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白山神社の末社神奈備社天寿を全うして50年間は霊神となり子孫の祀りを受ける更に50年は屋敷神として家や子孫を守りながら氏神に帰る修行をされるそうなそして100年後には氏神となる初めて目にする神奈備カンナビ仮名と真名と神名があるそれほど名前に霊力を感じていたのだろう誰もが氏神と成れるその過程が示されていたのが面白い真鍋城城と云えば石垣と天守閣これは信長以降のイメージで中世の城は土塁を持ったものが多く堅固な屋敷と云ったところか◯◯屋敷と◯◯城の区別は曖昧天正の
昨年行われた直近2つの合戦イベント、「四国の役」と「清洲会議~織田政権崩壊への序章~」。これらの合戦において部隊長となった武将たちの中で以下の3名について、2025年2月3日に登用時に必要な石高の変更を予定しています。豊臣秀長・藤堂高虎・金子元宅藤堂高虎・金子元宅は「四国の役」で部隊長に、豊臣秀長は両方の合戦で部隊長となった武将です。秀長は来年の大河ドラマの主人公だから来年の合戦にとっておこうという発想はなかったんでしょうか...。なお、上に記載のない武将については、石高
初めてのシイタケ栽培一個目隣は何やらカビてキノコが生えてるお隣さんから頂いた白菜と大根で今夜は鍋にしようさて、金子元宅は生きていた天正の陣で華々しく散った総大将が実は生きていた十数年前から、南予に金子氏の子孫がいるとは聞いてたがまさか金子元宅の子孫とは思わなかった可能性はあったのに盲点であったまさかあれ程、華々しく描かれてた総大将が生きていたとは信じられなかった一説では土佐まで落ち延び長宗我部元親とも対面してたとか元親は既に秀吉に臣従してるので今更かの反逆児が
新居浜駅前通りのオブジェ芸術作品銅の街歩く人はまばらですがさて、長曽我部元親の伊予侵攻土佐一国を手中に入れて阿波と南予への侵攻が始まるこの時点では、それ以前から四国統一を描いていたと思われる南予は山深く移動が容易でないのでゲリラ的戦法を取られると地理不案内も手伝ってかなり苦戦した様子南予を攻めなければ良かったのに武田信玄も謙信と敵対しなければ良かったのに当時の当人の思いを知らぬまま勝手なことを云ってみました金子元宅と元親の繋がり元親の姉の娘を嫁にしたとの新情
金子備後守と天正の陣、という講演新居浜市の歴史を編纂する一環おもしろかった講演の課題は①毛利がなぜ元宅を標的としたか②毛利がなぜ一族関係にあった河野通直を湯築城から退去させたか背景を説明すると…(後は略)今回の講演は、三重大学の副学長「金子家文書」という一級史料からひもとく長曽我部元親はもともと戦をする気がなく和平交渉で土佐伊予の二国で残る讃岐と阿波は秀吉に帰属すると決まっていたが、もともと秀吉が毛利にそのうち伊予をやる、と空手形を発行してたわけで今更、伊予
「覆水盆に返らず」故郷へ盆に帰らず。今年兄は帰省するようだが、私は「帰りたいけど帰れない。戻りたいけど戻れない」(「しゃぼん玉」より)――とんぼ帰りというわけにはいかない。けれどもこの夏、代わりに金子家の先祖を探す旅に出た。愛媛県新居浜市西の土居町、金子元宅の居城金子城跡である金子山へ足を運んでみた。北の谷は墓所となっており、少し重たい感じもあったが、早朝からお墓参りに来られる方を数人見かけた。天正十三年(1585)7月、天正ノ陣北谷口の戦いは激烈を極めた。「武者像」横の石板にその
前回まではこちら⬇️目次天下を競望せず…わしは吉川元春(きっかわもとはる)の三男、広家(ひろいえ)です。戦は終わり、元春は経言(つねのぶ、後の広家)と共に炎上した高尾城(たかおじょう)跡から戦場を眺めていた。小早川(こばやかわ)軍は金子元宅(かねこもといえ)ら伊予の軍勢に勝ったんだよね経言「父上、隆景(たかかげ)叔父上らの軍勢は河野氏(こうのし)をも降伏させましたが、我らは行かなくてよいのですか?」元春「わしは河野討伐には要はない。」経言「元宅(もといえ)殿との一騎討ちのみ…でし
前回まではこちら⬇️目次天下を競望せず…わしは吉川元春(きっかわもとはる)の三男、広家(ひろいえ)です。「お前は吉川元春!!」伊予国の野々市ヶ原から逃れた金子元宅(かねこもといえ)らの前に元春が太刀を持って現れたのだ。秀吉(ひでよし)さんの四国攻めで毛利(もうり)家は伊予を攻めたんだよ元春「元宅、久しいの!いつぞやの決着をつけにきた。」元宅「決着…知られていたのか…元春、隠居したのではないのか?」元春「お主と戦うのだけは話は別、この決着だけに来た。」元宅は笑みを浮かべ、元宅
前回まではこちら⬇️目次天下を競望せず…わしは吉川元春(きっかわもとはる)の三男、広家(ひろいえ)です。元春と経言(つねのぶ、後の広家)は忍びの弥助(やすけ)と伊予国の氷見で合流した。元春「弥助、金子元宅(かねこもといえ)は今、どこにいるのだ?」弥助「手勢を率いて高尾城(たかおじょう)にいます。その数、600余。」経言「600⁉︎小早川(こばやかわ)軍は20,000近くの兵数ぞ。これではひとたまりもあるまい。」元春「経言、戦は兵の数だけにあらず。かつての厳島合戦では、我ら毛利(
前回まではこちら⬇️目次天下を競望せず…わしは吉川元春(きっかわもとはる)の三男、広家(ひろいえ)です。天正13年(1585年)6月27日、羽柴秀吉(はしばひでよし)の四国攻めの一軍、毛利(もうり)軍の小早川隆景(こばやかわたかかげ)軍は伊予国今治浦に上陸した。秀吉さんは伊予の他に讃岐は宇喜多(うきた)軍、阿波は弟の秀長(ひでなが)さんに攻めさせたんだ小早川軍の上陸を阻もうと長宗我部(ちょうそがべ)の兵が襲撃してきた。「うぉぉ〜!!」「向かって参れ!討ち取ってくれるわ!!」小早
大根の花頭立が早い、時なし大根だが明日は急いで、干し大根を作ろうさて、金子元宅もといえと云えば天正の陣で華々しく討死、ではなく生き延びていた、という新説秀吉対長宗我部元親、四国征伐三軍の小早川隆景を迎え撃った東予の実質的な総大将、金子元宅赤木蔵人が討ち取ったと云うが感状を賜り、馬一頭と刀これでは少なすぎる❗別の有力者を打ち取った者は加増されたと云うのにまた小早川家に伝わる感状の控えに上記のものがない、と金子元宅の子孫が伝えている落ち延びた金子元宅は高知土佐の元
前回まではこちら⬇️目次天下を競望せず…わしは吉川元春(きっかわもとはる)の三男、広家(ひろいえ)です。元春は肩を斬られた家臣の福原元正(ふくはらもとまさ)を抱えて毛利(もうり)軍の陣に戻った。陣には小早川隆景(こばやかわたかかげ)がいた。隆景「兄上…元正!!大事ないか⁉︎」元正「肩を斬られましたが…なんの!大事ありませぬ。」元春「斬ったのは山中鹿介(やまなかしかのすけ)だ。」隆景「鹿介⁉︎なぜ伊予国におるのか?」元春「わからぬが…もう1人強い兵がいた。」山中鹿介さんは毛利
こちらが滝の宮公園の池の鴨結構、集まっている丸っこくて風呂のアヒルの玩具の様滝の宮公園は新居浜駅西の突き当り以前は直線道路がなかった今は新しい遊具もお披露目されコロナ禍でも人手はそこそこ、ある小さな動物舎もありキジや烏骨鶏、モルモットなど飼育されている金子氏の居館のあった辺りか入り口には記念碑が立ち西の土居(垣根)の地名が今も残る東の土居もあったが地名としては残らなかった激戦具合の違いによるのか長男の元宅は宇摩新居郡の中心として西条の高尾城に陣取りここ、金子
山のミカン畑の川の側に蜜柑の木が自生⁉️している植えたわけではなく種か挿し木か、生命力たくましいがらがら地なのにちょっと見守って行くことにするさて、小早川隆景毛利元就の三男として次男元春と共に、毛利両川と呼ばれ最後は豊臣家の五大老を務めた軍事は元春、政務は隆景歴代の参謀・軍師の中に名を留める天正の陣金子元宅との攻防を見ても隆景個人の存念が見えてこないわからないと長年思っていたがわからない訳だほぼ無いのではないかとつまり、個人の欲というものが感じられない
山の八重桜父が植え、根元には、父の愛猫とその友人の愛犬が眠っている魂は何かに宿るのだろうかさて、長宗我部元親がよくわからない高知の出来星と呼ばれ織田信長とも対峙した中華風に云うと土佐八国時代に土佐を平定し伊予の南部、阿波を伺い歴戦の末、四国をほぼ手中にしたのも束の間、第一次四国征伐これは本能寺の変で頓挫し迎えて、秀吉の第二次四国征伐小牧長久手の戦いでは家康と盟を結び、秀吉を伺う基本的に秀吉は嫌いで、侮り過ぎて太極を見誤った感がする幼少期姫若子と揶揄されたの
新居浜の郷土史家の書いたもの大東亜戦争末期台湾・沖縄防衛戦での作戦会議に話題に上がった金子元宅もといえ討ち死に覚悟で多勢に立ち向かった武将として三人の名前を挙げている湊川の合戦の楠木正成大阪夏の陣の真田幸村そして、金子元宅陸軍工兵第11大隊郷土史より借用豊臣対長宗我部第一軍は阿波徳島へ、三万第二軍は讃岐高松へ、二万三千第三軍は伊予の東へ、三万迎えて本陣を徳島の白地(池田)に総勢四万本陣に八千を置きほぼ二方面に展開する新居・宇摩の軍勢は僅かの援軍と郷土兵、
伊予金子城の戦いの後に天草に落ち延びた人物として、金子久兵衛と金子神兵衛の二人の名が記録されているということを以前ブログに書いた。出典は『金子備後守元宅』(白石友治著、1934年)とされていたので、てっきりその本に書かれているものと思い込んでいた。ずい分古い本なので、なかなか手にすることができなかったが、やっとその本の所在を見つけることができた。表紙に伊予金子氏直系の家紋である「七ツ亀甲(きっこう)」が描かれ、一目サッカーボールに見えるので、サッカー関連の本かと勘違いしそうだ。天草へ落ち延
金子元宅には4人の男子がいた。長男宅明・次男毘沙寿丸・三男鍋千代丸・四男新発智丸――「だんご3兄弟」ならぬ、「金子4兄弟」である。これまでの調査により、天草の金子氏の直接の先祖という可能性は低いということが分かってきたが、『長宗我部元親と四国』(津野倫明著、2014年)の記述により、もう一度整理しておこう。十六世紀中頃の伊予では、守護河野氏が中部の約十郡を支配しており、河野氏に対する諸勢力の抵抗が続いていた(藤田達生『日本近世国家成立史の研究』)。その諸勢力の代表例が伊予東部の宇摩郡・新居
真鍋家は、金子城の南にある歩いてもすぐ本郷の地名新居浜の中心宿場のあった所金子元宅の妻の里真鍋六人衆と呼ばれ天正の陣の折活躍した真鍋という姓は、東予愛媛では名家川之江の切山には、旧真鍋家が残されている真鍋三鍋(みなべ・さんなべ)間部真部そう言えば、萩生には、みなみさんがいた南ではなく、三並語感の派生で、概ね同じ流れかも知れない🍀一族の結束は堅く、率先して陣頭に立ったものと思われる続く
秀吉軍の四国侵攻に最後まで抵抗し、天正の陣で討死した金子備後守元宅。その子らは同盟関係にあった長宗我部元親の庇護を受け、土佐で給地を持っていた。長男金子周防守宅明は幡多郡平田村・古津賀村などに約二町二反、次男金子毘沙寿丸は長岡郡江村郷滝本村に約三反、また伊予の兼子給として、高岡郡波介郷大谷村・波介村などに約二町六反与えられていた。さらに長女かねは土佐に落ち延び、山内一豊に仕えた。かねにちなんだ「金子橋」が町名として高知市升形付近に残っている。三男鍋千代丸と四男新発智丸も土佐へ落ち延
昨年の同じ時期のブログを見ると…えっ…と何が書いてあったっけ?これかな?⬇️高知に!高知県に歴史遺跡巡りに行くって書いてありますね……結果、昨年は…行けてません!コラーッ!ドヤ顔で言うことかぁー!高知は愛媛の近隣なので、いつでも行けるって思ってたら…1年経ってました〜。先頃のブログでも書きましたが、自分のブログで連載しています歴史連載物語、現在は白の執権を連載していますが、次回作の題材を新居浜の武将・金子元宅(かねこもといえ)に決めています。金子氏と関わりがあるのが高知(昔は土佐
2018年になりました。みんな〜、明けまして…おっと、えいたろうはお父さんが亡くなって喪中なんだ。でも…昨年末に買った本、別子太平記!新居浜市の歴史に関する本だね。目次の最初の「天正の陣」を読みました……おもしろい!!いきなり大文字にして〜、ビックリしたぁ〜本に思いっきり引き込まれましたね。「天正の陣」で出てくる金子元宅(かねこもといえ)、義を重んじる立派な武将に描かれていましたね〜。金子元宅の居城、金子城跡本としては序盤ですが金子元宅や天正の陣を描いた本を読んだのは初めて
4月29日に新居浜市の金子山に行き、戦国武将・金子元宅(かねこもといえ)を供養する法華塔(ほっけとう)を探しました。その②です。前回はこちらだよ⬇️あっさり見つけました!①下りの山道を進んでいくと……あっ!あれかな!!あっさり見つけちゃったね〜一歩行けばあったって感じでした。これが金子元宅の法華塔。この塔は金子元宅の家臣・伊藤嘉右衛門(いとうかえもん)の子孫が天保五年に建立しました。天保五年って1835年かな。江戸時代で徳川幕府の将軍は徳川家斉(とくがわいえなり)さんだね。
4月29日の祝日、自分は丸一日仕事が休みでしたぁ〜!…よって久しぶりに遺跡巡りに行きましたぁ。ホント久しぶりだよね〜。天気いいし〜!2月に新居浜市の金子山(かねこやま)⛰の、どこかにある戦国武将の金子元宅(かねこもといえ)の法華塔(ほっけとう)を見に行きましたが…その時は見つかりませんでした。その時のブログがこちらだよ⬇️怖くて…見つからない〜金子元宅を供養する遺跡は金子山の麓にある慈眼寺(じげんじ)にある供養塔や西条市にある野々市ヶ原古戦場跡(ののいちがはらこせんじょうあと)の祠が
昨日は仕事が丸一日休みでしたぁ〜。久しぶりに丸一日の休みだったね。そこで…新居浜市のある武将の遺跡を見ようと出掛けました。それは…戦国時代の武将、金子元宅(かねこもといえ)。おっ!新居浜市の武将だね。羽柴秀吉さんの四国攻めの1つ、天正の陣で亡くなった武将なんだよ。金子元宅に関する遺跡は過去にも見ましたが、ネットを見ていたら新居浜市の金子山に法華塔なる供養塔があるとのこと。ネットで見た法華塔がこれ⬇️※画像はお借りしました。ネットの情報では金子山にある金子山四国八十八ヶ所の遍路道の