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YouTubeで「邪馬台国を熊本に想定した場合、邪馬台国に対抗できるだけの国力を備えた狗奴国(くなこく)をどこに想定するのでしょう?」という主旨のご質問をいただきました。この機会に、「狗奴国はどんな国だったのだろう」ということについて少しまとめておこうと思います。『日本書紀「神代」の真実』の中でも少し考察したのですが、狗奴国は実はそれほどの脅威ではなかったのではないかということについてです。邪馬台国を研究されている方々の中では狗奴国はけっこう人気があり、狗奴国が後に邪馬台国を攻め滅
前々回の記事で丹波の千歳車塚古墳について書いた流れで、手元にあった今城塚古代歴史館平成30年春季特別展の図録『古代の日本海文化―太邇波(たにわ)の古墳時代―』を開いていました。そこに、広峯(ひろみね)15号墳から出土した景初四年銘盤龍鏡(けいしょよねんめいばんりゅうきょう)が大きく載っていたので「景初四年」に思いが飛びました。【景初四年銘盤龍鏡】上記『古代の日本海文化―太邇波の古墳時代―』より転載【部分拡大図】「景初四年五月」の文字が読めます広峯15号墳は京都府福知山市
邪馬台国とヤマト王権の関連性を探って、日本のはじまりを知るためには、ヤマト王権が誕生したのがいつかを知る必要があります。ところが、ヤマト王権の誕生時期については、まだ結論が出ていないといってよい状況だと思います。一方、邪馬台国の存在した時期はある程度確定しています。「魏志倭人伝」の記述を信じるなら、2世紀後葉から3世紀半ばはほぼ確実です。『日本書紀』神功皇后紀が引用する「晋起居注」が語る266年の倭女王(壹与と思われる)の朝貢記事を信じるなら3世紀後半まで存在したことになります。
少し前に、〔「魏志倭人伝」を全文現代語訳してみる〈1〉帯方郡から伊都国まで〕を書いた時に、帯方郡(たいほうぐん)から狗邪韓国(くやかんこく)への行程は観念的なものではないか、という考えを述べました。それについて、もう少し踏み込んだ考察をしてみたいと思います。対象となる「魏志倭人伝」の記述は、図表1の黄色い網かけ部分です。◆図表1帯方郡から狗邪韓国への行程記事一般的な訳では次のようになります。(訳)郡より倭に至るには、海岸に循(したが)って水行し、韓国を歴(へ)て、
『三国志』「魏志倭人伝」の描く倭地の世界観を読み解くには、3つの重要なワードがあります。ただし、これは私の主観的な判断ですので、当然異論もあると思います。本ブログをはじめて約3年、邪馬台国熊本説にたどり着いた考証経緯をいろいろと述べてきました。その内容ともダブりますが、今回はその3つのワードをまとめておきたいと思います。重要ワード1【道里(どうり)】『三国志』撰者の陳寿(ちんじゅ)は、帯方郡から狗邪韓国、対馬国、一大国、末盧国、伊都国、奴国、不彌国、投馬国を経由して邪馬台国に
景初二年(238年)、公孫氏滅亡と同時に卑弥呼が魏に使いを送ります。難升米(漢字の読み不詳:仮に「なしめ」とします)を代表とする一行です。それに応える使節として、魏の皇帝から下賜される金印紫綬(きんいんしじゅ)や様々な物品を携えて、正始元年(240年)に建中校尉(けんちゅうこうい)という役職だった梯儁(ていしゅん)の一行が倭国にやってきます。そして、その時の来倭の報告書が、『三国志』「魏志倭人伝」の原史料になっていると考えられています。私はその報告書に倭国の地図、邪馬台国の都ま
今回は、『三国志』「魏志倭人伝」の伊都国に関する記事にあらわれる「世有王皆統属女王国」の読み方について、自説をまとめてみたいと思います(なお、これについては拙著『邪馬台国は熊本にあった!』の中でも触れています)。まず、上記文を含む伊都国記事の全文は以下のようになっています。東南陸行五百里到伊都国官曰爾支副曰泄謨觚柄渠觚有千余戸世有王皆統属女王国郡使往来常所駐(訳:今回の考察対象文を除く)(末盧国(まつらこく)から)東南へ500里陸行すると伊都国(いとこく)へ到着する
***【お知らせ】************************総合オピニオンサイト「iRONNA」に論文が掲載されました。タイトルは〈「邪馬台国は熊本にあった」魏の使者のルートが示す決定的根拠〉です。ぜひ、本ブログとあわせてお読みください。*********************************先日、『甦る三国志「魏志倭人伝」』(彩流社/2012年)の著者である中島信文氏とお会いする機会がありました。拙著『邪馬台国は熊本にあった!』の中で、ご著書から一部引用させてい
地図は非常に便利なものです。A地点とB地点との位置関係をひと目でみせてくれます。たとえば、私たちがある施設へ行こうとするときにホームページでみる施設へのアクセス案内は、地図と「○○駅から徒歩○分」という文言がセットになっていることが多いですが、おかげで道に迷うことなく目的地に着くことができます。ところが、ここで地図が表示されなくなったとしたらどうでしょうか。「○○駅から徒歩○分」だけでは目的の施設へたどり着くことは不可能です。私は、邪馬台国への行程記述が混乱をきたしているのは、それ
邪馬台国論争の最大の原因として、投馬国(とうまこく)から邪馬台国への行程記述が「水行(すいこう)十日陸行(りっこう)一月」と日数表記となっていることがあげられます。また、そのひとつ前の不彌国(ふみこく)から投馬国への記述も同様に「水行二十日」と日数表記になっています。この日数で表された「水行十日陸行一月」「水行二十日」をどのようにみればよいのでしょうか。今回はそれについて考えたいと思います。*本ブログは9月16日に行われた全国邪馬台国連絡協議会主催「討論型研究発表会」での発表論旨をまと