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今回は出雲市から松江市まで戻りまして。まずは出雲大神こと天之磐座・宿禰岩因みにこちら、神魂神社から更に奥へ進み立正大学淞南高校の敷地内です。1961年の開校後、学校の裏山で遊んでいた学生が謎のケガをするという事例が頻発。実はこの地は大庭宮山の禁足地であり、巨石は古代出雲の磐座ということが判明。急ぎ参道や拝殿が整備され、磐座を丁重に祀ったという経緯だそうです。こちらが拝殿こちらが祀られている古代出雲の磐座天之磐座とも宿禰岩とも言われている巨石。ここは野見宿禰が当麻蹴速
Thisisoureconomy.2025/12/04高校生のブログ彼ら支配者はむかーし❗️からの儀式を守り鉄の団結を維持していますメキシコ🇲🇽アステカより古い<海賊の歴史>https://www.youtube.com/watch?v=5-H0_l3SZYw古代の死のカルト大摩邇(おおまに):子供の予防接種、慢性疾患にして、ビッグファーマの生涯顧客にするためだと思い始めていますgenkimaru1.livedoor.blog
ご訪問有難う御座います。三連休、とても天気が良いので、毎日紅葉狩り🍁に出かけていました。まず土曜は毎年楽しみにしている龍野オータムフェスティバル。今年はオカリナのコンサートがあると知って、間に合うように早く家を出ました。会場に着くと、こんなファイルが置いてあって、この中からリクエストでオカリナを演奏してくれます。ユメフウセンという仲良しさんのデュオです。手を挙げた人のリクエストを8曲くらい、演奏してくれました。こんなにレパートリーがあるってすごいです。仲良しさんだけあって、息がぴ
十二柱神社こちらは、奈良県桜井市の出雲という地名の集落の中にあります古代、出雲国から人々が移り住んだため、出雲という地名がついたと伝わります島根県出雲市と友好都市でもありますちょうど氏子さんたちの掃除が終わったタイミングで訪れました🧹20人くらいいらしたかなお疲れ様です拝殿屋根の上で、後足をぴーんと伸ばす飛び狛さんたちと龍こちらは日本最初のお相撲さん野見宿禰(のみのすくね)ゆかりの地です野見宿禰は、當麻蹴速(たいまのけはや)と日本最初の展覧相撲を行って勝利し、
さぁ!今回から群馬に入ります。最初の調査地域は藤岡で、この藤岡を西へと進むことになります。■土師神社・・・群馬県藤岡市本郷168神流川は山中から迸り出るとほぼまっすぐ北上します。氾濫時はすごい勢いだったことでしょう。西の独立丘と東の神流川に挟まれた微高地に土師神社は建っています。現在の土地利用から想像できる、古代の低湿地を半透明青で塗りつぶしました。土師神社のある村(コロニー)が独立しているのが分かります。そのコロニーのアイデンティティを保持する神社なのでし
武内大田根の異母兄弟に、額田彦(ぬかたひこ)がいます。彦布都押之信と紀国造の山下陰姫との子が、武内大田根であり、彦布都押之信と尾張家の高千那姫との子が、額田彦で、額田宿禰から甘美内宿禰(うましうちのすくね)と改名します。尾張家も海部王朝の子孫であり、その額田彦が、垂仁天皇の第二次物部東征の際に、武内大田根の招きにて近江から東征準備に参加することになります。武内大田根と共に甘美内額田彦は、崇神天皇の都万国、豊国の豊玉姫(卑弥呼)に従って活躍しますが、崇神天皇が没して、次いで豊玉姫
當麻寺の近くに當麻蹴速塚がありました。野見宿禰と並ぶ相撲の神様、相撲ファンにははずせないスポット。遠くロンドンの地で公演をした大相撲一行を神様たちは見守ってくれたことと思います。當麻蹴速について当麻蹴速(たいまのけはや、たぎまのけはや、タエマクエハヤ、當麻蹶速、生年不明-垂仁天皇7年7月7日)は、垂仁天皇の時代に勇名をはせたと伝わる人物です。『日本書紀』によると、蹴速は大和国の当麻邑(たいまのむら、現奈良県葛城市當麻)に住み、強力を誇って生死を問わない勝負をする者を欲していたため、これ
相撲神社と大兵主神社
相撲の神様=野見宿禰再びJR総武線の北側に出て、野見宿禰神社にやってきました。1885年に津軽家上屋敷跡地に相撲の神様として知られる野見宿禰(のみのすくね)を祀りました。今回も横綱大の里関の土俵入りが狭い境内で行われ、テレビで報道されました。すみだ北斎美術館が見えます。南割下水の説明がありました。明暦の大火後、大きな運河とは別に雨水を川へ導く掘割が造られました。その一つが南割下水で、昭和初期に埋め立てられました。次の相撲部屋は高砂一門の錦戸部屋です。残念ながら現
国立競技場の外周を40分ほど散策する。青山門近くに、1964年東京オリンピック大会に使用した炉火台と東京2020オリンピック・パラリンピック大会で使用した聖火台が野外展示してある。前者は、焦げ茶色に重さを感じる。後者は、白銀色の輝きが失われていなかった。Fゲート近くに「メタルプラザ」が設営されていたむ。これは大会期間を通じて、メダル授与式を行う会場。前回ブタペスト開会の取り組みを継承した試み。観戦チケットを持たない人、ファンも表彰式を観覧し祝福できるというメリットがある。一方スタジアムの観
やっほい三連休!しかも最終日の梵字講座以外、予定が全くないって言う。私としては珍しい休みです。暑さで少しバテ気味だったのでねたまにはこんな休みが有っても良いかと思った次第です。あっやっぱり退屈な🥱ブログの更新でもしようかどもども味醂です{明日はどっか行こうかな。。暇過ぎて無理だwさてさてまだ7月のお話雲と山のコントラストが暑っ!!夏の色✨️ここは日本最古の道の一つとされる奈良県は山の辺の道ここは相撲神社(すもうじんじゃ)ふと、ば
石津太神社(いわつたじんじゃ)和泉国大鳥郡堺市西区浜寺石津町中4-12-7(社前の公園に停めてもいいのではないかと思われます)■延喜式神名帳石津太神社の論社■旧社格村社■祭神蛭子命八重事代主命天穂日命[配祀]天照大神(靭大神宮)[合祀]建御名方富命「石津川」河口右岸、大鳥郡石津郷に鎮座する社。「石津浜」まではわずか500mほど。そのさらに500mほど先には石津神社が鎮座します。社前には「紀州街道」が走ります。石津神社を「上石津社」、当社を「下石津社」と区分けする
石津神社和泉国大鳥郡大阪府堺市堺区石津町1-15-21(境内に駐車可)■延喜式神名帳石津太神社の論社■旧社格村社■祭神八重事代主命大己貴命天穂日命[相殿]誉田別神伊邪那美神白山比賣神水分神高野神高龗神「石津川」河口右岸、大鳥郡石津郷に鎮座する社。「石津浜」までは1kmほど、その中ほどに石津太神社(現在記事改訂作業中、リンクには飛びません)が鎮座します。当社を「上石津社」、石津太神社を「下石津社」と区分けすることも。◎「石津」という地名は「和泉国大鳥神社流記
[大和国城上郡]相撲神社「角力」が行われた試合会場とされ、野見宿禰を祀る。■表記*紀…野見宿禰*記…(記載無し)*「播磨国風土記」…土師弩美宿禰(ハジノノミノスクネ)*「新撰姓氏録」…野見宿禰*「出雲国造伝統略」等に記載の襲髄命(カネスネノミコト)と同神とする説有り■概要天照大神の第2子とされる天穂日命の14世孫、土師氏の祖とされる神。紀には史上初めての天覧相撲を行ったこと、陵墓へ殉死者を埋める慣習をあらため代わりに埴輪を立てることを進言したこと、この2点が
お越しいただきありがとうございます今回は第11代垂仁天皇と第12代景行天皇が築いた宮跡です倭姫旅No.109纒向珠城宮(まきむくたまきのみや)垂仁天皇宮跡奈良県桜井市巻野内2017年1月28日珠城山古墳群手前に垂仁天皇纒向珠城宮跡の碑が建てられている以前は200mほど西にあったのが移転されたんだとかしかし何でこんな場所に碑が建てられているのでしょうかね、ここしかなかったのだろうか第10代崇神天皇の宮は大神神社の南側で、こちらは別の機会にお
7月5日土曜日〜その8式典ラストが私の出番。(写真)名誉館長として、當麻蹴速と野見宿禰闘いの絵図解きを申し述べる。
7月5日土曜日〜その59時、當麻蹴速塚の前での『現役力士安全祈願並びに物故力士追善法要』が開式。(写真提供・まさよさん)相撲館けはや座名誉館長・葛城市観光大使として列席いたしました。(写真)一般的には、野見宿禰と當麻蹴速の順番で紹介されますが、私が役職に就任してからは、各地各所で古代相撲のお話をする時には、地元の英雄當麻蹴速を先に紹介するようにしております。
6月26日の一読は「野見宿禰(のみのすくね)」でした。この神様は古事記にも出てくるようですが、詳しくはわかりませんでした。ただ相撲の起源となったのと同時に知恵の神様だというところに惹かれました。あとこんな漫画もあるようなので、タイミングがあれば深掘りしてみたいです。古事記巻之三蚤の王野見宿禰-安彦良和著|中公文庫|中央公論新社四世紀初め、第十一代垂仁天皇の治世下、土師氏の開祖・野見宿禰の一代記。宿禰は殉死をやめ、土人形(埴輪)の埋葬をもって、殉死にかえることを提案した。www.ch
2024年03月04日23時00分00秒|名所めぐりつい先日、両国へ出かけ、ここ↓を訪れました。野見宿禰(のみのすくね)神社。野見宿禰は「日本書紀」の登場人物で、相撲の始祖と言われています。垂仁天皇の命により当麻蹴速と角力(相撲)をとるために出雲国より召喚され、勝ったとされています。↑当麻蹴速と角力を取る野見宿禰(月岡芳年『芳年武者无類』より)同じ名前の神社が、兵庫県たつの市にもあります。両国国技館の近隣に所在し、日本相撲協会により管理されています。本殿。
今日から大相撲の夏場所が始まりましたね〜私は相撲ファンで確か2015年くらいから両国場所にはほぼ毎場所観戦に行っています。が、しかし今回はチケットが取れなかった(といっても、いつも私の分までチケットを取ってくれるのはMちゃんですが…ありがたや~)ということでMちゃんから提案。Mちゃん:こうなったら名古屋場所行っちゃう?こけら落とし場所だからチケット取れるかわかんないけど。私:行く!というわけで、来場所は名古屋へ遠征だチケットが取れたらの話だけど相撲の神様野
実家の方のお彼岸のお墓参りで近くまで来たので、せっかくなので道明寺天満宮の梅まつりに行ってきましたちょうど9割咲きくらいで見頃でした〜他にも散策してきたのでご紹介させてください。道明寺天満宮の梅まつり、ポスターでは12日までですが、梅の開花が遅れたので18日まで延長されています。本殿の裏に梅林があって、真ん中に橋が架けてあり、橋の上からの眺めがとてもきれいです。(梅林入場300円、普段は無料)金曜日はとても気持ちよく晴れていて、梅林の水彩画を描かれている方がたくさんいらっしゃいました。道
ビーフカツを求め全国各地を彷徨う超変人の超マニアックなブログです。今回はスピンオフ編。ビーフカツやその他の食べ物からは離れ、これまでの国内外の旅などで印象に残っているスポットなどをご紹介します。今日は東京都墨田区両国の『野見宿禰神社』です。最寄駅はJR総武線、都営地下鉄大江戸線『両国』大江戸線駅から徒歩3分相撲の始祖と言われる野見宿禰を祀る神社です。野見宿禰は『のみのすくね』と読み『日本書記』などにも登場する古墳時代の豪族です。かつてこの地の東側に
これなのですね⬇️相撲における勝敗は取り組みをして勝った時は、白星または金星☆負けた時は、黒星★白星は金星なのだと分かったけど、黒星が何なのかが分からなかったのですよ。でも、前回の記事を書いていたら、とけました。※私見でございますよ※黒星とは、黒い太陽とも呼ばれた土星のことだと。負けたら、土が付くというのも、そのままのことだけど、象徴でもあるのではないでしょうかね。土俵の丸が白星に当たり、その外の四角が黒星に当たる。丸の中で土が付かなければ、白星が与えられるわけです。これは、惑
前の記事の続き、2024年秋の山の辺の道の3回目です本文に入る前に一つ、前回の記事で写真を出したなら橘プロジェクトについて、検索してみましたので、その結果についてご報告です↓この写真これは、2015年に西ノ京の垂仁天皇陵の近くで撮った写真ですそのころの自分のブログ記事から転載しています今までは特に気にしていなかったのですが、ふと疑問が湧き検索してみましたすると、「なら橘プロジェクト推進協議会」というページが1番目にヒットしましたこちらです↓な
ご訪問ありがとうございます自己紹介本日、秋篠寺と西大寺に行ってきました。簡単には行けませんでしたが根性と裏技で何とか出発高速なら1時間下道なら1時間半のところ節約して下道で向かったところ左側に注目させられ看板ドーンん!?これは確か、称徳天皇と道鏡上人が道鏡さんの地元に建てた御寺の跡地八尾市にあるのは知っていたがまさか外環沿いにあるとは(一瞬だったので写真は撮れず、拝借しました)↓称徳天皇の御陵参拝の後上に真相を教えて下さいとお願いし見せられた動画(①〜④まであ
菅原道真は、菅原是善と、その夫人の伴氏の三男に生まれた。菅原氏は、天孫、瓊瓊杵尊の叔父に当たる、天穂日命の子孫で、野見宿禰を家祖とし、葬送を職掌としていた、土師氏の後裔である。781年(天応元年)、土師古人が、改姓を申し出たため、大和国の菅原邑に因んで、菅原姓を称するようになったのである。菅原古人は、儒学を学び、桓武天皇の侍読となった。古人の息子の菅原清公は、従三位に昇ったが、参議になれなかった。また、菅原清公の息子、菅原是善は、従三位に叙されると、参議になっている。是
☆當麻蹶速塚(たぎまのけはやづか)大和国葛下郡奈良県葛城市當麻83-1(「葛城市相撲館けはや座」前)(「葛城市相撲館けはや座」P利用)日本最初の天覧相撲が行われ、野見宿禰に敗れ失命したと伝わる當麻蹶速(タギマノケハヤ)。その塚であると伝わるのがこちら。紀の垂仁七年七月七日の条に以下が記されます。━━當麻蹶速者天下之力士也若有比此人耶一臣進言臣聞出雲國有勇士曰野見宿禰試召是人欲當麻蹶速即日遣倭直祖長尾市喚野見宿禰於是野見宿禰自出雲至則當麻蹶速與野
(野見宿禰と當麻蹶速による「捔力」)☆葛城市相撲館けはや座◎葛城市のサイト相撲館『けはや座』|葛城市相撲の開祖「當麻蹶速」を顕彰する目的で平成2年の5月にオープンしました。館内には本場所と同サイズの土俵があり、小学校の遠足等によく利用されます。展示土俵であるため自由に上がることができ、来館者に人気があります。また、所有資料も約12000点あり、書籍類をはじめ、番付や星取表なども充実しており、学生のレポートや相撲愛好家によく利用…www.city.katsuragi.nara.jp
■表記當麻蹶速(タギマノケハヤ・タエマクエハヤ)■概要◎垂仁天皇の時世にいたとされる豪族の一人。大和国葛下郡「當麻邑」に住み、力自慢をしていました。紀には以下のように記されます。━━七年秋七月己巳朔乙亥左右奏言當麻邑有勇悍士曰當摩蹶速其爲人也强力以能毀角申鉤恆語衆中曰於四方求之豈有比我力者乎何遇强力者而不期死生頓得爭力焉天皇聞之詔群卿曰朕聞當摩蹶速者天下之力士也若有比此人耶一臣進言臣聞出雲國有勇士曰野見宿禰試召是人欲當于蹶速卽日遣倭直祖長尾市喚野見宿禰
天満神社(柏木天満宮)大和国添上郡奈良市柏木町599(「毎日ハウジング奈良住宅展示場」南側入口より西へ50mほど)(P無し)■旧社格村社■祭神菅原道真公かつての旧「柏木村」、平城京の四条大路と五条大路との間、朱雀大路と東一坊大路との間に鎮座する社。創建年代由緒ともに不詳。当地はかつての添上郡の西端。菅原道真等を輩出した添下郡「菅原村」に近接します。菅原氏は天穂日命を始祖とし、野見宿禰を祖とする氏族。奈良時代の終わりに「菅原」姓を授かるまでは「土師」姓。最古の天満宮とされる「