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前の記事の続きとして、日清~日露戦争・朝鮮(韓国)併合以後において東洋史学者の間から、朝鮮史というものは「満鮮史(満韓史)」という概念に置き換えられ、露骨に朝鮮の歴史的主体性を無視するような研究が横行するようになりました。無論、これは日本の大陸発展に呼応する変化であり、日露戦争の後、満韓経営の国策会社として南満州鉄道株式会社が生まれると、前述の白鳥庫吉は満鉄総裁後藤新平に説いて満鉄東京支社のなかに満鮮歴史地理調査室を設けさせ、満韓(満鮮)の歴史や地理の研究を始めました。前期の池内・津田・稲葉
以前の記事まで述べたことは、「日鮮同祖論」を筆頭に主として日本人研究者が日本古代史を研究する中で唱えたものでありました。これに対して、朝鮮史研究者(東洋史系統のもの)の側から反論が起こりました。朝鮮史の研究は、明治20年代から始まりますが、その開拓者であった那珂通世(なかみちよ)・白鳥庫吉、ややおくれて明治末年から研究に加わった津田左右吉・池内宏・稲葉岩吉など、みな日鮮同祖論に批判的でありました。日鮮同祖論者が国学の伝統に立ち、日本の古典を中心にして日本と朝鮮との関係を考えたのに対し、これ
このような同祖論は、そののち朝鮮で三・一独立運動がおこると、さらに強く主張されました。先で述べた喜田貞吉は、彼らが主宰する『民族と歴史』で「日本民族とは何ぞや」・「朝鮮民族とは何ぞや」という題で日本・朝鮮両国民の起源を考えたのち、『日鮮両民族同祖論』(民族と歴史、六巻一号)という論文を出しました。そこで考古学的遺物、文献、言語、神話、風習などを多方面から同源・同祖であることを論じ、日本の朝鮮支配の正当性と、日本に反抗する民族独立運動の不当を主張しました。この論文の注目すべきは、日鮮同祖論が
前記事から引き続き、戦前の小中学校における日本史の教科書となった『国史眼』、とりわけその思想的母体となった「日鮮同祖論」の詳細、その急先鋒であった喜田貞吉の『韓国の併合と国史』について述べたいと思います。既述のとおり、彼は本の中で「日本と朝鮮は併合によって本来のカタチにもどったのだ」と述べましたが、その結論は以下のようになります。「韓国併合は実に日韓(朝)の関係が太古の状態に復帰したものである。・・・・・・韓国は実に貧弱なる分家で、我が国は実に富強なる本家と云ふべき者である。・・・・・・分家
日本史の研究者は、日本国家の起源を明らかにするために、朝鮮との関係を考えました。そこに生まれたのは、国学の伝統を多分に残した「日鮮同祖論」でありました。その代表的著作は『国史眼』(明治23年刊、34年再刊)で、著者は重野安繹(しげのやすつぐ)・星野恒(ほしのひさし)・久米邦武(くめくにたけ)の三人でした。彼らはともに東京帝国大学の教授であり、日本歴史学会の代表的学者でありました。とりわけ、彼らは保守反動学者であったわけではございません。重野は抹殺博士の異名を持ち、史実でないものを否定し、児
とりわけ「日鮮同祖論」は、朝鮮併合後、日本が朝鮮支配の政策とした同化政策・内地延長政策にはもってこいの、まことに好都合な考えでした。最もこの思想の源流は、直接には江戸時代の国学でしたが、もっとさかのぼると、神皇正統記さらには『記紀(古事記・日本書紀)』にまで行きつきます。それは日本人にとって、非常に根深い観念であり、神国意識が強調されるときには必ず出現する意識です。昭和初期に「昭和維新」がさけばれたときには権藤成卿の『南淵書』(南淵とは天智天皇の師で大化改新を指導した人。この書は大正11年
朝鮮の歴史あるいは日本と朝鮮との関係の歴史に対する研究は、日本人の朝鮮観の形成に大きな役割を演じました。歴史研究は各種の朝鮮観の主張者に材料を提供し、その朝鮮観の形成の加わるとの同時に、歴史研究者としての朝鮮観を作り出しました。その代表的なものを挙げます。一つは「日鮮同祖論」。これは主に日本史研究者が唱えたものです。もう一つは「満鮮史」。これは主に東洋史系統の学者が作り出しました。前者は主に「日鮮同種論」「日鮮同域論」などとも呼ばれ、一方では太古における日本と朝鮮との一体不可分の近親