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昨日は、終戦の日、ということで、ブログ記事欄を含む多くのメディアで関連する記事を多くみかけた。但し8月15日は、終戦の日であって敗戦が確定した日ではない。1945(昭和20)年、9月2日、東京湾に入ってきたアメリカ海軍のミズーリ号上で降伏文書調の取り交わしがなされ、これに署名することによって日本の敗戦が確定したのである。この時米国側は、占領下に於いても日本の主権が保たれるとしたポツダム宣言を無視して、完全な軍政を敷こうとしたと伝えられている。それに異議を唱え、間接統治
「あの無謀な戦争は軍部がやったこと」「英米ソなどの国々が中国を援助したから日中戦争は太平洋戦争に拡大した」「欧米列強が日本を包囲し、経済的にも政治的にも圧迫したから」失敗の原因と責任を、そういう風に他人のせいにする人々が大勢います。その論拠を、もっぱら、軍事的な記録や政治中枢にいた人々の手記、回想などに求めてきたせいです。本書のユニークなところは、外務省の公文書に探究の目を向けたところ。そこから導かれたのは、太平洋戦争の旗印とも言うべき「大東亜共栄圏」が、もともとは外務省という官僚組
重光葵さん重光葵(しげみつまもる)1887年7月29日生まれ、1957年1月26日、満69歳没。大分県大野郡三重町(のち大分県豊後大野市)生まれの、第二次世界大戦期の外交官、政治家。東京帝国大学法科大学独法科卒業。外務省に入り、1929年、上海総領事。1931年、中華公使。1932年、上海事変停戦協定を成功させ、直後、暴漢の爆弾により右足切断の重症を負う(上海天長節爆弾事件)。1933年、外務次官。1936年、駐ソ大使。1939年、駐英大使。戦乱のヨーロッパよ
カトンテールでございま〜す☆大分地球のめぐみ&ファンタジーの旅⑨無迹庵・重光邸🏯城下町・杵築で、最初に訪れたのは…無迹庵重光葵氏が少年期を過ごされたお家だそうです私は幼少期から父より、祖父が大変感銘を受けた人物であると聞いていましたので、感慨深かったですとても詳しく説明をして下さり、貴重な資料も頂いてありがとうございました!カトンテール〜♪
*5月4日エントリーの続きです。R大学文学部史学科の院生・あんみつ君と近現代史のしらたま教授との歴史トーク、今回のテーマは昭和戦時中の外交官・杉原千畝です。本日は、フィンランドの杉原千畝のおはなし。🍞🥚🥗あんみつ「しらたま先生、1935年(昭和10)7月、杉原千畝は北満鉄道買収交渉の大仕事のあと満州国外交部を辞職、15年のハルビン生活から帰国しました。当時35歳。陸軍参謀本部のスパイにさせられるのがよほどイヤだったんですね」しらた
いわゆる「先の大戦」ってヤツの経過を追うお話を読みのは苦手だどうしてどうして、、という思いで辛くなるこのお話が平和を願い外交に命をかけた人のお話だったとしても、どうしよう、やっぱり読むのをやめようかなあ、なかなか停戦、終戦にできず大変な想いをすることになるんだものなあと、数ページ読んで躊躇ったで、たまに、なかなか先に進めなくなってしまった時に、そのまま読み進めるのはやめて終わりの章から逆に読むということをやることがあるがその方法で読んでみることにした最後の章はまさに、重光が最後
1月26日が命日・忌日の有名人・著名人1823年73歳没(脳梗塞)エドワード・ジェンナーさん医師種痘法を開発した近代免疫学の父1948年65歳没(?)イグナーツ・フリードマンさんピアニスト、作曲家⇒『イグナーツ・フリードマン(1882年2月13日生~1948年1月26日没、ピアニスト、作曲家)』1957年満69歳没(狭心症)重光葵さん外務大臣日本政府の全権として降伏文書に署名⇒『重光葵(1887年7月29日生~1957年1月26日没、外交官、政治家、外務大
大佛次郎論壇賞、司馬遼太郎賞、樫山純三賞のトリプル受賞作。資源の自給自足のために軍部主導が主導し、アジア主義や対外強硬派といったイデオロギーが支えたと考えられてきた「大東亜共栄圏」を、外務省官僚たちがその時々の情勢に紆余曲折を経ながらも選択してきた政策の集大成であった、という新たな歴史像を示したのが評価されたらしい。本書では「大東亜共栄圏」という東アジアをめぐる日本中心の地域秩序観の基点を、日露戦争の戦勝で得た満州権益に置く。後に内蒙古の一部も加えた「満蒙権益」の維持・拡張と、第1次大戦後
日々、被殻出血のリハビリと掃除や洗濯などの家事、と部屋の片付けをしています。家族の遺品などを片付けていたら昔の旅券が出て来ました。それらを見て思い出した事などアップしようと思います。暇つぶしに御読み頂ければ幸いです。昔の旅券には外務大臣の「個人名」が記載されていました。重光葵(まもる)藤山愛一朗小阪善太郎などと在りました。表紙は本革張りらしいです。割と新しいパスポートには日本国外務大臣のみの記載で紙の表紙です。今のパス
豊後大野市(三重町)で産まれた重光葵の、終戦80年記念企画展「先哲・重光葵~平和を希求した男の生き様~」を、大分県立図書館で見てきました。恥ずかしながら、生後70年で初めてここに来ました。重光葵は三重町には3歳までしかいなかったようです。その後17歳まで杵築に住み杵築高校(当時は中学校)に通い、その後は熊本の第五高等学校(熊本大学)、東京帝国大学を経て、外交官試験に合格しました。今回は母校の後輩がこのような企画を手伝いました。本日(15日)が最終日でしたが無事に見ることができました。朝一
大分県先哲資料館へ。降伏文書の原本も展示されていました。ポツダム宣言受諾の御前会議の6人のメンバーのうち3人が大分県人。阿南惟幾竹田市梅津美治郎中津市豊田副武杵築市帰り道お墓に寄ってみた。
前回のBlog【9月2日重光葵氏に想いを】に多くの方々の訪問を頂き多くのいいねも頂き感謝致します✨🙏✨ならば重光葵氏のことをもう少しキチンとお伝えしなければと思い続を投稿することとしましたまず前回の拙記事をリプログして頂きました"iloveyouちゃん“さん"スナック「ケンちゃん」“さんに心より御礼申し上げます✨🙏✨お陰様で新たに多くの方々の訪問を頂きました🥂✨🥂さてリアルタイムで見聞不可能な過去の方々をどこまで正しく知ることが出来
9月2日第二次世界大戦敗戦を受けて降伏文書に調印した日歴史の教科書は8月15日を終戦記念日としているが真の終戦日はこの日(9/2)と云えるのではないだろうか我こう思う8月15日は日本が降伏を宣言した日9月2日は日本が終戦を国際的に認め連合軍からの降伏文書に署名し国の再建をスタートさせた日まぁ史実のことは個人が意見するものではなく歴史家の方々にお任せすべきことですが・・・そんな9月2日改めて重光葵氏を想う
1945(昭和20)年8月15日、日本国民は天皇陛下の玉音放送によって敗戦を知ったわけですが、正式な〝降伏〟は、それから1ヶ月弱後・・・今からちょうど80年前の今日・9月2日に行われた降伏文書への署名によって確定しました。戦後数年間は、9月2日を『敗戦記念日』としていたそうです。この日、東京湾に停泊している米戦艦ミズーリの甲板にて調印式は行われました。日本側からは、重光葵外務大臣(↓)・梅津美治郎両全権大使らが出席、連合国側はマッカーサー、ニミッツ両元帥らアメリカ代表をはじめ、
まーこーれーへ終戦の調印式9月2日の写真です。顔を見ても名前がわかりませんあとで調べてみるね。吉田茂では、ないよね、その前の総理。だれだっけな、、、総理は参加してないようです。外部大臣重光さんです。頑張ってくださった!理不尽な要求のなか、英語でやり取りは難しかったのではないでしょうか、、、
こんばんは今年は終戦80年🇯🇵8/15は先哲史料館に行ってきましたお目当ては本物の降伏文書を見る事です写真撮影禁止です幾度となく映像で観た1945年9月2日戦艦ミズーリ上での降伏文書調印式日本政府代表として署名したのが大分県出身の重光葵でしたマッカーサーらの署名もあり歴史の一部を垣間見た様な…変な感覚になりました映画やテレビでよくある戦時中にタイムスリップしたみたいな〜帰りはランチで…お初の麺通人へ!感想はあっさり系トンコツスープ味変で、辛子
※作品評価は◎=おもしろい○=ふつう△=う~む×=よくない珍=珍作8月前半の民放は9本。うち広島・長崎の原爆関連作品は3本。NNNドキュメント・広島テレビの『NEVERAGAIN』も、ナレーション無しで挑戦的なつくりをしていたテレメンタリー・長崎文化放送の『ノー・モア・ナガサキ』も、過去・現在の映像を混ぜながら網羅的に両地の被爆者を見せていく形を取ったこと自体は悪くなくとも、そこに何か新しい視点や発見があるかといえば特になく…NEVERAGAIN覚悟ヒロシマから世界
明日8月9日からのくにさき元気風は国東市歴史体験学習館で行われている国東市歴史体験学習館企画展「戦後80年から振り返る重光葵と国東―平和への道―」今一度、平和について、家族や、友達と、話す機会になればと、思います。一人一人が、平和のたいせつさを、感じてほしい。https://www.city.kunisaki.oita.jp/site/yayoinomura/yayoinomura-sigemitsumamoruten2025.html市外のケーブルテレビでは毎週火
1944年7月アメリカ軍によるサイパン占領。これで航空機がサイパンから直接日本本土を爆撃することが可能になった。1944年10月、フィリピンのレイテ沖の戦いで日本海軍ほぼ全滅。南島の資源補給も断たれる。日本の敗北は決定的。だが日本本土で空襲が相次いでも降伏はしなかった。それは無条件降伏が前提にあったから。無条件降伏とは、敗者は何も言わずに勝者の言う通りにしろということ。これは1943年イギリスとアメリカによるカサブランカ会談によって、無条件降伏が絶対と取り決めされてい
おはようございますご訪問ありがとうございます続きです『温泉でまったり』こんばんはご訪問ありがとうございますとりあえずいいお湯とおいしいご飯でグルタミン酸最高🎵お魚新鮮でした!イタリアン×和なお鍋ジェノベーゼソースで味変したりお肉…ameblo.jpホテルの装花ここだけじゃなくあちこちに活けられていてました宿泊の楽しみのひとつですヘアオイル忘れたので売店で椿油のミニボトルを朝ごはんも大満足やっぱり干物よねこの吉野葛仕立てのつみれも家では作らないし釜炊きごはんはおこげも🩷こ
下記の商品は今週入荷したホンの一部です。『欲しがりません勝つまでは-私の終戦まで―』(田辺聖子)昭和52年、ポプラ社刊、初版帯付き売価3,000円『『重光葵手記(正続2冊揃)』(伊藤隆・渡邊行男編)昭和63年、中央公論社刊旧セット定価10,100円特価2,000円『本土防空戦(新版)』(渡辺洋二)1997年、朝日ソノラマ刊売価2,000円本書は1979年刊『日本本土防空戦』(徳間書店)、1982年刊『本土防空戦』(朝日ソノラマ文庫
創元社:孫崎享著:「戦後史の正体」を少し読みました。アジア太平洋戦争の日本降伏のときのところを読みました。始めのアメリカの突きつけた降伏条件は結構ヤバいもんだったんですね・・・英語を公用語にするとか。だけど時の外相・重光葵(しげみつ・まもる)さんが決死の交渉で穏便に事が運んだみたい。GHQの当初の目的は日本を低水準な国にすることだったみたい。しかし、時のアメリカ大統領・トルーマンが、、、日本に原子爆弾を落とすことを指示したトルーマンが、、、対共産主義のため、日本の工業力を
最高学府で連続殺人!謎を解くのは天才哲学者「ウンベルト・エーコ」ならぬ天才政治学者「ウノベ・エーコ」。他を圧する「知の巨人」が開示していく事件の真相は、まさに予測不能。ラストは鳥肌モノ!!物語の主人公・宇野辺叡古(うのべえーこ)は、東京帝国大学法科大学の教授である。大著『日本政治史之研究』で知られる彼は、法律・政治などの社会科学にとどまらず、語学・文学・史学など人文科学にも通じる”知の巨人”である。その知の巨人が、連続殺人事件に遭遇する。時代は明治。殺されたのは帝大の教授たち。
年老いた男性美容師のわたしが、なぜ重光葵(まもる)のことがこんなに気になるのか?それは参政党のタウンミーティングに行ってからであります。山岡鉄秀(てつひで)先生による重光葵(まもる)の素晴らしい講演を聴いてからです。山岡鉄秀先生のお名前も「てっしゅう」と勝手に読んで失礼もしました。重光葵の(まもる)と同じく(てつひで)とルビを振ることにしました。できるだけ難しい漢字はルビを振ることにします。これもブログのおかげと前向きにとらえています(笑)。最近は何度も聞いて耳タコになっているかもしれません
かつての高校の同級生から、渋沢栄一は大河ドラマになったが重光葵(まもる)のほうがしてもらいたいとの声をいただきました。ありがたいことで、重光葵の半分親戚のようになっています(笑)。学習まんが「日本の歴史」の最新版で、マッカーサーとの攻防が書かれています。敗戦国でありながらアメリカのかなりの要求を反対したようです。それを認めたマッカーサーもすごいです。その時点では両国にとっての最善策だったのだと思います。これこそ外交の力でした。重光葵の胆力はすごかったのだと思います。アメリカは自由な教育や秘密
12月22日金曜日〜その5(写真)「歴史のダイヤグラム鉄道と車を使い分けた重光葵」原武史(R5年4月15日付朝日新聞)も読む。