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こんにちはHBFA佐藤葉子です。今日10/29は、八戸中央倫理法人会のモーニングセミナーにて鉄砲伝来のお話しをさせていただきました。テーマは種子島鉄砲伝来ストーリーって鳥肌ものなのですが、なかなか聞く機会ってないですよねーそれに、興味ある人多くないでしょうし。。。と思っていましたが!!!今日、モーニングセミナーに参加されていた皆様、熱心に聞いてくださいました。(感謝)私は種子島育ちですが、だからといって学校で教わる歴史の内容に特別はものがあったわけでもなく、
「戦国大戦トレーディングカードゲーム双」,エクストラパック~伝承の切札~が11月8日に発売4Gamer株式会社セガホールディングス(本社:東京都品川区、代表取締役社長COO:岡村秀樹)は、好評発売中の『戦国大戦トレーディングカードゲーム双(以下、戦国...CMで話題の“変顔姫”、正体は20歳のモデル系女子「印象に残れて嬉しい」ORICONNEWSこの夏、大量にOAされているスマホゲーム『戦国布武(せんごくふぶ)~我が天下戦国編~』のCM。こちらで、「せんごくふ、“ヴ”じ
米沢の鉄砲に見える西欧の雰囲気日本には,種子島以外にも,様々な場所に,様々なタイプの鉄砲がもたらされていたのではないだろうか。米沢の鉄砲がその間接証拠となると,私は考える。米沢の鉄砲は、地域的特性や鍛冶集団の技術的特性ではなく、霞流(種子島流)の火縄銃を使用していた点にある。霞流の銃は、ネジ止めの箇所が4か所と日本の火縄銃としては極めて多く、銃身がバンド留めし,長い用心鉄を用いるなど、西洋銃に似た特徴を有している。以下,米沢の鉄砲を分解して,その根拠を説明する。米沢霞流6匁火縄銃の
米沢の鉄砲に見る種子島とは違う伝播経路米沢藩上杉家は、謙信公以来、大口径火縄銃の充実とその運用研究に意を尽くしてきた。米沢藩の鉄砲の特徴は、霞流(種子島流)の火縄銃を使用していた点にある。霞流の銃は、西洋銃の特徴を色濃く残し、鉄砲伝来後の鉄砲の一形態をとどめていると推測される。霞流及び関流伝書によれば、霞流の流祖の丸田久左衛門盛次は、長崎で長距離射撃の極意を南蛮人から伝授されたとしており、種子島とは異なる銃が伝播されたことを憶測させるのだ。日本には,種子島以外にも,様々な場所に,様々なタイプ
鉄砲伝来そういえば,昨日は476年前に種子島に鉄砲が伝来した日だった。『鉄炮記』によれば、天文12年8月25日、種子島、西村の小浦に1隻の中国船が嵐により漂着した。新暦に直すと1543年9月23日である。中国船は,夏から秋にかけての南方からの季節風にのって日本にやってきたのである。その船には3人のポルトガル人が乗っており、彼らから二丁の鉄砲を島の領主・種子島時尭が高い代価で買い受けた。時尭は領内の刀鍛治師に火薬と火縄銃の製造法を習得させ、その製造に成功した。これがいわゆるポル
盆ソワ~ルお盆でございます。今日、13日は妹のBeBeと一緒に、我が家のお墓に行ってまいりました。お盆は、地方の風習によって違いがあるようですが、8月13日〜15日の期間という地域が多いようですよね。そういえば、この季節にはハワイでも、日系の方達による「盆ダンス」のイベントが行われるんですよねそういう風習は、この先も、ずっとずっと受け継いでいってほしいなあと思います。なにしろ盆踊りの発祥であるこの日本では、最近、騒音のクレームや、人が集まらない等の事情で、地域の「盆踊り
ども、生まれて初めて鹿児島県入りした岡田達也です。『世襲戦隊カゾクマンⅢ』種子島に到着。台風8号の影響で交通の便が大幅に乱れており最悪の場合「種子島まで行けないのでは?」と危ぶまれたけどなんとか来ることができた。高速船トッピーの船内から撮影した桜島九州の皆さん雨風にご注意くださいね。***例えばーー『めぞん一刻』でテニスのコーチをしている三鷹さんが響子さんを後ろからそっと包み込むようにフォームの指導をしてると
-有徳惣代気取りの勧善懲悪根絶主義者による国家経済大再生と、江戸の身分統制前史13/34-2020/01/18戦国後期の宗教問題は、キリスト教徒の渡来も重なってくるため、説明も少し回り道になるが、当時のヨーロッパの情勢もまとめておくことにした。イエズス会の宣教師ザビエルたちが、ヨーロッパから日本に1549年に到達し、これが日本人と西洋人との初の国際的な接触となった。日本は中国を介して、西洋人の認識自体はできていたが、戦国後期に宣教師たちが渡来するまで、両者は具体的な交
<第105代後奈良天皇>奈良天皇とは?第51代平城天皇の別名。(将軍)足利義晴→「晴」武田晴信(信玄)。1543年ポルトガル人・種子島漂着〔鉄砲伝来〕。1549年フランシスコ・ザビエル種子島上陸〔キリスト教伝来〕。(将軍)足利義輝。川中島決戦〔上杉謙信VS武田信玄〕。
こんにちは!本日は福岡に来ています。今日は暖かいですね。さて、先週金融関係の視察研修で、種子島・屋久島へ!なかなか行く機会無いですよね!種子島と言えば、火縄銃!JAXAのロケット打ち上げですね🚀今回は種子島の事を。鉄砲館!火縄銃などがズラリ!教科書で昔、勉強した鉄砲伝来ですね。そして、JAXAへも!ロケット発射台は遠くからですが、見学出来ました!打ち上げ時は、爆音で3km以内は立ち入り禁止とか❗️初の種子島!綺麗な所でした。続きは屋久島を!プラスチックの
縁壱零式の中に隠されていた刀を発見し、大興奮の炭治郎と小鉄くん。謎の組体操で興奮を表現する描写が笑えます。この「刀鍛冶の里」編から、ギャグ顔のテイストが少し変わった気がしますね。刀が錆びていたことに落胆する二人の前に、行方不明だった鋼鐵塚さんが現れる。筋骨隆々に変貌した姿と、相変わらずの暴挙に、笑いを堪え切れません。ところで、お面で素顔を隠していて、里の人たちは互いに個人の識別ができるのでしょうか。慣れればノープロブレムなのでしょうか。そもそも、どうしてお面を被って
1543年ポルトガル人が鉄砲を伝えるわしの鉄砲は勢いいいの~イ~コラ!よさんかい‼鉄砲=鉄砲伝来イ~=1コラ=5よさん=43最低先生VS前世がフランスの高貴なおじいさんの銅像です。
[※]2018.8の情報に基づいて書かれています。◎門倉岬(グーグルMap)場所種子島といえば、歴史で習う「鉄砲伝来」が有名ですよね。種子島の最南端です。僕は空港でレンタカーを借りて、東側の海岸をぐるーと回る感じで行きました。住所がないので、場所は上のリンクで確認してください。さて、鉄砲伝来が種子島ということは知っていても、種子島のどこまでは知らないですよね。岬の名前まで知っている人はかなりの歴史通か、はたまた地元の人か?もし旅行で行こうとして、地元の人に行き方を
[※]2018.8の情報に基づいて書かれています。種子島と言えば、鉄砲伝来…も然ることながら、現代ではやっぱりロケットの打ち上げ場が有名ですよね。種子島に行って、種子島宇宙センターに行かないとかモグリだ!といわれても仕方がない。僕ももちろん、行きま・・・行く予定でした…(苦笑)(※)種子島空港には、こんなポスターが貼ってある飛行機のチケットを取ったのが、フライトの28日前。格安航空券をゲットできるから。しかーし、なんとその2週間後、種子島宇宙センターのホームページに不吉な文
自然でできた観光スポットアコウのアーチにも行って来ました🙌最終日だけ雨が降っていた(通り雨かな?)ので車から鑑賞🚗不思議ですよね〜木が横たわってる🤔種子島ではアコウの木を大切にしているようで✨最後の最後に少し時間が空いたので、鉄砲博物館に🧐リアルな鉄砲ばかり並んでいました!種子島の歴史のビデオなどあったり、鉄砲のエリアに行く前にはどこか懐かしい人形劇みたいな説明映像も☺️写真撮り忘れました💦↑手前のボタンに手を触れると説明が開始される仕組みになってます!何分間なのかも
皆の者達者であるか?大ふへん者前田慶次じゃ!我が日記帳開き大義。本日も戦国の今日は何の日?参る。一五四三年八月二十五日鉄砲伝来本日は戦国時代最大の出来事!?否、日ノ本にとっても大きな歴史事。最強と恐れられた武器鉄砲が日ノ本に伝来!!!大隅は鹿児島。種子島西村浦に漂着した中国船より鉄炮が我国に初めて伝わる。種子島恵時・時堯は2挺の鉄炮を入手。これにより幕府に届けられしょくにんが解明し量産化が進められいち早く信長様が戦に使えると考えかの有名な戦長篠の戦いで大活躍
鉄砲の伝来は歴史の中でも重要な出来事で、1543(天文12)年の戦国時代です。何年前になるのか、475年前です。8月25日の種子島にの出来事です。1543年、ポルトガル人を乗せた中国の船が種子島(鹿児島県)に流れ着きました。「日本史カレンダー」によると、「領主の種子島時堯(ときたか)が彼らと面会したとき、二人の長さは二尺(90センチメートル)ほどの重い棒のようなものをもっていた。その大きな音を出し、鉛の玉を発射させるのを見た時堯は二挺とも大金
天文十三年(1544)、大隅国(現・鹿児島県東部)の志布志もしくは根占港に明の“海賊”船100隻余りが来襲し、検見崎某、池端重尚が戦死したもののポルトガル人の逆襲によりこれを撃退したという事件。ジャンク船100隻なら乗員は数万人規模という事になり、これはもはや海賊というレベルのはなしではなく、明の水軍だったのではないかと僕は推測します。それに100隻という大軍なら、志布志と根占の両方とも攻撃されたと考えてもまったく不思議ではありません。さらに言えば、はるばる海の彼方からやって来たこの大水軍
気持ちの良い朝。本日もここマチニワ2階席で朝読書。今日は、この本。繰り返し読んでも飽きない、むしろ感動が増します。著者の石原先生が、鉄砲伝来のストーリーをとても素晴らしく、ドラマチックに書いてくださっているんです。学校ではここまで詳しく教えてくださいません。種子島でも。10月に里帰りするのですが、絶対また行きたいと思っているところは、広田遺跡ミュージアムhttp://www.town.minamitane.kagoshima.jp/(本書から一部抜粋)ここには、弥生時
長崎・熊本両県にまたがる「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」が世界文化遺産に登録された。日本でのキリスト教布教は、1549年、イエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルの鹿児島上陸に始まるとされる。その数年前には、種子島に漂着した南蛮船により「鉄砲」が伝来した。歴史作家で『ざんねんな日本史』著者の島崎晋氏が、キリスト教伝来と並ぶ日本史上の大事件「鉄砲伝来」にまつわる“よくある誤解”について解説する。***いつ果てるとも知らなかった戦国時代を終焉へと向かわせるきっかけとなった出来
今日の一言「島育ち」GW前半に行った種子島・屋久島3日間の旅の三日目(4/27)種子島・屋久島の旅の最終回3日間とも天気がよく、いい旅になりました最南端の門倉岬から種子島空港へ17:20分発のチャーター便で種子島ともお別れ県営名古屋(小牧)空港へちょうど夕日が沈む時間約1時間20分で名古屋空港に到着これは駐機していた別のFDA機今回の島育ちのお土産はこちら屋久島と種子島の焼酎屋久杉の箸置きその他いろいろこれで種子島・屋久島
今日の一言「岬めぐり♪」GW前半に行った種子島・屋久島3日間の旅の三日目(4/27)種子島観光も最後になりましたトンミー市場から種子島最南端の門倉岬へ天文12年(1543)、鉄砲を伝えたポルトガル人の乗った異国船が漂着した岬ですね門倉岬への入口の鳥居と銅像一帯は公園になっています鉄砲伝来紀功碑種子島最南端の地の碑最南端門倉岬からの風景記念の一枚岬の先端にある御崎神社展望台からの風景これにて、種子島・屋久島
今日の一言「古い鉄砲も数ありゃ来たる」GW前半に行った種子島・屋久島3日間の旅の三日目(4/27)種子島・屋久島の旅の最終章です屋久島を後にして、再び水中翼船トッピーに乗って種子島に再上陸種子島と言えば、鉄砲伝来の地ということで鉄砲館から種子島の自然、歴史、民俗などを展示・紹介しています種子島の漁労(丸木舟)鋏鍛冶の再現(種子鋏)民具の展示そして、メインはもちろん国内外の古式銃約100挺の展示天文12年(1543)、種子島の南
人生を、自分自身が舵をとって進もうとするすべての人のことをリーダーと言ってます。歴史は教養ですよ〜で、ただの教養にしないのが「リーダーのための歴史教室」。あなたがリーダーであり、歴史を作る主人公なのです。<今日のあらすじ>応仁の乱の復習、その頃ヨーロッパで始まった大航海時代と、それに合わせて西洋文化(ていうか武器、鉄砲)とキリスト教が入ってきます。さて、日本に戻ってまいりました。中世の次というカテゴリ(前回まで)では応仁の乱
日本に火縄銃が入ってきて、瞬く間に大量に鉄砲が作られるようになったり、その火縄銃を駆使してたちまち強い軍隊を作ってしまった織田信長が台頭したり、当時から日本の技術力が優れていたからだとわかる内容でした。ここでも日本の先人は凄いと思いました。織田信長さん、鉄砲を集めすぎて海外列強をドン引きさせるwww[海外の反応-日本人に誇りを!]11:14【日本人に誇りを!海外の反応-】⇨削除されてますので、ほぼ同内容の動画に差し替えました。織田信長さん、鉄砲を集めすぎて海外列強をドン引きさせるww
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2017年8月初めてのポルトガル旅行旅の記録はポルトガルに行こう~セジンブラ旅行記その1からリスボン空港にて~セジンブラ旅行記23(完)まででもせっかく旅を機会に調べたこと、知ったことがいくつかあるので、自分のためにメモメモ。ウィキペディアによると、日本とポルトガルの交流の始まりは1543年、種子島への鉄砲伝来と言われています。これを皮きりに「南蛮貿易」が始まり、日本にヨーロッパの文物がもたらされました。この時代、ポルトガルから、金平糖
お酒、無事到着~。左から純米吟醸太冠(瑞穂)・・・山梨純米吟醸ピンク櫻室町(伊勢)・・・岡山焼酎鉄砲伝来(矢矧)・・・鹿児島吟醸原酒羽前桜川(日向)・・・山形おぉ~どれも良い感じ。日向は何か斜めに伸びた感があるけど(笑)あぁ~日本酒がどんどんたまっていく・・・(苦笑)チビリ、チビリと楽しみますかな。
日本の先端産業技術のほとんどは、自己の創造により開発したというより、その時々の先進国から採り入れたものです。遣隋使(600-18年)や遣唐使の(630-894年)派遣の目的は、国際情報の収集と科学技術と行政技術の習得にありました。国際情報の習得の最大の目的は、国の安全保障でした。そしてその結果、当時の世界大国中国との適切な関係を構築しました。適切なとは、中国に日本を安全で文明的な国と認知させ、無用な侵略行為が発動されることを未然に防ぐことでありました。そしてそのためにも、もう一つの重要な目