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検査結果の説明のための診察日でした。この診察日のあと、またすぐに北関東の職場に戻る気まんまんで、自家用車は北関東に置いたまま飛行機でひょーいと帰省しての受診でした。今週末には利根川で開催される花火大会に行くつもりだったし、来週は北海道出張に行くつもりで、さらには、盆休みは帰省せずに娘と2人で自動車であちこち遊びに行くのもいいなぁとか考えていました。それでも、一応、骨シンチ検査で骨に転移したらどんな画像になるかは手元の教科書を読んで「予習」はしておきました。腫瘍があると光ることとなど図解を見
「今のところ癌の転移の可能性は低い。」「腰椎の骨折の検査のため、7月19日にMRI検査する。読影検査含めた診察日は7月26日。」診察室で聞かされた検査結果は、喜んで良い内容でした。昨年の5月に膀胱がんのため膀胱全摘、6月に退院して以来、3ヶ月おきに転移再発がないか検査を受けています。「異常なし」が9月、12月、3月と続いて、先月の6月に告げられた「異常あり」です。いよいよ転移見つかったか。そう思って緊張していましたが、どうやらそうではなかったようです。その一方で、新たに見つかった骨折
痛みの治療方法は内服、外用薬、神経ブロック、リハビリなどいろいろな方法を組み合わせておこないますどの方法がよいかそれは患者さんの症状によりますし生活スタイル、性格にもよります診察とお話を伺うことから始め細かくチェックしながら進めます例えば痛くて思うように動けずトイレ以外は動かないようにしていて痛みで食欲もなかった患者さん処方した薬で翌日には歩けるようになりましたまだ痛みが残っているのでさらに薬など調整しもっと生活の質があがるように診療を続けますがんは痛いもの
これまで、インスタのストーリーズでお伝えしていました旦那さんの病気に関して、たくさんの方から励ましの言葉、応援メッセージを頂き、本当に感謝しています。ありがとうございますいつか、この動画や、これから撮っていく写真を見て「こんなことがあったね、あの時は大変だったね」と、笑って話せるときがくることを願いつつ…今は、病気を受け入れ生活しています。旦那さんもそうですが、私も、「生きる」ことを諦めていません!今、旦那さんは病気とは思えないほど元気にして
右上腕骨の写真。左が、正面からのレントゲン。右が、右側面からのMRI。ずっと、腱を痛めてると思い込んでた。まぁ、このおかげで腎臓癌が発覚したんだけど。1カ月前に、放射線治療して(5日連続照射)照射後、1週間位したら腕が上がるようになり痛みも劇的になくなったでも、最近また、痛み出してる大丈夫かなぁ…癌のところ大きくなっちゃったのかな考えてみたら病名確定した後はCT撮ってないな~主治医は、今月末に撮るって言ってたな~色々わかるのは、来月だろうね~ちょっと
お久しぶりの投稿ですなかなかブログに向き合えずごめんなさい現在、放射線治療のため入院しています上手く進んでいると思っていた抗がん剤治療そしてヘルニアだと思っていた腰痛全ては転移性骨腫瘍のせいでこんなにも傷んでいたことが判明してどちらかというと神経に食ってかかっている腫瘍のようでなかなか痛みがとれない理由もわかるただ、私が確認できた画像でも腰椎がくぼむほど骨が変形していましたあれだけ骨がなくなっている(溶けてる?)と骨折もしやすくなるんだろうなぁこれからの生活はどうなっ
柳川病院から佐賀好生館へ。やながわのターチャン!🙂
がんの摘出手術を受け四年経過突然の痛みから骨転移していることがわかりました多発骨転移していて一部骨折もあり動けない状態です幸いその病院で放射線治療を受け緩和ケアチームに疼痛管理してもらい寝ていれば痛くないそこまで回復しましたその病院で治療を終え転院転院の目的は「リハビリ」私が担当になりました歩けるようにはなりません立つことも座ることもできませんこの状態にさらに新たな問題が生じる可能性は非常に高いだから、どう生きたいかどこで過ごしたいか誰といたいのかそこが大
母はステージ4の末期の肺癌でした。見つかったときには首に転移して、骨が溶けていました。たぶん他にも転移していたと思います。余命宣告を受けてから、約50日で旅立ちました。なぜ母はこんなに急いで逝ってしまったのか。何度も何度も考えてしまいます。[子供達に迷惑を掛けたくない]最後は認知症は姿を消し、昔の母親の顔でした。大学病院に入院中、まだお喋りが出来ていた頃。「私はもう覚悟しているから。お姉ちゃんと○○にまた迷惑を掛けちゃって、それだけが気になるの。お金も大変でしょう?」「私が死
こんばんは😃今日も、読んでいただきましてありがとうございます😊今日の松山のお天気は、曇り☁️のち晴れ☀️朝は、7度日中は、14度雨の確率は、10%とのことです。松山市は朝から寒い😨です。28日、松山市の発生者数は、8名です。松山市では、ほとんどの感染者のクラスターがハッキリとしており、封じ込めも可能なようです。28日東京の発生者数は、561名28日17:30時点で全国の感染者数は、140568名
手術決定を表明してから励ましや応援のコメント・メッセージ・ラインをたくさんいただき本当にありがとうございます。ばんびですまた、手術当日は全国の皆さんからたくさんのエールを送っていただき(いただいたと思っております…)感謝しかありません最強ドクター陣にリンクできたことと皆さんのお力をいただいたおかげもありまして、ほぼ以前と変わらない生活を送れるという結果に至りましたこの場をお借りしてありがとうございましたばんびの病歴はこちらからご興味のある方はご一読くださいませ
メッセージボードよりφ(..)母・昭和17年生まれ2011年、緑内障の進行により視覚障害者に2012年10月、70歳でパートを定年退職直後から物忘れが顕著に2013年2月、大学病院神経内科受診「老人性うつ病の可能性も」と言われ、同時にメンタルクリニックも受診開始抗うつ剤服用後も物忘れは改善せず、認知症確定薬剤過敏性があり、レビー小体型認知症と診断される現在も神経内科とメンタルクリニック通院中初回・2回目とも、要介護2と認定されましたが、デイサービスは断固拒否3回目の要介護認
今日は母の命日です。1年前の今日、母は旅立ちました。娘と息子が揃うのを待って、涙を一筋流して、母は逝きました。2019年4月半ば頃から背中の痛みを訴え、5月10日に歩けなくなり大学病院に救急搬送。ステージ4の肺癌、首に転移、胸椎骨折、余命宣告。治療は首に放射線のみ、放射線治療終了後、大学病院から医療特化型老人ホームへ。5月10日から6月29日まで流れに身を任せるしかなく、あっという間に過ぎたような気がします。私と弟の判断は正しかったのか、今も分かりません。「首に放射線をあてなかっ
昨年の今頃、母は医療特化型老人ホームにお世話になっていました。母だけ生活保護申請をするため、住所も老人ホームに移しました。私はそれがとても心苦しかったです。ずっと同じ住所だったのに、母だけ別住所にしてしまった。母に対して申し訳ない気持ちでいっぱいでした。弟は仕事が終わると毎日バスで母のところに通っていました。夕飯はコンビニのお弁当を買って母の部屋で食べていました。私は父の夕飯とその後のルーティンを済ませてからバスで通いました。どんどん食べられなくなっていく母、喋れなくなっていく母
母は最後の1ヶ月は殆ど食べられませんでした。大好きなコーラもほんの少ししか飲まなかったです。訪問診療の先生がエンシュアリキッドを処方してくださいましたが、それも飲めなかったです。最後のお片付けのとき、沢山残っていたエンシュアを少し持ち帰りました。管理者さんが「お父様の食欲がないときとかにいいわよ」と仰ったので。全部は無理なので、1箱は管理者さんが受け取ってくれました。助かりました。父の食欲は落ちることはなく、エンシュアは出番のないまま賞味期限が切れました。資源ごみに出すため缶の中
「お母さんの背中の痛みが出たのがあの時期で良かったと思う」と弟が言いました。2018年秋には[肺癌かもしれない]と告げられていたので、その後のリハビリ病院・老健に居るときに症状が出てもおかしくはなかったのです。もしそうなっていたら、自宅には帰れなかったかもしれません。母が老健から帰宅したのは2019年3月23日です。自宅で過ごした時間は短いものでしたが、それでも[おうちに帰りたい]という母の願いは叶いました。会いたかった人にも会えて、行きたかったところにも行けました。もし、老健→病院
昨年5月10日、小規模多機能型ホームから帰宅した母は歩けなくなっていました。救急車で大学病院へ。肺癌ステージ4宣告、胸椎骨折、首への転移性骨腫瘍、頚椎圧迫骨折、余命宣告。昨年5月10日、母が自宅で過ごした最後の日です。その日は小規模多機能型ホームでお習字をして[五月]と書いて来ました。その前のお習字では[令和]と書いて「令和ちゃん」と喜んでいました。最後まで頑張っていた母です。5月6月は昨年の様々なことを思い出して辛いです。
昨年のGW、弟は9連休でした。母も小規模多機能型ホームを9連休しました。背中の痛みは訴えていましたが、お墓参り、巣鴨、回転寿司など、お出掛けを楽しんでいました。結果的に最後のお出掛けになってしまいました。背中の痛いところに湿布を塗ったりピッ◯エレキバンを貼ったり、あとから考えると無意味なことをしていました。背中の痛みは胸部骨折の痛みでしたが、あの時はまさか胸のほうだとは思わなかったです。首の転移性骨腫瘍もいつ発症したのか分かりません。あの時にはもう首の骨も折れていたのかもしれません
2018年10月まで、母は週1回のデイの日以外、殆ど和室(弟と母の部屋)で過ごしていました。日当たりの良い和室、今日もよく日が当たっています。そこに母が居ない。そのことに慣れません。誰も居ない和室を見ると、とても寂しくなります。母は認知症発症後、この部屋で過ごすことが大好きで、ごろごろしながらきよし君を観るのを楽しんでいました。私が入ろうとすると「お邪魔しますは?」と言われることもありました。和室からは家の中全体が目に入ります。母にとっては安心できる居場所だったようです。目が悪
どんな状態か把握出来ないまま退院説明もないのかと思いきや母に説明したとのこと私は蚊帳の外…退院した日に父は体調不良で顔色が悪い明らかにおかしい体重はさらに減って40キロ。放射線治療の副作用は少しだけ食欲不振だったくらい食べても食べても痩せていく本人が1番気にしている何とか安心させてあげたい明日は以前、利用していた訪問看護等調整するとのこと時間守らないし特に何もしてくれないのに必要なのか母との確執は深まるばかり…もっと父が生きることへ意欲がわく
年末年始、父はショートステイ、母は自宅の予定でした。GWの頃、弟と[年末年始お母さんのお風呂はどうする?お風呂の日だけ小規模多機能型ホームにお願いする?]と話していました。あの頃は背中の痛みは訴えていましたが、私達は年末年始の話をするくらい楽観視していました。母がこの世から居なくなるなんて、考えもしなかったです。父のショートが決まれば、楽しい年末年始になる予定でした。母の肺癌・転移性骨腫瘍による闘病生活は短いものでした。5月10日救急車で入院、5月28日老人ホームに移動、6月29日に
私が思い出すのは元気な頃の母です。認知症になる前の母、認知症発症後の母、どちらも身体は元気だった頃の母です。弟が思い出すのは最後の老人ホーム、寝たきりの母だそうです。次に思い出すのは、大学病院、リハビリ病院、老健の母だそうです。苦しかった母を思い出すのは辛いと思います。本能的に、私は逃げているのかもしれません。苦しかった母の姿から逃げている。人が[死]に向かって行く姿を見るのは、本当に辛いものがあります。弟は正面から見届けました。私はちょっと後ろから見ていたのかもしれません。
昨年9月23日深夜。咳が止まらず呼吸も苦しそうだった母。救急車で大学病院に行きました。その時は[肺炎ではありません。上気道炎でしょう]と診断されました。今から思うと、あれは肺癌の症状だったかもしれません。あの日は入院にはならず、深夜2時過ぎにタクシーで帰宅しました。大学病院玄関前のタクシー乗り場でタクシーを待っていたときのことを、鮮明に覚えています。パジャマ1枚、靴下も履いていなかった母。[寒い日じゃなくて良かった]と思いました。帰宅後「迷惑かけてごめんなさい」と言った母。肺
[母の肺癌と転移性骨腫瘍②]の続きです5月10日、小規模多機能型ホームから帰宅した母は歩けなくなっていました。救急車を呼び大学病院へ搬送して貰いました。このときの検査で背中の痛みが胸椎骨折から来ているものだと分かりました。そして「首に腫瘍があります。肺癌からの転移性骨腫瘍でしょう」と告げられました。「腫瘍が首の骨を溶かしてしまい、首も骨折しています」「他にも溶けかかっている骨が数ヵ所あります」余命も告げられました。癌の骨転移は考えたこともありますが、まさかここまで酷くなっている
こちら、今週は梅雨のようなお天気が続いています気温は少し落ち着きました。母の老人ホームに通っていた6月、真夏は通うのは大変だな、と私は思っていました。弟は「俺は大丈夫」と言っていました。たぶん大丈夫ではなかったと思います。母はそれも分かっていたのかも。救急搬送から2ヶ月足らずで逝ってしまった母。私達に迷惑を掛けたくないという気持ちが強かったのかもしれません。偶然が重なっただけかもしれませんが、母は色々なことを考えてくれたのだと思います。「お母さんは何も考えてなかったかもよ」現
母の首を守ってくれたネックカラーを処分しました。老人ホームの管理者さんの言葉が心に残っていたからです。「お母さんも嫌がっていたし、良い思い出ではないので、四十九日が過ぎたら[ありがとう]と言って処分してもいいのでは?」首を守るためとはいえ、ネックカラーは母を苦しめました。痒みが酷かったです。あまりの痒さに夜中母が自分で外してしまったこともあったそうです。老人ホームの管理者さんが大学病院整形外科担当医に「外してはダメですか?」と聞いてくださったこともありました。母が食べなくなった理由
母がまだお喋り出来ていた頃、老人ホームのスタッフさんと色々お話していたそうです。「いちばん食べたい物は何」「くさや」母はくさやが大好きでした。母の2番目の姉が元気だった頃は、八丈島出身の伯母の友人から美味しいくさやを頂きました。伯母の友人が亡くなったあとは、毎年区民祭りの物産展でくさやを買っていました。焼くことは出来ないので温めて食べるくさやです。母が最後にくさやを食べたのは一昨年の秋でした。「コーラデートのこともお話されていましたよ」弟の休日は必ず朝のお散歩をしていました。
母が入居していた老人ホームから封書が届きました。母宛の郵便物と訪問介護サービス実施記録などが入っていました。訪問介護サービス実施記録は[署名捺印して送り返してください]と返信用封筒も同封されていました。5月28日~6月29日までの記録です。短い文章ですが、母の生活が記録されています。ある日は「ありがとうと仰ってくれました」と綴られています。母らしいな、と胸がいっぱいになりました。母は「ありがとう」と言ってくれる人でした。老人ホームに入居しても、寝たきり生活になっても。母らしさは