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渡辺秀武1941年9月16日~2007年8月25日静岡県富士市出身右投右打、投手。富士高校から本州製紙、日本軽金属を経て、1963年の都市対抗野球(河合楽器の補強選手)で活躍。同年8月に読売ジャイアンツへ入団した。大型投手として期待されながらも、マウンド上での気弱さもあり、3年間で僅か3勝と伸び悩んだ。この頃、飲料メーカー・バャリースCMに出ていたチンパンジーに似ていることから「メリーちゃん」という愛称がついた。転機は1966年に訪れた。前年に入団した
土橋正幸1935年12月5日~2013年8月24日東京都台東区浅草出身右投右打、投手。プロ野球界にその名を刻んだ土橋正幸は、投手として、監督として、そして評論家として、多岐にわたる足跡を残した。1935年12月5日に東京・浅草に生まれ、特に「江戸っ子」と称されたその気骨ある人柄と、現役時代の数々の記録は、多くのファンの記憶に深く刻まれている。彼の「江戸っ子」という異名は、単なる出身地を示すだけでなく、その後の彼の野球人生全体を象徴するものだった。彼の
大岡虎雄(おおおかとらお、1912年3月28日-1975年8月23日)福岡県出身、右投右打。主に一塁手として活躍。彼の野球人生は、戦前のアマチュア野球界での傑出した実績と、戦後37歳という異例の年齢でプロ入りし、短期間で目覚ましい成績を残した点に、その特異性が際立ちます。大岡は1935年には既に、創設間もない東京巨人軍から投手としてスカウトされるほどの才能を持っていた。しかし、彼はプロ入りせず、安定した企業チームである八幡製鐵所に残留した。この時期は、
村山実(兵庫県出身、1936年12月10日~1998年8月22日)投手右投右打8月22日は、阪神一筋、打倒巨人に全力を注いだ2代目ミスタータイガース、村山実投手の命日です。立教大学のセレクションに落ちた村山実は関西大学に進学。そこで、エースとして全日本大学野球選手権で西日本初の優勝を持ち帰った。立教大学出身の長嶋にはセレクションで落ちた雪辱で闘志をぶつけた投球となった。1958(昭和33)年11月、巨人から阪神の4倍の契約金を蹴って阪神に入団。意
◎阪神電鉄最強の武器・甲子園球場を建築した大阪府、兵庫県を走行行先大阪梅田・大阪難波~元町ほか営業距離45・1㎞阪神電鉄(阪神電気鉄道株式会社)は1899年に創立、大阪の梅田と神戸の中心地の元町を本線としており、大手私鉄の中では最も営業距離が短かかった。(1990年に準大手私鉄だった相模鉄道が大手私鉄となり、現在は相模鉄道が営業距離が一番短い)阪神電車は駅と駅の間が短い、そのためダイヤが詰まらないように加速の良い電車を導入し、官鉄(
ベーブルース:野球の神様、その偉大な足跡1948年8月16日は、野球界の頂点に君臨した「野球の神様」、史上最高のプレーヤーと称されるベーブ・ルースの命日です。日本でも子どもの伝記シリーズの書籍にもなり、多くの人々に愛されてきました。彼の偉大な足跡は、野球というスポーツがある限り、永遠に語り継がれることでしょう。ベーブ・ルースが生まれたのは1895年2月6日。本名はジョージ・ハーマン・ルース、幼少期のルースは、ボルチモアの貧しい家庭に育ち、素行の悪さ
豊田泰光1935年2月12日~2016年8月14日茨城県久慈郡出身右投右打、内野手。水戸商から西鉄ライオンズへ豊田泰光は1935年2月12日、茨城県に生まれた。茨城県立水戸商業高等学校では遊撃手として活躍し、1952年の夏の甲子園大会では開会式で選手宣誓を務めるなど、当時から注目を集める存在だった。高校卒業後の1953年、三原脩監督率いる西鉄ライオンズに入団。豊田は1年目から遊撃手レギュラーの座を掴み取り、高卒新人としては異例の27本塁打を放って新人王を獲得し
ミッキー・チャールズ・マントル1931年10月20日~1995年8月13日アメリカ合衆国オクラホマ州出身右投両打、外野手1931年にオクラホマ州スパビナウで生まれ、フィラデルフィア・アスレチックスの捕手ミッキー・カクレーンにちなんで名付けられた。父マットはセミプロの投手で、マントルにスイッチヒッターとしての英才教育を施した。これにより、後にヤンキースに入団した際、監督のケーシー・ステンゲルのプラトーン・システム(対戦相手の投手の利き腕によって打者を使い分けるシステム
秋山登1934(昭和9)年2月3日~2000(平成12)年8月12日岡山県岡山市出身右投右打、投手。1951(昭和26)年夏の甲子園大会に岡山東高校の投手として出場中西太にに本塁打を打たれ、高松一高に破れた。明治大学に進学し島岡監督のもと、戦後初の優勝を含め3度の優勝に貢献1954(昭和29)年には東大戦において22奪三振を奪った。大学通算33勝18敗を残し、1956(昭和31)年に大洋ホエールズに入団。この時に明大五人衆として5人大洋に入団。その一人がバッテリー
稲葉光雄1948年10月2日~2012年8月11日静岡県清水市出身右投右打、投手5歳の頃、兄とのソフトボールがきっかけでボールを握った。清水工業高校2年で投手に転向。卒業後は日本軽金属へ進み、1968年のドラフト会議で広島東洋カープから6位指名を受ける。しかし、20歳という若さと会社側の引き留めもあり、この時は入団を固辞した。1970年の都市対抗野球では大昭和製紙の補強選手として登板し、チームの優勝に大きく貢献する。同年のドラフト2位で中日ドラゴンズに入団した。
ルイス・ブードロー(Louis"Lou"Boudreau)1917年7月17日~2001年8月10日アメリカ合衆国イリノイ州、右投右打、遊撃手、監督ルー・ブードローは、1938年にクリーブランド・インディアンスに入団し、1948年には選手兼任監督としてワールドシリーズ制覇を達成した球史に残る人物である。彼の名を不朽のものとしたのは、1946年に考案された革新的な守備シフト「ブードロー・シフト」だ。ブードロー・シフトの考案この独創的な戦術は、1946年7月
北井正雄1913年8月7日~1937年8月7日。島根県簸川郡出身(現出雲市)右投右打、投手。日本プロ野球の発足期、阪急軍のエースとして輝かしい実績を残しながら、わずか24歳でこの世を去った投手がいる。北井正雄である。旧制大社中学(現・島根県立大社高校)時代、北井はその俊足を買われ当初は陸上部に所属していた。同校の先輩には1932年ロサンゼルス五輪男子100mで6位入賞を果たした「暁の超特急」吉岡隆徳がおり、吉岡自身も目に留めるほどの足を持っていたという。
◎京浜急行電鉄初の本格的スタジアム羽田球場と女子野球への参入①営業地域:東京都、神奈川県②営業区間:泉岳寺・品川~横浜・浦賀・三崎口ほか③営業キロ程:87・0㎞大手私鉄の中で、最初に「野球ビジネス」を始めたのが、1909(明治42)年、京浜電気鉄道(現京急電鉄)だ。羽田にある自社所有の6万坪の干拓地のうち1万坪の敷地に日本初の観客席を整備した羽田運動場を建設した。作家・押川春浪が京浜電気鉄道の技師・中沢臨川に公共の運動場の必要性を語り、中沢が会社を
夏の甲子園始まった。雑学披露でもしようかな。まず一つのボールを打ったり蹴ったりして競うスポーツと言う概念は日本にはなかった。道、剣道柔道などそのことで自らを鍛錬する『道』だった。そんな明治のころかな野球を持ち込んたのはお金持ちの次男坊することないから海外留学、一族を背負うような責任もないから勉強するでなく面白そうなこと興味あることに没頭する。いうならば遊び呆けてる。野球に没頭で当初からカーブあるんだ。その彼が投げるタマは魔球なんだ。そんなふうにやってきた野球。これが日本人には浸透した。で野球は
宅和本司1935年7月18日~2024年8月4日福岡県北九州市門司出身右投右打、投手1954(昭和29)年、野村克也やのちの30勝投手皆川睦夫投手と同期で入団したのが宅和本司投手だ。門司東高校時代から剛腕投手として知られていたが、甲子園出場はならず、南海ホークスへ入団した。当初、鶴岡監督は中日に入団した空谷投手や巨人へ入団した広岡達郎を狙っていたが思うような新人補強が出来なかったと思っていたところ、柚木進投手から「親分、宅和は行けますぜ!」と見込まれた。
苅田久徳1910年1月19日~2001年8月3日神奈川県横浜市出身。右投右打、内野手端正な顔立ちから「神宮に女性ファンを集められる選手」として人気を博し、草創期のプロ野球界を牽引した名プレーヤーだ。苅田の野球人生は、地元横浜から始まった。横浜市立寿小学校、旧制本牧中学校を経て、旧制法政大学では遊撃手として若林忠志と共に黄金時代を築く。卒業後は、父親のコネクションで東京中央放送局に勤務しながら、クラブチーム「東京倶楽部」で野球を続行。六大学時代のライバル、宮
石戸四六1941年6月4日~198年8月2日秋田県大館市出身。右投右打、投手。石戸四六(いしどしろく)は、1938年6月4日に秋田県大館市で生まれた。長男でありながら「6月4日」に因んで名付けられた。秋田商業高校では投手として活躍し、3年時の1958年夏に甲子園へ出場。初戦で板東英二を擁する徳島商業と対戦し、0-3で敗れた。卒業後は社会人野球の日立製作所へ進み、1962年の都市対抗野球大会には日本鉱業日立の補強選手として登板。好投手として注目を集めた。同年9
鎌田実1939年3月8日~2019年8月1日兵庫県南あわじ市出身右投右打、内野手男四人兄弟の末っ子として生まれ、幼くして父を亡くした。苦労を重ねる母の姿を見ながら育ち、野球に打ちこんだ。洲本高校時代は4番・遊撃手として活躍し、甲子園出場は叶わなかったものの、その才能はプロのスカウトの注目された。大学進学を希望するも、家庭の事情から断念せざるを得ず、壮絶な争奪戦の末、1957年に大阪タイガースへ入団。「日本球界最強の鉄壁の内野陣」を築いた守備の要入団当初は「空前絶後
阿南準郎1937年9月2日~2024年7月30日大分県佐伯市出身。右投右打、内野手、監督。広島カープの初優勝、そして1980年代黄金期を語る上で欠かせない男が阿郎準郎(本名・潤一)だ。派手なスタープレーヤーではなかったが、職人技の守備と深い洞察力で球団史に大きな足跡を残した。佐伯鶴城高から1956年に広島へ入団。打撃は非力ながら内野ならどこでもハイレベルにこなす堅守を誇り、特に古葉毅とのコンビで形成した三遊間・二遊間は絶品と称された。現役15年で失策数
長谷川良平1930(昭和5)年3月25日~2006(平成18)年7月29日愛知県半田市出身右投右打、投手広島創設時から「弱小」広島カープを支えた投手。ノンプロで活躍していた長谷川は創設された広島カープの入団テスト受け、石本監督の前で得意のシュートでバットをへし折るピッチングに石本監督がほれ込み入団。1950(昭和25)年にセ・リーグに参加した広島カープは勝てない。長谷川1年目で15勝27敗の成績を上げ、カープのエースとして活躍。167㎝の身長ながら、スリーク
鉄道が野球を支えた。明治維新からの付き合い「散切り頭を叩いてみれば文明開化の音がする」――明治の世、日本に西洋文化が押し寄せた象徴の一つが「鉄道」であり、その隆盛は国民の生活様式を大きく変えた。そして、この「鉄道」と「野球」という二つの文化は、時代を超えて深く結びつき、互いに発展を遂げてきた。鉄道がもたらした野球文化の黎明日本に野球を広めた功労者の一人である平岡ひろしは鉄道技師だった。彼は自費留学で訪れた米国でベースボールと出会い、1876年帰国、1878年
葛城隆雄(かつらぎたかお)1936年12月21日~2013年7月27日大分県大分市出身右投右打、内野手、外野手大分上野高から1955年に毎日オリオンズに入団。高卒2年目には早くもレギュラーの座を掴み、その才能はすぐに開花。特に、1958年と1959年の2年間は強打者として印象付けた。1958年、チームが「大毎オリオンズ」へと名称変更されたこの年、葛城は打率.305、20本塁打を記録し、自身初の打点王に輝いた。この年の打点王争いは壮絶だった。シーズン終盤まで打
伊藤健太郎千葉県出身1916年12月28日~1944年7月26日右投右打、外野手千葉県初のプロ野球選手でもある伊藤は千葉中学校時代には強打でチームを牽引し、甲子園初出場に貢献。その後、東京鉄道局を経て、1935年に巨人軍へ入団した。入団のきっかけは、恩師である藤本定義監督が巨人に招かれた際、エースの前川八郎とともに同行を熱望されたことだった。プロの世界でもその強打は健在。多くの試合で5番打者を任され、背番号も打順と同じ「5」を与えられた。1936年、巨
堀井数男1923年12月12日~2006年7月24日大阪府東大阪市出身右投右打、外野手戦前からの強豪、日新商業学校で鳴らした堀井数男は、1943年、南海軍に入団。日新商の監督を務めていた平野正太郎が元南海の選手であった縁から、堀井の父との間で話が進められ、支度金300円、月給130円という当時の好条件で入団が決定した。細身ながらも当時としては大柄の堀井は、1年目からレギュラー外野手の座を掴む。戦況が悪化し、主力が次々と出征する中、1944年には早くも4番打
たばともさんのアベックホームランを解剖する第2回はミスタープロ野球、長嶋茂雄です。長嶋茂雄は1958(昭和33)年、立教大学から読売ジャイアンツに入団。1958年は明仁上皇が皇太子時に美智子さまと結婚。これをきっかけにテレビ放送網が広がり、時代が右肩上がりの時代に長嶋茂雄がプロ野球に入ったのだった。すべてのプロ野球選手の中で人気、実力ともに頂点に立ち野球のみならず時代を牽引した。長嶋茂雄は444本塁打を放ち、アベックホームランを組んだ先週は38人。1位はもちろん
津田恒美1960年8月1日~1993年7月20日山口県都濃郡南陽町(現・周南市)出身右投右打、投手山口県都濃郡南陽町(現・周南市)の山間部、和田地区に生まれ、早くからその非凡な才能を開花させた。南陽工高では1年時からエースとして活躍し、1978年には選抜と夏の甲子園に連続出場。特に夏は天理高に惜敗するも、その名は全国に知られるようになった。卒業後、社会人野球の協和発酵に進み、1981年には都市対抗と日本選手権で存在感を示す。都市対抗では優勝候補の富士重工業を抑え
アベックホームラン・・・若い人はアベックという言葉自体を使わないかもしれませんがアベックはフランス語で①男女二人づれ②二人ですることの意味。同じ球団のふたりが同じ試合で本塁打を打つと「アベックホームラン」と昭和時代に誕生した和製外来語だ。野球雲記録班のたばともさんが作った「誰と打ったのアベックホームラン」をご紹介。第1回は世界の本塁打王王貞治です。1位はもちろんミスタージャイアンツの長嶋茂雄との106本です。2位から見ていくと、なかなか興味深い結果
タイラス・レイモンド・カッブ(TyrusRaymond"Ty"Cobb)1886年12月18日~1961年7月17日アメリカ合衆国ジョージア州出身左投左打、外野手タイ・カッブ(TyCobb)は、20世紀初頭のメジャーリーグを象徴する伝説の打者であり、「球聖」とも呼ばれた存在だ。その異名は、単なる野球の技術や記録だけでなく、彼の生き様、執念、そして野球そのものに対する熱情からきている。カッブは1886年、アメリカ南部ジョージア州に生まれ、1905年にデトロイ
吉沢岳男1933年7月15日~1971年7月15日長野県松本市出身右投右打捕手1950年代から60年代にかけて活躍した捕手・吉沢岳男は、地味ながらも投手陣を支える職人肌の存在だった。松商学園では甲子園に4度出場。3年春には堀内庄とバッテリーを組み注目されたが、全国の壁は厚く上位進出は果たせなかった。1953年に名古屋ドラゴンズ入り。当初は出場機会に恵まれなかったが、1957年にレギュラーを獲得。投手心理を読み切るインサイドワークは一流で、捕手としての信頼
髙橋一三1946年6月9日~2015年7月14日広島県府中市出身左投左打、投手。強力な右投手が主軸を占めていた1960年代から70年代の読売ジャイアンツ。その「V9」黄金期を、堀内恒夫とともに投手陣の柱として支えた左腕が高橋一三だ。◎「ヤツデのような大手」から始まった巨人入団広島県の北川工業高校(現・府中東高校)時代、高橋は素質を高く評価されながらも、甲子園への出場経験はなかった。当時の巨人スカウト・木戸美摸は、当初別の甲子園優勝投手の獲得を目指していたが、