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レロン・リー1948年3月4日生まれアメリカ合衆国カリフォルニア州出身右投左打、外野手、指名打者。1970年代から80年代にかけて、ロッテオリオンズ(現・千葉ロッテマリーンズ)で驚異的な打率を記録し続けた助っ人、レロン・リー。1980年パ・リーグで首位打者を獲得。NPB通算4000打数以上の打者として歴代1位の打率.320を保持する強打者だ。◎MLB時代と来日の経緯1966年にセントルイス・カージナルスと契約し、1969年にMLB初昇格。MLB時代は複数の球団を転々
門前眞佐人1917年5月15日~1984年2月22日広島県三次市出身右投右打、捕手。日本プロ野球の黎明期、その巨体と強肩で鳴らした捕手が門前眞佐人だ。大阪タイガースの契約第一号選手であり、戦中・戦後を駆け抜け、広島カープの礎を築いた「鉄人」だ。■広陵中学時代の屈辱と栄光広島県三次市出身。旧制広陵中学(現・広陵高校)では、3年次から正捕手を務めた。当時の広陵は、後にプロで活躍する白石勝巳や岡田宗芳らを擁する超強力打線であったが、甲子園への道は遠かった。最大の壁
松木謙治郎1909年1月22日~1986年2月21日福井県敦賀市出身左投左打、一塁手。日本プロ野球の黎明期、大阪タイガースの初代主将を務め、戦前・戦後の混乱期にチームを支えたのが松木謙治郎。その生涯は、単なる一選手の記録に留まらず、日本野球史そのものを体現する波乱に満ちたものだ。◎タイガース入団と「沢村攻略法」の確立松木は1936年、大阪タイガースへ入団。明治大学時代には、東京六大学リーグを代表する強打者として鳴らし、タイガースでは若手主体のチームにおいて初代
安田猛1947年4月25日~2021年2月20日福岡県築上郡出身左投左打、投手。◎アマチュア時代:遅球の習得と「橋戸賞」安田猛は1947年、福岡県に生まれた。小倉高校3年次の1965年、春の選抜大会に出場するも1回戦で惜敗。同年夏の選手権福岡大会では準決勝で三池工業の上田卓三に完封負けを喫した。1966年、一般入試で早稲田大学教育学部へ進学。東京六大学リーグでは、肘の故障もあり2年次まで登板機会がなかったが、1968年秋季リーグで復活。高校時代のライバル・山中正竹
アベックホームランを解剖する。5人目は山本浩二と広島カープを常勝球団にした「鉄人」衣笠祥雄です。1965年に広島カープに入団。当初は捕手として入団したが、1975年から三塁手として大いに活躍、静かな闘志があふれ、試合に出続け連続試合出場は今も日本記録だ。アベックホームランを見てみよう。504本塁打で63人。山本浩二が536本で51人なので、だいぶ幅広い。1位は当然、山本浩二との86本。公式戦では86本だが、オールスター戦でも山本浩二との共演があり、特に1975年
藤本定義1904年12月20日~1981年2月18日愛媛県松山市出身右投右打、投手、指導者。日本プロ野球の黎明期から戦後の2リーグ分立期まで、監督として歴代最長29年の長きにわたり指揮を執った藤本定義。巨人の初代監督(球団史上)として第1次黄金時代を築き、後に宿敵・阪神でも2度の優勝を遂げた稀代の名将だ。◎松山商・早稲田での選手時代藤本定義は1904年(明治37年)、愛媛県松山市に生まれた。地元の名門・松山商業学校に進むと、投手、野手として4大会連続で全国中等
アベックホームランを解剖する。4人目はミスター赤ヘル山本浩二選手です。1968(昭和43)年のドラフト1位で広島に入団。1969年のシーズンからレギュラーとして活躍、引退する1986(昭和61年)まで規定打席に入った。これは長嶋茂雄と山本浩二だけの記録だ。2339本安打、536本塁打を打ち、首位打者1回本塁打王4回、打点王3回獲得。また、足も速く通算231盗塁。強肩のうえ、守備範囲も広いファイブツールプレーヤーとして80年代のプロ野球、広島カープ黄金期を牽引した。
河村英文1933年8月30日~2005年2月16日大分県出身右投右打、投手西鉄ライオンズの黄金時代を語る際、稲尾和久の名が筆頭に挙がるのは必然ですが、その稲尾が登場する直前、チームを初のリーグ優勝へと導いたのが河村英文です。「シュートの河村」として恐れられ、後に名コーチとしても足跡を残した野球人を振りかえる。◎期待されなかった入団から「25勝」の快挙へ河村英文は別府緑丘高校で名将・小嶋仁八郎の指導を受け、社会人の東洋高圧大牟田を経て1953年に西鉄ライオ
たばともさんのアベックホームランを解剖する第3回は阪神タイガース、西武ライオンズで捕手、一塁手として大きな放物線を描く打球でスタンドに入る天才ホームラン打者、田淵幸一です。1968(昭和43)年、ドラフト1位で阪神タイガースに入団。捕手として江夏豊投手とのバッテリーは大きな人気となった。田淵は1年目の1969年背番号と同じ22本の本塁打を打ち見事新人王になり、強打の捕手として活躍した。田淵は1968年から1978年まで阪神タイガース1979年から1984年まで
たばともさんのアベックホームランを解剖する第2回は昨年、惜しくも亡くなられた、ミスタープロ野球、長嶋茂雄です。長嶋茂雄は1958(昭和33)年、立教大学から読売ジャイアンツに入団。1958年は明仁上皇が皇太子時に美智子さまと結婚。これをきっかけにテレビ放送網が広がり、時代が右肩上がりの時代に長嶋茂雄がプロ野球に入ったのだった。すべてのプロ野球選手の中で人気、実力ともに頂点に立ち野球のみならず時代を牽引した。長嶋茂雄は444本塁打を放ち、アベックホームランを組
アベックホームラン・・・若い人はアベックという言葉自体を使わないかもしれませんがアベックはフランス語で①男女二人づれ②二人ですることの意味。同じ球団のふたりが同じ試合で本塁打を打つと「アベックホームラン」と昭和時代に誕生した和製外来語だ。野球雲記録班のたばともさんが作った「誰と打ったのアベックホームラン」をご紹介。第1回は世界の本塁打王王貞治です。1位はもちろんミスタージャイアンツの長嶋茂雄との106本です。2位から見ていくと、なかなか興味深い結果です。
野村克也は、日本のプロ野球において捕手、打者、そして監督として空前絶後の実績を残した。テスト生としての入団から始まり、戦後初の三冠王獲得、さらには監督として「ID野球」を浸透させ、数々の弱小球団を強化していった。その野村克也が亡くなったのが、2020(令和2)年2月11日。日本プロ野球史上、捕手として3000試合現役引退後も監督としても3000試合出場し、プロ野球ならずとも、昭和、平成の社会に大きな影響を与えた84歳だった。改めて考えると、野村克也氏の野球の実績は19
安部磯雄1865年3月1日~1949年2月10日福岡県出身。教育者、代議士日本の野球史を語る上で、避けて通ることのできない人物がいます。「日本野球の父」「学生野球の父」と称される安部磯雄です。安部は社会主義運動の先駆者として知られる一方、草創期の日本野球に技術と精神の両面で計り知れない貢献をしました。「人格はスポーツから」という信念と早稲田野球部の創設安部磯雄は1865年、現在の福岡市に生まれた。同志社英学校で新島襄から洗礼を受け、米国留学を経て1899年に東京専門
袴田英利1955年8月13日~2025年2月8日静岡県静岡市出身右投右打、捕手。1.静岡から法政へ。黄金時代を支えた捕手。袴田英利は静岡県に生まれ、中学時代には県大会優勝を果たすなど、早くからその才能を発揮。進学先には県内屈指の進学校・静岡高校が内定していたが、父親の縁により静岡県自動車工業高校(現・駿河総合高)へと進路を変更する。1973年、夏の静岡大会。決勝まで勝ち進んだが、立ちはだかったのは本来進学するはずだった静岡高校でした。後に大学で同期となる植松
2月7日は阪神タイガース、大洋ホエールズ(現DeNAベイスターズ)の創設時に参加し、プロ野球第1号の本塁打を打った名選手藤井勇の命日です(1986年)。大洋ホエールズ監督時代藤井勇1916年10月20日~1986年2月7日鳥取県鳥取市出身左投左打外野手1934(昭和9)年ベーブ・ルースが来日した時の大リーグ選抜チームを迎え撃つために「株式会社大日本東京野球倶楽部」が結成された。それが、現在の読売ジャイアンツ(巨人軍)になっています。巨人軍の正力松太郎は甲子
1936年2月5日「日本職業野球連盟」が創設されました。これが、現在につながる「日本野球機構(NPB)」組織です。今回は簡単ですが、歩みをまとめてきました。そして、2026年は90周年の節目です。日本プロ野球の歩み(1936年〜1950年)1.連盟の設立と初期の展開(1936年〜1939年)1936年2月5日:日本職業野球連盟が設立。当初は7球団体制(東京巨人軍、大阪タイガース、名古屋軍、東京セネタース、阪急軍、大東京軍、名古屋金鯱軍)。1936年4月:第1回リーグ戦を開
吉田義男1933年7月26日~2025年2月3日京都府京都市中京区出身右投右打、遊撃手、二塁手。阪神タイガースの歴史を語る上で、背番号「23」を抜きにすることは出来ないでしょう。「今牛若丸」と称えられた遊撃守備、そして球団史上初の日本一へと導いた采配。プロ野球史上最高の遊撃手として語られても異存ないかもしれません。1.入団から不動のレギュラーへ:俊足巧打の若き遊撃手京都府立山城高等学校、立命館大学を経て、1953年に阪神タイガースへ入団。小柄な体格か
佐々木恭介1949年12月28日生まれ兵庫県氷上郡(丹波市)出身右投右打、内野手、外野手。■社会人野球のスターから近鉄の1位指名へ兵庫県立柏原高校から社会人野球の新日本製鐵広畑へ進んだ。当初捕手としてプレーしていた。1970年の都市対抗野球で頭角を現すと、東映フライヤーズからのドラフト9位指名を拒否して残留。翌1971年、一塁手に転向し、都市対抗野球でチームを優勝に導き、橋戸賞(最優秀選手賞)を受賞した。1971年のドラフトで近鉄バファローズから1位指名で入団。■プ
髙橋里志1948年5月17日~2021年1月31日福井県敦賀市出身右投右打、投手。■南海での挫折と「空白の1年」福井県立敦賀工業高校から社会人・電電北陸を経て、1967年のドラフト4位で南海ホークスへ入団。将来のエース候補と期待されたが、なかなか一軍に定着できず、野村監督との確執も表面化。二軍戦での振る舞いを巡り、野村監督から鉄拳制裁を受けたというエピソードは、後年の野村克也の著書でも「数少ない暴力の記憶」としてある。1972年に自由契約になり、翌1973年は故郷・
2026年野球殿堂入り発表栗山英樹氏が殿堂入り!野球殿堂博物館2026年1月15日、「2026年野球殿堂入り通知式」を開催し、競技者表彰エキスパート表彰から栗山英樹氏が新baseball-museum.or.jp2026年度の野球殿堂入りが1月15日発表されました。北海道日本ハムファイターズの監督として大谷翔平選手やダルビッシュ有投手を導き、2023年のWBCで日本を世界一に押し上げた栗山英樹氏の選出。これ自体は、野球界への多大な貢献を考えれば素晴らしいニュースです
水谷実雄宮崎県串間市1947年11月19日~2025年8月10日右投右打、、一塁手、外野手■闘病から始まったプロ生活宮崎商では投手として2年連続で夏の甲子園に出場。1964年には4強入りを果たし1965年、ドラフト4位で広島カープへ入団。しかし、1年目に腎臓病を患い長期入院を余儀なくされる。復帰後は藤村隆男2軍監督の下、ボールを握らせてもらえない徹底した基礎練習を積んだ。これが後の強靭な下半身と、指導者としての原点となった。■赤ヘル黄金時代の主軸
坂崎一彦1938年1月5日~2014年1月28日大阪府豊中市出身左投左打、外野手昭和30年代、読売ジャイアンツが黄金時代を築き上げる過渡期において、長嶋茂雄、王貞治とともにクリーンナップを形成し、勝負強い打撃で貢献した選手が坂崎一彦だ。高校時代から「坂崎大明神」と恐れられたその打棒は、プロの世界でも独自の輝きを放った。1953年に浪華商業高校(現・大阪体育大学浪商高等学校)へ入学。当初は投手でしたが野手へ転向し、1954年の春の選抜に右翼手として出場。翌195
有藤道世1946年12月17日生まれ高知県土佐市出身右投右打、三塁手、外野手。有藤は高知県の出身で、当初は相撲少年だったが、中学時代に野球に出会った。高知高校時代には2年時にエースとして夏の甲子園に出場。3年時にも甲子園に進出したが、開幕試合で顔面に死球を受けて入院を余儀なくされた。チームはこの大会で全国制覇を果たしましたが、有藤自身は病室のテレビでその瞬間を見届けた。高校卒業後は特待生として近畿大学へ進学し、三塁手として頭角を現わす。関西六大学リーグでは通
土井垣武1921年7月1日~1999年1月25日鳥取県米子市右投右打、捕手■甲子園での挫折と、経済状況によるプロ入り土井垣武は旧制米子中学校時代、1939年夏の甲子園に主将として出場。快進撃を見せベスト8まで進出しましたが、準々決勝で、嶋精一・真田重蔵という伝説的投手を擁する海草中学と対戦。この敗戦後、土井垣は大学進学を志しますが、家庭の経済状況を鑑み、1940年に大阪タイガース(現・阪神)への入団する。入団当初、タイガースには正捕手の田中義雄が在籍。そのため土
門田博光1948年2月26日~2023年1月24日奈良県五條市出身左投左打、外野手、指名打者。■ゼロからの出発:高校時代は本塁打「0」門田博光は1948年、山口県に生まれ、幼少期に奈良県へと移った。名門・天理高校では4番打者として甲子園にも出場していますが、意外なことに高校3年間で放った本塁打は「0」だった。卒業後は社会人のクラレ岡山に進み、靴の製作業務に携わりながら研鑽を積みます。1968年のドラフトで阪急から12位指名を受けるも拒否。翌1969年、南海ホーク
吉岡悟1949年4月14日生まれ富山県中新川郡出身右投左打、内野手。1976年、パ・リーグの打撃成績表のトップに君臨したのは、スター選手でも助っ人外国人でもない、それまで「守備の人」と目されていた一人の内野手、吉岡悟だった。■幸運と執念が重なった「1976年の奇跡」吉岡悟を語る上で欠かせないのが、太平洋クラブライオンズ時代の1976年だ。前年にロッテからトレードで移籍した吉岡は、当初は内野の守備固め的な立ち位置だった。しかし、レギュラー二塁手だった基満男の負傷欠場
片平晋作1949年8月5日~2018年1月22日大阪府大阪市港区出身左投左打、一塁手、外野手。■南海時代:一本足へのこだわりと開花上宮高校時代に王貞治への憧れから一本足打法を独学で開始。東京農業大学を経て、1971年のドラフト4位で地元・南海ホークスに入団した。当時の南海は野村克也兼任監督の時代であったが、一本足打法というフォームは当初、首脳陣から不安視されていた。しかし片平は、王貞治のそれとはまた違う、184センチの長身を活かした一本足にこだわり続けた。その努力が
桑田武1937年1月5日~1991年1月21日神奈川県横浜市鶴見区出身右投右打、内野手、外野手。1959年、大洋ホエールズに中央大学から入団した桑田武。「ミスター・ホエールズ」となった強打者です。■学生時代:横浜に現れた「ゴジラ2世」1937年、神奈川県横浜市鶴見区に生まれ。地元の荏原高校で2年連続東京大会決勝に進出。惜しくも甲子園には行けなかったが、その長打力は早くから注目を集めていた。中央大学進学後は東都大学野球リーグで活躍。1958年春にはMVPとベスト
高木守道1941年7月17日~2020年1月17日岐阜県岐阜市出身右投右打、内野手■入団と衝撃のデビュー岐阜県出身。県立岐阜商業高校で甲子園準優勝を果たした後、1960年に中日ドラゴンズへ入団しました。デビュー戦となった同年5月7日の大洋戦で、史上4人目となる「初打席初本塁打」を放った。■「職人」と称された芸術的守備高木守道の代名詞といえば、二塁手としての卓越した守備技術だ。バックトス(グラブトス)捕球から送球までを一つの動作で行う華麗な守備は「職人芸」と謳われた
1月13日【1944年】は大洋ホエールズ、読売ジャイアンツで活躍した松原誠内野手の生誕日です。松原誠埼玉県飯能市出身右投右打、内野手。飯能高校卒業後、1962(昭和37)年に大洋ホエールズに入団。当初は捕手として入団した。しかし、翌年一塁手に転向したが、1965(昭和40)年、近藤和彦が外野に回り、一塁のレギュラーとなった。しかし、1967(昭和42)年にディック・スチュワートが一塁手として入団。当時、四番を打っていた桑田武内野手と併用されながら、三塁も守り、