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《新古今和歌集・巻第七・賀歌》753仁安(にんあん)元年、大嘗会(だいじやうゑ)悠紀歌(ゆきのうた)奉りけるに、稲舂歌(いねつきうた)皇太后宮大夫俊成近江(あふみ)のや坂田(さかた)の稲(いね)を掛け積みて道ある御世(みよ)のはじめにぞつく☆☆☆☆☆【新編日本古典文学全集「新古今和歌集」☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆(訳者・峯村文人・小学館)の訳】☆☆☆☆☆☆☆☆仁安元年、大嘗会悠紀の歌を差し上げた時に、稲舂歌皇太后宮大夫俊成近江の坂田の稲を掛けて干し、うず高く
《新古今和歌集・巻第七・賀歌》751久寿(きうじゆ)二年、大嘗会(だいじやうゑ)悠紀方(ゆきがたの)屏風に、近江国(あふみのくに)鏡(かがみ)の山をよめる宮内卿永範(くないきやうながのり)曇りなき鏡の山の月を見て明(あき)らけき世を空に知るかな☆☆☆☆☆【新編日本古典文学全集「新古今和歌集」☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆(訳者・峯村文人・小学館)の訳】☆☆☆☆☆☆☆☆久寿二年、大嘗会悠紀方の屏風に、「近江の国鏡の山」を詠んだ歌宮内卿永範曇りのない鏡山の清らかな月
《新古今和歌集・巻第七・賀歌》749永承(えいしよう)元年、大嘗会(だいじやうゑ)悠紀方(ゆきがたの)屏風、近江国(あふみのくに)守山(もりやま)をよめる式部大輔資業(しきぶのたいふすけなり)すべらぎをときはかきはに守(も)る山の山人(やまびと)ならし山かづらせり☆☆☆☆☆【新編日本古典文学全集「新古今和歌集」☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆(訳者・峯村文人・小学館)の訳】☆☆☆☆☆☆☆☆永承元年、大嘗会悠紀方の屏風、「近江国守山」を詠んだ歌式部大輔資業天皇を永久に
【問題】近江国の高島郡を中心に発展した、佐々木(高島)氏の一族を、次のうち何と呼ぶか?【選択肢】高島七頭高島四傑高島十二騎高島十六人衆【正解】高島七頭【解説】鎌倉時代、佐々木信綱の次男が近江国高島郡に高島氏を立て、その後、その一族である平井氏・永田氏・田中氏・横山氏らが戦国末期まで同郡に割拠した。これを「高島七頭」という。
今日(1/20)の、郡家新町(西国街道)の朝明けです!●毎週木曜日にもたれている「富田識字教室」で、かつて一緒に学んでいて、今は体調をくずされて来られていない方から、「『江州音頭』(ごうしゅうおんど)のテープがありませんか?」━とたずねてこられました。かつて、この方から、みんなが、「江州音頭」の踊り方を教えていただいたことがありました。“わが家にあるはずだ”と思って、調べてみ
○前回、ブログ『近江大津宮』を書いて、大津地名は粟津地名が起源であるとの私説を案内した。どう考えても、粟津地名から大津地名は発生したとしか、考えられない。ただ、このことについては、十分な検証が必要である。それをこれから行う必要がある。○もう一つ、近江地名も見逃すことができない。現在、近江地名がどのように判断されているか。それは、次の説明が参考になる。近江国近江国(おうみのくに)は、かつて日本の地方行政区分であった令制国の一つ。東山道に属する。【「近江」の名称と由来】近江
滋賀県大津市にある建部大社に来ました近江国の一宮です建部大社にて御朱印をいただきました以上で滋賀県編終わりです
↑↓ヤマップデータ↑今回使用画像の撮影場所城主京極氏の家臣多賀豊後守高忠佐々木氏の家臣沢田民部大輔等が伝わるらしい詳細は不明の様です↓登り始めて尾根にでて直ぐを北先のピーク461m脇↓尾根南側を土塁風に削り残してある↓竪堀?↓北の段曲輪群切岸が見事↓主郭方面へ↓南側土塁は続いてます↓本日は城友のシゲさんと近江の山城めぐりボッチ巡りに慣れ過ぎてシゲさんには足手まといなってないか心配↓
何となく好き…↑コレって不思議と言えば不思議な感情ですよね♪現代はなんでもかんでも理屈をつけるというか根拠を明確にするみたいなのが流行っている時代です♪なぜ?どうして???たしかに…そういう解析が必要なコトもたくさんありますが…『好き』に関してはそういう根拠を追求すること自体がナンセンスなような気もします(笑)↑彦根城でひこにゃんに会ってきました♪僕の名前は…秀彦…父の名前が…彦一…曾祖父の名前が…彦太郎…
怜悧で狭量、人望に欠け、豊臣の天下を潰してしまった男――。かつて石田三成のイメージと言えば悪性評価の一辺倒でした。しかし最近では「義を貫いた忠臣」という良性三成像も着実に広まっており、人気を取り戻しつつもあります。では、変わりつつある三成の実像とは一体いかなるものか?石田三成は永禄3年(1560年)近江国坂田郡石田村にて誕生しました。父・正継は石田郷の土豪であり、浅井家に仕える身。母は浅井家臣・土田氏の娘でした。三成は二男にあたり、幼名を佐吉と言います。
城を観る[YouTube]今回は...(撮影2023/09/19)【城を観る+】《和南城(近江国)》2023〜南北朝時代の山城!和南城跡を観る〜【城を観る+】《和南城(近江国)》2023〜南北朝時代の山城!和南城跡を観る〜《和南城(近江国)》[読み方]わなみじょう(おうみのくに)[撮影地]滋賀県東近江市[撮影日]2023/09/19[撮影者]バイソン[BGM]Dreamland(writtenbyshimtone)[YouTube]城を観るhttps://youtube.com
またまた『韓のくに紀行』より白村江の戦いに敗れ、滅亡した百済。その百済からの避難民が入植したところが近江の蒲生郡(がもうぐん)「『蒲生(蒲生)』という近江の地名は、はるかに降って戦国期に蒲生氏郷(うじさと)を代表的な存在とする蒲生氏の根拠地であったことで知られているが、古代ではこの近江国蒲生郡・神崎郡のあたりは「蒲生野」といわれる原野であった。/蒲生の地名は小海だけでなく、鳥取県、
滋賀県の歴史を伝えてきた大津市の県立琵琶湖文化館を2028年に新たな地で再開館させる構想が進行している。琵琶湖に張り出して1962年に開館した城館式の同館は、2008年4月から休館し続けている。2021年に発表された基本構想「新・琵琶湖文化館」によれば、現行地に京阪電鉄のびわ湖浜大津駅に隣接して建設する。琵琶湖南西端の遊覧船ターミナルに近づけ、近江国の滋賀県全土から集める神仏や信仰文化、江戸時代の絵画などの展覧会を開催。曽我蕭白の「叡山図」や円山応震の「琵琶湖図」など今なお文化館内にある収
前記事の大森城を攻める前に大森陣屋跡へ寄ってたのである。滋賀県東近江市大森町近江・大森陣屋(おおもりじんや)大森陣屋は最上義光(もがみよしあき)(通称・出羽の猛将)の孫である最上義俊(家信)によって築かれた陣屋です。元和8年(1622)、義俊が13歳で家督を継いだことに家臣が反発して起きた「最上騒動」によって山形57万石を没収とくんされて改易となり、あらたに近江大森1万石に入封して陣屋を構えました。その後、寛永8年(1631)に義俊が死去すると義智が家督を相続しましたが、幼小で
《大溝城(近江国)》[読み方]おおみぞじょう(おうみのくに)[別名称]高島城、鴻湖城、鴻溝城[所在地]滋賀県[城分類]平城、水城[築城主]津田信澄[築城年]1578年(天正6年)[城を観る]-[YouTube](【城を観る+】《大溝城(近江国)》2022〜織田信長の甥!織田信澄が築城!大溝城跡を観る〜)[登城日]2022/12/02にほんブログ村
『最澄を読む』ーひろさちや●真の仏教者として✪最澄は七歳から陰陽(おんみょう)や医学、工巧(建築学)などを学び、十二歳のときに近江国分寺への入門が許されました。師の行表(ぎょうひょう)のもとで学びながら、十五歳で僧籍に入り、十九歳で年間十人前後しか認められないという狭き門、東大寺の正式なお坊さんとなったのです。さて、最初に触れたように、最澄は、いまで言えばかなりのエリートコースを歩んでいるわけです。よく「世をはかなんで出家した」などという言い方をしますが、この頃の出家の概念はまったく違い
多賀大社は、「お多賀さん」の名で親しまれている近江国第一のお社です。場所的には琵琶湖の東側、いわゆる湖東地域で彦根市に近いです。御祭神は伊弉那岐命と伊弉那美命です。この二柱の神様が日本の国土を造り、八百万の神々を生んだのですから、多賀大社は数多くある神社のなかで、最も社格が高いとも言えるのではないでしょうか?天照大神の両親にもあたるので、「お伊勢に参らばお多賀に参れ」と古くから言われています。伊弉那岐命と伊弉那美命は日本版アダムとイブのような感じですね。ただ、この両神は夫婦ですが兄
今回も昨夜のお話になりますが...夕食後に家人からまたまた『美味しい和菓子買うてるで!』との囁きが👂️まさに悪魔のささやきです😈その和菓子がこちらの金のでっち羊羮❗️『でっち羊羮』と言われても関東の方は馴染みがないと思うんですけど、大阪を含む関西ではよく食べられている和菓子なんです🍡『でっち羊羮』は滋賀県(近江国)発祥の和菓子で、通常の羊羮よりも小豆や砂糖の量が少なく、一般的に安価な羊羮💴名前の由来の一説に、丁稚奉公していた少年が里帰りの時に気軽に土産として持ち帰られ
城を観る今回は...(撮影2020/09/26)荒神山城(近江国)〜荒神山神社由緒記〜二千三百年前ッ凄いなッ。。。ヽ(´o`;なんちてにほんブログ村
城を観る今回は...(撮影2020/09/22)和田城(近江国)〜解説板和田支城1遺跡〜支城ッ1ねッ。。。ヽ(´o`;なんちてにほんブログ村
城を観る今回は...(撮影2020/09/22)和田城(近江国)〜土塁〜この上がッかなッ。。。ヽ(´o`;なんちてにほんブログ村
(14)【中山道の旅】自転車で行く東京→京都12日間《番場宿→草津宿》前編
城を観る今回は...(撮影2020/09/22)和田城(近江国)〜虎口〜ここからッ行けるかなッ。。。ヽ(´o`;なんちてにほんブログ村
城を観る今回は...(撮影2020/09/22)和田城(近江国)〜腰曲輪〜腰曲輪跡ッかなッ。。。ヽ(´o`;なんちてにほんブログ村
城を観る今回は...(撮影2020/09/22)和田城(近江国)〜解説板市指定史跡和田城跡〜和田城跡のッ説明ねッ。。。ヽ(´o`;なんちてにほんブログ村
城を観る今回は...(撮影2020/09/22)和田城(近江国)〜解説板和田氏について〜和田氏のッ説明ねッ。。。ヽ(´o`;なんちてにほんブログ村
《和田城(近江国)》[読み方]わだじょう(おうみのくに)[別名称]-[所在地]滋賀県[城分類]山城[築城主]-[築城年]-[城を観る](解説板市指定史跡和田城跡)(解説板和田支城1遺跡)(解説板和田氏について)(解説板和田城跡図)(解説板和田谷の城館群)(虎口)(腰曲輪)(土塁)(和田城跡入口)[YouTube](【城を観る+】《和田城(近江国)》2020〜甲賀武士!和田氏の居城!和田城を観る〜)[登城日]2020/09/22にほんブログ
城を観る今回は...(撮影2020/09/22)和田城(近江国)〜和田城跡入口〜ここからッ行けそうだなッ。。。ヽ(´o`;なんちてにほんブログ村
笑顔創造って、エーちゃうん!のエーちゃんです。聖徳太子没後1400年のイベントが行われるようです。湖国滋賀には聖徳太子縁の寺院が多くあります。聖徳太子が「霊地は近江国にある」と占い馬の蹄に任せて鎮護国家、仏法興隆を祈る道場を求めていると繖山の麓辺りで馬は歩みを止めてしまい風光明媚な風景を見に行き聖徳太子は「積年の望みをこの地に得たり」と馬のところに戻ってみれば馬が池に沈み石と化していたのでした。馬が石となった寺「石馬寺(いしばじ)」と聖徳太子は号されたのです。