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合戦イベント「甲州征伐」に関する最後の告知となります。本日は論功行賞と最低必要軍功についてお知らせします!さっそく見てみましょう。全参戦者参戦者全員に、協賛楽座特典「龍勢・竹筒水・袖印」の3点セットを贈呈!勝利軍勝利軍全員、家臣団コレクションで「松姫(信松尼)」の登用が可能に!軍功第一の部隊両軍通して軍功第一の部隊全員に、「10,000貫」を贈呈!軍功ランキング両軍軍功上位1~50位までの方へ、それぞれ所定の「大分銅金」他
いよいよ今週金曜日に迫った合戦イベント「甲州征伐」。今日は総攻撃と大手柄武将に関する発表です!スケジュールの発表時に、システムに大きな変更はないと書きました。ただ、今日発表の大手柄武将に関してはいつもと違う点がありますので、最後までよくお読みくださいませ。まずは総攻撃の回数から。総攻撃は、織田・武田両軍ともに2回ずつ予定されています。これまで通り、総攻撃は前もって部隊長によって予告されます。続いて大手柄武将について。織田軍の大手柄武将毛利長秀丹羽氏次金森長
今回も東美濃の山城漆原砦となります別名は「城山砦」「明照城」「阿寺砦」城主遠山友忠?先ずは「城山トンネル」西側から最近恵那市の定番」になってきた城址看板↓↓指示通り登ると↓に出ます墓地の脇を登ってくると↓↑横堀土塁からの↓竪堀上から覗いて↑下から見上げて↓堀切からの少しだけ竪堀↑を見あげると↓↓主郭北西側の堀切~~~と思いきや↓↑二重堀切となってました↓二重堀切の凸凹先は主郭↓二重堀切先の尾根は・・
明智秀満(60)「多聞院日記」『天正十年二月十四日一、過夜亥ノ初點大地震了。一、今夜初夜ノ時分丑刁ノ方大ヤケ也、何トモ不見分卅三間焼了。』天正10年(1582年)2月14日、織田軍先方本隊の信忠、一益が岩村城に入った。すると浅間山が大噴火を起こしたのである。その激しい地鳴りと噴火は美濃のみならず、京都からも観測できたという。川尻勢と対峙していた松尾城の小笠原信嶺は、「これは武田家が滅亡する前兆だ。勝頼は帝のみならず、天にまで見放されたのだ。」と
明智秀満(59)「信濃史蹟」『木曽方にては、新たに苗木の遠山父子が、加勢として加わりたるにより、衆皆勇気倍加、(中略)小木曽川に沿いて牧原に陣を布く。而して、苗木の遠山父子は遊軍として別動隊を率ゆ。』義昌の人質を殺害したことで、光秀は手筈通り、朝廷に正親町天皇の勅命を出してもらう。これに大義名分を得た信長は勝頼の討伐を決定した。信長の決定を受けて、いち早く苗木城の遠山友忠・友政父子は、木曽の援軍に入った。これまで単独で武田の遠征軍と戦っていた木曽勢は友忠の
明智秀満(57)「信長公記」『木曾義政忠節の事二月朔日、信州木曾義政、御身方の色を立てられ侯間、御人数出だされ侯様にと、苗木久兵衛、御調略の御使申すに付きて、三位中将信忠卿へ言上のところ、時日を移さず、平野勘右衛門を以て、信長公へ右の趣仰せ上げられ侯。然るところ、境目の御人数出だされ、人質執り固め、其の上、御出馬の旨、上意侯。即ち、苗木久兵衛父子、木曾と一手に相働き、義政の舎弟上松蔵人、人質として、まず進上候。御祝着なされ、菅屋九右衛門に預け置かれ候。』
明智秀満㊼「信濃史蹟下」『恰も、天正九年、織田信長甲信乱入の企てあり。木曽氏は武田氏の婚姻たるを以て、必ず入信の峡路を扼すべきを思い、先ず美濃国苗木の城主遠山久兵衛友政をして窃かに利害を脱かしむ。義昌遂に意を決して盟う所あり。』信濃国の木曽氏は源(木曽)義仲を祖とし、義昌はその19代目の当主であるという。ただし、これは自称で、専門家によれば南北朝期に系図が作成されたのだという。どうやら直系は藤原氏だとも言われている。だが、木曽谷で19代も続けば、義仲の直系で
明智秀満㊻「信長公記」『信長公、その日は、下坂本(滋賀県大津市)に御陣取り侯て、廿五日、叡山の麓を取り巻かせ、香取屋敷丈夫にこしらえ、(中略)穴太が在所、これまた、御要害仰せ付けらる。簗田左衛門太郎、川尻與兵衛、佐々蔵介、塚本小大膳、明智十兵衛、苗木久兵衛、村井民部、佐久間右衛門、進藤山城守、後藤喜三郎、多賀新左衛門、梶原平次郎、永井雅楽助、種田助丞、佐藤六左衛門、中條将監、十六首置かる。』「信長公記」に初めて遠山友忠(苗木久兵衛)の名が出てくる
明智秀満㊺「甲陽軍鑑」『天正九年辛巳年に典厩、長坂長閑、跡部大炊介、大龍寺の鱗岳和尚四人の分別をもつて、信玄公の御時御取候、信長人質織田の御坊を典厩のむこにと約束有りて、信長へ御辺候也、信長返事にいかにもおほへいに、内々迎ひをつかわすべき所に、其方より差上らるる儀能き分別也、武田四郎殿へと月付の下、日付の通りに結句少しさげて返事なるは武田滅却のしるしなり。』当時、信長は完全に勝頼を見下していた。「現在、苗木(遠山)が、木曽と接触しております。感触は悪くあり
遠山利景⑨「寛政重脩諸家譜第5輯」『十一年の秋に及びて、ひまを窺い、明知を出て三河足助に至り、東照宮(家康)に奉仕せん事をこいたてまつるのところ、すなわち御許容あり。長一(森長可)これをきき、おおいに怒りて、かの一行が女を殺害し、屍を野原村の川辺にさらす。このこと御聴きに達せしかば、哀憐の仰をうかぶる』信濃国衆の人質を盾にしながら何とか美濃国金山城に辿り着いた森長可は、翌日には岐阜城に赴き弔辞を伝えると旧領に復した。しかし美濃国内は長可を排斥する動きがあり、
遠山利景⑦「松代町史上巻」『時に(川中島)四郡の領民久しく武田氏に属して其恩顧忘れず、従って長可の入封を悦ばざる結果、水内郡三水村の土豪芋川某等之が巨魁となり、烏合の衆一万を率い海津、長沼城の修築工事未だならざるに乗じ竹槍、蓆旗を押し立て喧囂鬨を揚げて四月七日先ず長沼城に迫ると聞き長可は兵三千を率いて急行して之を防ぎ戦うべく先ず二千を伏し一千を陣頭に進め僞り敗れて退く、一揆の諸豪謀られるとは露知らず勝ちに乗じて追跡すれば、突如として二千の伏兵左右より起こり短兵急に突いて
今回は西側の「向山曲輪」へ・・・のはずが・・・(^_^;)とりあえずご覧ください↓谷間を見下ろしながら一旦下り↓これが噂の土橋?↓この先へ行くのをためらいつつ↓北側の視界が少しだけ↓う~ん(^_^;)これより西側から撤退(^_^;)う~ん『飯羽間城1(恵那市岩村町飯羽間)飯羽間遠山氏の城址へ』「遠山七家」の城址巡りの記事です「岩村」「苗木」「明知」「飯羽間」「串原」「明照」「安木」のうち赤字は登城済で
阿寺城最終回・・・は・・・戻りになりますヤマップデータ↑↓と岐阜県CS立体図に加筆にて三重堀切特集?土留に石が使ってあるようです堀切からの竪堀も見ごたえあり(^_-)-☆↓土留の石が大活躍ですネ!↓ポールを立ててみましたが・・・いまいち・・・で手袋をかぶせて少しは見えるかな?明照遠山氏の祖遠山友忠はまだ製作してませんので・・・加藤景廉の長男美濃国恵那郡の遠山荘を相続し、遠山姓を名乗ったので
主郭北側三重堀切へ↑ヤマップデータ↓岐阜県CS立体図に加筆にて黒丸箇所が堀切主郭北側の一本目堀切堀切から落ちる竪堀↓たぶん二本目かな?三本目?『阿寺城1(中津川市手賀野)』阿寺城、別名(明照城、阿照羅城、阿手羅城、斧戸城、中津川砦)ヤマップデータ↓遠山友忠➡遠山友重へと引き継ぎ武田氏により落城↓の看…ameblo.jp『阿寺城2(中津川市手賀野)
↓ヤマップデータ↓岐阜県CS立体図に加筆にて青付近の片堀切土橋付近からスタート↓青四角の片側堀切角の切岸を守る石かな?ちょいと竪堀北側へ回り探索西土橋下堀切から東側に落ちる竪堀↓土橋から東の堀切と端に落ちる竪堀倒木を潜っり降りると浅いが竪堀続いてます↑青四角付近↓の左下角あたり先へ進みます↓赤丸付近こちらも西側端に土橋からの東は堀切土橋は石列で崩れ防止
阿寺城、別名(明照城、阿照羅城、阿手羅城、斧戸城、中津川砦)ヤマップデータ↓遠山友忠➡遠山友重へと引き継ぎ武田氏により落城↓の看板付近を渡川最初の取付きがちょいと急ですがあとは大丈夫かと・・・尾根に上がるまでの雰囲気も尾根に出ました~今回は此処まで楽しそうなヨ・カ・ン今回の登城路は↓岐阜県CS立体図に加筆にて↓1年前の今日書いた記事
本能寺の変とはなんだったのか71/95本能寺の変の全体像17/412024/08/17ここでは近い内に「本能寺の変の全体像01~16」を読んでいる前提で、その話を進めていく。織田信長の人事。前回の続き。-仮公認は結局認められなかった、または厳しい処置を受けて当然だった枠-水野信元みずののぶもと※本能寺の変の全体像07で先述荒木村重あらきむらしげ※本能寺の変の全体像07で先述松永久秀まつながひさひで※本能寺の変の全体
阿寺城中学生の頃、新田次郎の続武田信玄を読んで武田にはまって以来、勝頼びいきの私にとって、勝頼が東濃に攻め込んだ際、攻撃目標としたこの阿寺城に魅かれていました。遠山氏の城であったようで、岩村城が武田のものになると、信長は苗木城主遠山友勝の子、友忠と次男友重を入れ備えた。天正2年、織田本国東濃に侵食する勝頼は、阿寺城をその攻撃目標の一つとし攻撃、激戦が行われ、友重は討死した。手賀野配水池の奥、沢伝いに入ります。http://yahoo.jp/TYlmdm沢伝い途中、沢を渡