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現在の京都御所の前身となった。この様に天皇が一時的に用いた仮御所を何と云うか?平安京に於いては、天皇の居住地である内裏は、大内裏(平安宮)の中に存在していた。しかし平安中期以降、大内裏の外に臨時の内裏を営む事が常態化していった。これを「里内裏」と呼び、現在の京都御所も、その始まりは鎌倉末期の光厳天皇の里内裏として造られた土御門東洞院殿であった。この御所は室町・戦国期の天皇の住居として使われ続けたが、桃山・江戸期に入って秀吉や江戸幕府によって拡
伊藤浩士先生の小日本秘史・時々掲載予定第57回朝廷の機能の崩壊奈良時代には、上は従一位の大臣から、下は少初位の令史まで、官位官職があって役人として朝廷で働いていれば国から給与が出ました。当たり前のことですが、平安時代の半ばころから役人に対する給与が出なくなります。何年の何月分の給与から払われなくなったという記録はないのですが、こういうことは遅配や欠配が繰り返されて、そのうち全く出なくなるといった流れに大抵はなりますから、なし崩しに払われなくなって行ったのでしょう。
伊藤浩士先生の小日本秘史・時々掲載予定第56回天皇家の荘園領主化中国の皇帝は天下の主であり、国の富は全部皇帝が保有するとなっていました。税金をネコババして私腹を肥やすのは、大臣か宦官であって、皇帝が税金をネコババすることはあり得ないという建前でした。入ってきた税金は全部皇帝のものだったので、ネコババする必要がなかったわけです。日本の律令制は中国の制度を直輸入したものですから、日本の富は全部天皇のものという建前でした。聖武天皇などはそのつもりで行動しており、この国の富は自
天皇が一時的に居住した仮皇居を何と云うか?平安中期以降、天皇が一時的に居住した仮の皇居を「里内裏」と云う。貞観元年に内裏が焼亡した際、太政(ダイジョウ)大臣・藤原兼通(カネミチ)の私邸堀河院を円融天皇の皇居に充てたのが初例。当初は火災その他の事情で天皇が内裏を離れる際の仮皇居とされたが、平安後期には事実上の天皇の居処となった。現在の京都御所は、南北朝期の里内裏である土御門東洞院殿にルーツを持つ。元弘元年、光厳天皇がここで即位し、御所とした。
す源氏物語連続講座第4回を受講する「紫式部は内裏を知らないー「里内裏」というところー」野口孝子さん、国際日本文化研究センター共同研究員10枚のレジメをいただく。(結論・まとめ)紫式部は寛弘2~3年(1005~6)の12月に中宮彰子に出仕したが、寛弘2年(1005)11月15日内裏は焼亡している。よって内裏には出仕していない。出仕期間中はすべて里内裏(正式には里第皇居(りていこうきょ)のちに里内裏といわれた、京中にある後院や有力貴族第を仮の皇居として使
名古屋のシンゾウです世間様は、ゴールデンウィークで大騒ぎですが、全く予定が無い上に体調不良も重ねって、ブルーな日々を過ごしています。7月9日(日)の3級試験の募集が始まりました。公開テーマは「ロケ地で巡る京都」です。楽しい問題が出題されそうです。最近では、アニメで各所が登場しますので、その押さえも大切ではないでしょうか、例えば、宇治市を舞台の「響け!ユーフォニアム」とか、ネット検索で沢山作品があります。私には、チョット難しい公開テーマのような気がします。皆さん、休暇を楽しんでく
【食育クイズ:Vol.1169】「京都府」の「平安京」おさらいクイズ!「平安京」の天皇の居住する内裏が焼失した場合の仮住居を何と言う?∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞【食育クイズ:Vol.1168】(「京都府」の「銀閣寺」おさらいクイズ!「銀閣寺」を説明した4つの文章で間違っているのは?)の↓↓↓↓↓↓正解と解説↓↓↓↓↓↓【解説】「京都、慈照寺」の「観音殿」は、その別名を「銀閣」と言い、「室町幕府
平安中期以降、天皇が一時的に居住した仮の皇居を「里内裏」と云う。貞観元年に内裏が焼亡した際、太政(ダイジョウ)大臣・藤原兼通(カネミチ)の私邸堀河院を円融天皇の皇居に充てたのが初例とされる。当初は火災その他の事情で天皇が内裏を離れる際の仮皇居とされたが、平安後期には事実上の天皇の居処となった。現在の京都御所は、南北朝期の里内裏である土御門東洞院殿にルーツを持つ。元弘元年、光厳天皇がここで即位し、御所とした。
・・・現在の京都御所の前身となった。この様に天皇が一時的に用いた仮御所を何と云うか?平安京に於いては、天皇の居住地である内裏は、大内裏(平安宮)の中に存在していた。しかし平安中期以降、大内裏の外に臨時の内裏を営む事が常態化していった。これを「里内裏」と呼び、現在の京都御所も、その始まりは鎌倉末期の光厳天皇の里内裏として造られた土御門東洞院殿であった。この御所は室町・戦国期の天皇の住居として使われ続けたが、桃山・江戸期に入って秀吉や江戸幕府によって拡
交差点信号待ち。次は大宮中立売交差点をとり上げます。この付近で大宮通は道幅が狭く、北行きの一方通行になっています。一方中立売通は市バスも通る幹線道路です。南側から交差点を見ています。交差点名の表示はありません。交差点を越すと、大宮通は道幅が少し広くなります。それをしばらく北へいくと・・・右側に見えてくるのがこのような鳥居です。神社のようですがそうではなく、「名和児童公園」の入口で、中には子どもの遊具などがあります。いまは児童公園になっているのです
【平成31年3月18日(月)】京都御所に行く前に一か所立ち寄ってきました。【二条富小路内裏址】所在地:京都市中京区富小路通夷川下る西側(御所南小学校第二運動場前)この地は,鎌倉中期に西園寺実氏(1194~1269)の邸宅の一つ冷泉富小路殿が営まれ,閑院内裏焼失(1259)後,後深草天皇(1243~1304)の皇居となり,その後も上皇・天皇の御所として頻繁に使われた。徳治元(1306)年火災後再建されないままであったが,正和元(1312)年鎌倉幕府から造内裏費用が献上されて平安宮内裏の
京都御苑の西側を歩いていると、こんなものに出合いました。土御門内裏跡の石碑です。烏丸通りに面した、京都ガーデンパレスの敷地に立っています。土御門内裏は、里内裏であり、天皇の居所である内裏とは別に設けられた仮の皇居です。平安京大内裏を模して造られた最初の御殿でもあります。烏丸通りに面していることから、「土御門烏丸殿」「土御門烏丸邸」「土御門烏丸内裏」とも呼ばれ、東西は烏丸通から室町通、南北は上長者町通から下長者町通までの敷地であったようです。焼失を繰り返し再建がされなくなった後、江戸時
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