ブログ記事119件
【母娘で着物でおでかけ👘】ステンドグラスが綺麗なカフェへ✨いつもお読みいただき、いいねやメッセージをありがとうございます♥【着物で推し活】歴数年で、いまや〈『着物で推し活』のエキスパート〉として、「着物で推し活」したい方を、全力でサポートさせていただいています♥着付け教室ゆき椿川島幸子(かわしまゆきこ)🌹国家資格1級着付け技能士です。着物で推しグッズを身につけて、ライブやコンサートに行けますよ♥ラクで美しい着物の着付け方はもちろんのこと、推しTシャツでお太鼓の作り方や、着物
こんにちは。先日、久しぶりに京都南座に行ってきました。もちろん、「錦秋喜劇特別公演」を見るためです。『大阪ぎらい物語』は、もう何回見たかな・・・。毎回藤山直美のアドリブが違っているので、おもしろいです。さて、今回のプチ京都旅は、以前から行きたかった場所に行ってきました。1つめは、「かにかくに」の碑です。近くに巽橋と辰巳大明神がありました。この下を流れる川が白川?「白河夜船」の白川?有名人夫婦の名前発見!ここは、よく
前回からの続き(8月18日のこと)です角家を後にして、次に向かったのは同じ島原にある輪違屋住所・京都市下京区西新屋敷中之町114駐車場・なしこちらは特別公開でないと見れないので、喜び勇んで行きました♪😆駒札輪違屋輪違屋は、大夫や芸妓をかかえていた由緒ある置屋で、元禄年間(1688~1704)の創業と伝える。現在の建物は、安政4年(1857)に再建されたといわれるが、その後増改築がなされて、明治4年(1871)にはほぼ現在の姿になっていた。平面構成は複雑だが、大き
昨日は雨が激しく降ったり止んだり。でも、夕方にお友達が「赤飯」届けてくれた〜鳴海餅本店の赤飯は京都人ならご存知の味それも、今は栗赤飯🌰🌰🌰美味しい〜手に持っているのは「ごま塩」ここの「ごま塩」は「白ゴマ」なんだけど、このお店だけ?とにかくありがとう〜さて、水曜日、昼から自転車で下京区の「輪違屋」の特別公開へ行ってきました。江戸時代の花街「島原」の置屋(現役です)あの新選組も通った「角屋」の近くにあり、そちらとも繋がりがあります。一階は撮影可でした。説明を聞きました。
まだまだ~~暑いわ昨日京都へ定期観光バス夏の旅に行ってきました🚌壬生寺新選組ゆかりのお寺ご本尊延命地蔵菩薩お地蔵さんのお寺です写真はNGなのでパンフを📸本堂内全景障壁画と襖絵とっても美しい!!通常公開はされていないとの説明でした明るく煌びやかでびっくりしました境内にある壬生塚へ近藤勇像土方歳三像室内には和泉守兼定土方歳三の刀長曾祢虎徹近藤勇の刀大和守安定沖田総司の刀刀見れてうれしいわ写真はNGなのが残念(刀は本物で
今回の京都旅をプロデュースしてくれたのは、お嬢です。(新選組ゆかりの地・壬生寺)私の影響ですっかり新選組や幕末の志士好きの歴女に育ってしまいました。また、神社仏閣などの古い建物や歴史のが好きなこともあり、旅に出ては自分なりのレポートを書いているようです。(歴史研究みたいです・・・)(島原の大門)(輪違屋・・・おきや)(近藤勇の書)(角屋・・・あげや)(西郷隆盛が行水で使ったとされるタライ)(芹沢鴨が暗殺される直前に宴会をしていた角屋の
本当なら松尾大社の続きですが、昨日「京の夏の旅」やその他に行ってきたので、そちらからアップして、松尾大社は昼にアップします🙇昨日、有休を取り京都市内へ行ってきました😁というのも、みやこメッセで「美樹本晴彦展」を3日間だけする(20日まで)ということで、今日は村祭、明日は出勤だったため、是が非でも昨日行っておかなきゃと行ってきた訳です(*´艸`*)それと附せて「京の夏の旅」も行ってきました最初に夏の旅から行きました今回は新選組結成160年ということで、新選組に纏わる場所が公開されていま
2023.8.8.『第48回京の夏の旅』が行われ、今回は新選組の所縁を久しぶりに巡って来ました先ずは、数年ぶりの壬生へ今年で新選組結成160年ですそれで、新選組の所縁ある場所で特別公開が行われています最初は、新徳寺から今回は、本堂の特別公開初めて入ります当時のまま残る本堂、土方や近藤らが江戸を発って最初に集った場所それから、向かいの壬生寺へこちらも、本堂の特別公開襖絵など新しくなっていましたそれと!和泉守兼定の展示もされています。今回
「京の夏の旅」で、かつての花街・島原の関連では角屋と輪違屋が公開されています。こちらは島原入り口の島原大門。角屋は、「角屋もてなしの文化美術館」としていつも公開されていて、数か月前に訪問したばかりでした。輪違屋は、今でも一見さんお断りのお茶屋として営業されていますが、通常は拝観不可のため、外観しか見たことがありませんでした。今回は特別公開ということで、行って来ました。輪違屋は、かつては芸舞妓さんを住み込みで抱えていた置屋でした。角屋などのお茶屋からの求めに応じて芸
京都へとたどり着き、この日最初に訪れたのが西本願寺です。御影門より境内へと突入すると、目の当たりにする圧倒的スケールの西本願寺の御影堂。さらに渡廊下と連結し、対照とする形で建立された…阿弥陀堂もまた、御影堂と同様に国宝建築となります本願寺に「西」があるということは、当然ながら「東」もあり、その歴史は…戦国時代において、織田信長と当時の石山本願寺の争いの中、本願寺内では信長と和睦するか徹底抗戦するかで意見が対立…この対立が跡継ぎ問題とも絡み、徳川家康の時代に本願寺は、真宗大谷派(東)と
最近は映画のレビューも書かず、出掛けてばっかり。JRもコロナで経営が厳しいのか、シーズン毎に出しとった関西一円のワンデーパス出さへん。代わりに青春18きっぷ初めて買うた。使い切らんともったいない。金沢1泊に使うて、この日は3回目。金沢の話しはまた今度にして、話しの繋がりのええ輪違屋の紹介。創業が元禄年間言うから、犬公方で有名な5代将軍綱吉の頃やな。もっと言うと、忠臣蔵の事件のあった時分やな。置屋▪揚屋兼業とか、安政年間の建物とか、屋号が変わったとか、いろいろあるけど、京都市の駒
1ヶ月経ってしまいましたが、先月、京の夏の旅・新選組結成160年をテーマに丹波口駅周辺をめぐりました。今回は、詳しい方に案内していただきながらの旅でした。まずは現役の置屋でもある輪違屋へ。こちらの特別公開は、今年で最後とのこと。(置屋さんなので、客として行けば入れますが)1階は撮影可。こちらは、近藤勇の書を屏風に仕立てたもの↓この書は、あやうく捨てられるところだったそうですが2階は撮影できませんでしたが、傘の間や紅葉の間など、趣向を凝らした部屋が素敵でした。
島原の置屋輪違屋の「主の間」は、お茶屋も兼業するようになり客にも利用される事になる。一見その襖は、桂離宮「松琴亭」の市松模様を思い起こさせるが、太夫、芸妓のご贔屓様にしたためた和歌の色紙のようだ。奥の床の間には吉野太夫の掛け軸。余りにも達筆なので文字が読めないが、ご丁寧な説明でようやく意味を理解する事に!その向かいには近藤勇書の屏風。輪違屋の内装はこの時代の建物としては、アイデアとセンスが際立っていて驚く。太夫、芸妓のしたためた色紙をこの様
第48回京の夏の旅が7月8日から開催されている。早めに行く予定をしていたが、連日の猛暑、曇り空の二日前にようやく重い腰を起こした。島原大門は日本最古の遊郭を象徴する高麗門。古い歴史を持つ町ではあるが、当時の面影を残す建物は極めて少なく、角屋きんせ旅館等、そして置屋兼お茶屋のこの「輪違屋(わちがいや)」。正式名は西新屋敷と言い、6つの町、上之町、中之町、中堂寺町、太夫町、下之町、揚屋町で構成されている。桃山時代には豊臣秀吉の許可を得て、
今年の「京の夏の旅」キャンペーンは、「新撰組結成160年」ということで、新撰組に関わる文化財のいくつかが特別公開されています。行ける時に行こうと思い、予想最高気温が37℃という25日に、ヨメを誘って一部を見てきました。JR京都駅から嵯峨野線で丹波口駅まで。平日朝にもかかわらず、車内は嵐山に向かう内外の観光客で満員でした。丹波口駅で降りて、ターレーが走り回る京都中央卸売市場の脇を南へ。最初に目指したのは島原地区です。江戸時代には、東の吉原と並ぶ公認の花街として有名だった島原**も
今年は「新選組結成160年」ということで、「京の夏の旅」は「新撰組」と縁が深い「壬生寺とその周辺」、それと「新撰組」が通っていた遊郭「島原」が取り上げられている。ということなので、「壬生寺とその周辺」もいずれ近いうちに訪れるにしても、今日は3年振りに「島原」へと出掛けていた。3年余り前、同志社大学大学院の〝ソーシャルイノベーション研究〟のオープン講座で、「半径3kmの旅」というテーマでこの「島原」地区と取り組んだ。その時は、突然に降って湧いたコロナ禍で、観光客の
壬生・油小路散策記の後編です。島原の大門です。島原大門(しまばらおおもん)は、京都の旧花街である島原の東入口にあたる大門で、京都市の登録有形文化財です。島原は寛永17年(1640年)または寛永18年(1641年)、六条三筋町から移転した日本初の幕府公認の遊女街でした。当初は東側の大門のみでしたが、享保17年(1732年)に西門が設置されました。大門は明和3年(1767年)に現在地に付け替えられ、慶応3年(1867年)に現在の門が建てられています。島原の輪違屋です。島原全体とし
2023年6月6日火曜日曇りのち雨今朝の比叡山です。朝食を済ませ、ゆっくり。今日も終日ニューヨーク旅行の動画作成です。BGMはブルックナーのシンフォニーです。お昼を済ませ、続行です。午後の比叡山です。夕方から雨降ってきました。ちょっとこのへんで洛中散歩の続きでも。今日も島原です。角屋から花屋町通を東へ進み坊城通を上がると「輪違屋」があります。輪違屋〒600-8825京都府京都市下京区西新屋敷中之町114駒札です。駒札:輪違屋輪違屋は、太夫や芸妓をかかえてい
今日はあちこちで地震の多い日だったようで、午前1時ごろに発生した南太平洋のマグニチュード7.6の地震に続いて千葉やら能登半島、トカラ列島、北海道と結構大きな地震が続いています。関東の方では激しい雷で停電が発生したり、なんだか嫌な一日です。被災された方々には心からお見舞い申し上げます。それにしても最近は地震だけじゃなく変な犯罪も増えてるし、世の中これからどうなっていくのか色々不安です。そんな私の今日のブログは三月に福岡の友達とてくてくした話のつづきです。この日は夕方の新幹
1641(寛永18)年に公許花街として開かれた「島原」。「島原大門」のほか、「輪違屋」と「角屋」が、往時の名残をとどめています。大門のすぐ近くにある「輪違屋」は、現在も唯一営業している置屋を兼ねたお茶屋です。浅田次郎の小説「輪違屋糸里」で知られます。置屋とは、太夫や芸妓を住み込みで抱える店のこと。お茶屋は、置屋から太夫や芸妓を派遣してもらい、宴席を開く場所だそうです。現在の建物は1857(安政4)年に再建され、明治初期の増改築を経たものです。「輪
…「もてなしの文化美術館」と銘打ち、公開されているのは?輪違屋「桜木太夫」島原とは、江戸期から続く京都の花街の名称。寛永18年に、前身の六条三筋町から当時の朱雀野に移転し形成された。正式名は「西新屋敷」と云々、「島原」の呼称は肥前で起きた「島原の乱」から採ったとされる。該当地は、下京の花屋町通に面する正門の大門から西に広がり中之町・上之町・中堂寺町・下之町・太夫町・揚屋町の6町を含む。島原の営みは、花
ブラポニョ京都北白川GWの谷間の6日(金)に仕事で阪急で西京極へ、会社のホワイトボードに1600帰社で出発も意外にも午前中で完了、ならばバスを乗り継げば余裕で帰社可能先ずは阪急で四条河原町に降り立ちます向かった先は北白川、京都府京都市左京区の東部に存在する地域で学者、学生の居住が多い住宅地何と言っても天下一品の創業地(1号店)です哲学の道20世紀初期の哲学者である京都大学教授西田幾太郎(きたろう)が、毎朝この道を歩いて思想に耽っていたことにちなんで名付けられた。脇を流れる運河は、
28日は工房の大掃除を終えて、スタッフ9人で近所の王将でランチして珈琲飲んで解散しました。毎年一人だけ昼間からビールを飲んでいるスタッフいますが、来年は僕もバスで来て飲もうかな(^^;そして昨日は夕方5時から烏丸の居酒屋で着物作家さんたちとの忘年会。その前に西本願寺へ。土方さんここで豚を飼ってたんだ!そして新撰組が通った島原界隈を散策。現存するただ一軒の置屋輪違屋ここに音羽太夫と糸里がいたんだ!浅田さんのフィクションだけど(^^;角屋芹沢鴨はどの辺りで音羽太夫を斬ったんだろ
二条城から猪熊通りを南下、30分ほど歩きました。『令和3.12.25.元離宮二条城』何回か行ってますが、何かしら行きたくなりました。六地蔵駅前から市営地下鉄で行こうと思ってたら、エキスパートで検索したら京都駅から山陰線で行けるってこと…ameblo.jp下京區森下仁丹。島原大門。昔の花街の入り口です日本最古の公許の花街であり、最も格式が高かった京都・島原。芸妓の頂点と言われる島原太夫は、歌舞音曲に秀で、優れた教養を持つことが、その名を冠する条件でした。(ネットより
今回の京都旅では京都在住のブロガーさんがお声を掛けてくださり初めてお目に掛かりまして…ランチまでご馳走していただきましたこの場を借りて改めてPさん楽しい時間と美味しいランチをありがとうございました行列ができていた『魚河岸宮武』さんのお魚料理が美味しいランチですPさんが宮武さんの道すがら案内してくださったのは京都に残る花街「島原」です名前や由来は知っていましたが訪れたのは初めての場所です…
こんにちは´ー`)ノご来店ありがとうございます<(__)>癒し喫茶アンジェのオーナー、ヴェルニー綾瀬です当店は、カフェ巡りやグルメ記事および個人的なつぶやきを癒しをモットーに、気まぐれに更新していく架空のお店ですさて、「麒麟亭」の記事の続きです『麒麟亭』こんにちは´ー`)ノご来店ありがとうございます癒し喫茶アンジェのオーナー、ヴェルニー綾瀬です当店は、カフェ巡りやグルメ記事および個人的なつぶやきを
見返り柳は遊廓の入り口に植えられた柳の名称。遊廓で遊んだ男が帰り道に柳のある辺りで、名残を惜しんで後ろを振り返った事からこの名が付いた。遊廓の成立は安土桃山時代までさかのぼり、別称として廓(くるわ)ともいう。広義には芸妓を含んだ花街(はなまち、かがい)や、色里、遊里、色町など私娼街も含めた通称である。三大遊廓と呼ばれて大いに栄えたのが、大坂の新町遊廓、京都の島原遊廓、江戸の吉原遊廓。しかし公的に遊廓の許可を得たのは最初は京都で、豊臣秀吉の治世の時であるらしい。島原は唯一
もう少し文吉と加納惣三郎との妄想話にお付き合い願います。加納惣三郎が元は文吉の子分だったのかも知れないという話を前回しましたが、その加納惣三郎は新選組に加盟したものの、島原輪違屋の錦木太夫にぞっこんに惚れ込んでしまい、彼女に会う金を欲しいがために辻斬りを繰り返し、最期は壬生の屯所に帰って来たところを待ち構えていた土方歳三らに斬られてしまいます(『明治英雄情史』)。文吉親分の仇を討つために新選組に入ったはずが、色香に負けて道を踏み外したというところでしょうが、果たして本当にそうだったの
・・・「遊び」は時代に翻弄され易く変貌(ヘンボウ)を繰り返す。しかし、京都の花街は頑なと云ってもいい程に古式に拘ってきた。舞妓のだらりの帯にも、地毛による結髪にも、しぐさや京ことばにもしきたりを重んじて、変わらない事を格式とした。そうした、花街のありようから、生きた京都の伝統文化の一翼が見えてくる。島原は、公に許可された我国初の花街で、その前身は天正17年に二条柳町に開かれたが、慶長7年に六条三筋町へと移転を命ぜられた。寛永17年に朱雀野(シュジャカ
京都の続き西本願寺から歩いて10分位で島原へ。太鼓楼から新撰組の隊士も島原へ通ったんでしょうねー住宅の中に突如現れる島原大門この門の様子は明治や大正の古い写真と比べても殆ど変わりなく、見返り柳の枝が少し寂しくなってる位かな?タイムスリップ感があっていいですね〜門を入って進むと所々に良い感じの建物が残ってますさすが元花街京都の古い建物の屋根に乗っている護り神の鍾馗さんの置物、良いですよね創業元禄元年の元置屋の輪違屋さん。素敵です、維新の名花といわれた桜木太夫を抱えていた置屋で