ブログ記事121件
城野遺跡/帰ってきた弥生人特報2“吉野ヶ里遺跡石棺墓調査への疑問と期待”6月に日本中を騒がせた吉野ヶ里遺跡の箱式石棺墓調査に関し、私自身多数の疑問点や今後の調査で期待する点があるため、特報2としてブログにアップすることにしました。まず、この墓をめぐってどうしても邪馬台国や卑弥呼との関係を求めたい報道関係者のステレオタイプの質問にはうんざり気味で、調査関係者もよく切れずに丁寧な応対をしているなあ、と感心しました。加えて山口祥義佐賀県知事の再三の記者会見にも違和感を覚えざるを得
城野遺跡/帰ってきた弥生人-城野遺跡発見の一部始終をたどる-第5章遺跡保存への道のり③“遺跡保存の必要性を訴える”2010年12月初めに北九州市長へ、城野遺跡の窮状を訴える手紙(市長への手紙)を送りました。受け取ったとの回答はその日のうちに自動返信されましたが、その後手紙に対する返事はもらえず、2010年も年が暮れようとしていました。※「市長への手紙」は本年5/6付「帰ってきた弥生人第5章②“すがった一縷の望み”をご参照ください。私はその間、城野遺跡の発掘調査開始から方
6月5日、吉野ケ里遺跡で発見された石棺の蓋が開けられ、「“謎のエリア”の墓から赤い顔料、有力者であれば邪馬台国につながる発見の可能性」(2023/6/5RKB毎日放送)と大きく報じられ、全国ニュースでも繰り返し取り上げられました。6月14日、発掘調査の結果、人骨や副葬品は見つからなかったようですが、6月24日、25日の一般公開には歴史的発掘を一目見ようと全国から2600名もの参加者があったようです。佐賀県は「人の骨は有機物のため分解され副葬品はもともとなかったとの見解を示した一方、墓
城野遺跡/帰ってきた弥生人特報1“吉野ヶ里遺跡の石棺墓発見にあたって”先日6月5日に、佐賀県吉野ヶ里遺跡でみつかった弥生時代の石棺の蓋石が開けられて大々的な全国ニュースになりました【写真1】。考古学ファンや邪馬台国ファンならだれもが知っているこの情報に、私も非常に関心を寄せています。このブログは本来、第5章「遺跡保存への道のり」の3回目にあたるのですが、急きょ変更して、この問題を取り上げて私なりの位置づけと皆さんのお考えをお聞きできればと思います。もっとも、最近はブログアップも滞
佐賀県の国指定特別史跡「吉野ヶ里遺跡」にある「謎のエリア」で大きな発見です。邪馬台国時代のものとみられる石棺墓が新たに見つかりました。「線刻」と呼ばれる多数の記号吉野ヶ里遺跡で先月末に見つかったのは、縦1、7メートル、横3、2メートルの「石棺墓」です。吉野ヶ里遺跡には長年、神社があり発掘調査ができていなかったいわゆる「謎のエリア」がありました。石棺墓は、去年5月に始まったこのエリアの調査の一環で見つかったもので、表面の石に「線刻」と呼ばれる多数の記号があります。
城野遺跡/帰ってきた弥生人-城野遺跡発見の一部始終をたどる-第5章遺跡保存への道のり②“すがった一縷の望み”城野遺跡の歴史的価値と保存の必要性を、いくら市の所管課に訴えても動いてくれないことに業を煮やし、2010年12月4日、私はパソコンを通じて「北九州市長への手紙」を送ることにしました。北九州市長ならその前年の晩秋、城野遺跡で北部九州最大級の方形周溝墓が見つかったことを市民に知らせる現地説明会に訪れ、調査担当者の説明を熱心に聴かれていた姿を思い出したからです。なにより市長は邪
「城野遺跡の会」のブログをご覧いただきありがとうございます。更新が滞り大変申し訳ありませんが、まだまだ続けますので今後ともよろしくお願いします<(__)>さて、本ブログは2016年9月に開設しましたが、トップページはタイトルの名称以外はほとんど修正しないまま、今日に至っていました。この度、タイトル下の説明文、メッセージボード、プロフィールの3カ所を遅ればせながら修正しました!特にプロフィール欄には、会のオリジナル動画「朱塗り石棺の謎」「城野遺跡実録80分弥生墓制の真の姿」とともに
城野遺跡/帰ってきた弥生人-城野遺跡発見の一部始終をたどる-第5章遺跡保存への道のり①“残したいという心”城野遺跡の発掘調査が終了して早12年が過ぎようとしています。私自身弥生時代後期の玉作りが行われた住居跡を発掘したのは初めての経験でしたが、その時のことは今でも鮮明に覚えています。朝日に反射してキラキラと透明に光る水晶玉の破片と時々顔を出す鮮やかな緑色の碧玉のかけら、大地から聞こえてくるカチカチという音の響きと手に伝わる硬い感触、そして地を這うようにして発掘作業を行う人たちの
城野遺跡/帰ってきた弥生人-城野遺跡発見の一部始終をたどる-第4章立ち退かされた弥生人④“ふるさとの消滅”これまで、弥生時代の終わりごろに中心をおく城野遺跡での人々の暮らしや、方形周溝墓という巨大な墳墓を築き得た権力者の姿を発掘調査の成果からたどってきたわけですが、そもそもこうした貴重な遺跡がこの地に眠っていようとはだれも想定していませんでした(写真1)。城野医療刑務所敷地は一般には立ち入りできない場所で、いわば民間開発の波にさらされなかったため遺跡が守られてきた、ともいえるのです。
城野遺跡/帰ってきた弥生人-城野遺跡発見の一部始終をたどる-第4章立ち退かされた弥生人③“政治的枠組みのなかの城野遺跡”集落を廃絶する理由が必ずしも内部発生的、自発的に起こるとも限りません。たとえば他の集団(外的圧力)に攻められてムラが全滅し、ムラびとのほとんどが虐殺されたり、捕虜としてどこかに連れていかれた場合………。なんだかロシアのウクライナ侵攻を目の当たりにしているので、古代にもそのようなことが起こったのではないか、と考えるのは行き過ぎでしょうか。「歴史は繰り返す」、そんな言葉
北九州市の埋蔵文化財行政の是非を問う⑪“さらに続く低次元の文化財行政”ここまで数回、城野遺跡の発掘調査に関わる文化財行政の問題点を指摘してきた。そして今回また城野遺跡に関して考えられない疑念と不信感を所管課が引き起こしてきた事実を述べざるを得ない。まず、この貴重な遺跡をなんとか保存できないか、現場サイドでは発掘調査期限も迫る中、九州2例目の玉づくり工房や竪穴住居など貴重な遺構群を保全した上で埋め戻すための方策を文化財課の係長に投げかけた。具体的には遺構の壁面や床面を保護するとと
みなさま、こんにちは今年5月に「城野遺跡公園を実現する会」から「城野遺跡の会」に変わりましたが、引き続きブログでの情報発信はボチボチながら続けています。今後ともよろしくお願いします<(__)>さて、連載「北九州市の埋蔵文化財行政の是非を問う」は、2020年10月から「くらしと福祉北九州」に毎月寄稿されている記事を2021年3月から転載しています。北九州市の数ある遺跡の発掘調査に40年以上携わった佐藤浩司氏(埋蔵文化財調査室前室長)が北九州市の埋蔵文化財行政の問題点を具体的な事例
城野遺跡/帰ってきた弥生人-城野遺跡発見の一部始終をたどる-第3章注目すべき事実⑦“九州の玉作りフロンティア2”※前回の連載29(2022.2.8)から4ヶ月半ぶりと大変遅くなったことをお詫び申し上げます。佐藤氏の原稿は届いていたのですが、ブログ担当者の多忙により投稿が遅くなりました。引き続き連載は続きますので今後ともよろしくお願いいたします。また、6/22に公開した新しい動画「城野遺跡実録80分」を添付していますので、ぜひご覧ください。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2009年~2011年に北九州市小倉南区の城野医療刑務所跡地の発掘調査で発見された弥生時代後期(1800年前/邪馬台国時代)の城野遺跡。九州最大級の方形周溝墓と水銀朱(中国産)がたっぷりと塗られた幼児の箱式石棺2基、石棺に描かれた「方相氏」ともいわれる絵画文様、九州2例目の玉作り工房などが見つかり、日本考古学協会が発見当時から国県市に3回も「現状を保存し、史跡として整備・活用を求める」要望書を提出するなど、学術上極めて重要な遺跡です。そして、2020年3月、方形周溝墓は「地域の有力者
「城野遺跡公園を実現する会」(以下「実現する会」)は、2014年9月に活動開始した「城野遺跡の現地保存をすすめる会」(以下「すすめる会」)を引き継ぎ、2018年2月12日に発足しました。「すすめる会」「実現する会」の7年8ヵ月にわたる城野遺跡の保存運動を通して、城野遺跡の全滅を阻み、九州最大級の方形周溝墓の現地が保存され、福岡県史跡に指定後、遺跡公園として整備されたことは大きな成果ですが、4/26にオープンした「城野遺跡公園」は広さもその内容も発掘調査の担当者、考古学の専門家、私たち市民の
2009年~2011年の広大な城野医療刑務所跡地の発掘調査で発見された弥生時代後期(1800年前/邪馬台国時代)の城野遺跡。かろうじて現地が保存された方形周溝墓が「福岡県指定史跡/城野遺跡公園」としてオープンしました!発見当時、全国的に注目され、現地見学会には約600名が参加し、北橋健治市長も視察し、日本本考古学協会や九州考古学会も国県市に「現状保存し、史跡として整備・活用」を求める要望書を出すほど、学術上極めて重要な遺跡でした。北九州市は国(財務省)と2年にわたり保存交渉をしました
今日は“節分”ですね。実は、城野遺跡は日本における節分の始まりを400年早めるとも言われています。それは、城野遺跡の九州最大級の方形周溝墓で発見された幼児の箱式石棺に描かれた絵画文様が「方相氏」の可能性があるからです。手に盾と矛をもつ四ツ目の「方相氏」は古代中国の「周礼」に登場する悪霊払いをする役人で、日本では節分の鬼やらい(追儺)となり、京都の吉田神社の節分祭の鬼は「方相氏」の姿を今に残しています。※最後に掲載している発見当時の朝日新聞一面の記事をご参照ください。さて、1月23日、九州
今晩は、今回は、邪馬台国が九州にあったと解説されている、長浜浩明さんの理論を紹介します。まずは、動画を確認下さい。元祖「邪馬台国はどこにあったのか?」を解説して頂いたよ[三橋TV第179回]三橋貴明・長浜浩明・高家望愛三橋貴明の新刊本【知識ゼロからのMMT入門】今回ご紹介する書籍の中では、なぜ日本にとってMMTが救世主なのか?なぜ9割の国民がお金を間違ったまま認識しているのか?なぜ消費増税しなくてもいいのか?など、今話題のMMTについて三橋貴明が徹底的に解説を行っています。今こそ、TVやニュ
城野遺跡/帰ってきた弥生人-城野遺跡発見の一部始終をたどる-第3章注目すべき事実⑤“水銀朱の入手先”前回のブログでは、城野遺跡の二つの石棺内に撒かれた水銀朱の量が、今まで日本でみつかっている墳墓の中でも群を抜いて大量であることを述べました。朱の採取と分析を行った九州国立博物館の志賀智史さんは、その後別の角度からさらに研究を進め、それらが中国産の水銀朱であることを突きとめました。「硫黄(いおう)同位体分析」とよばれるこの分析方法は、朱に含まれる元素のひとつである硫黄の4つの同位体
九州最北端にあり、古くから交通の要衝として、また大陸からの文物交流の門戸として栄えた北九州市では数多くの弥生遺跡が発見されています。2009年~2011年の城野医療刑務所跡地の発掘調査で発見された城野遺跡は、弥生時代後期(1800年前/邪馬台国時代)の学術上重要な遺構や遺物が次々と発見され、当時、多くの専門家が現地を訪れ、マスコミでも大きく取り上げられ、現地見学会には600名近くの参加があり、全国的に注目された遺跡です。残念ながら、ほぼ全域が開発により消滅しましたが、九州最大級の方形
城野遺跡/帰ってきた弥生人-城野遺跡発見の一部始終をたどる-第3章注目すべき事実④“あふれる鎮魂の赤”このブログの19回(連載19)では、城野遺跡の二つの石棺に塗り込められた赤色顔料について、それが酸化第二鉄からなる「ベンガラ」であるのか、硫化水銀を主成分とする鉱物の「辰砂」であるのかを明らかにせずに、私の直感で「水銀朱」「朱」と呼んだことだけを述べました(写真1)。今日はその真相について詳しくお話しすることにします。【写真1】城野遺跡の方形周溝墓で見つかった箱式石棺墓二つ
城野遺跡/帰ってきた弥生人-城野遺跡発見の一部始終をたどる-第3章注目すべき事実①“墓づくりの真相”これまで、城野遺跡の発掘調査開始の様子から、見つかった遺構や遺物について色々とご紹介してきました。弥生時代終わり頃、ちょうど邪馬台国の女王卑弥呼が生きた時代の城野ムラが、この地域でどのようにして発展してきたのか、ムラびとたちの暮らしぶりや死者に対する思いにも想像を交えて述べてきましたが、ここでは再度、注目すべき発掘成果とそれに対する私の考え方をまとめておきたいと思います。城野遺跡
城野遺跡/帰ってきた弥生人-城野遺跡発見の一部始終をたどる-第2章発掘調査の内容⑳“方形周溝墓はこうして築かれた!”では、二人の幼子(おさなご)を埋葬した方形周溝墓はどのようにして作られたのでしょうか。先日ファイルを整理していたら、発掘調査時に描いたスケッチ図が出てきました(図1、2)。この図は、二つの石棺が同時に築かれたと仮定して描いているので、実際は書き改めないといけないわけですが、当時私が頭の中で整理した築造過程を順番に記しています。今回のブログで、説明不足分を活字で追加
城野遺跡/帰ってきた弥生人-城野遺跡発見の一部始終をたどる-第2章発掘調査の内容⑲“あふれるほどの水銀朱は何を意味するのか”方相氏の話題は一旦おき、城野遺跡の方形周溝墓がどれほどすごいのかここで整理しておきたいと思います。二つの石棺、蓋を開ける前にはこれほどとは予測できませんでしたが(写真1a)、蓋を開けてみつかった水銀朱の量は尋常ではありません(写真1b)。私の試算では、水銀朱の厚さ(写真2)からその体積を求め比重をかけ合わせると、南棺にはおよそ31kg、北棺にはおよそ39k
城野遺跡/帰ってきた弥生人-城野遺跡発見の一部始終をたどる-第2章発掘調査の内容⑱“石棺木口石の表面に何かが…”二つ並んだ石棺のうち、南棺頭位側の木口石(こぐちいし)付近の土を除去する作業を行っていたとき、なにやら細い線が何本か、左から右に走っているのに気づきました(写真1)。もちろん調査担当者も、他の調査員もすでに認識していたようです。【写真1】木口石に現れた線画赤い水銀朱で引かれたような線が数本確認できる。発掘時に付いたのなら、赤い線にはならないはず。私は、その
帰ってきた弥生人-城野遺跡発見の一部始終をたどる-第2章発掘調査の内容⑰“死者を送るということ”二つ並んで見つかった石棺はよく見ると、その方向が微妙にずれています(写真1)。通常二つの石棺を同時に築くときは方位を合わせるのが自然です。たとえが不適切かもしれませんが、私たちが家具を置いたり、ふとんを敷いたりするときに方向を合わせますよね。壁に沿わせるとか畳の目にあわせるとか……。しかし二つの石棺は平行ではなく、やや斜めになっているのです。【写真1】二つの石棺並んではいるが、軸が
帰ってきた弥生人-城野遺跡発見の一部始終をたどる-第2章発掘調査の内容⑯“飛び込んできた赤い世界”かれこれ2時間ほど経ったあと調査現場に戻ると、石棺の蓋石は両方とも開けられ、中に流入した土を丁寧に掘っている最中でした。バッテリーの充電もしてくれていたので、私は準備をするとあわてて外に出ていき、石棺のそばで取材を受けている調査担当者の話を聞いたり、他の取材記者たちの動き、そして発掘調査の様子を観察していました。石棺の蓋石は調査区の端の方にクレーンで吊り下ろされ、渡した2本の丸太の
帰ってきた弥生人-城野遺跡発見の一部始終をたどる-第2章発掘調査の内容⑮“方形周溝墓(ほうけいしゅうこうぼ)の発見”2009年6月に城野遺跡の発掘調査が開始されて約5カ月が過ぎた頃、私の隣りの調査区は色めき立ち始めました。大きな長方形の土坑(墓坑(ぼこう))を掘り下げていくと、二つの箱式石棺(はこしきせっかん)らしき遺構が並んで見つかったからです。しかも、それぞれが蓋石(ふたいし)でふさがれており、粘土で目張りまでされています。さらには、この箱式石棺を守るかのようにコの字
帰ってきた弥生人-城野遺跡発見の一部始終をたどる-第2章発掘調査の内容⑭“泥まみれのたからもの”城野遺跡の玉作りはどうようにして行われていたのでしょうか。まずは精密さを要求される作業なので、それに携わる人々(技術者)はムラの中でも手先が器用、根気強い、丁寧でまじめな性格、目が良いなどの条件をクリアした人が選ばれたに違いありません。彼らは城野ブランドの使命を負って日々玉作りに精を出したと思われます。彼らが作った玉は水晶製算盤玉(すいしょうせいそろばんだま)と切子(きりこ)玉、碧