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野球というスポーツが日本にやってきたのはいつ頃でしょうか?アメリカからベースボールが渡来したのは明治5年(1872年)頃現在の東大の前身のさらに前身開成学校ではじめて行われたといわれています。(詳細割愛)今では老若男女ベースボールというより当たり前のように野球というと思われますが、いつごろから「野球」という訳語が現れたのか?それは中馬庚(ちゅうまかなえ)という人物が1894年にベースボールの教則本を執筆中にBallinthefieldと
1995年5月2日野茂英雄投手のMLBデビューした。これは単なる「一選手の移籍」ではなく、日本の野球界が鎖国を解いたような、歴史的な転換点だった。野茂はなぜ、どのような経緯で1995年5月2日のマウンドに立つことになったのだろうか?改めて振り返ってみる。■近鉄バファローズでの栄光と「壁」1990年、8球団競合の末に近鉄に入団した野茂英雄は、1年目から最多勝、最優秀防御率、最多奪三振、最高勝率のタイトルを独占し、沢村賞とMVPに輝くという衝撃的なデビューを
1916年5月1日が誕生日のヴィクトル・スタルヒン投手です。1916年5月1日~1957年1月12日ロシア帝国出身右投右打、投手。30勝以上を2回記録したスタルヒン投手は1939(昭和14)年に42勝15敗防御率1.731940(昭和15)年に39勝12敗防御率0.972年間で81勝!!1939年にはシーズン42勝は稲尾投手と並び日本最高記録だ。通算完封数83も日本記録で、ともに、神の領域といえるような記録だ。大映スターズ時代のスタルヒン(古書
岡本伊三実1931年2月26日~2025年4月15日大阪府大阪市出身、右投右打内野手、外野手4月15日に岡本伊三実氏が亡くなりました。長きにわたりプロ野球に貢献され、最近までお元気だった話も聞いていたのでとても残念であります。ご冥福をお祈りいたしたします。ここで、岡本伊三実氏を紹介した首位打者列伝を再掲載いたします。中学まではバスケットボールをしていたが京都市立洛陽高校に入学してから野球を始めた。高校では建築を勉強していて、将来は建築家を目指していた。
シーズン30勝投手列伝の第1回は野口二郎投手30勝を3回達成しています。1919年1月6日生まれ中京商業時代に1937年(昭和12年)夏、1938年(昭和13年)春の甲子園大会でノーヒット・ノーランを含む4試合連続完封勝利の選抜大会記録をだして優勝投手。1939年(昭和14年)に東京セネターズに入団し、1年目からエースとして69試合、38完投、459回を投げ33勝19敗の活躍翌年1940年(昭和15年)も387回を投げて33勝11敗防御率は驚異の0.93を記録した
今では余程の奇跡が無いとみることが出来ない記録がシーズン30勝投手の登場だ。そんな、プロ野球30勝投手のもう一つの見方。球団別30勝投手を考えてみます。まずは、読売巨人軍。サイドスローから繰り出す速球を武器に2度の最多勝を獲得して大友工投手。大友工さんが1955年に30勝6敗で2度目の最多勝を獲得したがふと、最多勝投手のリストを見てみると、1955年の大友投手が巨人最後の30勝投手。DeNAは先祖大洋ホエールズは合併した、松竹ロビンス1950年の真田重男投手39
真弓明信1953年7月12日生まれ福岡県大牟田市出身右投右打、外野手、遊撃手、二塁手。1983年セ・リーグ首位打者真弓明信は、プロ野球の長い歴史の中で、複数のポジションでベストナインに輝き、なおかつ「1番打者」という役割の概念を塗り替えた選手だった。また、端正なルックスと勝負強い打撃でファンを魅了した。熊本県玉名郡南関町に生まれ、小学3年生の時に福岡県大牟田市へ移り住んだ。小学6年生の夏。同じ社宅に住んでいた原貢監督率いる三池工業高校が、夏の甲子園で初出場初優
衣笠祥雄1947年1月18日~2018年4月23日京都府京都市東山区出身。右投右打、三塁手、一塁手、捕手。柔道部がなかったからこそ生まれた「鉄人」衣笠祥雄という野球選手のスタート地点は、意外にも「妥協」から始まった。京都市立洛東中学校へ入学した際、柔道部への入部を希望してたが、あいにく学校に柔道部がなかった。そこで「やむなく」選んだのが野球部。この小さな巡り合わせが、後に2215試合連続出場という記録を生むことになる。平安高校(現・龍谷大平安)では捕手として甲子園の土
松竹ロビンスを調べると監督も選手も個性的すぎて驚きます。当初、調べ始めた頃は田村駒次郎オーナ一は一流が好きで、チームより選手がいい成績を残すと喜ぶ傾向が見られます。後々歴史に残る選手が続出し、それもどちらかというとアウトロー気味。チームの出入りが激しく、荒っぽいイメージがありました。監督も含め殿堂入りしているのが多いのですがチームに収まる監督のカラーが見えにくく寄せ集めの球団に思えました。大東京からロビンスの17年間で一番長く在籍したのが坪内道則選手。
成田文男1946年10月2日~2011年4月21日東京都足立区出身右投右打投手修徳高校で1964(昭和39)年第46回夏の甲子園大会に出場。1965年東京オリオンズに入団。球団から30番以降なら好きな番号を選んでも良いと言われ46回夏の甲子園出場した縁で、背番号「46」を選んだ。当時としては大きな背番号を背負って、速球とキレっ切れのスライダーでエースの階段を上がっていく。二枚目で人気もあり、3年目の1967年に14勝を挙げ1968,69,70年と3年連続20勝
永井武雄1904-1938年4月19日兵庫県出身、左投左打。球歴大東京軍(1936)4月19日はNPB草創期、最初の球団のひとつである大東京軍の初代監督、永井武雄の命日です。神戸市立第一神港商業から慶應義塾大学、全大阪や東京倶楽部を経て、大東京創立と共に選手兼任監督に就任した。大学時代は投手、外野手として活躍したが、1936(昭和11)年の練習試合では一塁手としてプレーした。大東京軍としては永井を監督に据えた理由の一つに、慶應義塾大学出身
野球界、スポーツの世界を超え、社会に大きな影響を与えたジャッキー・ロビンソンがブルックリン・ドジャースで1947年4月15日にメジャーに昇格した記念すべき日です。ジャッキー・ロビンソンのプレーや行いは今では多くの人々に伝わっている。メジャーリーグ初の黒人選手と言われたりもしているが、正確には違う。アフリカ系アメリカ人選手は1884年にモーゼス・フリート・ウォーカーが先だがその後、大リーグは人種差別のリーグとして63年間の長きにわたり白人以外は大リーグでプレーできなか
左から杉浦清、天地俊一監督、坪内道則助監督兼任1950(昭和25)年のプロ野球は8球団からセ・リーグ8球団、パ・リーグ7球団の計15球団と倍増近くになったことで、野球選手のランクの差や前年から採用されたラビットボールと呼ばれた「飛ぶボール」の影響でホームラン狂時代となった。セ・リーグの覇者、松竹ロビンスの打線は「水爆打線」と言われその打棒で、中盤から一気にぶっちぎり勝率.737という高率で優勝した。水爆打線の破壊力は凄すぎる~記録から見る松竹ロビンス1950年し
2013年4月12日は巨人軍1950年代(10年)のエースのひとり大友工投手の命日です。(1925年2月19日~2013年4月12日)兵庫県豊岡市出身。右投右打、投手。軟式野球出身だが、速球が評価され1949年巨人に入団。プロ入りしてから硬式野球を経験するという環境の中サイドスローに変更。自信のある速球に磨きをかけるため、ステップを広げるうちにサイドスローになった。プロ入り3年目の1951年から、速球とスライダーを武器に11勝4敗2.42の成績を上げ、3
千葉ロッテマリーンズが1950年毎日オリオンズがパ・リーグ加盟して以来76年目の2026年に勝敗数がプラスマイナス「0」となった。千葉ロッテマリーンズ年度別成績(1950-2026)日本野球機構(NPB)オフィシャルサイト。プロ野球12球団の試合日程・結果や予告先発、ドラフト会議をはじめ、事業・振興に関する情報を掲載。また、オールスター・ゲームや日本シリーズなど主催試合のチケット情報もご覧いただけます。npb.jpここ数年、千葉ロッテマリーンズのシーズン成績を見るたびに
笠原和夫1920年6月3日~1998年4月10日大阪府大阪市出身。左投左打、外野手、監督。4月10日は南海、高橋ユニオンズで活躍した笠原和夫外野手の命日です。新人王のタイトルが出来たのが1950年とセ・パ両リーフに分立してからで、1年目の新人の記録は1950年からとなっています。新人の安打記録は1956(昭和31)年高橋ユニオンズの佐々木信也の180安打2位は2017年西武ライオンズの源田壮亮の155安打です。本塁打は1959年桑田武(大洋)、1986年清原和
トニ・エンリケ・ブランコ・カブレラ(TonyEnriqueBlancoCabrera)1980年11月10日~2025年4月8日ドミニカ共和国サンファン州出身右投右打、内野手。中日ドラゴンズ、横浜DeNAベイスターズ、オリックス・バファローズ。セ・パ3球団を渡り歩き、その圧倒的な飛距離でファンを魅了したトニー・ブランコ。2000年代後半から2010年代半ばの日本プロ野球で活躍した。1997年にボストン・レッドソックスのアカデミーからキャリアをスタートさせたブランコ
木村拓也1972年4月15日~2010年4月7日宮崎県宮崎市出身右投両打、内野手、外野手、捕手、指導者。1.高校時代からプロ入り初期:捕手から外野手へ宮崎県立宮崎南高等学校時代、木村氏は捕手として活躍。1年夏の第70回全国高等学校野球選手権大会に出場した。3年春には「5打席連続三塁打」という驚異的な記録を作り、高校通算35本塁打、遠投120メートルの強肩を誇る素材として注目を集めた。1990年オフ、ドラフト外で日本ハムファイターズに入団。しかし、プロの壁は厚く、当時は
野球雲は元々古本屋仲間と作ったのが最初です。そのため、「野球本をじっくり紹介しよう」というコンテンツも一つの柱として、3冊から4冊を誌面で紹介していました。今回は誌面では紹介しきれない野球関連書を紹介いたします。今回は小西得郎著「したいざんまい」1957(昭和32)年発売です。タイトルからして、野球人としての太い根性論が見えません。そうです、著者の小西得郎はとんでもない人生だったのです。以下は野球雲10号「消えた球団松竹ロビンス」からの引用です。小
野球雲のキャッチフレーズは「長島茂雄が新しい」です。野球雲は野球史をエンターテイメントとして考えて運営しています。好き嫌いはあると思われますが、長嶋茂雄という野球人。彼がいなかったら・・・と思うとプロ野球がここまで人気が出たのか?と思うくらい大事な野球人です。栄光に輝いた長嶋茂雄氏もプロ野球公式戦デビューは苦いものとなっているのは有名な話です。1958年巨人に入団した、長嶋はオープン戦からガンガン打ちまくり、毎日オリオンズの小野正一投手からも鮮やかな打球を
昭和の野球漫画の傑作「ちかいの魔球」は原作福本和也、画ちばてつやの作品です。秋田書店から発売されているサンデーコミックスですが、1961年~1962年にかけて少年マガジンに連載された名作。「巨人の星」に多大な影響を与えた作品で、プロ野球選手が実名でかなり多く出てきた本格的なもので、その後のプロ野球を舞台にした漫画の元祖的存在。連載開始当時、ちばてつやは野球を全く知らず、ピッチャーマウンドもプレートも描いていない。3巻辺りから、マウンドらしきものも描かれ、少しずつ野球
笠置シヅコ1914年8月25日~1985年3月30日香川県大川郡相生村出身歌手、俳優。3月30日は歌手で俳優の笠置シズコさんの命日です。日本の音楽シーンを変えた「革命児」当時の日本の歌手は、直立不動で静かに歌うのが当たり前だった。そこへ笠置シヅコは、タフなリズムを取り入れた躍動感あふれる楽曲と、激しいダンスを引っさげて登場した。「歌って踊る」という現代のポップスの原点を作った、まさに革命的な存在です。野球雲2号「BASEBALLSONGS」で笠置シズコさ
杉山悟1926年1月1日~2009年3月27日愛知県豊田市出身。外野手右投右打、外野手。愛知県岡崎中学では近藤貞雄投手とバッテリーを組んだこともあり、戦後、岡崎中学野球部の手伝いをし、ゆたか産業軟式野球チームに加入した。そこで、大きな打球を飛ばす打者がいる話を当時、中日の杉浦清監督が直接見て獲得した。180センチを超える長身で、西沢道夫と共に中日選手は大きい!というイメージも作った。西沢道夫はぶんちゃん、杉山はデカちゃんとの愛称で親しまれた。そして、杉山は西沢を
水原茂1909年1月19日~3月26日香川県高松市出身右投右打、三塁手、指導者。1955年~1959年登録名は「水原円裕(みずはらのぶしげ)」1.アマチュア時代と巨人の入団1909年、香川県に生まれた水原は、高松商業学校(現・高松商業高校)で頭角を現した。投手・三塁手として1925年夏、1927年夏の甲子園優勝を経験。その後、慶應義塾大学へ進学し、東京六大学野球のスター選手として人気を博した。1936年秋、東京巨人軍(現・読売ジャイアンツ)に入団。三塁手のレギ
エディー・コリンズ(エドワード・トローブリッジ・コリンズ・シニア)1887年5月2日~1951年3月24日アメリカ合衆国ニューヨーク州出身右投左打、二塁手。エディー・コリンズは、バットを短く持つ「チョーク・グリップ」という独特のスタイルで知られている。この握りから繰り出される打撃は非常に正確で、1909年から1915年にかけては7年連続で打率.320以上を記録。1914年には打率.344をマークし、大打者タイ・カッブらと首位打者を争うとともに、シーズンMVPにも選出されてい
1946年から1948年の3年間存在した金星スターズ(ゴールドスター)の主な打撃成績を通算3年間とシーズン記録をベスト10でご紹介します。(記録提供:篠浦孝氏)通算出場通算安打シーズン安打346坪内道典391坪内道典143坪内道典(1948)326酒沢政夫288西沢道夫132西沢道夫(1948)282西沢道夫254酒沢政夫125玉腰忠義(1948)279清原初男252清原初男124坪内道典(1946)277大友一明18
榎本喜八1936年12月5日~2012年3月14日東京市中野区出身左投左打、一塁手。野球の歴史な中で避けては通れない一人の打者がいる。榎本喜八。「安打製造機」という言葉が、単なる愛称ではなく、文字通り「安打を産み出すための求道」を体現した孤高の天才だ。榎本喜八の野球人生のはじまりは、戦後の混乱期にある。1936年に農家に生まれ、5歳で母を亡くし、父はシベリアへ抑留。祖母と弟との極貧生活を余儀なくされた。雨漏りのするボロ家で、畳からキノコが生えるような環境
2026年は東日本大震災から15年の節目です。もう、15年か、まだ15年か。それぞれの想いはあると思います。今回は震災当日から、その年のプロ野球の動きを記します。■3月11日:震災発生当日オープン戦の中断・中止横浜スタジアム(横浜vsヤクルト):地震によりコールド。観客をフィールドへ避難させ、交通麻痺のため一時球場内で待機。明石球場(楽天vsロッテ):楽天選手の家族安否確認のためコールド。本拠地の損壊:楽天(Kスタ宮城)およびロッテ(QVCマリン)の施設・周辺に深刻な
もうひとつの朝日軍~ロビンスにならなかった選手たちゴールドスター(金星)松竹ロビンスは1936年の大東京から始まり、球団名を変えながら生き残っていった。そして、1941(昭和16)年に太平洋戦争がはじまり日本は娯楽から日々遠のいていく。大東京-ライオン軍と繋がりこの年から朝日軍として職業野球のチームとして活動。いよいよ、1944(昭和19)年戦争が激化していく中、朝日軍は野球をし続けていた。その中には坪内道則外野手の他に、内藤幸三投手、菊矢吉雄投手もいた。
記録から見る、悲願の松竹ロビンス優勝。1936(昭和11)年大東京軍として日本野球連盟に加入して、戦争で中断をはさみながら、セ・パ両リーグに分立後の1950(昭和25)年セントラル・リーグ初代優勝チームとして、結成以来15年目に悲願の優勝をした松竹ロビンス。その松竹ロビンスの打線の破壊力は凄まじく、当時開発されたばかりの「水爆」になぞらえ、その圧倒的な破壊力から「水爆打線」と恐れられた。驚異的なチーム記録この年の松竹が残した数字は、現在のプロ野球の常識を覆