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これから3日間。夜にアンクル孤独の旅行記載せます。今回は、山口県萩市です。2025年11月1日目。『萩・石見空港』萩・石見空港ようこそ、萩・石見空港公式サイトへ。東京からひとっと飛び、約90分で西さんいん空の玄関口、萩・石見空港です。萩・石見空港情報だけでなく、萩・石見のおすすめ情報をご案内しています!hagiiwami.jp萩石見空港なんか歓迎の舞してた出てきたところ見た感じ空港感ゼロw『萩ロイヤルインテリジェントホテル』萩ロイヤルインテリジェントホテル【公式】|
勾留されていた約8か月間、弁護士さんから差し入れてもらった裁判の資料を読む以外の時間は「祈る」「瞑想する」他は「読書」をしていました。ありがたいことに、家族、友人・知人が毎日のように差し入れに来てくれてたくさんの書籍を読むことが出来ました。留置所や拘置所で借りた本も含めて、勾留中に読んだ本は500冊以上になります。苦しい環境の中で、私の生きる糧となった「本」を紹介します。『明治維新の人間群像』安岡正篤・著神崎利一議員が共通の友人を通じて差し入れて下さいました。
藤尾秀昭氏の心に響く言葉より…《松陰の気概》二度目の野山獄(のやまごく)下獄(げごく)の時、(吉田)松陰(しょういん)は(松下/しょうか)村塾の壁にこの言葉を記した。「松下陋村(しょうかろうそん)と雖(いえど)も誓って神国の幹とならん」・・・松本村はひなびた寒村ではあるが、必ずや日本の背骨となろう。松陰は塾生たちに、その場で励めばそこが華になると教えた。その精神を結晶させたような言葉である。いま、私たちが松陰に学ぶものは、この
忠敬さんのブログを見ていて、山口時代の最後に萩往還を歩いた時のブログを引っ張り出して来ました😀ぐっすりと睡眠を取り、朝6時前に目が覚めると部屋の中まで雨音が聞こえる殆に雨が降っています。今日は雨との予報だったので覚悟はしていましたが、正直、この雨音は凹みます。雨弱くならないかなあ?と願いながらウトウトしていると7時過ぎになってました。さすがにマズイ。と着替えて部屋を出て中庭を見ると・・・なんと、霧雨では有りませんか。ラッキーです。支払いをしようと玄関に来た時には、御主人も何処から
「吉田松陰」信なくば立たずみなさん、おはようございます年末が近づいています今日も一日やれることをやりましょうさあ、今日「12月26日」の國史を学びましょう「吉田松陰、野山獄へ」安政元年(1858年)伊豆下田で海外密航に失敗した吉田松陰は野山獄(のやまごく)へ投じられました萩には野山獄と岩倉獄があり野山獄は士分の者を収容しました松陰は野山獄で囚人たちに「これから儒学の授業をします」と前例のない教育活動をします高杉晋作は藩命
『世に棲む日日-二』-司馬遼太郎●大潰乱-③✪その読書力は、狂というに近い。かれが読書することに、意を決したのは四月五日で、その最初の日に七十枚、翌日は五十枚、さらに四十枚、多い日は八十枚、九十枚というほとんど木板の漢字のなかに没入するような読書の仕方をした。この点も、かれは松陰の弟子であった。獄中、「先生を慕ふてやうやく野山獄」という、かれの詩才からすれば稚拙すぎる句をつくっている。いまひとつ、かれを憂鬱にしていることがあった。晋作は浮き世にいるころ、自分ほど知人、友人の多い人間
令和5年8月11日。お盆です。島根県浜田市三隅町にある蕎麦屋「そば聖」で、おいしい「もりそば」を食べてました。『石見の夏の一日。美味しい「もりそば」を食べに・・・』令和5年8月11日。暑い日が続き、食欲も落ちてきています。コテコテしたものを食す気にならず、あっさりとしたものが食べたい、という思いから、冷たいそばを食べに…ameblo.jpその後、向かった先は、同じ島根県三隅町井野山。国道9号線から山側の道へと入ります。しばらくすると、離合が難しい、狭い道路を通っ
片麻痺起業家松川力也さんの卓話の初めに日本で一番多くの総理大臣を生んだ県は山口県です。8人います。明治維新期に多くの逸材を生んだ松下村塾の吉田松陰にその源流があります。彼は黒船で海外へ渡航しようとして捕まり、萩の野山獄に送られます。獄の中には士分のものが11人捕らえられていました。女性や高齢者を含むこの人たちは死ぬまで出られないはずでした。そこで彼は「獄にあっては獄でできることをする」といいきりこれらの囚人を相手に孟子の講義をはじめます。人間、いつも思い通りにできるとは限らない
「吉田松陰」君に志はあるかみなさん、おはようございます今年も最終週ですやれるだけやりましょうさあ、今日「12月26日」の國史を学びましょう「吉田松陰、野山獄へ」安政元年(1858年)伊豆下田で海外密航に失敗した吉田松陰は野山獄(のやまごく)へ投じられました萩には野山獄と岩倉獄があり野山獄は士分の者を収容しました松陰は野山獄で囚人たちに「これから儒学の授業をします」と前例のない教育活動をします高杉晋作は藩命なしに上方に上り野山獄へ投
小林正観さんの心に響く言葉より…吉田松陰は、思想的には攘夷論(じょういろん:外国と戦わなければならないという主張)。しかし、浦賀(うらが:横須賀市)にやってきたペリーの黒船4隻を見て、戦ったところでとても勝ち目はないことを知ります。そして、外国を倒すにはまず外国のことを知ろう、と思い立ち、なんとペリーの黒船に乗ってアメリカに渡ろうと企てたのです。しかし、密航しようとしたのが発覚して、松陰は野山獄(のやまごく:山口県萩市)という牢屋に入れられてしまいました。
幕末の風雲児高杉晋作生誕地です1839年にこの産湯に浸かったらしい♨️ここから先は見学不可木戸孝允旧宅中にボランティアの方がいらして説明してくれました萩名物白壁と夏みかん野山獄跡吉田松陰先生が投獄された場所ですね岩倉獄跡松陰先生と一緒に海外に行こうとして失敗した金子重之助が投獄されました夕方薄暗い時に行ったのでちょっと怖かった覚えが…💦
松下村塾の教育「講演」殉難と復活・・・二回目五月二十四日、藩から正式に父百合之助に対し、その夜をもって、護送役に先生を引き渡すよう命令が来ました。これは、松陰先生が借牢の形式で野山獄に入っていたからで、実は、獄からそのまま江戸に送られるはずになっていたのです。ところが司獄福川犀之助は、家族、門人達との訣別をさせようとの好意から、この夜、独断で先生を父の家に帰らせております。松陰先生はもとより、杉家一族も、門人達も、予期せぬこの処置にどんなにか感謝したことでありましょう
松下村塾の教育「講演」時務と実材・・・十四回目野山獄は、かって安政元年十月から一ヵ年あまり過ごした時に比べて、獄風は非常に改善せられ、特に先生に対しては、藩からの命令もあって、獄中の生活において苦痛を感ずるようなことはなかったようであります。以前の同囚も四人あり、司獄も、依然として福川犀之助であります。獄卒も先生を尊敬し、外部の同志との連絡にもよく当たってくれました。前回の在獄中は、自ら勉強し、あるいは同囚の教育にあたった松陰先生も、今度は事態が切迫しているため
高杉晋作の人生で最も悶々とした野山獄での漢詩です。時に元治元年4月11日であります。この年、晋作は京への出陣を焦る来島又兵衛の説得が出来ぬまま京へ出奔(脱藩)するのです。長州藩主より奇兵隊総督として、来島の意向を阻止せよと命があり、もともと、晋作自身が一番先に京へ出陣したい気持ちであるにも拘わらず、主命は三田尻の先輩又兵衛に止めてくれと言ったって成功する筈もありません。短気な晋作は、又兵衛の気持ちも判り過ぎるほど判っており、勢い藩を飛び出してしまいます。藩の政務役周布政之助や父の高杉小
藤尾秀昭氏の心に響く言葉より…宋学の大儒者・程伊川(ていいせん)にこういう逸話がある。伊川は讒言(ざんげん)に遭(あ)って島流しにされた。十年くらい経って都に帰ってきたが、威風(いふう)堂々として周囲を圧するような迫力に溢(あふ)れている。弟子が、「十年も島流しになると普通は憔悴(しょうすい)して見る影もないのに、先生はどうしてそんなに堂々として活力に溢れているのですか」と訊(き)くと、伊川は、「自分はこの十年、真剣に骨身を削って勉強し、易経やその他の聖賢の教えに通暁
寅次郎の生涯「講演」野山獄中の読書と教育・・・最終回さて、先生が野山獄にいる間に、藩のこの処置は過当だという批評があったのです。ことに、幕府が自宅謹慎の判決を下したものを獄に入れるとは何事だ、佐久間象山などは同じく自宅謹慎を言い渡されたが、ちゃんと松代の自宅に在って、弟子をとって教えることさえしているのに、長州藩はなぜこんな幕府へ遠慮するのか、というような非難の声が、水戸あたりから始まるのです。そして、藩内でも先生のために大いに奔走してくれたものがあって、遂に、藩
寅次郎の生涯「講演」野山獄中の読書と教育・・・十二回目さて、松陰先生の読む本は、普通の人が読まねばならない本と違います。そういう本は、皆、卒業しておられた。時には復習の意味で、以前読んだ本を、もう一度読みなおすようなこともありましたが、多くは新しい各方面の専門的な本であります。したがって、兄の梅太郎は、役所の休みごとに近所近辺二十キロ、四十キロというところにある蔵書家をさがし求めて歩くのです。あるいは、江戸に注文して写本をつくってもらいます。松陰先生の兄は、明治
寅次郎の生涯「講演」野山獄中の読書と教育・・・十一回目さて、普通の家でしたら、息子が何かの事件で投獄されたりすると、愚痴を言い、ののしりあい責めあい、あるいは親の縁を切る、というようなことにもなりかねないのですが、先生の家庭は、実のうるわしい。実に、優しい。全家族の愛情が、温かく先生を取り囲んでいるのであります。松陰先生が、国家のためと思ってしたことが、うまくいかなかったのは残念だけれども、先生が考えてやったことは先生の責任においてやったことで、我々が、と
寅次郎の生涯「講演」野山獄中の読書と教育・・・十回目松陰先生は、この手紙をみて、ぐっと胸をうたれたらしいのです。父は、少しも先生を咎めてはいないのです。十一月になって父たちは許されて、それぞれ官途についたのですが、獄中の松陰先生は、兄梅太郎からこの知らせをきいて、今まで心をいためていただけに、非常に喜んでいます。そして、父が先生のしたことについて、何も言わないものですから、何でも言える兄に手紙を出して、私がこのたびアメリカに行こうとしたことについてお父さんと玉木
寅次郎の生涯「講演」野山獄中の読書と教育・・・九回目さて、皆さんは、両親でも学校の先生でも、先輩でもまた同僚でもよい、とにかく人間の魂の奥深いところに呼びかけてくれる人が欲しいとは思いませんか。お前の生きる道はこれではないのか、ということを本当に教えてくれる先生がほしくはありませんか・・・松陰という人は、正しくそれなのでして、結局みんな呼びかけられるのです。呼びかけられると答えずにはおれないような、一種の衝動を感じさせるところに先生の魅力がある。人格的力がある。そうい
寅次郎の生涯「講演」野山獄中の読書と教育・・・八回目「門人に加えるといっても、囚人と一緒では困るのではないですか、それにわしは罪人であなたは役人です。」「いやかまいません、私は廊下で聞きますから、先生は中で講義して下さい」と、こうして福川犀之助は入門し、薄暗い廊下で先生の講義を聞くのであります。この、福川の弟に高橋藤之進という者があり明倫館に行っていましたが、兄は弟に、明倫館に行くよりうちの先生の方がよい、こちらで習えというようにすすめ、藤之進もまた松陰先生の教えを
寅次郎の生涯「講演」野山獄中の読書と教育・・・七回目人間には、人格のバランスということが非常に大切であります。その一つは、芸術的情操的なものです。俳句とか、書道とかは皆芸術的な面です。この人間の感情をうるおすというのは、非常に大切なことなのです。それから他の一つは、人間の人間たる義理を明らかにする、あるいは、経世済民「けいせいさいみん」、世の中を立派に作り上げてゆく経済の学問です。松陰先生は、義理経済の学問を、他の者は、人間の感情をうるおしていくということを受持ったわ
寅次郎の生涯「講演」野山獄中の読書と教育・・・六回目河野数馬と吉村善作という男がいるが、この二人は俳句がうまい、そこで、先生は、私も習いたいから河野さん、吉村さん、あなた方は、皆の俳句の指導者になってくれませんか、というと、よし教えてやろう、と。こういう点は、松陰先生は、やはり偉いと思う。人間は誰でも、その長所を認めてやれば喜ぶし、またそれが役に立つと知れば、積極的にやろうという気になります。こうして、誰でもとりつきやすい、当時のいわゆる大衆文学であった俳句の会が
寅次郎の生涯「講演」野山獄中の読書と教育・・・五回目そのうちに、皆で先生に話を聞く会を開こうではないか、つまり、獄中座談会をやろうではないかということになった。野山獄は、独房といっても、そこに禁錮されるわけではなく、自由にどこにでも集まろうとすれば集まることができました。獄囚たちは、長く獄中にいるものですから、世間の事に暗くなるのも当然で、何もわかっていない。松陰先生は、おそらく皆に聞かれるままに入獄にいたった経緯や時事問題などについて、話して聞かせたことでありましょ
寅次郎の生涯「講演」野山獄中の読書と教育・・・四回目そこへ、青年松陰先生が、さっそうと入ってくる。松陰先生二十五才、当時獄にいた十一人で、一番年下の者が三十五才ですから、それよりも、なお十歳若い青年が入ってきたわけです。先生には課題があるが、他の連中にはそれがない、ただ食うことと人との衝突、それくらいしかないのです。先生は、日本の国防問題を考えるために国禁を犯して海外に出ようとしてはたさなかった。だから、日本の国防問題は少しも解決がついたわけではない。これから一体、日
寅次郎の生涯「講演」野山獄中の読書と教育・・・三回目野山獄には、松陰先生が入る前に十一人入っていまして第一室だけ空いていた。ここへ先生が入りましたから、ちょうど満員になったわけです。この十二人の獄囚のうち、明らかに犯罪を犯したために入っているのは、わずかに二人で、あとは全部借牢ですつまり、あの人がいると親類の間がうまくいかないとか言行が突飛で、近所付き合いが悪く、世間に迷惑をかける行動があるとか、あるいは、悪いことをする恐れがあるとか、そういう理由で、軟禁のために野山
寅次郎の生涯「講演」野山獄中の読書と教育・・・二回目野山獄、岩倉獄というのは、野山という武士と燐家の岩倉という武士の二人が酒席で喧嘩をし、刀を抜いて果し合いをしたという理由で、この両家が廃家を仰せつけられ、その屋敷がそれぞれ獄になったものです。野山獄には士分の者を入れ、岩倉獄には足軽以下平民を入れます。したがって松陰は野山獄に、金子重之助は岩倉獄に入れられたわけです。金子は、江戸の獄中にいる頃から腸結核を患い東海道を駕籠で送られて下る道中も、病気は次第に重くな
寅次郎の生涯「講演」野山獄中の読書と教育・・・一回目さて、普通の人だったら、松陰のような事情に追い込まれると、人生は、もうこれで終りということになりかねません。松陰は、父杉百合之助に預けられた一介の浪人でして、これからは、謹慎をして、一生涯を終わるという予定路線が敷かれてしまったのです。しかも、松陰の生涯は、あと五年しかないのです。その五年間、もう万事休した手も足も出なくなって私はもう、何もできないと、言えばそれで終わるのです。ところが、こういう境涯に入れば
朝お寺に向かう途中に野山獄、岩倉獄があったので行きました松陰先生の事をご存知の方は金子くんの事をもちろんご存知だと思いますが、少しだけ説明を松陰先生が黒船密航を計画したときに、自分も連れて行って欲しいと懇願したのがまだまだ若い金子重之輔くん当然命の危険もある行為ですし、当時の日本では大罪ですそんなことに若者を巻き込むことなどできないので松陰先生は断り続けるのですが金子くんも一歩もひかず一緒に渡航する事になりましたしかしながら失敗に終わり、2人は捕らえられます金子くんは体調を崩し、しか
高杉晋作さん:「お主!萩へよう来とるのに、未だ『野山獄(のやまごく)跡』を訪ねとらんとは、何事か!」久坂玄瑞さん:「早う、行け!」…ということで、野山獄跡へ行く事になったRieruです。(←なんじゃそりゃ)野山獄…吉田松陰先生がアメリカへの密航を企て、投獄されていたことで有名な場所ですよね。高杉晋作さんや富永有隣さんなども投獄されたことがあるそうです。ここには、松蔭先生にまつわる話が多く残っています。投獄中にも関わらず、他の囚人たちに孟子を講義していたのだとか。その講義を獄吏も廊下