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ヘルンと私小泉時恒文社小泉八雲の孫の雑文集。孫ともなると、本人との接点も少なく、八雲理解には役立たなかった。子孫が抱える様々な問題、社会的な影響を知ることは出来た。それを通して、八雲の奇怪な人生を垣間見た気がする。八雲を通して日本を理解した人は多い。彼らを通して横浜グランドホテル、進駐軍軍人との交流が始まる。これが子孫の人生に少なからず影響した。このほか遺稿の処置の話も興味深く読めた。散逸していく過程が何となく分かった。
もうどれくらい前の事でしょう「飛鳥へそしてまだ見ぬ子へ」と言う映画を見ました若くして病に倒れこの世を去った医師井村和清先生の遺稿を映画化した作品です井村先生役は名高達郎さん奥様役は竹下景子さんまだ1歳半だったお嬢さんと身重だった奥様との別れの日々が沖縄や富山の美しい風景と共に描かれておりその切なさに号泣したのを覚えていますこの映画がお涙頂戴ではなく井村先生の医師として人としての愛を強く訴えていたように思います映画になる前もその後も原作本は何度も何度も読みました自分が
マネーのまなびの水先案内人追悼・大江英樹氏の遺稿-日本経済新聞(nikkei.com)日本経済新聞に今年の元日に逝去された経済コラムニスト大江英樹さんの未完成の遺稿が掲載されていました。私は以前、福祉関係の仕事をしていたときに「人間、死にざまが生きざま」という言葉をよく耳にしました。この言葉は、聞いた人によって受け止め方が違ってくると思うのですが、この言葉を口にする人の気持ちは大きく違わないと思います。死ぬ、その瞬間まで人として生きるということ。大
いきぎれ【息切れ】大金を置き忘れて降りたタクシーを一キロ追いかけた時の呼吸の状態。イギリス【England】ダイエー帝国。いくじなし【意気地なし】女が唇を突き出しているのに頬にキスするやつ。いくどうおん【異口同音】「イッキ」「イッキ「イッキ」いさぎよい【潔い】悪事がばれると同時に辞職し、糾弾や非難を避けること。
詩やエッセイも集められているので図書館から借りてきてー日常の事が楽しく読めるエッセイ。家族がいたのですかーなのに、若くしての自死、、作家で居ること、作品を書くことの孤独?時代?妻が描いた「いつも背中をみせている」、、遺稿「星と蜜」、読んだ中で一番ライトな作品か?陰口をする、される人もいて平穏な環境ではなかったけれど、結婚式で帰郷した3日間が輝いています。佐藤泰志作品集Amazon(アマゾン)2,800〜9,075円
【問題】香川正矩の遺稿を次男・景継が集成して刊行した、江戸時代の軍記物とは次のうちどれか?【選択肢】『加沢記』『勢州兵乱記』『南海治乱記』『陰徳太平記』【正解】『陰徳太平記』【解説】『陰徳太平記』は、戦国期を舞台とした軍記物語で、岩国吉川氏の家臣・香川景継(尭真)が、正徳2年(1712)に刊行した。毛利氏の西日本制覇を中心に書かれている。
【石原慎太郎:遠い夢】以下は、最晩年の石原慎太郎の遺稿「遠い夢」からの一部抜粋。「湘南に入ってこれからどうするの、だってもう海軍なんて無くなるんでしょ。よかったわ。あなたはとにかく無駄死になんてことはしないんでしょう。それだけでも私はいいわ」言うと彼女は立ち止まり確かめるように私を見上げてきた。「だって何時か私あなたと二人してあの建物に行かされてあのお骨の箱の中に実は紙切れ一枚しか入ってないんだと聞かされた時、私がもしあなたのお嫁さんだったらどうしたらいいだろ
敗戦直前の夏、7月。恩師の教授から「恐ろしく優秀」と感嘆された林尹夫は、四国沖で20年の生涯を閉じた。京大文学部の学生だった彼は、1943年学徒動員により海軍に入営。その前後に書きつづられた日記は、友人らによって密かに保存され、20数年を経て「わがいのち月明に燃ゆ」というタイトルで出版された。本来なら青春真っ只中であるはずの謳歌すべき日々を、「我々の将来にあるものはおそらく幻滅だろう。このような結果を予想しつつ、そして十年百年の前途を見るのでなく、それから全然目を離し、ただ一瞬
CCLとAPのクリアタイプを組み合わせてすっかり春な指先に🦋このCCLほんとにしっかり乗っていてストレスがありませんもちも良くて優秀😚暖かくなってきたし地爪のケアも怠らないようにしないとなガングリオン摘出後の治癒はまだまだ完全ではなくヘパーデン結節にいたっては先が全く見えません😓文藝春秋の慎太郎さんの遺稿でも読もうかないつかは沈む太陽だからか…
一昨日届いた本。半藤一利『戦争というもの』(PHP研究所)。半藤一利『戦争というもの』(PHP研究所)この本は今年1月に亡くなった半藤一利さんが,2020年7月から『歴史街道』に連載した「開戦から80年―『名言』で読み解く太平洋戦争」という連載を加筆・修正したものだそうです。ハードカバーの表紙を開けると,いきなり彼の直筆のメッセージが飛び込んできます。「あとがき」の最後にも別のメッセージが…。「戦争の残虐さ,空しさに,どんな衝撃を受けたとしても,
八木没後の遺族、昭和11年(1936年)登美子夫人(31歳・1905-1999、享年94歳)、長女桃子(女学校1年生・1923-1937)、長男陽二(小学6年生・1925-1940)八木重吉・明治31年(1898年)2月9日生~昭和2年(1927年)10月26日没(享年29歳)幼児の頃の桃子・陽二姉弟女学校進級時の桃子(翌年結核にて逝去、享年14歳)中学生の頃の陽二(4年生時結核にて逝去、享年15歳)「ノオトE」(大正15年/昭和元年)12月より、或る夜の夢モーーモーーコ
八木没後の遺族、昭和2年(1927年)登美子夫人(22歳、1905-1999、享年94歳)、長女桃子(4歳半、1923-1937、享年14歳)、長男陽二(2歳半、1925-1940、享年15歳)、登美子の母イト、八木重吉・明治31年(1898年)2月9日生~昭和2年(1927年)10月26日没(享年29歳)婚約申し込みの時の見合い写真、大正10年(1921年)、23歳婚約式、大正11年(1922年1月)、八木23歳、登美子夫人16歳、後列左から島田慶治(登美子兄)、媒酌人
昨日はカフカの命日でした。こういうツーイトをしました。今日はカフカの命日です…。🌼「花瓶に押し込められている、そのいちばん下の花が苦しまないよう、気をつけなくては。どうすればいいだろう」(会話メモ)亡くなる前、もう口を聞くことも難しくなっていたカフカが、病室に飾られた花を心配して書いたメモです……pic.twitter.com/DUxD9SwWAW—頭木弘樹📕UC新刊『ひきこもり図書館』『食べることと出すこと』4刷御礼キノベス!7位(@kafka_kash
手塚治虫の遺稿をもとに、桜庭一樹さんがその内容を膨らませたこの小説。遺稿、というのは原稿用紙2枚と5行、序章と第一章だったそうで。。火の鳥はとりあえず一通り漫画で読んだものとしては、新作?も読まずにはおられない。とりあえず、と書いたくらいなんで、そんな熱烈なファンでもなかったので、記憶はぼんやりしているけれど。この小説は、日清戦争から満州事変、大東亜戦争の時代、中国大陸が舞台。火の鳥の首をめぐって、時間旅行?を何度もしてしまう登場人物たち。日本、中国、古代の楼蘭か
八木重吉・明治31年(1898年)2月9日生~昭和2年(1927年)10月26日没(享年29歳)大正13(1924)年5月25日、長女桃子満1歳誕生日に。重吉26歳、妻とみ子19歳今回は全102篇を収める手稿小詩集「野火」(大正15年1月4日編)から、前回ご紹介した前半51編に続く、後半51篇をご紹介します。大正15年(1926年)1月4日編とは八木自身が手稿詩集に記載した日付ですが、必ずしも収録詩篇が「大正14年11月22日編」と記載のある前手稿詩集「晩秋」から大正15年1月4日まで
八木重吉・明治31年(1898年)2月9日生~昭和2年(1927年)10月26日没(享年29歳)長女桃子満1歳の誕生日に。重吉26歳、妻とみ子19歳八木重吉没後55年を経た昭和57年(1982年)に初めて刊行された全三巻の『八木重吉全集』によってようやく八木の残した詩の全貌が詳細な書誌とともに明らかにされましたが、昭和2年(1927年)10月の逝去の半年前の同年春に病床で編集され、出版は没後4か月後の昭和3年(1928年)2月になった八木重吉の第二詩集『貧しき信徒』は生前発表詩篇を中心に
八木重吉・明治31年(1898年)2月9日生~昭和2年(1927年)10月26日没(享年29歳)長女桃子満1歳の誕生日に。重吉26歳、妻とみ子19歳第一詩集『秋の瞳』編纂完了後に始まる晩年2年間の八木重吉の手稿は小詩集(病床ノオトを含んで)32冊分になり、これに1~32と番号を振ると、小詩集25、26は未整理分で、32は生前発表された詩篇中小詩集に出典がないもので、総数では確認されただけでも1,215篇(小詩集17は全篇重複により除外)に上ります。そのうち生前発表詩にも『貧しき信徒』にも
八木重吉・明治31年(1898年)2月9日生~昭和2年(1927年)10月26日没(享年29歳)(手稿小詩集「ことば(大正14年6月7日)」より〈あかんぼもよびな〉直筆稿)これまで八木重吉の第二詩集にして、晩年の病床で編まれ、刊行は八木逝去4か月後になった遺稿詩集『貧しき信徒』の成立過程を見てきましたが、逝去半年前に病床で一応の編纂が終えられ、八木自身による装丁デザインも添えられた第二詩集『貧しき信徒』は生前発表詩篇を中心に編纂されており、発表の分布は、・大正14年(1925年)4
それこそ時代が違って、母や夫は「どくとるマンボウ」は読んでいます。私は全く。。北杜夫さんの作品で唯一読んだのは『木霊』。しかし内容は霧の彼方霧といえば、『夜と霧の隅で』で芥川賞受賞しているのですね。知りませんでした。『夜と霧の隅で』があの作品に関係あることも今知りました。これも読まなければ。またこの本では結構なページを使い『ヴェニスに死す』について語っています。そして、映画と原作があまりにも違う、それも、大変重要な真髄のような場所が割愛されているということを知りました。原作を読んでみた
八木重吉・明治31年(1898年)2月9日生~昭和2年(1927年)10月26日没(享年29歳)八木重吉の第一詩集『秋の瞳』(大正14年=1925年8月1日刊)は大正10年(1921年)春以来の3年間の詩稿をまとめた大正12年(1923年)1月~大正14年(1925年)3月までの小詩集40冊=1,455篇から選出されており、一篇も『秋の瞳』に選ばなかった14冊=641篇を対象外としても26冊=814篇から97篇を選択し、書き下ろしと見られる初稿不詳詩篇20篇を加えた詩集でした。また、病床で
八木重吉詩集『秋の瞳』大正14年(1925年)8月1日・新潮社刊八木重吉詩集『貧しき信徒』昭和3年(1928年)2月20日・野菊社刊八木重吉・明治31年(1898年)2月9日生~昭和2年(1927年)10月26日没(享年29歳)この八木重吉の第2詩集『貧しき信徒』の前に、第1詩集『秋の瞳』をご紹介して読んでいった際に、同詩集の内容を三種に分けてみて、収録詩編全117篇は、●(a)生活詩・心境詩(詩的表現が断片的に過ぎ、生活報告や心境告白に留まる断篇)……40篇●(b)箴言詩(警
青森のFさんから「大人のお菓子」、弟子5から煙草のお供えがありました。早速ふたりの前にお供えしました。写真の顔が嬉しそうです。【遺稿整理】片づけ作業中の室。自筆の手紙等。ブログ。2008年~すべてとってありました。浄蓮先生の一周忌を終え、3月に入ってから先生の遺稿の片づけを始めました。ブログや自筆の手紙など、ファイル40冊分と段ボール箱3箱分ありました。一応、目を通して残すものを決めました。ブログはなつかしい写真や出来事などが書か
八木重吉・明治31年(1898年)2月9日生~昭和2年(1927年)10月26日没(享年29歳)八木重吉詩集『貧しき信徒』昭和3年(1928年)2月20日・野菊社刊この八木重吉詩集の読解はあまりに書誌面の紹介に拘泥しているように見えるかもしれません。しかし八木のように生前あまりに詩人として世にでていた期間の短かく、自作解説や詩論を残さなかった詩人は、判明している作詩年表、発表形態を調べる以外に八木自身の創作過程と詩作意識を知る手段はないのです。逝去半年前に病床で編集され、出版は没後4か
八木重吉・明治31年(1898年)2月9日生~昭和2年(1927年)10月26日没(享年29歳)長女桃子満1歳の誕生日に。重吉26歳、妻とみ子19歳八木重吉の第一詩集『秋の瞳』全117篇(大正14年=1925年8月1日新潮社刊)が作者手控えの、大正10年春以来の詩稿をまとめた大正12年(1923年)1月~大正14年(1925年)3月までの小詩集40冊=1,455篇の中から、1篇も『秋の瞳』に選ばなかった14冊=641篇を対象外としても26冊=814篇から97篇を選択し、書き下ろしと見られ
八木重吉・明治31年(1898年)2月9日生~昭和2年(1927年)10月26日没(享年29歳)東京府南多摩郡堺村(現東京都町田市)生まれの英語教師・無教会派キリスト教徒の詩人、八木重吉(1898年=明治31年2月9日生、1927年=昭和2年10月26日没、享年29歳8か月)の第一詩集『秋の瞳』(1925年=大正14年8月1日・新潮社刊)については前回まで20回に渡りご紹介しました。八木の生前刊行の詩集は『秋の瞳』だけに終わりましたが、八木は晩年1年半に渡る闘病生活中に『秋の瞳』編集完了の
【奇跡の本屋をつくりたいくすみ書房のオヤジが残したもの】著者:久住邦晴出版社:ミシマ社ISBN:9784909394125頁数:208頁<作品紹介>「なぜだ⁉︎売れない文庫フェア」「中高生はこれを読め!」「ソクラテスのカフェ」……ユニークな企画を次々と生み出し、地元はもちろん、遠方からも愛された札幌・くすみ書房の店主。閉店後、病が発覚し、2017年8月末、他界。その著者の遺稿を完全収録。生前、久住さんと親交の深かった中島岳志さん(東京工業大学教授)が解説を担当。くすみ