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古賀健藏氏の言葉が重い🔴取り合せとは季節のものを並び立てる事ではない全くその通りです。最近の茶会では季節や京都などの行事を取りあげて道具を取り合わせたり、脇床や琵琶台に飾ったりしているが、季節のものを取り合わせるのは、ある意味、その品物さえあれば“簡単”ですね。易学家発行の暦でも見れば直ぐ思いつく事でしょう。🔴“みずくさい”箱書、、、というのが笑える。道具屋に頼まれて小銭を得て書いたと思われる箱書を眼にすると。。。私見補足🔴ここには書かれて無いですが、箱書を頻繁にし出したのは宗旦から
道具茶の権化の様な論旨氏の言う茶では、普通の人はいつまで経っても茶で人を招く事が出来ないと思う。氏は、野村美術館の学芸員などもっぱら茶道具の世界で“なりわい”を立ててきた人物である事を念頭に置いて読むと良いでしょう。。。🔴“取り合わせ”を強調する人がいますが、取り合わせよりは、使う亭主が何故その道具を使うのか、道具に込めた気持ちを一座が共有する気持ちの方が大切だと私は思いますね。それには、例えば茶碗でも、作者や土・釉薬などの事よりも何故その茶碗を使うのかを話す方が
なかなか良い咄なので掲載しておきます。
編集後記が興味深いですね「光悦会と言うと道具の展示会」全くその通り。。先にも書きましたが、茶の湯とは似て非なるものと思います。自慢げに、「光悦会に行ってきた」とか、「その日は光悦会なんです」などと言うのを聞くと。。。大きな茶会で、道具商が活躍する様な茶会は似たり寄ったりですがね。
無茶人の茶咄の続編です「耳で道具を批評する」⭕️道具本来の良さよりも、箱書や誰が持っていたなどの、いわゆる“はく”でお茶をする人の事を言ってます。⭕️私の道具茶嫌いの根っこにもそう言うところがあります。何度も書きますが、利休は道具の由来をいろいろ調べたり研究したりする事は、数寄の道では無いと言った様です(宗旦文書)道具は自分の感性を最優先させて鑑賞すれば良いと思います。しかし、“欲しがらない事”「知足」の心が侘び茶には、一番大切だと思います。道具商におだてられて、勧められ、あれこれ
有名美術品の売り立てについて、高原杓庵氏が縷々と述べておられる。茶道具に関しては、まさに道具茶の極みとも言えると思いますが。大名家の没落や財閥の解体などによって、売り立てに出された美術品、茶道具が価格と共に列挙されてます。栄枯盛衰と無常を思うばかりで、モノに執着する事の虚しさを感じます。
明治村茶会記、田山方南氏大師会茶会記、邑木千以氏私見補足)⭕️強く言いたい事があります。。。この二つの記事ですが、両方とも当日の点前をした流派や社中の記載が無いです。。。結局のところ私が常々書いてますように、「道具茶」なんですよね。。。茶道家では無く、蒐集家が席を持つからこう言う事になるんです。。。⭕️こんな茶会参席して茶の湯とはそう言うものと思いこんでしまう次代を担う若者達が気の毒です。。。茶の湯を商売にすべきでは無い。特に大きな茶会では道具商が一生懸命です。。山上宗二も「
⭕️道具ノゆらいしり候事、数寄ニ不入候、利休きらいノ事也(宗旦文書4)
昭和40年の「表千家」数江教一氏の侘び端的にいうなら“主客が道具を通じて心を通じ合う”と言う事かと思います。ただし、数江氏の言う茶の湯は主客共に茶の湯のエキスパートで無ければならないのが前提条件となっている。、、結局あくまでも「道具茶」と言えますね。数江氏は自ら指摘している様に、「道具」に対して、本来万人共通の「美」はありえないから。更に言えば上に紹介した数江氏の文の最後の方にもある様に「(主客が)相互の了解の底には真剣勝負のごときはげしい気魄ときびしい態度も要求される」、、と言う
如心斎宗匠についての彼の記事の中で彼の侘び茶に対する認識が良く出ているので掲載いたします。丿貫を真似てはならないと、宗旦は息子達に言った。私見補足)⭕️しかし、利休居士はそうは言ってません。私が思うに、宗旦の茶は利休居士の茶から既に離れてしまっていると思います。彼の禁裏との付き合いや出自となる武家の嗜みの象徴である能楽師の関係性など。宗旦の手紙から読める徳川政権との付き合いなども。思うに、丿貫らの茶には麻薬の様な魅力があるから、宗旦は若い息子達にそう言うお茶には近づくなと諭したのでは
邑木氏の会記の読み方相変わらずの道具茶ですね。寄付床狩野探索滝図脇時代波蒔絵沈箱本席抱一朝顔葛図抱一は確かに日本絵画史上評価に値すると思います。しかしながら、利休の茶を継ぐ表千家流としては、掲載するにも一言、たとえば「当流では使う事はないと思われますが」などなどの但し書きが必要だと強く思います。現代では、抱一人気で表流の教授でも、こう言う軸を掛ける茶人がいらっしゃいます。こう言う事が一事が万事、千家の茶も武家茶もごちゃ混ぜになってしまう一因だと強く思います。
昭和47年4月三溪園「会記の読み方」とあるが、邑木千以氏のこのシリーズは道具の説明記事です。今回は自分の茶会の事でなく、「大師会」での道具の説明を書いてます。。。以下、抜粋。濃茶席床印月江墨蹟原三渓翁遺愛上下紋甲斐絹表装中竹屋町古金蘭一文字紫地古金蘭花入伊賀耳付横山家伝来花牡丹香合時代萩蒔絵長角鴻池家伝来脇青磁四方獅子蓋香炉益田家伝来盆堆黒丸釜芦屋馬地紋炉縁真塗道惠作風炉先楽浪古材水指呉須十ニ角牛の絵共蓋蜂須賀家
今月の邑木氏の記事は、会記と言うよりは茶事の概要三月の茶事⭕️寄り付き床浮鴨図渡辺清脇時代蒔絵矢立丸炉鉄瓶青海波道也盆為塗り山永光甫振り出し黄瀬戸小壷こうせん汲み出し朝日焼き茶台内朱輪花煙草盆桑手付き小判形火入れ絵唐津わらび灰ふき青竹以下寄り付きでの客、末客がこうせんを上客にお出しする事などが書かれてます。⭕️初座抱一短冊雪消して尚走り井の水の音(江戸料亭八百善旧蔵)釜古芦屋平蜘蛛透木以下抱一短冊の説明書が長々と。⭕️炭
我が意を得たりの一文があったので紹介しておきます。「南方録が説くように”文句の心をうやまう”ためには、その文句を正確に読んでその意味を理解し、祖師の”はら”をつかむことが、何としても必要である。文句の意味や祖師の”はら”をつかもうとする求道的な態度を失わず、その道の示教を乞おうとする謙虚な心構えを持つことである。」私見補足)この言葉を、佐々木三昧氏に聞かせてやりたいです。三昧氏は彼の著書「茶事・茶会の心得」の中で「二取合せの基本」「しばしば問題になるのが禅語法語と季節の関係であ
寛永10年卯月廿七日(4/27)宗旦が表千家四代江岑宗左(十三郎)に宛てた手紙。やっと独り立ちした息子に、道具の事を色々伝授している、宗旦の親心が滲み出ていて、宗旦と当時を知る上で貴重な手紙です。但し。「道具の由来知り候事、数寄に入らず。利休嫌いの事也」と、道具茶に陥いる事を戒めている有名な手紙です。
今月の茶会の主客応待は香合十和田湖月氏の解説は相変わらずの道具一辺倒の道具茶茶席での問答はこれぐらい知っておけよと言わんばかりの書きっぷり。光悦会での会話を披露「香合は交趾台牛と拝見しましたが格別また釉の上りが美しいですね」「お褒めにあずかって恐縮です」「裏を拝見しましたら天の字がありますがこの手は極めて少ないと聞いております。かつて三井家のものを拝見した記憶がありますがそれでしょうか」「いえ三井家の伝来ではございません。神戸家の伝来でございます」「そうしますと天下二つの内という
広間床彩色山桜酒井抱一亀田鵬斎讃脇千鳥蒔絵小硯箱釜平蜘蛛透木茶碗柳原焼き(久留米藩庭焼き)小間桜の歌藤原為家筆後鳥羽院御製霞立ちこのめ春雨ふるさとの吉野の花も今や咲くらむ(他一首)釜釣り与次郎自在茶入伊部瓢茶杓金森宗和筒稽古日誌と言いながら、相変わらずの道具披露の記事。宗旦が嫌った金森宗和の茶杓筒が出てくるあたりは言わば、昔の事は水に流そうと言うところでしょうか?伊部焼きと言うのは、備前の伊部で焼かれたものを言う。口切りで、良く「おりべ、い
邑木千以の稽古日誌は相変わらずの道具披露日記。。。桃の節句への彼女の思い入れが伝わってくるが、利休の頃は、いちいちこう言う節句と茶の湯を掛けたりは決してしていないですね。江戸時代の華やかな頃からの茶の湯だと思う。侘び茶の原点を思えば、利休が言ったと南方録にある、死後侘び茶は廃り、茶の湯は更に隆盛になると言った言葉が常に頭をよぎります。さてと、道具立てで面白そうなものは。。広間抱一の雛図都鳥蒔絵手箱小間蓮月三月三日の歌茶碗安南染付菓子器礼賓三嶋
田村遂氏曰く「名器を尊重すると言うよりは名器に対して愛着執着することとなってゆく」「茶界のこうした風潮をば、利休は、恐らく断腸の思いで眺めていったに違いない」
稽古日誌より四これから寒くなると釜の口が大きくなるから水指の口は小さくする。。。私見補足)邑木千以は全く道具茶だと思う。ただ、この記事に出てくる「先生」と言うのも道具茶の権化の様だと。寒くなって釜の口を大きくしてゆくほど釜があると言ってる様なものだし、水指も然り。こんな茶の湯を見せられる若い子達は、茶の湯とはそんなに道具が要り、カネのかかるものなのかと敬遠するのが見えていますね。
武野紹鴎草案茶室の美学古田紹欽p159武野紹鴎が「道具一種さへ有れば」と言っているのは、数ある道具にとらわれなかったと言う事であり、数有る道具の内にあって、常に道具一種と言う立場をとったと言う事で有る。この事は道具一種しかあがなう事の出来なかった貧困者の立場から言っているのでは無く、贅沢けっこうを尽くす事の出来る富裕者がその財力をほしいままにして道具集めに奔走する事になり易いのに対して、道具一種の意味を説いたものと見られる。
侘び茶の本義私の茶の湯考堀内宗心p226侘び茶の本義は道具一種に徹する事で有ると私は申しておりますが、他の道具は多少軽いものであっても寄せて茶事をするという事はその人の見識と力量による事であります。これは今日の多人数の茶会などでは出来ないことでは有りますが、少人数の茶事で有れば可能なはずでその様な道具では満足出来ないと言う人があれば、そう言う人は客に呼ばなければ良いだけの事であります。
豪商たちの茶の湯が、名物道具を飾り立て武家の宴会料理である本膳料理のような食事と大酒を出し、武家を含めた商売相手をもてなす世俗性の強いものであったのに対して、侘び数寄の茶会は実利的社交性とはほぼ無縁のものであっただろう。それなのに、なぜ彼らは茶の湯を続けたのか。それは侘び数寄が世俗性とは異なる価値を茶の湯に見出していたからに他ならなかった。私見捕捉)これは、現代でも同じことが言えると思います。結局のところ、今の茶の湯は侘び数寄とは遠いところにあると。戦前のような「近代数寄者
p46利休の茶道具に対する鋭い眼識もまた、秀吉の「道具茶」にとっては事実上欠くべからざる器量であったと言うべきであろう。取り分け唐物目利きの才は能阿弥の時代より東山流茶道にとって不可欠の大事と目されてきたが、若き日に同流の北向道陳に師事した利休の経験が、唐物趣味を「おごり」の茶として極端に忌避するその後の彼の「侘び茶」の精神とはおよそ裏腹だが、とにもかくにも秀吉の茶器収集に無くてはならない鑑識力を培った事実は全く疑いの無いところである。私見)利休は、秀吉の茶と自分の茶を分けていたのだ
釜に土瓶を使った利休永禄2年4/23。1559年利休38歳。風炉の茶で土瓶を使っている天王寺屋会記に土瓶上張釜と記録がある。利休の家はそれまで茶の湯をしてなかった様なので利休は茶道具を全て自力で集めなければならなかった。唐物をひけらかす豪商茶人を横目に見ながら、利休は茶の湯についての思索を深め茶の湯の核心を道具以外に求め、侘び茶について一つの信念を持つ様になったに違いない。商売で成功し、唐物を多少手にした後も利休はその茶を貫いたのである。私見捕捉)ん~ん、胸
利休は茶会記を残さなかった。宗旦は「道具の由来知り候事、数寄に入らず候。利休嫌いのことなり」(宗旦文書第7号)利休は唐物道具をあまり使わないだけでなく、その形状や伝来をくわしく覚えることに、宗ニとは違って関心が無かった事がうかがえるのである。龍光院に残る茶入切型についても、最近の研究では59枚の切り方のほとんどが利休のもので無かったことも明らかになってきた。私見捕捉)これも興味深い話ですね。利休は同じ道具で茶会をしているためいちいち自分の会記を書いてどのような道具を使ったか
禅茶録に有る「夫れ茶の原意は、器の善悪を選ばず、点する折の容態を論ぜず、只、茶器を扱ふ三昧に入りて、本性を観する修行なり」また「禅茶の器物は美器にあらず、宝器にあらず、旧器にあらず、円虚清浄の一心を持って器とするなり」茶の器物が、必要以上に珍重され茶は次第に飲む茶本来の趣旨からともすれば逸脱して道具茶となった。禅茶録は、こうした事を「道具茶」として厳しく批判した。名物などと言って賞玩する茶器は尊ぶに足りないものとして退けた。又、片桐石州は「器物を愛し風情を好むは、形を楽しむ数寄者
利休の茶会で氏郷が千鳥の香炉を見せて欲しいと所望した時、利休不機嫌になり、客の前に転がした。同席した細川幽斎機転で、利休の機嫌は直ったが今日の茶会が趣深く終わったのに何故必要の無い香炉の拝見を望んだのか?何事によらず興の過ぎるのは良くない。コレはアルアルですね!大寄せ茶会でも特に正客を差し置いて話し出し、自分の勝手な連想だけで他の人には全く関連がない様な話をし出す人がいます。そう言う人は大体において、道具重視の数寄者に多いです(苦笑)(利休の項でも同様に記載)