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元治元年(1864)、二十四歳の時に神奈川奉行所勤務となった今井信郎は古屋佐久左衛門という盟友と出会うことになります。ただ、古屋のことまで掘り下げてしまうと取り留めがつかなくなってしまうので割愛することにします。ただ、その古屋が仲を取り持ち婚姻を結ぶことになった妻いわのことは触れないわけにはいきません。信郎の孫である今井幸彦氏は著書『龍馬を斬った男』の中で自らの祖母に当たるいわを、まず「第七代信郎は、甲州(山梨県都留郡桂村)の豪農天野家からいわを妻に迎え」と紹介したのち、あとのページで
「では、行ってまいります」と親兄弟に別れを告げ、その武士が江戸を発ったのは慶応三年(1867)九月の中旬頃だったでしょうか。武士の名は今井信郎(いまいのぶお)といい、当時二十七歳。江戸は本郷湯島天神下に住む幕臣今井安五郎守胤の長男として天保十二年(1841)十月二日に生まれました。連れ立つ妻はいわといい、その手には生まれたばかりの赤ん坊が抱かえられていましたが、その名を”りゅう”と名付けたのは何の因果か。このりゅう、実は女の子でしたが、父信郎に万が一のことある時に備えて男として
目指せ1461日素人からブログ467回ブログセミナー受けてから412日12月10日近江屋事件1867年12月10日京都の宿屋近江屋に宿泊中だった坂本龍馬中岡慎太郎山田藤吉(坂本龍馬の用心棒)の3人が何者かに暗殺された通称近江屋事件が起こりました。幕末の志士・坂本龍馬はこの日、風邪気味だった中その方向性は違えど同じ志を持った中岡慎太郎と日本の未来について話し込んでいたとされております。が、十津川郷士と名乗る刺客た
▼本日限定!ブログスタンプあなたもスタンプをGETしよう✋おいっす✋今日の記念日はなんじゃいな?💰3億円事件の日🏍1968年12月10日、東京都府中市の東芝工場で働く従業員に支給される予定だったボーナス総支給額約3億円を積んだ乗用車が、白バイ警官を装った人物に車ごと奪われる、通称三億円事件が発生しました。※3億円・現代換算約20〜30億円※当時最高金額となった現金強奪事件は、現場等に多くの物証が残っていたことから早期解決が見込まれておりました。が、実際の捜査は混迷を極め約17万人以上も
はじめに訂正させていただきます。前回、石碑が隣に立っている理由のもう一つの説として、井口家から店を借りた借り主が石碑を建てるのを拒否したと書きましたが、借り主ではなく井口家から店を購入した人物だったようです。訂正させていただきます。申し訳ありません。さて、その近江屋は二代目新助が主となって塩屋町に店を構えてから醤油商になったと思われます。醤油屋といっても自家醸造していたわけではなく、醸造元から仕入れて販売する小売店でした。また販売する方も、店頭販売も行っていたかも知れませんが、場所柄を
11月15日を迎えました。毎年この11月15日に皆さまへお届けしたいお話、お伝えしたい想いを令和5年に綴ります。◇慶応3年(皇紀2527・西暦1867)の「11月15日」。京都河原町の近江屋井口新助邸において、坂本龍馬・中岡慎太郎が暗殺されました。世にいう「近江屋事件」が起きた日です。坂本龍馬は33歳、中岡慎太郎は30歳という若さです。実に大政奉還(10月14日)が行われた1カ月後、王政復古の大号令(12月9日)が出される1カ月前の出来事でした。今でも深い謎に包まれた暗
慶応三年(1867)十一月十五日の夜、河原町四条上ル(蛸薬師通下ル)塩屋町の醤油商近江屋新助方二階に潜伏していた、土佐藩士で海援隊長の坂本龍馬(31)と、その龍馬をたまたま訪ねて来ていた、同じく土佐藩士で陸援隊長の中岡慎太郎(29)が襲われ、龍馬の家来で元力士の藤吉共々に殺害されました。世に名高い近江屋事件です。現在、塩屋町330番地の最近までかっぱ寿司があった建物の前に事件の跡地であることを示す石碑と案内板などが立っています。しかし、これには少し事情があって、実際に近江屋があったのは
近江屋事件の碑が立っている四条河原町のかっぱ寿司さん、残念ながら閉店してました。京都に住み始めた頃に一度だけ入って、イカしか流れてこないって、たしかブログに書いたなあ。それにしても店名を隠すんだったらもう少しちゃんと貼らないと(笑)。「っ」と「司」が見えちゃってますね。立地は抜群にいいけど隣がドンキホーテになっちゃったし、飲食店にしても競争が激しいから何の店でも経営は大変でしょうね。まあ、それでもすぐに次にテナント見つかるんだろうけど。ちなみに、このブログにも
近江屋事件に参加し、鳥羽伏見の戦いで戦死した土肥仲蔵ですが、確実なものでなくても何かその出自解明の手がかりになりそうな情報はないかと探してみました。まず『元二条城番組姓名帳』という、慶応四年(1868)一月に新政府に提出された史料があります。これはその名のとおり二条城番組(二条御門番組ともいう)の名簿なわけですが、なぜ「元」なのかというと、二条御門番組は慶応三年(1867)九月に京都見廻組に編入されているからです。つまり、これは二条御門番組から京都見廻組に編入された隊士の名簿ということ
京都見廻組の隊士で、銃隊の一員として鳥羽伏見の戦いを戦った古川甚之助の手記(『鳥羽伏見の戦いと古川甚之助の経歴』に収録)に、慶応四年(1868)一月六日の橋本の戦いに銃隊司令として戦い、戦死したと記されている土肥仲蔵ですが、実はその墓は和歌山県日高郡由良町の念興寺にあります。※.橋本の戦いの戦場となった河川敷(京都府八幡市橋本)念興寺には会津藩砲兵隊の隊士阿部井留四朗(あべいとめしろう)の墓もあり、寺伝によれば二人は鳥羽伏見の戦いに敗れたのち同地に落ち延びてきて、寺の境内で
かねての手筈どおり渡辺吉太郎、高橋安次郎、桂隼之助つけ入り、佐々木只三郎は二階上がり口罷り在り、私並び土肥仲蔵、桜井大三郎はその辺に見張り居り候(刑部省口書元京都見廻組今井信郎口上)慶応三年(1867)十一月十五日の夜、河原町通蛸薬師下ル(四条上ル)の醤油商近江屋の二階に下宿していた土佐の坂本龍馬を、京都見廻組の与頭(くみがしら)佐々木只三郎ら七名が襲撃し、たまたま龍馬を訪ねて来ていた中岡慎太郎もろとも殺害しました。世に言う近江屋事件です。その近江屋事件の襲撃者のうち、渡
京都見廻組の幹部隊士(肝煎)で、坂本龍馬と中岡慎太郎が暗殺された近江屋襲撃事件の実行者の一人であった渡辺吉太郎という人がいます。同じく近江屋事件の実行者の一人今井信郎は、箱館戦争で降伏後、兵部省における供述の中に佐々木只三郎先立ち、渡辺吉太郎、高橋安次郎、桂隼之助、土肥仲蔵、櫻井大三郎、私共都合七人にて河原町三条下ル龍馬旅宿へ昼参り候ところ・・・同じく刑部省での供述においても渡辺吉太郎、高橋安次郎、桂隼之助は二階へ踏み込み・・・とし、名前は「吉太郎」であっ
京都南座八坂神社西楼門坂本龍馬と中岡慎太郎が暗殺された近江屋跡地。昔、ハワイから一時帰国して京都の龍馬ゆかりの地を廻ってお墓参りした日を思い出してました。またゆっくりお墓参りしたかったな〜。次回京都に来る楽しみに取っておきます。この時代のロマン溢れる志士たちの歴史、もう一度しっかりお勉強したい。日本には行ってみたいところがたくさん。寺町京極商店街、こういう商店街歩くの楽しいですよね〜。翌日の朝食、ホテル日航プリンセス京都の朝食バフェ品数は少ないものの湯
今日はひっさびさにポコチャ配信をしました。キンキーブーツが終わってからやろうやろうと思いつつ…なんだかんだでもうすぐ3週間💨ブログ書いてお礼状書いてしてたら、あっという間に年賀状に取り掛からなくてはな時期にまで突入してました🙏🏻インスタライブも(まだ1回もちゃんとやったことないし)やろうかなーと思いつつ、まずはポコチャで。ほんの1時間でしたが、たくさんの方が来てくださり、キンキーをキッカケにフォローしてくださった方も遊びに来てくださって嬉しかった❤️で、ポコチャの中で聞いたのですが、今
今日、皆さまにお話したいこと、一緒に想いを寄せ合いたいことは毎年同じです。ですので今年の11月15日も、これまでお話したことを、あらためて振り返りながら、そのままお届けします。慶応3年(皇紀2527・西暦1867)の「11月15日」。京都河原町の近江屋井口新助邸において、坂本龍馬・中岡慎太郎が暗殺されました。世にいう「近江屋事件」が起きた日です。坂本龍馬は33歳、中岡慎太郎は30歳という若さです。実に大政奉還(10月14日)が行われた1カ月後、王政復古の大号令(12月9日)が出される
今日のドトールの珈琲のお供は、ビビる大木著「幕末ひとり旅」幕末ゆかりの地をたどる旅は、老後にやってみたいことのひとつである。幕末から明治維新は、日本人同士が戦争をしていた最後の時代である。最後の内戦と言われる西南戦争は、たかだか145年前のことである。この頃は、曾祖父が生きている。西南戦争の激戦地であり、多数の死傷者が出たといわれる田原坂古戦場跡地に行ってみたい。他には、高祖父が生きていた頃の京都、池田屋事件、寺田屋事件、近江屋事件、~の跡地に行ってみ
小山田圭吾さんの氏名を出した上で何かを言及することは避けていたし、断言できる話でもない。だから話半分でお願いしたい。坂本龍馬と中岡慎太郎が暗殺された近江屋事件で、犯人は「こなくそ」と言って、斬りつけたという証言があったため、愛媛(伊予)の出身である、原田左之助が疑われた。けれども、こなくそ、と言いながら、自分から攻撃するのには多少の不自然さがある。ないと思う人もいるのだろうからそれならそれで否定しない。ところで、小山田さんが90年代に書いたものの中で、村田さんという人が、激
前回はこちらhttps://ameblo.jp/ecrit-cotocoto/entry-12728878752.html『坂本龍馬暗殺者の逃走ルート⑤*山中油店*』前回はこれhttps://ameblo.jp/ecrit-cotocoto/entry-12728681117.html『坂本龍馬暗殺者の逃走ルート④*千本下…ameblo.jp暗殺者の供述まとめると①四条河原町を西に↓②四条千本を北に↓③千本下立売を東に↓④下立売智恵光院を北に↓⑤西側の松林寺(アジト)
前回はこれhttps://ameblo.jp/ecrit-cotocoto/entry-12728681117.html『坂本龍馬暗殺者の逃走ルート④*千本下立売を東へ*』前回のはこちらhttps://ameblo.jp/ecrit-cotocoto/entry-12728524239.html『坂本龍馬暗殺者の逃走ルート③*朱…ameblo.jpつづきです暗殺者の逃走ルートは①四条河原町を西に↓②四条千本を北に↓③千本下立売を東に↓④下立売智恵光院を北に↓⑤西側の松林
前回のはこちらhttps://ameblo.jp/ecrit-cotocoto/entry-12728524239.html『坂本龍馬暗殺者の逃走ルート③*朱雀門から大極殿周辺*』前回『坂本龍馬暗殺者の逃走ルート②*四条千本からJR二条駅まで*』前回『坂本龍馬暗殺者の逃走ルート①*四条河原町から四条千本*』こういうの好きな人いるかわから…ameblo.jp暗殺者の供述暗殺者の逃走ルートは①四条河原町を西に↓②四条千本を北に↓③千本下立売を東に↓④下立売智恵光院を北に↓⑤
前回『坂本龍馬暗殺者の逃走ルート②*四条千本からJR二条駅まで*』前回『坂本龍馬暗殺者の逃走ルート①*四条河原町から四条千本*』こういうの好きな人いるかわからないけど私さえうれしかったらええねんシリーズ平安+幕末mix今回…ameblo.jp坂本龍馬暗殺者の供述↓暗殺者の逃走ルートは①四条河原町を西に↓②四条千本を北に↓③千本下立売を東に↓④下立売智恵光院を北に↓⑤西側の松林寺(アジト)②の続きです今回はほぼ平安の話になりますがJR二条駅を左に見ながら北上御池に
前回『坂本龍馬暗殺者の逃走ルート①*四条河原町から四条千本*』こういうの好きな人いるかわからないけど私さえうれしかったらええねんシリーズ平安+幕末mix今回はこちら様のブログの坂本龍馬暗殺について龍馬と歩く幕末京都龍…ameblo.jp坂本龍馬暗殺者の供述龍馬と歩く幕末京都龍馬を斬った刀坂本龍馬を襲撃を指示したのは松平容保、指揮したのは京都見廻組佐々木只三郎、斬ったのは桂早之助が最有力とされています。結局のところ真相は闇の中です。masaatsutomishima.amebaownd
こういうの好きな人いるかわからないけど私さえうれしかったらええねんシリーズ平安+幕末mix今回はこちら様のブログの坂本龍馬暗殺について龍馬と歩く幕末京都龍馬を斬った刀坂本龍馬を襲撃を指示したのは松平容保、指揮したのは京都見廻組佐々木只三郎、斬ったのは桂早之助が最有力とされています。結局のところ真相は闇の中です。masaatsutomishima.amebaownd.comこの部分を参照に(出典が明示されてないからどの本に書いてあったのかわからないんだけど)坂本龍馬を近江屋で
幕末・明治維新の最大のナゾといわれていた「坂本龍馬・暗殺(近江屋事件事件)」。新撰組説、土佐藩説、紀州藩説、京都見廻組、仰天の中岡慎太郎説など多士済々。龍馬暗殺犯とみられて、新撰組隊長の近藤勇以下隊士が死刑になったりと、当時も犯人が混とんとしてましたね。しかし、京都見廻組・隊長格の佐々木只三郎と配下が実行犯で、指示したのは、只三郎の兄で会津藩・重臣の手代木勝任(てしろぎ・かつとう)、と歴史的には判明ずみ。佐々木只三郎は小太刀日本一の剣客で、暗殺は得意。兄で会津藩・重臣の手代木勝
江戸末期、京都河原町の近江屋において坂本龍馬が殺害された事件。いわゆる近江屋事件。殺害実行犯には諸説あります。土佐藩説、薩摩藩説、紀州藩説、新選組説、はたまた中岡慎太郎説…ですが、いちばん有力な説は江戸幕府の組織であった京都見廻組によるもの。一応ここまでは、龍馬ファンのひとりとして以前から知っていた話。ですが今回、たまたま「静岡県坂本龍馬」でググってみたところ…その京都見廻組の隊士のひとりとして、実行犯に加わっていたという今井信郎の屋敷跡が、島田市の初
会津藩家老・西郷頼母邸を再現した会津武家屋敷実際は、敷地面積2400坪建築面積280坪部屋数38の壮大なお屋敷だったそうです(38LDK)戊辰戦争の際、西郷頼母の妻を含め西郷家の一族21人が自刃したシーンが再現されていて怖っ西郷頼母の養子で近代柔道の礎を築き、小説『姿三四郎』のモデルになった西郷四郎像柔道家の故・古賀稔彦サンを≪平成の三四郎≫って呼ぶのはここからきていたんですね窪田泉太郎と共に清河八郎を暗殺し()坂本龍馬
常日頃こちらでもお話していることで、一番気をつけ、大切にしていることに「歴史を大切にする」という要素があります。「過去と現在の時間的交わりの先に未来が宿り、育まれていく」というお話は何度もしていますが、「歴史を大切にする」ということは、そうした「過去と現在の時間的交わり」を今を生きる私たちが愛しみながら営んでいく上で一番大切な「気持ち」といえます。今日にちなんだお話ですが、やはり昨年と同じトピックスになります。昨年こちらに掲載したお話(2020年11月15日号)より、抜粋して振り返りな
11月15日(慶応3年)坂本龍馬が近江屋で殺害された日です。「なぜ殺害されたのか」はまたいつかお話ししたいと思いますがこの当時、坂本龍馬ほどの人脈を持っていた人はいなかったのではないか、と思います。でもすごいのは、今より身分制度のあった時代。坂本龍馬は、上士ではなく下士だったんです。そこから幕末の重要人物へとなっていきました。それができたのは脱藩したからですね。歴史にたらればはないですが、龍馬が土佐藩
在中外交官が故宮を訪問、中国文化の秘密を探るチャイナネット明朝の紫禁城と比べると、現在の保存状態が良好な建築が占める割合はどの程度か」「文化財保護と都市発展について、故宮のどのような経験を共有...国産繭づくり、彦根藩から「無類飛切御免細工」近江真綿を生産する山脇源平商店の思いとは京都新聞「山脇源平商店」(滋賀県米原市)の山脇和博社長(72)は、「源平」の屋号で、1730(享保15)年から伝統工芸品「近江真綿」を生産する...坂本竜馬が暗殺された「近江屋事件」。その夜、
1867年に起きた近江屋事件。坂本龍馬達が暗殺された事件として有名ですが、謎も多い事件でもありますよね。首謀者がはっきりしてない点もそのひとつです。現在有力なものとされてるのが京都見廻組説です。見廻組隊士だった今井信郎が箱館戦争で降伏し、囚われていたところ、新選組隊士であった大石鍬次郎や横倉甚五郎らの、犯人は見廻組であるという供述により、今井も近江屋事件について取調べを受けた。その際今井は、坂本・中岡暗殺に関与したと自白し、裁判により禁固刑となった。という経緯があるからですが