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大僧正天海(250)【島原の乱④】さて、人間には「脊髄反射」という機能がある。生体の危機回避のため、大脳を経由せず、脊髄が直接命令を出す防衛反応である。もし、幕府が「脊髄反射」するとすれば、大坂城代と京都所司代が揃う畿内であろう。しかしこの時、両職の権限が曖昧で、十分機能しなかったのである。このため幕府は、乱後に大坂城代を「西国の司令官」と再定義し、軍事指揮権を明確にしている。11月8日、江戸の島原藩邸に一揆の一報が入った。松倉勝家はすぐに江戸
大僧正天海(234)病気の見舞いに、側近を派遣することは珍しいことではない。しかし老中(しかも大老格)の酒井忠勝を見舞いに行かせるのは尋常ではない。これは家光が阿茶局を宿老並みに待遇し、敬意を表したといえるのである。「(寛永十四年正月廿二日)この日一位の尼うせらる。齢八十三歳。この尼ぜは武田家の臣飯田筑紫某といへるもののむすめにて、今川の家人神尾孫兵衛忠重が妻となり、天正十六年四月忠重にをくれて、おなじき七年より、神祖の御かたはら近く宮仕し、阿茶の局といふ。」(
大僧正天海(233)「(寛永十四年正月)十日、いささか、御なやみあり。兼てはけふは葛西にてからせ給ひし白鳥もて、三家を饗せらるべき旨仰出されしが、御不豫によて其事なし。」(「大猷院殿御實紀」)「10日、家光は少し体調を崩された。かねてより、本日は葛西での鷹狩りで自ら獲られた白鳥を用いて、御三家を饗応される手はずであったが、将軍のご病気によって中止となった。」家光は相変わらず病弱である。ただこの度は大病と言うほどではなかった。「十四日御なやみさはや
大僧正天海(224)「後ち家光に謁す。家光曰く、日者吾鷹を千手に放つ、卿何爲ぞ知らざるまねして過ぐ。対て曰く、臣千手を過ぐる時、唯一男子、鷹を臂にするを見る。未だ嘗て、殿下を見ざるなり。家光曰く、是乃ち吾なり。政宗、偽り驚き、謝す。因て諫めて曰く、公、天下の重を任せられ、游猟を好み給ひて、数々軽出給ひ、警衛を須ひられず、臣、恐くは一旦不測の変あらんことを、公の爲に之を危ぶむと、家光之を嘉納せり。」(「名将言行録」)「後日、政宗が拝謁した時、家光がこう言いった。
大僧正天海(222)「(寛永十三年四月)十三日御發軔辰下刻なり。松平伊豆守信綱は御留守にあり、尾紀水三卿は御先にまかられ、井伊掃部頭直孝、松平下総守忠明、松平出羽守直政、毛利甲斐守秀元、立花飛騨守宗茂、有馬玄蕃頭豊氏は御先にまかり。」(「大猷院殿御實紀」)「4月13日、辰の下刻(午前9時頃)に江戸城を出発した。この度は松平信綱が、江戸城の留守居を務めた。御三家の方々は、家光より先に出発した。井伊直孝、松平忠明、松平直政、毛利秀元、立花宗茂、有馬豊氏らも、一足
大僧正天海(218)「(寛永十三年三月十三日)又酒井雅樂頭忠世所労により、太田備中守資宗もてとはせ給ふ。十四日、三浦志摩守正次もて、雅樂頭忠世が病を尋らる。」(「大猷院殿御實紀」)「3月13日また、家光は、酒井忠世が病気であると聞き、太田資宗を見舞いに行かせた。さらに14日には、三浦正次を使いとして、忠世の詳しい病状を尋ねさせた。」家光は元和9年(1623年)に将軍になると、長年の傅役であった老中・青山忠俊を罷免し、後に改易している。忠俊はしばしば諫言を
大僧正天海(217)「(寛永十二年十二月)稲葉佐渡守正成が養ひし八左衛門正能、弟治左衛門正定共に召出され、美濃守正則願の如く、正能へ三千石、正定へ二千石分地せしめらる。」(「大猷院殿御實紀」)この稲葉正成とは春日局の元夫である。下野国真岡藩主として寛永5年(1628年)に逝去した。本来なら嫡男は、先妻の子の正次であったが、春日局の子である正勝が真岡藩の二代目藩主となっている。正勝は家光の小姓から出世し、元和9年(1623年)には老中(年寄衆)に任じら
大僧正天海(215)【忠世逝去】「(寛永十二年十一月)廿日、書院番頭朽木民部少輔稙綱小姓番組頭にうつされて、三浦志摩守正次、太田備中守資宗、阿部対馬守重次、酒井備後守忠朝、土井遠江守利隆とおなじくつかふまつらしめらる。是は小姓番組頭を兼て少老のことを行ひしものなり。」(「大猷院殿御實紀」)17日、18日と諸老会議が開催された。その結果であろうか、書院番頭・朽木稙綱が小姓番組頭・若年寄(少老)に取り立てられている。稙綱は、朽木元綱の三男である。元
大僧正天海(212)「(寛永十二年十月廿九日)土井遠江守利隆、酒井備後守忠朝小姓番組頭となり、少老を兼しめらる。」(「大猷院殿御實紀」)土井利隆は土井利勝の長男、酒井忠朝は酒井忠勝の長男である。二人はともに小姓番組頭に抜擢され、少老(若年寄)になった。実力派老中の嫡子として大いなる期待を込めた抜擢であったが、先に結論をいうと、どちらも大成しなかった。利隆は、親に似ず暗愚で、土井家を改易の危機に陥れた。忠朝に至っては忠勝の勘気を蒙り、宗家を継げず廃嫡と
大僧正天海(205)【武家諸法度】「(寛永十二年六月)廿一日法令を仰出さるるにより、尾紀水の三卿を始め、在府の諸大名大広間に群参し、譜第の衆は伺公す。時に井伊掃部頭直孝、松平下総守忠明、酒井雅樂頭忠清(忠世の孫)、土井大炊頭利勝、酒井讃岐守忠勝法令仰出さるる旨を伝へ、需臣林道春信勝中央に出て是をよむ。」(「大猷院殿御實紀」)寛永12年(1635年)6月21日、武家諸法度(寛永令)が発布された。「徳川実記」によると、寛永12年3月10日に家光が開いた老臣会議
大僧正天海(202)「寛永十二年乙亥正月元旦慶会例の如し。」(「大猷院殿御實紀」)明けて寛永12年(1635年)となった。正月の祝賀は例年のとおりであった。11日朝、御三家、立花宗茂と御茶会、夕方には、仙台中納言・伊達政宗、毛利秀元とも御茶会を開いている。12日朝には、上杉定勝、佐竹義隆、松平忠之、加藤明成、南部重直と御茶会、夕方には松平光長、松平光高、松平直政、井伊直孝、松平忠明を召している。その後、土井利勝、酒井忠勝、板倉重宗を召して御茶会を開い
大僧正天海(201)「(寛永十一年十二月)廿日酒井雅樂頭忠世は西城失火の後城を出て、東叡山の僧坊にて籠居せしを聞召、御けしき宜しからねば、彌畏縮して山を出ず。大僧正天海につき、しきりに過を悔罪を謝しければ、天海尾紀両卿にこふ事度々に及べり。両卿より井伊掃部頭直孝、土井大炊頭利勝、酒井讃岐守忠勝もて愁訴懇願あり。此日聞召いられしとぞ。」(「大猷院殿御實紀」)「20日、酒井忠世は、江戸城の西の丸で発生した火災の責任から城を出て東叡山の僧坊に引きこもった。家光は、忠世の謹
大僧正天海(200)【忠世赦免】土井利勝は、明け六つ(午前6時頃)には目覚め、まず顔を洗った。それからゆるりと髭を剃るのが日課であった。利勝は、「容貌が家康に似ている。」と言われることを、殊の外嫌っていたため、必ず髭を剃り、いつもぬるりとした顔にしていたという。それから朝餉をいただき、登城の準備に入った。前日までに届いた訴状・報告書に目を通すと装束を整え、御供の行列を定めた。そして明け五つ(午前9時)には江戸城辰の口にあったといわれている古河藩江戸
大僧正天海(195)【家光の帰還】「是より土井利勝、酒井忠勝の二人専ら宰輔の重任にゐて、威権やうやう顯赫たりしとぞ。」(「大猷院殿御實紀」)「これより、土井利勝と酒井忠勝の二人がもっぱら宰輔の重職にあり、その権勢と威光は、世に輝き渡るほどであった。」酒井忠世の失脚により、家光政権は、利勝と忠勝に権力が集中したのである。「(寛永十一年閏七月廿九日、三家及び在京の諸大名まうのぼりて、難波より御帰洛ありしを賀す。一條摂政もまいられて御対面せらる。
■所在地山形県鶴岡市馬場町■遺構堀・郭■城のタイプ平城■築城者武藤長盛、直江兼続、最上義光、酒井忠勝鶴ヶ岡城は、室町時代初期、武藤長盛による築城が始まりといわれており、古くは大宝寺城と呼ばれ、武藤(大宝寺)氏滅亡後は、越後上杉氏と主を変えました。慶長8年(1603)には、山形の最上氏による庄内支配の拠点となり、その2年後に鶴ヶ岡城に改称されました。最上氏改易後の元和8年(1622)、信州松代より酒井忠勝が17万石で入封して以降、藩主酒井氏は、明治4年(1871)の廃藩置
大僧正天海(180)【家光上洛】「(寛永十一年二月三日)天下大小の政務万機、滞りく聞えあぐべき旨、御黒印もて仰出さる。」(「大猷院殿御實紀」)家光は、「この国の政治は一分たりとも停滞させてはならぬ。すべてをしかるべく報告し、処理せよ。」と黒印状をもって命じた。以下、宿老(老中)と六人衆(若年寄)との職掌規定である。酒井忠世、土井利勝、酒井忠勝の担当は下記のとおりである。①禁中及び公家、門跡のこと。②国持万石以上のこと。③奉書
大僧正天海(177)寛永10年(1633年)は、幕府中枢の刷新と番方再編成が実施された年であった。まず老中(年寄衆)では、森川重俊が秀忠に殉死し、永井尚政、青山幸成、内藤忠重の三人は加増の上転封となり、年寄衆から離脱した。軍制では「地方直し」(蔵米支給から知行地支給へと切り替えた政策)、「寛永の軍役令」(大名や旗本が、その領地の石高に応じて負担すべき、軍備・人員の基準を明確に定めた。石高ごとに何人の兵を揃えるべきかを細かく規定した。)を実施している。老中
大僧正天海(176)さて、ここで家光政権の主な閣僚を整理しておこう。年齢は寛永10年(1633年)の時点である。〇酒井雅樂頭忠世(62歳)…文字通り重鎮である。忠世は剛直な人間であり、家光はいささか苦手であった。ある日、秀忠は「将軍は雅樂が嫌いなようであるが、あれは神君(家康)以来の忠臣で政事の熟練である。気に入らないのはそなたの我慢が足りないからだ。」と注意された。それを聞いた忠世は、「これでは、ますます嫌われる。」と恐縮したのである。しかし、家
牛込神楽坂駅→矢来町ハイツ→矢来公園(小浜藩邸跡)→(天神町北野神社)明治39年測量図・矢来町の一帯はかつて小浜藩主・酒井忠勝の下屋敷があった。・明治末の測量図でも「酒井邸」がある。後に興銀(現在のみずほ銀行)の社宅。矢来町ハイツ(跡)・2024年まではみずほ銀行の社宅であり、牛込神楽坂駅から徒歩5分の広大な敷地に9棟が建つ。戦後、旧興銀(第一勧銀と富士銀行と統合)が取得し社宅とした。・2024年にみずほ銀行の社宅制度廃止に伴い、現在は有姿のまま閉鎖されている。・2025年
大僧正天海(169)大膳は広間に入ると、幕閣に礼をして左手に座した。続けて、黒田家の家老・黒田美作と、驚いたことに倉八十太夫が入室したのである。十太夫は、恐らく利勝に呼び出されたのであろう。これまで忠之の影に隠れて表に出てこなかった十太夫とついに対決の時が来たのであった。利勝はまず、先だって謀反の罪で流罪となった忠長と忠之が昵懇であったことを尋ねた。これに対して美作は、「これは右衛門佐(忠之)が面接を求めたものではなく、駿河様からお招きいただいた
こんばんは。夏バテしそうでしないオイラは、熱い食べ物(汁物、熱い麺類)をなるだけ食べる、熱い風呂にしっかり浸かる、1日最低でも1ヶは梅干しを食べる、睡眠は最低でも7時間、寝る前に1杯の麦茶を飲む…が良いのかも知れませんね。さて、前回の道の駅うみんぴあ大飯から30分掛からないくらいでしたかね、で、到着したのは、小濱神社の駐車場でした。ここへは、駐車場には4台分しか入りません…もし、駐車場がいっぱいだと、マジで諦めるか、取り締まり覚悟の路駐しかありません、なぜなら、周りは住宅密集地だからです。
大僧正天海(161)家光は束帯にて、四足門から輿を下ろすと、吉良義冬が御簾を上げ、井伊直滋が御太刀を持ち、大沢基重が御釼、阿倍忠秋が御裾、安藤重長が御沓をとった。使番として、本郷勝吉、土屋勝正ら6名が随身したのである。山門から廟堂に向かうと玉垣の外から御三家が随陪し、国持大名は瑞垣の外で家光を拝した。堂上では、義冬が御裾をとり、家光が御拝畢(拝礼の作法を終えること)の後、着座した。御三卿も同様に拝して、その右に着座したのである。落縁には井伊直孝、松平忠明
大僧正天海(157)「(寛永十年正月十八日)一、同日国師病證、大炊殿、讃岐殿迄書付上ル。案在左。国師病證之覚一過夜気色同篇に御座候。一草臥彌まし、口ひかわき申候故、山桝湯折々被給。蟲おさへ候て、水にてさいさいうかい仕事ちとやみ申候事。一食一圓無御座候、以上。正月十八日平賀清兵衛竹西堂」(「本光国師日記」以心崇伝)寛永10年(1633年)1月8日、崇伝は病に臥した。家光は小姓組頭兼奥勤・
大僧正天海(149)寛永9年(1632年)5月22日、領国である熊本城にいた忠廣のもとに、幕府から「廿一ヶ条の詰問があるから、早々に江戸に上り申し開きせよ。」との奉書が届く。忠廣は大いに驚き、家老らを集めて、善後策を協議した。評議で家老らは激高し、「当家の覚えなきことが多い。家中に讒奸の輩がいるに違いない。」といい、「仮に申し開きのため、江戸に罷り出ても、所詮は切腹か流罪であろう。この上は籠城の上、天下を相手に合戦致すべし。」と言い出したのである。やがて
大僧正天海(145)【加藤家改易】「一同卅日。大僧正早天來儀、斎了、道春、永喜、御院号内談。僧正は、衡岳院建徳院九龍院三つ被書付。但八筆。国は、乾龍院天桂院瑞松院三つ書付ル。但是も八筆。則各同道登城雅樂殿大炊殿讃岐殿参会。信濃殿大蔵殿並井伊掃部殿松平下総殿列座。右書付、道春、永喜へ渡ス。」(「本光国師日記」)30日早朝、天海、崇伝、羅山(道春)、永喜が院号選定のために集まった。そこに酒井忠世、土井利勝、酒井忠勝、永井尚
大僧正天海(144)「(寛永九年正月廿五日)本城に天海大僧正、金地院崇伝をめし、御葬式の内議あり。深夜密々に幽宮へ納め奉るべしと定らる。御葬日をも崇伝考て廿七日と定む。」(「大猷院殿御實紀」)家光は、本城に天海と崇伝を召すと、御葬儀の段取りを打ち合わせた。今夜のうちに御尊体を幽宮に納めることになったのである。「幽宮」とはこの場合、「神霊が永久に鎮まる宮居」の意味であろうが、具体的には西の丸の何処なのかは、分からない。崇伝は吉凶を調べ、葬儀の日を廿七日と定めたので
大僧正天海(88)「幕府、年寄稲葉正勝ニ常陸真壁ノ地ヲ加増シ、一万石ヲ知行セシム。」(「史料綜覧」)書院番頭に任じられた稲葉正勝(斎藤福の子)は、元和9年(1623年)には、老中に任じられている。寛永元年(1624年)には常陸真壁郡に5千石を加増され、柿岡藩1万石を領する大名に列し、従五位下・丹後守に叙任した。ところが、同じ寛永元年に父・正成が、主家・松平忠昌の越前福井藩転封に従わず、勝手に出奔・浪人するという事件を起こした。本人は隠居したつもりであった
9月30日、新潟駅から羽越本線の特急いなほでGO。山形県鶴岡市の鶴岡駅へ到着。鶴岡駅と言えば、この日の8日前にクマが駅前に出没しました。そして駅からすぐの場所で駆除。目的地へタクシーで行こうと思ったが、待機タクシーがいない。乗り場に「こちらへお電話を」と掲示されているタクシー会社3社にかけても、全てで払っているとのこと。「あると思うな、コンビニとタクシー」という地方都市あるあるですね。少し待つと空車がやってきて事無きを得る。さっそく運ちゃんとクマの話を。さすが
来ていただいて、ありがとうございます今日の文字は27日の「ブラタモリ」は「東京•神楽坂」お題は「なぜ神楽坂は大人の隠れ家になったか?」今回、タモリさんたちがいるのは神楽坂始まりは路地裏から「見番横丁」にタモリさん「昔、芸者さんいたんだよね」「東京神楽坂組合稽古場」の看板がタモリさん「芸者さん今でもいるんだ」かっては料亭など貸し座敷が120軒以上芸者さん700人以上がいた一大花街でした花街とはお座敷遊びがで
大僧正天海(69)真田信之が去った後の上田城には、仙石忠政(信濃国小諸5万石)が6万石で入った。仙石の居城・小諸城(佐久郡等7万石)は、甲斐宰相・徳川忠長の所領となり、甲斐と合わせ30万石余となっている。また、水戸宰相・頼房には常陸国松岡3万石を加増し、28万石としている。「酒井讃岐守忠勝、武蔵の国深谷の城主になされ、七千石加恩ありて1万石を給ふ。」(「台徳院殿御實紀」)さて、前項で「酒井忠勝が、出羽国庄内で13万8千石を賜った。」と書いたが、ややこしい