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藩外に出して蘭学を学ばせる斉彬が薩摩藩の教育内容を「教養」から「実学」に変えようとしたことは、「島津斉彬の教育改革(3)」でお話ししました。特に力を注いだのは西洋の科学技術や医学、つまり蘭学です。しかし当時の薩摩にはそれを教えられる先生がいませんでした。となると藩外で学ぶしかありません。じっさい嘉永4年(1851)に藩主となって帰国(5月)してから間もない10月に、3人の藩士を長州に送り出し、蘭方医青木周弼(あおきしゅうすけ)のもとで蘭学を学ばせています。留学先を長
江戸時代は学問イコール朱子学江戸時代の中期以降は「学問」といえば「朱子学」のことでした。戦国時代をおわらせた徳川幕府も安定期になると、新しい社会秩序を確立する必要がでてきます。各大名も軍務ではなく、領内を安定させる秩序維持のほうが重要になります。それにもっとも合致していたのが朱子学です。朱子学の根本は「大義名分にもとづいて各階層の帰属関係をきびしく規定する」ことにあります、つまり現状維持を正当化する思想ということです。それで、幕府や各大名は配下の武士たちに朱子学だけを
他の大名たちから田舎者と言われ、改革を決意前回は武勇を偏重して学問を軽視する薩摩の国風について書きましたが、斉彬以前にこれを変えようとした藩主がいました、島津家25代当主で斉彬の曾祖父重豪(しげひで)です。島津重豪肖像(ウイキメディア・コモンズ)重豪は24代当主(7代藩主)重年(しげとし)の嫡男で、重年がまだ分家の当主だったときに生まれたため、10歳になるまで薩摩で育ちました。父が藩主となったので、世子(世継ぎ)である重豪は幕府の定めにしたがい江戸藩邸にうつり住むこととなりま
9月13日に岩手、青森の旅にでかけ、初日に盛岡市の原敬記念館を訪れたことは、過日のブログに書いた。<記念館の庭にあった梨の木>そこで知ったのが、藩主南部氏の名にちなんで南部藩ともいわれる盛岡藩の藩校・作人館に原敬が通っていたことを知った。調べてみると、新渡戸稲造もそこで学んでいる。作人館の前身は「明義堂」といっていたが、1862年に作人館となったとのこと。この藩校名が「作人」(人を作る」となっているのはかなり珍しい。どうして、そう命名したのだろうか。https://f.hate
昨日の続きです。今回は二の丸から西郷隆盛像と造士館跡で最終回です。二の丸です。薄墨桜のある所は薄墨桜です。解説板です。岐阜県本巣市から寄贈されましたが、花が咲きませんでした。土壌改良をして花が咲きました。二の丸跡の県立図書館です。幕末1843年の鹿児島絵図です。地図の上は北西です。二の丸の下側には藩校がありました。幕末の絵図です。二の丸の下に藩校造士館とその右側には、矢・馬などの演武場も見えます。現在の鹿児島城周辺です。(上が
足利造士館道場いいなぁ今日から俺は!のロケ地(^^)足利や前橋をロケ地にしてるみたい