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毎日音読・英語コーチのヘンリーです私の名前の漢字は「逸見」ですが京浜急行線には「逸見」という駅があります40年以上前、都内に住んでいた時、鮫洲運転免許センターに電車で行った時に、初めて見つけました読み方は「へみ」です......地名ですへんなの!*********************************************オンライン英検1級クラスはこちらへラララ英語講座はこちら短期集中毎日コース(英語コーチング)は現在募集中です
6月5日に近い土日に行われます。平成29年6月4日横須賀市逸見鹿島神社例大祭(youtube.com)平成30年6月3日横須賀市逸見鹿島神社例大祭(youtube.com)令和元年6月2日横須賀市逸見鹿島神社例大祭(youtube.com)令和5年6月4日横須賀市逸見鹿嶋神社例大祭②(youtube.com)令和5年6月4日横須賀市逸見鹿嶋神社例大祭①(youtube.com)
いまさら&遅ればせシリーズ♪【2023年12月9日(土)グローサーシュタインピアノサロン「クリスマスコンサート」】横須賀の逸見(へみ)、16号沿いにある、グローサーシュタインピアノサロン🎶ピアノのロホマン真由美さんの逗子のコンサートで、オーナーの柴田さんと一度お会いして、いつか、、、と思っていたところ、ピアノの福田るり子さんからお誘い頂きました。毎月、第二土曜日に、地元のソプラノ中山美希さんとオーナー柴田乃里子さんで企画されている音楽と美術のコラボシリーズ!絵は、若手の池澤寧音ちゃん
ブログはだいぶ間があいてますがほぼ近辺で調べることがなくなってきたあとはこの辺かな?①所在不明のもう1本の系譜(家系図)②足利氏での情報③大内氏・毛利氏内での情報④熊野本宮大社での情報①については、新見本家にあるかもしれない一応、新見分家辺りに本家の蔵や文書を見せてくれと言ってるけど、まだ返答なし②これは、ほぼ無理、てか、つてが無い③山口県文書館まで行けば何かわかるかものレベル、郡代職や検地奉行の情報があれば裏が取れる④某大学教授から熊野で祈祷権を持
こないだ、京都文化博物館で開催されていた足利将軍、戦国を駆ける!に行ってきました。足利義稙あたりの古文書がみれるようだったのでうちのことは無いと思うけど見たかったので逸見のことでわからないかなと思い、学芸員の方への連絡先をを残して後にしました。次の日連絡をいただきありがとうございました。京都で逸見というと若狭の逸見のことになるようでした。若狭の逸見氏は、安芸武田氏に追随した深沢逸見の分家筋になる一族、中々うちの情報は無いようですね。
先日、無性に食べたくなったのでスーパーでごぼうをゲットしてきてまずはアク抜き片栗粉を軽くまぶして油にイン!こんな感じで揚がったら塩をシャッシャとして出来上がり、ゴボウの味を堪能できるごぼ天のできあがり!なのですが…食べたい味とはちょっと違うんだよなー食べたいごぼ天は、今はなき逸見にあった吉々亭のこういうの。厚み?長さ?皮?塩を入れるタイミング?博多のごぼ天みたいなイメージなんだけどなー飽くなきチャレンジはまだまだ続きます😀簡単で美味しいのでぜひお試し下さいませ😋
以前に少し書いているが、逸見氏と足利氏の関係について系譜では足利氏と関連した情報が出てくる・観応元年の足利尊氏の九州征伐の従軍・畠山基国の楠討伐での戦功による将軍からの褒美(将軍は、おそらく足利義満)・足利義尚の鈎の陣での活躍により義尚からの褒美足利氏に被官していたであろうと思われる記載となる。室町幕府期において、領地を持っている様子はなく、幕府内や足利将軍家の近辺にいたと考えられる。以下は逸見氏と足利氏の関係の個人的な推測足利尊氏や義詮が将軍職に就いていても、宗家・嫡流と
なごみブログへようこそ。院長のサイトウです。昨日はヴェルニー公園周辺のお散歩に行ってきました追浜から京急に乗って逸見駅で降りたんです。降りてすぐ違和感!いつもと違う!お祭りをやっていたんです今年は御神輿も復活しているみたいですよ!3年ぶりに担げるようになって町に活気が戻ってきた実感山車の準備も着々と進んでいました。逸見のお祭りって熱気がって良いですね。横須賀のお祭りシーズンが始まってきた感がありますよね。汐入まで歩いて、どぶ
昨年はお囃子奉納だけでしたが、今年は通常開催です。
前回の若狭の逸見氏に関連して読んだ本には、逸見民部丞という人物が出てくる。というか、ネットで調べるとこの人物に行きあたり、登場する書状も何枚かあり、前からこの人物を気にはなっていた。この人物は、足利義尹(義稙)の近臣らしく、明応の政変で義尹が越中に逃れた時の随行もいたようである。この時、匿っていた越中の神保氏の書状にも民部丞が登場する。若狭武田氏の本では、若狭逸見氏の者ではないかと記載されている。うちの家は万寿丸以降、足利氏に仕えており、万寿丸から6代後の者に「逸見正蔵太
調べていくと色々と気になることが多く、書く内容があっちへ行ったり、こっちへ行ったりする若狭にも逸見氏がおり、前から気になっていたので「若狭武田氏と家臣団」という本を手に入れ読んでみた。安芸武田氏が若狭守護を受領した時に一緒に若狭に同行した一族らしく・安芸の深沢逸見である説・甲斐で武田氏に被官した逸見説の2つの説がありよくわからないらしい。東京大学史料編纂所のデータベースには、逸見系図(若狭)信継ー師満(又三郎)ー朝之(又三郎)とある。信継は、又二郎義継の二男信
東京大学史料編纂所のHPのデータベースをなんとなく見返していたら、ふと気づいたことがある。5代目にあたる逸見義重の法名が尊卑分脈と系図算要の記載が違うことに気づく。2つは、ざっとこんなものらしい。・尊卑分脈は南北朝から室町時代に洞院公定らが編纂・系図算要は江戸時代末期に飯田忠彦が、水戸藩の大日本史を編纂する上で集めた資料を再編纂話を戻して、逸見義重の法名が尊卑分脈→白蓮系図算要→勾蓮となって違っている。うちのは、句蓮か勾蓮(読みづらいのでどっちかわからないが)とな
6月3、4日は逸見のお祭りです。
備前軍記の令和改訂版が出たの購入して、さらっと眺めているところ。これは基本、宇喜多氏の軍記物で、当然ながらうちは出てこない。ただ、宇喜多氏が中心ではあるが備前、備中、美作の戦について書かれている。備中古戦場記にある逸見豊後守こと清勝が作州久米郡の城主で落去したのが何時なのか、わかるかもと考え読んでいる。毛利氏が作州(現在の津山市周辺)に進出したのが永禄8年(1565年)くらい。ちなみに豊後守は元亀元年8月(1570年)に亡くなっており、それ以前の作州の戦となる読み流していく
うちの直接の祖先となる義重の四男となる義俊、前にも書いたようにうちの系譜では「弘安四年蒙古災沸時忠節若于」との記載があり、元寇の弘安の役に参加したようで、宇都宮貞綱率いる六波羅派遣軍に従軍したと思われ、京都近辺や和泉国の辺りに居住していたのではないか?と思われる。ほかに、葉黄記寛元五年(一二四七)二月二十八日新日吉社の小五月会での流鏑馬において一番手北条重時の射手として逸見の四郎義利の名があり、義俊であると思われる。祖父が和泉守護として赴任する際に同行、その後、北条重時が和泉
酒場という聖地へ酒を求め、肴を求めさまよう・・・さて今宵もオトナの月9「吉田類の酒場放浪記」がこの後、放送します。今夜の放送前に先週のおさらいをしておきましょう。先週は横須賀市逸見へ着いた吉田さん。逸見は2010年以来、13年ぶりだという。この日、訪れた居酒屋は・・・スーパーマーケット?と思いきや店中に隠れ家の如く現れる居酒屋である。ダイヤスーパ香取屋。スーパーだけあって、お惣菜はもちろん、店内に売っている物を購入すれば、この店で食べられ
京急本線逸見駅近くにある浄土寺にお参りしました鎌倉時代の武将畠山重忠によって建立。徳川家康の外交顧問だった三浦按針の菩提寺です。墓所は本堂横の高台にあります。一部地層が見えてブラタモリ的な光景です。今の住職は三十世、歴史あるお寺の境内から海側を見ると横須賀のタワーマンション歴史と近代が混ざって何だか妙な気分でした浄土寺浄土真宗本願寺派(西本願寺)最寄駅京急本線逸見駅徒歩4分JR横須賀線横須賀駅徒歩7分
義重には系図上6人の男子がいる。これについては、基本的にうちの系譜や尊卑分脈などの違いはない。うちの系譜の記載ではそれぞれ以下の記載となる○惟長逸見又太郎子孫別系○義継逸見又二郎子孫別系○重氏大桑又三郎大桑荘傳子孫別系法名定心○義俊逸見又四郎弘安四年蒙古災沸時忠節若于○義直逸見又五郎子孫系圖別○重継逸見又六郎同断又四郎義俊がうちの先祖になので色々とあとで・又太郎惟長代々谷戸城に住み、10代続いたとされる。その後、有義系逸見が取って代わられ鎌
仕事ばかりしていて、休暇があまりまくっていたので11月23日から休暇を取り、喜連川に行ってきた。系譜の中で1580年辺りの人物の記載に「喜連川出仕」の記載があり、前から調べてみようと思っていた。事前にさくら市ミュージアムに問い合わせをしており喜連川の逸見氏の屋敷跡の記載された地図と家紋等を教えていただいた・屋敷は神社の近く・家紋は三階菱宇都宮のホテルに宿泊して、24日に氏家駅からバスで喜連川へ、バスを下車後、観光案内所らしき場所(和い話広場)の前にちょうど人がいたので話しか
私は岡山県新見市に住んでいますが、岡山に土着した経緯について簡単に書いていこうと思う。○大まかな流れ義清→清光→基義→惟義→義重→義俊→光義→満清→万寿丸→小十郎※万寿丸の二男が小十郎・義清・清光から義重までは、甲斐国逸見郷に居た・惟義が和泉守護になり、義俊を連れて赴任・満清の時に建武政権に属した・万寿丸の次男小十郎が足利将軍家に仕える・足利義稙の時に主君を大内氏に替え、後に毛利氏に仕える・戦国末期には、現在の岡山県新見市に土着・関ヶ原合戦の後、本家を矢戸逸見と蚊家逸見の
○逸見惟義逸見冠者3代目、逸見太郎。こちらの系譜では、「逸見太郎承久乱之時関東守護為其勧進賞賜摂州三條院勅旨田」と記載。尊卑分脈とほぼ同様の内容となっており、承久の乱の時に関東守護(鎌倉の守備大将)となり、恩賞として和泉守護と摂津後三条勅旨田を賜る。法名は西忍この他に調べて出てきた情報が以下のとおり・母は曽根禅師厳尊の娘(本朝武家諸姓分脈系図79)・承元5年甲斐源氏同族の安田義高へ家系図の写本を渡す(安田義定祖宗の史蹟と宗族より)・六波羅御教書の中に
今回は逸見基義、光長の嫡男となります。元々逸見氏そのものの、資料がほぼない。承久兵乱記の大井戸の渡しの記載にある「へん見のにうだう」がおそらく基義だと思われる。尊卑分脈の記載では・本名義経依為九郎判官義経同名改名云々・皇嘉門院判官代と記載されている。・本名が義経であったため、九郎判官義経と同名になることから改名・皇嘉門院(崇徳天皇中宮藤原聖子)の判官代であったこちらの系譜では、・逸見判官・建久四年富士御狩之顕名誉と書かれている「建久4年の富士の
逸見氏についてブログに書いていく上、どう書いていくか迷っていているうちにだいぶ時間が空いてしまいました。この後に書く予定である、逸見基義に関連する部分が多くあるため、先に武田有義について、調べたこと、個人的な見解を書いておきます。武田有義は、逸見光長の弟武田信義の庶長子です。私の家の家系図には記載はありません色々活躍はしていたようですが、文治4年の鶴岡八幡宮での大般若経の供養の場で頼朝によって面罵され、その後、梶原景時の変で行方不明になったようです。実際に武田有義は逸
一週間ほど前網戸にやって来た虫一センチくらいだったかなぁ見た事のない虫で噛みついたり刺したりする連中ではない感じ横須賀に来て十六年を過ぎたがたぶん初めて見る虫もちろん名前は知らないどこからいつやって来たかも分からないけれど網戸の内側にいるのが不思議家の中ではいろいろな虫が張り付いたり歩いたり跳んだり飛び回ったり……あるいは蚊に刺されまくったりして少なくとも夏に退屈することはないね
本年も残念ながら山車は出ず、お囃子演奏のみでした。
横須賀市逸見も神輿渡御は中止ですが、町内会行事は行うようです。『横須賀市逸見鹿嶋神社例大祭』こちらは盛大なお祭りです。『横須賀市逸見鹿嶋神社例大祭』6月初めは、逸見のお祭りです。ameblo.jpameblo.jp
4月のお天気の日横須賀市逸見にある、鹿島神社に行きました先日、埼玉の鹿島神宮に伺った時のお礼と、新たな気づきをいただきましたなんだか、とっても素敵です気持ちが良くて、ずーっと居たくなる神社さんですまた伺います❗️
こちらは盛大なお祭りです。『横須賀市逸見鹿嶋神社例大祭』6月初めは、逸見のお祭りです。ameblo.jp
今日は4月1日付は人事発令の着任日で、新旧のメンバーがそこかしこで挨拶していました。小生のところは、減員で仕事が増えただけです・・・さて、本日のテーマは、相模/横須賀逸見(二行印)の丸一型日付印。(二行印)こちらも日フィラの入手品です。データは、相模/横須賀逸見明治41年5月8日便号空欄→遠江/金谷明治41年5月9日◯便この局は二行印ですが、元々三行印が使用されていました。⇒三行印の続き相模/横須賀/逸見の丸一型日付印相模国で横須賀逸見局と