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【小野妹子を「大唐」へ派遣】『日本書紀』推古十五年秋七月条には、「大禮小野臣妹子遣於大唐」と記されている。遣隋使を派遣した時の記事である。日本古典文学大系『日本書紀』では、この文中の「大唐」に「事実は隋」と注を加えている。日本の子供たちは皆義務教育で「最初の遣隋使は小野妹子」と習う。しかし日本書紀には隋ではなく「大唐」と記されているので、歴史教育は言い訳から始めなければならないのが現状である。【『日本書紀』と旧・新唐書の食い違い】小野妹子派遣の約20年後の舒明二年、今度は正
668.ワカメには海の恵みの力あり海の向こうのお袋の味2月6日、筆者は初めて生ワカメを買った。1㎏で200円と安かったからだ。何故初めてなのか。ワカメ・レシピが味噌汁だけで、ワカメに旬(2-5月)があることを知らなかったからだ。量が多いので葉の部分は2種類の和え物にし、茎は糸こんにゃくと炒めた。残りを熱湯にサッとくぐらせてから保存した。歯ごたえが生と変わらないのが不思議。2月10日、NHKラジオ第一がワカメを話題にした1。韓国KBS放送の金さんがワカメスープ(ミヨックッ)を紹
どうも、美月でございます🙇今回はヲタクブログではなく旅行ブログになります✎長崎県五島市福江島へ行ってきました🛬朝ドラ「舞いあがれ!」の舞台になった所ですね!…観てはなかったので詳しくないですが😓行く場所行く場所ポスターやらサインやらがあってファンにとってはまさに聖地でした!福江島は五島列島の中で一番大きな島で、飛行機かフェリーかのルートで行くことができます私は飛行機ルートで行ってきました!東京から行く場合、五島福江空港への直通便はないので福岡空港を経由して飛行機を乗り継いで行きま
【倭国と日本国が書き分けられた旧唐書】旧唐書では、倭国と日本国が書き分けられている。旧唐書に記された7世紀の遣唐使は倭国から派遣されたのか、日本国から派遣されたのか。明確になっている。貞観五年(631)の遣唐使と貞観二十二年(648)の新羅経由の上表文は倭国から発せられた。このふたつは倭国伝に記されている。日本国伝には、倭国から日本国へ国号が変わったいきさつ、小国日本が倭国を併合したことと、日本国の領域が記されているが、このことを語った日本国からの遣唐使がやってきた
【7世紀遣唐使の派遣回数】7世紀の間に派遣された遣唐使は、日本書紀では、舒明2年(630)8月、白雉4年(653)5月、白雉5年(654)2月、斉明5年(659)7月、天智4年(665)是歳、天智8年(669)是歳、合計6回、旧唐書では貞観五年、二十二年(新羅に附して上表)、日本国からの使者1回、計2+1回新唐書では貞観五年、二十二年(新羅に附して上表)、永徽(650~655)の初め、明くる年、咸亨元年(670)、合計4+1回【第一回遣唐使】舒明二年八月に出発した遣唐
【倭国と日本国に関する記述】旧唐書は倭国伝と日本伝が書き分けられている。中国の正史に「日本」という言葉が出てくる最初だろう。旧唐書(945年成立)より100年以上後に記された新唐書(1060年成立)には倭国伝はなく「日本」という言葉に統一されている。8世紀以降の遣唐使が日本書紀を伝えた時に、「倭国」も「日本国」も同じ国であることを主張して、天御中主に始まる皇統譜を解説したのであろう。岩波版『新訂旧唐書倭国日本伝』の解説に、「倭国と日本を併記するような不体裁」として旧唐書の認識
【旧唐書・新唐書の倭国と日本国】旧唐書倭国日本国伝、新唐書日本伝には,遣唐使の記事がかなり多く記されている。中国の正史では前代までに記された記事を踏襲し、唐書なら唐の時代の出来事を追加して記述していく。唐書の7世紀の記事は旧唐書も新唐書も、倭国からの、あるいは日本国からの遣唐使の記事ばかりである。【旧唐書倭国日本国伝の構成】旧唐書倭国伝は倭国の歴史・地理・政治・風俗などを描いた後、「貞観五年」という太宗の年号を記し、その年にやってきた倭国からの遣使について記している。唐は貞
【6回の遣唐使派遣:唐書との整合性など】日本書紀には6回の遣唐使派遣記事が記載されている。舒明二年(630)の遣唐使(第一回)は、唐の高表仁と共に帰国したことが旧唐書にも新唐書(高仁表と誤記?)にも記されているので、内容の正否はともかく、遣唐使派遣は行われたと考えてよいだろう。白雉四年(653)の遣唐使(第二回)は、旧唐書には記載がなく、新唐書に、「虎魄の大きさ斗の如く、瑪瑙の五升の器の若きを献ず。」と記されているが、使者についての言及がない。白雉五年(第三回)の遣唐使に
やばい俺たちの時代の教育ってさいろいろアプデしないとならないのに常識と思い込んだままの学識大杉ね???関大・日本史2月5日実施分に「菅原道真の建議で遣唐使が停止されると,それまで吸収した中国の文化の独自に発展させた国風文化が生まれた。」とある。大学入試でこのような文章がいまだに書かれるとは,なんとも悲しい。—塚原哲也(@tsukatetsu)February5,2024さらに,遣唐使は停止されていません。菅原道真の建議はありましたが,停止に関する協議は行われず
【薬師恵日の初出】大仁藥師惠日は、舒明2年(630)8月に発遣された第一回遣唐使の副使である。日本書紀での初出は、推古三十一年(623)七月条、「是時、大唐學問者僧惠齋・惠光・及醫惠日・福因等並從智洗爾等來之。」である。恵日が中国に渡った年月日はわかっていないが、隋から唐にかわるころ(唐の建国は618年)に中国大陸に滞在していたと考えられる。推古二十二年(614)六月隋に遣わされた犬上御田鍬・矢田部造を筆頭とする一行の一員だった可能性が高い。9年間滞在し隋から唐への支配体
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大阪遠征続き行きたかった住吉さんです来たかった訳は他にもありますすみっこ兎のお守りが欲しくてε=ε=(ノ≧∇≦)ノ前の二人撮ったように見えるけど知らない人です混んでいるので知らない人だいたい写ります狛犬さん、大きくてりっぱです遣唐使進発の地?なんか、屏風みたいなやつ玉子せんべいって初めて見ました静岡では、見かけませんメジャーなの?この、階段になってる橋渡りたかったんですよε=ε=(ノ≧∇≦)ノ兎さんこれ、ぴょんさんのブログで見た御神木なんか、朽ちていても
京都のくぼちゃんです。私は、奈良県と京都府の県境の精華町に住んでいます。昨年11月、「自転車さんぽ~晩秋編~」で平城宮跡を訪れ、南方にある平城宮の正門「朱雀門」を折り返すコースをご紹介しました。今回は、その朱雀門前の広場についてお話しします。世界遺産の中でも、特に平城宮跡ならではの魅力が2つあると奈良文化財研究所の岩戸明子先生は、おっしゃっています。1つ目は遺跡の残り具合が世界でも隋一というほどに良いこと。2つ目は官僚制度や文書行政など平城宮の時代に形作られた国としての体制やシステムが現
福岡城天守台に立った僕、小雨の中を「鴻臚館」(こうろかん)へ足を伸ばす。古代の外交最前線となった場所だ。7世紀後半に設置され、1987年に遺構を発見。瓦ぶきの建物が軒を連ね、朝廷の威光を知らしめていたという。その片鱗がうかがえる資料館へ。大規模な遺構、僕はそのスケールに驚嘆する。出土した水差しや壺、椀も展示。大きな瓦から建物の壮大さもうかがえる。文字がくっきり読める竹簡も。大陸との交流の証(あかし)だろう。小雨のせいか、マイナーなスポットのせいか、ほとんど
【日本書紀に記された六回の遣唐使記事】これまで見てきたように、日本書紀によると、7世紀の遣唐使は計6回派遣されている。第一回遣唐使:舒明二年(630)八月~舒明四年(632)八月旧唐書倭国伝、新唐書日本伝にも記載あり。高表仁登場第二回遣唐使:白雉四年(653)五月~白雉五年(654)七月第四回遣唐使と派遣隊の規模や遭難状況が酷似している。第三回遣唐使:白雉五年(654)二月~斉明元年(655)八月二回と三回は派遣時期が重なっている旧唐
【第六回遣唐使:天智8年(669)~?】天智八年(669)是歲、遣小錦中河內直鯨等、使於大唐。小錦中河內直鯨の冠位「小錦中」は遣唐大使にふさわしい。律令の五位に相当する。帰国記事は記されていないが、十年三月条の「黃書造本實が水臬(みずばかり)を献上した。」の記事が遣唐使帰国をあらわしているとする見解がある。【新唐書日本伝咸亨元年(670)の遣唐使】新唐書日本伝の「咸亨元年(670)、遣使賀平高麗。」に対応していると思われる。咸亨元年条は上記に続いて遣唐使が倭国と日本国に
作編曲家として、また指揮者としても活躍している福田洋介氏作曲の吹奏楽譜「平城海廊」。2010年、奈良県高等学校文化連盟委嘱作品として作曲されましたが、この度、ベルギーの出版社HafabraMusicより、出版開始となりました。奈良の都、平城京、平城遷都1300年に由来したテーマを基に作曲された作品です。ぜひご注目ください。平城海廊作曲:福田洋介グレード:5演奏時間:約8分55秒2010年、奈良県高等学校文化連盟委嘱作品。近畿高等学校総合文化祭の開会式において、吹奏楽部会代表
【第五回遣唐使:天智4年(665)~天智6年(667)】(天智紀四年)九月二十三日条、唐国は朝散大夫沂州司馬上柱國劉德高等を遣わす。(等と謂うのは、右戎衞郎將上柱國百濟禰軍・朝散大夫柱國郭務悰、凡二百五十四人のこと。七月廿八日に対馬に至り、九月廿日に筑紫に至、廿二日に表函を進呈した。)冬十月十二日、菟道で大閲を行った。十一月十三日、劉德高等を饗賜した。十二月十四日、劉德高等に賜物した。是月、劉德高等は帰国した。是歲、小錦守君大石等を大唐に遣わした、云々。(等というのは、小
昨日、ハイジャン男が訪れた和白干潟偶然にも、干潟から内陸を写真に撮ると、丘と丘の間にくっきりと脊振山が見えた。それを拡大すると、、。この迫力で脊振山が見える。脊振山は福岡市近郊で一番高い山である。1055mと唯一1000mを超える山である。ハイジャン男のブログには、何度も登場する脊振山である。『初脊振』ハイジャン男の通っていた中学の校歌の一番「南に聳ゆる脊振山気高き姿仰ぎつつ北に打ち寄す玄界の輝く歴史波頭〜」と続く。この脊振山の初景色を見たいと三宅本町より那…ameblo.jp詳し
奈良旅、平城京跡に来ました。復元された門や、遣唐使船など往時の姿が、古の都をイメージさせます。この北側を、近鉄電車が走ってます天平の船、こんな船で海を渡るのは大変だっただろうなあと思うこんな感じの人たちが並んでいたのかも⁈^_^、広大な敷地奈良は、京都と比べると少し地味な印象があり、一般的には土地は広いなあという気がします。続く
【伊吉連博德書などを引用】第四回遣唐使について、日本書紀は伊吉連博德書をそのまま引用する体裁をとっており、末尾に難波吉士男人書を添え書きのように引用しているが、両書の記述は矛盾がない。【第四回遣唐使の概要】斉明五年(659)七月三日、大使小錦下坂合部石布連の一団は第一船、副使大山下津守吉祥連の一団は第二船、二船に分かれて大阪湾(難波の三津之浦)を出発し瀬戸内海を筑紫に向かう。1か月余り後の八月十一日に筑紫大津之浦を出港し、玄海灘を朝鮮半島方面に向かい、九月十三日に百済南
【白雉五年二月条】(白雉五年)二月、大唐に遣わす押使大錦上高向史玄理(或本には、夏五月大唐に遣わす押使大花下高向玄理という)・大使小錦下河邊臣麻呂・副使大山下藥師惠日・判官大乙上書直麻呂・宮首阿彌陀(或本には、判官小山下書直麻呂という)・小乙上岡君宜・置始連大伯・小乙下中臣間人連老(老、これをオユという)・田邊史鳥等が二船に分乘した。数か月を経て、新羅道をとり于萊州に泊り、遂に京(長安)に到って天子に奉覲した。ここで東宮監門郭丈舉は、日本国の地里と国初の神名を質問してきたが、
何と、164,8㎞もの長さを誇る世界最長の橋ですか!!とてもかないませんね。歴史は繰り返す。何れ日本は、遣隋使、遣唐使のように中国の進んだ技術や物の考え方を学びに行く日が来るかもしれませんね。*●日本ラエリアン・ムーブメント**https://www.ufolove.jp**●無限堂出版**http://www.mugendo.co.jp/index.html*
【第一回遣唐使:日本書紀、旧唐書、新唐書】記録に残る最初の遣唐使は西暦631年に唐に到着している。日本書紀には、舒明二年(630)八月に出発したと記されている。大仁犬上君三田耜・大仁藥師惠日を筆頭とする一団だった。旧唐書倭国伝には、貞観五年(631)に倭国からの使者がやってきたとある。唐の皇帝太宗は役人を通して、遠方から来なければならないので毎年来るには及ばないと伝えたという。さらに倭国の使者が帰国するにあたり送使として高表仁を同行させたが、高表仁には遠方の国を気遣う能力に欠
今、日本に必要なのは、天神様!天神様とは、菅原道真公!菅原道真(すがわらのみちざね、承和12年6月25日〈845年8月1日〉-延喜3年2月25日〈903年3月26日〉)は、日本の平安時代の貴族、学者、漢詩人、政治家。参議・菅原是善の三男。官位は従二位・右大臣。贈正一位・太政大臣。忠臣として名高く、宇多天皇に重用されて、寛平の治を支えた一人であり、醍醐朝では右大臣にまで上り詰めたが、藤原時平の讒言(昌泰の変)により、大宰府へ大宰員外帥として左遷され現地で没した。死後は怨霊になり、清涼
伊藤浩士先生の小日本秘史・時々掲載予定第22回国号702年の遣唐使船が楚州の塩城県に漂着したときに、日本国の使いと言っても地元の役人に通じなかったという話があります。この使いは長安の都に行っても、どうして日本なのかといった質問を唐の役人たちからぶつけられますが、その答えは曖昧でした。日本人の得意な笑って誤魔化すといったことをやっていたようです。唐の役人たちは、日本は倭が名を変えたものか、日本なる国が以前からあって冊封を受けていた倭を滅ぼしたものなのかと質問するのですが、日
読むのに難儀しました。馴染みのない時代に中国の名前、役職遣隋使、遣唐使が学んだ国としての制度、しきたりが日本の基礎になっていたわけで、中国四千年の歴史は壮大。阿倍仲麻呂の30年ぶりの帰国の途にはハラハラ(帰れないのわかってるけど・・・)後半の大立ち回りや劇的な再会はエンタメっぽく盛り上がります。「国破れて山河あり・・・」あんなにつまらなかった漢文の授業やっと、こういうことだと腑に落ちました。
『1200年前に真言密教を開いた空海の足跡①』東寺の五重塔の初層内部には、空海が唐から持ち帰った密教による極彩色に彩られた空間が広がっており、重厚な外観からは想像もつかない荘厳な世界を垣間見ることができる…ameblo.jp1200年前に真言密教を開いた空海の足跡①からの続きです。平安京へ入京が勅許された後、空海は最澄と並び、平安京で、そして仏教界で、重要な地位を築いていきます。810年には、奈良仏教の一大拠点であった東大寺の第14代別当に抜擢されています。これは、平安京遷都により奈良の仏教
東寺の五重塔の初層内部には、空海が唐から持ち帰った密教による極彩色に彩られた空間が広がっており、重厚な外観からは想像もつかない荘厳な世界を垣間見ることができる。密教は仏教の一つであり、その教理は現代物理学の理論にも通じている。「特別拝観東寺の全て」の立て看板。「真言宗立教開宗1200年記念特別拝観東寺の全て」という特別展が2023年10月に開催されました。この特別展を見て、密教である真言宗を開いた空海という天才的な人物にあらためて興味を持ちました。彼は僧侶の枠を超えた特別な才能を持って
【3年を隔てた記事】七年七月条「栗前王を筑紫率に任命する。」と十年六月是月条「栗隈王を筑紫率とする。」筑紫率の任官記事はこの他にも八年正月条に「蘇我赤兄臣を筑紫率に任命する。」がある。天武紀上元年六月二十六日是時条に「筑紫大宰栗隈王」とあるので、七年七月条の「栗前王を筑紫率に任命する。」は重複記事で、栗隈王は蘇我赤兄の後任として十年六月に筑紫率に任官したとするのが順当。【7年を隔てた記事】三年二月九日条「天皇は大皇弟に命じて、冠位階名及び氏上・民部・家部等事の増換を宣言させ