友人であるが、彼は救急病棟の医師で各地へ転勤していた経緯からなかなかお茶を共にすることができなかったが、漸くウィニペグに根を下ろすことにしたそうで、本日ようやくその願いが叶い遠方から訪れてくださった。左から小生、友人のズダン医学博士・医師、私の妻先ずは基本の薄茶をお棚のお点前で差し上げ、その後拝見に復元中の伝家の火縄銃をご覧いただいた。彼は桃山大学へ留学した経験があり、そこで裏千家茶道を習った
火縄銃の普及には,紀州根来寺の僧兵が大きな役割を果たしたのは間違いない。根来寺の僧兵に鉄砲の名人が多かったのも,事実である。ポルトガルから種子島へ伝来した二丁の鉄砲の内一丁は,種子島家から紀州根来の坊主が譲り受けた。その翌年,根来寺では,この鉄砲を基に,本州で初めて火縄銃の国産化をなしとげている。永禄5年(1562年)、根来衆が,四国の猛将三好実休を鉄砲で撃ち倒している。目を関東に転じれば,関東に鉄砲を広めたのは,根来の坊さん達だと北条五代記は記している。永禄12年(1569年)筑波山
土曜日に放送された《ブラタモリ》(NHK-G)は種子島を採り上げていました。「種子島〜種子島は地球のチカラを感じる島!?〜」-ブラタモリ今回の舞台は種子島。鉄砲伝来やロケット発射にも深く関係している地球のチカラとは?タモリさんがブラブラ歩いて解き明かす▽目の前で体験!迫力の“火縄銃”射撃実演!!「ブラタモリ#236」で訪れたのは種子島。旅のお題「種子島は地球のチカラを感じる島!?」を探る▽開放的!出入り自由の宇宙センターをブラブラ▽地球の自転がロケットを救う?▽プレート運動が生んだ地球
「種子島~種子島は地球のチカラを感じる島!?~」Amazon(アマゾン)今回の舞台は種子島。…タモリさんがブラブラ歩いて…6月3日放送分をダラダラ視て…😅宇宙センター🚀…では、なぜ?種子島が選ばれたのか?❶周りが海❷南の島のほうが、地球の自転による遠心力を使える❸地球の自転方向、つまり、東へロケットを発射するため、東の方向に広くスペースがある。…続いて、地球のチカラ、プレートの活動によってできた三種の島……口永良部島、屋久島、この
来ていただいて、ありがとうございます。今日の文字は3日の「ブラタモリ」は「種子島」お題は「種子島は地球の力を感じる島!?」昨日はどうして種子島に「宇宙センター」ができたのか、と種子島の地質と黒潮の影響について書いてきました。今日は種子島と言ったらのもう一つ「鉄砲伝来」について。次にタモリさんたちが向かったのは種子島の最南端「門倉岬」の東に広がる海岸「前之浜」戦国時代1543年、鉄砲を積んだ船がこの浜に漂着しました。ポルトガル人は中国の南の
土曜日の夜は「ブラタモリ」ゆうべは種子島お題は「種子島~種子島は地球のチカラを感じる島!?」というものだったそしていつもながらの壮大なスケールの物語にもう圧倒圧倒あっという間の45分間だった種子島がロケットの発射場に選ばれたのはなぜか鉄砲が伝来したのはそしてその材料の砂鉄の鉄が火山のない種子島にあったのはなぜかそれはすべて地球のチカラ
公式ハッシュタグ令和五年6月5日骨董品ランキング2位1543年(天文12年),種子島に鉄砲が伝来してから今年で480年になる。種子島に鉄砲を伝えたポルトガル人は,日本人に鉄砲の製造技術から火薬や弾丸の製造法,射撃技術にいたるまで鉄砲についての総合的な技術移転を行った。その2年後の1545年、種子島の日本人は,国内初の国産鉄砲製造に成功している。国産一号銃をその後にコピーした火縄銃種子島は,鹿児島から南約120キロの洋上に浮かぶ島である。その当時の日本人の地理的感覚でいえば
おはようございます今朝は北風ひんやりTシャツを一枚多く着て朝のお散歩ちょうどいい感じでしたさて屋久島に続いて訪れたのは種子島鉄砲伝来ロケット打ち上げの島ですまず向かったのは鉄砲伝来の地「門倉岬」当時の様子のお話を聞きながら思いを馳せました「宇宙科学技術館」へロケットの部品に触れるコーナーやタッチゲームで体験できる展示がありますシアターでは打ち上げを射点間近で見上げているような臨場感を体感できました種子島宇宙セン
関流砲術の伝書,方圓之巻は,『鉄砲の権興は種子島也』と断言している。中島流砲術や津田流,藤岡流,一火流などの伝書も,表現の違いはあるものの同様のことを記している。関流砲術演武江戸時代初期の砲術家の多くが『鉄砲の権興は種子島だ』と断言しているにも関わらず,鉄砲伝来は『種子島』ではなく、中国人を中心とした倭寇が日本に波状的に持ち込んだという説をまことしやかに唱える人達がいる。しかしその説は,確たる根拠も証拠もない単なる推論に過ぎない。推論を定説のごとく流布するのは,嘆かわしいことである
15世紀半ばから17世紀半ばにかけて,スペインやポルトガルを中心とするヨーロッパ人は,アフリカ・アジア・アメリカ大陸へ大規模な航海を行ない,貿易ばかりか世界各地の富や領土を収奪した時代があった。日本へ鉄砲が伝来したのは,丁度そのような時代背景の中でのことであった。当時のヨーロッパ船には,軍用として様々なタイプの火縄銃が装備されていたのに違いない。その中には,銃身の末端が,鳶の尾羽のような形をした鉄砲もあった。鳶の尾の鉄砲この鳶の尾の鉄砲は,古いヨーロッパ製の火縄銃にみら
最近食べた甘い物は?▼本日限定!ブログスタンプあなたもスタンプをGETしよう1543年(天文12年)の鉄砲伝来後,多くの南蛮人が,日本に訪れるようになった。それは,貿易ばかりでなく,キリスト教の布教のためでもあった。南蛮人が持ちこんだ西洋文物の中には,砂糖をはじめとし金平糖やビスケットなどの南蛮菓子もあった。金平糖当時の日本には,砂糖はなかった。砂糖は,中国や琉球との貿易によってのみ手に入る貴重品だったし,輸入量もごくわずかだった。当時,砂糖を口にできたのは,上流階級
https://youtu.be/JtQcgAZbPHs【久野潤】「鉄砲伝来」…国家安全保障的視点で見たその意義とは?|書評『戦国日本の軍事革命-鉄炮が一変させた戦場と統治』藤田達生(中公新書)|@kunojun|久野潤チャンネル
今回紹介する本は中公新書、藤田達生さん著の戦国日本の軍事革命。戦国時代に銃が伝わってきた中でそれまでの軍事からいかに変動があったのかというところに焦点をおいた本ですね。銃という飛び道具が出てきたことによって、それまでの戦のあり方とは変わってくるというのはなんとなくイメージがつくかもしれませんが、では実際にどう変わったのか、というところについて具体的なイメージというのはつきにくいかもしれません。特に今を生きる日本人には戦争がどういうものであるかなんてことは想像しにくいですし、ゲームなどでは様々
昨日,アメリカの研究者からメッセージがあり,ポルトガル人が種子島にもたらした鉄砲について議論した。二人で初伝銃といわれている鉄砲の写真を子細に観察したところ,彼は初伝銃の照門が紀州鉄砲の片富士型のそれとほぼ同じ形をしていると指摘した。その指摘を受け,私はなるほどなぁ~と思った。ポルトガル人により種子島にもたらされた初伝銃初伝銃の照門紀州は、本州最初の鉄砲伝来地で、早くから火縄銃の大量使用を行った鉄砲先進地帯であった。種子島に伝来した2丁の火縄銃のうち1丁を,紀州根来寺の僧兵
こんばんは!やましたひでこ公認断捨離®︎トレーナー関良子です😊昨日は南種子町へ!種子島の海はデッカい😆釣り人がいました!キビナゴを餌に結構大きな魚を釣り上げてたなぁ🐟穏やかな種子島の秋気持ちのいい風に吹かれながらポルトガル船が漂着した門倉岬まで行ってきました🚢種子島の東海岸側はその昔台風で難破した外国船が結構漂着していますポルトガル船が漂着したから日本に鉄砲が伝わりました!改めてこの島は日本の歴史に大きな影響を与えた島!昨年の今頃は緊急
おはようございます2日の朝早くは、昨日行った浦田海岸とは反対側の鉄浜(かねはま)海岸に行ってきましたサーファーたちに人気の海岸ですビッグウェーブを求めてやってくるそうです私も全く興味なかったのにやりたくなってしまいました🏄砂浜には砂鉄を多く含むので鉄浜と名づけられました島内で砂鉄が多く取れたことで鉄砲伝来だけではなく、国産の火縄銃を作ることに成功したのです他の海岸に比べて岩がごろごろとしています今日も天気が良く砂
お疲れ様です。不動明です。いつもブログをご覧頂きましてありがとうございます。【揚げ物】は皆大好きですが、家庭で揚げるのは面倒な料理です。最近は家庭用のフライヤーもありますが準備や片付け、油の保管など大変です。【揚げ物】を美味しく作るコツは?と聞かれたら経験や知識も大事ですが…【揚げ油の鮮度】(種類よりも重要)酸化しにくい太白ごま油が適してはいるが、なんでもよいと思う。家庭ならばサラダ油で十分です。何度も言いますが種類よりも大事なのは鮮度。何度も揚げているとコシがなくなり、からり
8月25日の今日今日は何の日だろう?とふと思ってヤホー!で検索してみたら昭和33年日清食品創業者の安藤百福が世界初の即席ラーメン「チキンラーメン」を発売した日昭和6年東京国際空港(羽田空港)が開港した日明治12年来日中のグラント将軍が上野公園に泰山木を植樹した日文禄3年盗賊の石川五右衛門が京都の三条河原で釜ゆでになった日天文12年種子島に鉄砲伝来の日
8月25日の●●1543年のこの日、ポルトガル船が種子島に漂流して日本に鉄砲が伝わりました。鉄砲伝来1543年8月25日、鉄砲伝来。とされてますが、これについては、日本史の話で、実は、決定的な資料は残っておらず、1542年・1541年・1544年と様々な説があります。しかしながら、鉄砲の伝来により、日本の戦のやり方も騎馬隊から鉄砲隊に変わって行ったことでは大きな意味を持つことには変わりないですよね。
ちょこちょこと速報を出していたのでお気付きかと思いますが、離島に行ってきました。本編は間違いなく来年以降なので、忘れてしまわないようにしたいと思います(^^;)いつもの同行者と一緒に、今回は伊丹からの出発です。途中、神戸空港や、四万十川の河口を眺めながら、クラスJのスペシャルドリンクのアサイージュースを飲みました。今旅の最終日に向かう種子島空港も、下見でなくて空見しました(^o^)伊丹から1時間半ほどで奄美空港に到着。コロナ禍以前はアイランドホッピングで頻繁に訪れていましたが