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「応仁の乱の終了」藤井竜王の37手詰はいつからかみなさん、おはようございます将棋の藤井八冠竜王防衛おめでとうございました37手詰はお見事ですいつから読んでいたのでしょうかさあ、今日「11月12日」の國史を学びましょう「応仁の乱、終了」文明9年(1477年)応仁の乱は足利義政(8代)と日野富子に義尚(よしひさ、9代)が誕生したことから始まりました後継者として坊さんを辞めて義政の養子となっていた義視(よしみ、義政の弟)との争いです有力大名の
戦国時代の始まるきっかけになったとも言われる「応仁の乱」については、以前、この本が、話題になり、ベストセラーになったようですね。応仁の乱戦国時代を生んだ大乱(中公新書)Amazon(アマゾン)なぜ、この本が話題になり、ベストセラーになったのか、理由はよく分かりませんが、この本が話題になったことにより、他にも、いくつも「応仁の乱」に関する本が出版され、当時、本屋に並んでいました。僕も、この本を含め、いくつか読んでみたのですが、やはり、あまりにも複雑すぎて、概要ですら、よく分
【食育クイズ:Vol.1341】「京都府」の「応仁の乱」おさらいクイズ!「応仁の乱」の発端の場所となった「京都の寺社」名は?↓↓↓↓↓↓問題は下記から↓↓↓↓↓↓∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞国産大豆100%大豆ミートプレミアムソイミンチ粗挽き鶏ミンチ風サラダ・スープに大容量サイズ1kgAmazon(アマゾン)2,068円Eco&Art太陽パネルの元で育った大豆のコーヒー(浅煎り,100g×2袋)A
応仁の乱の解説書と言えば、かのベストセラー『応仁の乱』(中公新書)がありますが、興福寺の話から始まったり、読みやすいのですが内容を理解するまでに結構読み直す必要があったりします。『『応仁の乱』呉座勇一・著』名前だけは知っている、といっても平城京のことではありません。日本史の転換点と呼ばれる応仁の乱のことです。僕を含め、「足利将軍家のお家争いが発端で・・・」とい…ameblo.jp本書は、室町幕府凋落の原因となった嘉吉の変から始まり、歴代将軍の動向を中心に明応の政変までの時代の
足利義政が無茶苦茶なことを数々してくれたおかげで、室町幕府というものがすでに名目上のものとなり、時の権力者が足利将軍を張子の虎に据えて、好き勝手するという時代になってしまいました。ですから、時の権力者に担ぎ上げられた将軍はコロコロ変わるという混沌の時代になっていきます。その先駆けが足利義材です。この足利義材は良い様に使われては捨てられてを繰り返しますが、権力という絶対的な力は終始持てず、振り回されていく人生となります。名前も3回変えることから、形だけは変えても、その流れは変えることが出来ず、戦
足利義政がしっかりしていれば、ちゃんとしていれば、数々の悲劇や応仁の乱や、室町幕府の衰退はありませんでした。しかし、足利義政は優柔不断でかまってちゃんですし、自分がチヤホヤされないと拗ねて、おかしなことをしだすので、周りからの信頼をどんどん失わせるようなことになってしまいます。しかも、足利義政本人は全くそのことに気がつかず、あくまでもその時の気分で決めてしまいますし、本当に愚かな人物としか言いようがありませんでした。経緯としては長らく実子のなかった足利義政は弟の足利義視を養子にしていたが、足利
室町将軍、第6代の足利義教が強引なやり方であったにせよ、全国を統一し、室町幕府最高の威光となり、室町幕府の権威は最高潮でした。ところがその息子、足利義政が将軍をやっている最中に、室町幕府の権威は失墜し、二度と立ち上がれなくなります。親父が立派でもその息子はまるでダメというのは現在でも通用するパターンですが、まさにその通りの構図でした。祖先が築き上げたものをすべて、自分がぶち壊したのを何とも思っていない、足利義政の行動には呆れるばかりです。元はと言えば、足利義政の失政で、起きた応仁の乱。この時、
1475年2月、甲斐敏光が東軍に降伏し、遠江守護代に任命されました。これも東軍の謀略が功を奏しました。西幕府の管領で甲斐敏光の主君であった斯波義廉も同年11月、守護代織田敏広を連れて尾張国へ下国し、消息を絶ちました。しかし和平工作を行っていた日野勝光が死去したため、和睦の流れは一時頓挫しました。翌年1476年9月には、足利義政が西軍の大内政弘に「世上無為」の御内書を送り、12月には足利義視が足利義政に恭順を誓い、足利義政も足利義視の罪を不問に付すと返答し、和睦の流れが加速しました。足利義政にと
1468年3月17日に北大路烏丸で西軍の大内政弘と東軍の毛利豊元・小早川煕平が交戦、3月21日には、稲荷山の稲荷社に陣を張って西軍の山名側の後方を撹乱・攻撃していた東軍の細川方の骨皮道賢が攻撃されて討死し、稲荷社が全焼しました。5月2日に東軍の細川成之が西軍の斯波義廉邸を攻めたり、5月8日に東軍の細川勝元が西軍の山名宗全の陣を、8月1日に東軍の細川勝元の兵が相国寺跡の西軍の畠山義就の陣を攻めていたが、戦闘は次第に洛外に移り、山科、鳥羽、嵯峨で両軍が交戦していました。管領斯波義廉は西軍に属したも
応仁の乱はもともとは権力闘争だったのが、どんどん緊張が高まり、軍事力で決着をつけるという事態になってしまいました。しかも、京都に留まらず、全国各地から軍事力が投入され、泥沼化に。この事態に対して、足利義政は仲裁をする姿勢は見せるものの、お飾りの将軍には何の権限も、実利もなく、争いはますます激しくなるばかりです。足利義政の無能っぷりはいかんなく発揮されてしまうという事態になりました。ここまで大きな戦闘に入る前に何らかしらの手立てや落としどころはあったと思うのですが…応仁の乱は東西に分かれ
1459年正月に今参局が呪詛の疑いで失脚し、かわって近臣の伊勢貞親が急速に影響を強め、義政の親政は強化されていったとされていますが、実際は足利義政にはほとんど決められることはなく、近臣の権力が強くなっただけで、ただのお飾りになってきています。また同年には畠山政久が赦免されました。年末には、長年住み慣れた烏丸殿から新造された花の御所の「上御所」に移り、足利義政は拠点だけは確保したようです。伊勢貞親は足利義政の将軍職就位前から「室町殿御父」と呼ばれる存在であり、幕府財政再建についても大きな功績があ
意(1)志(4)薄(89)弱なヨッシーまたまた(足利義政)ひがんでひがんで(東山文化)時(慈照寺)間(観音殿)ギリギリ(銀閣)アウト!・銀閣について建立1489年時代室町時代中期所在京都府京都市左京区銀閣寺町形式楼閣(2層宝形造りの観音殿=銀閣)第1層住宅風書院造「心空殿」第2層仏殿風禅宗様「潮音閣」名称慈照寺観音殿(〝銀閣寺〟は慈照寺の通称・観音殿(銀閣)の通称)本尊観(かん)世(ぜ)音(おん)菩(ぼ)薩(さつ)現在臨済宗相(しょ
・足利義政と銀閣と銀閣がある時代~日野富子と結婚するまで~1436年1月2日足利義政生(~1490年)室町幕府6代将軍足利義(よし)教(のり)の次男1439年足利義(よし)視(み)生(~1491年)足利義教の10男・足利義政の弟1440年日野富子生(~1496年)1441年嘉吉の乱赤松満(みつ)祐(すけ),自邸にて,室町幕府6代将軍(位1429年~1441年)足利義教(1394年~1441年)暗殺1441年9月山名持豊が赤松満祐を攻め,播磨木山城で満祐自殺(137
・足利義政と銀閣と銀閣がある時代~現在に至るまで~1458年季瓊真蘂,足利義政の片腕となる1459年畠山弥三郎病死➜弟畠山政長が擁立されることに1460年畠山義就失脚➜政長支持(足利義政・細川勝元・山名持豊)1464年政長,管領就任➜家督継承1467年義就,持豊の支持を得,政長管領解任➜応仁の乱へ1459年日野富子,男児出産すも,死産(➜今参局(いままいりのつぼね)の呪詛が発覚➜自殺)1460年伊勢貞親,政所執事となる(足利義政の片腕となる)1460年斯波義
前回まではこちら⬇️目次世は争乱…我は室町幕府、第9代征夷大将軍・足利義尚(あしかがよしひさ)である。延徳3年(1491年)1月7日、足利義視(あしかがよしみ)が亡くなった。足利義視息子の義材(よしき)さんが将軍になって、自らは大御所として、これからって時だったのに…義視の子であり、将軍の足利義材(あしかがよしき)はいきなりの父の死に不安を覚えていた。そんな義材に近づくものがいた。義材の側近で公家の葉室光忠(はむろみつただ)である。光忠さんは義視、義材親子が美濃に下向している
前回まではこちら⬇️目次世は争乱…我は室町幕府、第9代征夷大将軍・足利義尚(あしかがよしひさ)である。足利義材(あしかがよしき)が将軍となり、その父、義視(よしみ)が大御所として政を行なうようになると、細川政元(ほそかわまさもと)は幕府と距離を置くようになった。政元さんは義材さんの将軍就任式の1日だけ管領職に就いて、すぐ辞めちゃったんだよね政元の変わりに管領職に就いたのが畠山政長(はたけやままさなが)だった。義視「政長、応仁の乱ではいろいろあったが…義材の下、幕府を頼むぞ。」政長
前回まではこちら⬇️目次世は争乱…我は室町幕府、第9代征夷大将軍・足利義尚(あしかがよしひさ)である。延徳2年(1490年)4月…「小川御所を清晃(せいこう)に与えるだと!」我が母、日野富子(ひのとみこ)が自らの住まいである小川御所を与えようとしたことに足利義視(あしかがよしみ)は激怒した。さらに富子は細川政元(ほそかわまさもと)と組んで義視の子で次期将軍の義材(よしき)を退け清晃を将軍にしようとすると噂が義視の怒りの火に油を注いだのだ。義材さんが10代征夷大将軍ってほぼ決まった
前回まではこちら⬇️目次世は争乱…我は室町幕府、第9代征夷大将軍・足利義尚(あしかがよしひさ)である。長享3年(1489年)4月13日、美濃にいた足利義視(あしかがよしみ)、義材(よしき)親子が入京した。足利義視足利義材義視さんは応仁の乱では東軍の大将になったり西軍の大将になったりと周りに利用されまくったね我が母、日野富子(ひのとみこ)は義視、義材を住まいの小川御所に招いた。富子は2人を支持していることを周囲に明らかにしたのだ。富子は細川政元(ほそかわまさもと)を小川御所に呼
前回まではこちら⬇️目次世は争乱…我は室町幕府、第9代征夷大将軍・足利義尚(あしかがよしひさ)である。長享3年(1489年)3月末…足利義尚我の葬儀が営まれた。義尚さん、近江の六角征伐の最中に亡くなったんだ我の亡骸は京へ帰り、我が母・日野富子(ひのとみこ)や細川政元(ほそかわまさもと)が葬ってくれたのだ。政元は葬儀に参列するため、入京しようとしていた足利義視(あしかがよしみ)、義材(よしき)親子を美濃に留め置いた。我が政元に残した言葉…『そなたが将軍になるのだ。』そのこと
前回まではこちら⬇️目次世は争乱…我は室町幕府、第9代征夷大将軍・足利義尚(あしかがよしひさ)である。「最後の出陣…そなたと一緒で…嬉しかった…。」長享3年(1489年)3月26日、我は死んだ。細川政元(ほそかわまさもと)は我を抱き、陣まで運んでくれた。我が母、日野富子(ひのとみこ)は…富子「…義尚、起きなされ。いたずらにこの母を騙してはなりませぬぞ。母はわかっておる。こうして母を困らせようとしているのであろう………義尚!義尚!うっううぅぅぅ!」日野富子像富子は泣いた。物言わ
前回まではこちら⬇️目次世は争乱…我は室町幕府、第9代征夷大将軍・足利義尚(あしかがよしひさ)である。年が明け、長享3年…六角征伐は相変わらず膠着状態を抜け出せず、我が鈎の陣(まがりのじん)はただただ無駄に時が過ぎていた。鈎の陣跡(現在の滋賀県栗東市)六角勢は攻めては逃げる、相手が疲れたのを見て攻めるの繰り返しをしていたんだ我の体は日々、酒と水しか受付けず弱っていた。その頃、美濃国の革手城(かわてじょう)…城主の美濃の守護、土岐成頼(ときしげより)はここで我の叔父、足利義視(
応仁の乱がおもしろい!学習まんがで「足利氏」と「室町幕府」について学ぶいま話題の『応仁の乱-戦国時代を生んだ大乱』(呉座勇一・著/中公新書・刊)を読みました。≪続きを読む≫[アメーバニュース]実は小生も歴史は好きでして、しかも、戦国時代や幕末ではなく、ちょうど室町時代前期からこの応仁の乱あたりがもっとも好きな時代です。足利将軍でいえば3代義満死亡から10代義材(義稙)のあたりです。応仁の乱前後、足利義政、足利義視ら将軍家をはじめ、畠山義就・政長、斯波義廉・義敏の家督争いに、細川勝
前回まではこちら⬇️目次世は争乱…我は室町幕府、第9代征夷大将軍・足利義尚(あしかがよしひさ)です。「うわぁぁ〜」「押し出せ!」「斬れ!殺れ!」細川政元(ほそかわまさもと)…幼名、聡明丸(そうめいまる)が生まれた翌年の応仁元年(1467年)、ついに戦が始まったのだ。これが世に言う応仁の乱(おうにんのらん)だ。戦いが始まったのは応仁年間だけど、戦乱のほとんどは文明年間だったから、応仁・文明の乱(おうにん・ぶんめいのらん)とも呼ばれているんだよ。戦いは守護大名家の家督争いが原因だ
Eみさんに置いてきぼりにされる夢見た今朝は7時半に起き、熊谷泰昌君と川村竜のCD「OL'SCHOOLJAZZ」を聴いた。朝食に北海道産ななつぼし米でご飯炊き、くめ納豆、海苔で二膳。デザートはニュージーランド産キウイ。「王女未央-BIOU-」第24話をギャオで見た。風呂に小一時間浸り、日本の首相がイランを訪問し最高指導者との会談した日の日本国籍のタンカーへの攻撃は、我が国への警告なんやろと考えとった。ホルムズ海峡の安全は我が国にとってもごっつ大事やが、何者の仕業なのか?昼食は西浅草「鍋茶
こんにちは、城跡で日本を元気にする「城跡地域活性活用専門アドバイザー」であり「日本マイナー歴史研究専門家」の原一六四(ひろし)です。本日も「謀反・反逆・裏切るから見る戦国史」シリーズをお送りいたします。「応仁の乱」の続きです。戦局は西軍有利に進む中、細川勝元は、それまで西軍の斯波義廉が就いていた幕府管領職を剥奪し自分が管領職に就く。そうすることにより政治的に有利にたったのである。さらに細川勝元は、西軍の本陣を背後から襲うべく嵯峨や仁和寺に軍を向けます。西軍は迎え撃つべく
こんにちは、城跡で日本を元気にする「城跡地域活性活用専門アドバイザー」であり「日本マイナー歴史研究専門家」の原一六四(ひろし)です。本日は「歴史の裏側教えます!!」シリーズです。本日は、北条早雲について書きたいと思います。北条早雲といえば一介の浪人から大名にまでなった戦国を代表する下克上の大名です。早雲が歴史の表舞台に出てくるの早雲が40歳を過ぎた頃から。妹の嫁ぎ先の今川家の家督争いを解決するときからが、早雲の快進撃の始まりです。ですが、早雲の妹が今川家に嫁ぐという事は
応仁の乱-戦国時代を生んだ大乱(中公新書)Amazon話題の新書と知って歴史好きな私は、思わず買ってしまいました。応仁の乱と言う日本史で必ず習うメジャーな事件ではあります。世間的には、将軍の跡目を決める問題に有力大名の内紛が重なって大乱になったと言われます。確かにそのような面での考察もこの本には、あります。しかし、この本の特筆すべきことは、京都の隣の大和の国つまり今の奈良県の政情から話が始まっているところです。分かりやすく言えば、日本の歴史教育で一番欠けていると言
こんにちは。前編からの続きです。以前ご紹介したことのある関ヶ原に比べ、この応仁の乱は、登場する人物も馴染みが薄くて、とても地味なのが印象的だと思います。それでも話を進めて行きましょう(^^;慈照寺銀閣室町幕府8代将軍足利義政による造営西軍の援軍として大内政弘が上洛したのと同時期に、東軍で一つの事件が起きました。将軍・足利義政と弟・義視の間の関係が急速に悪化し、義視が京都を出奔して伊勢に逃亡してしまったのです!原因と言えば、何かとシャシャって出てくる日野家の人間が疎ましか
浄土寺にある浄土院です。清泰山浄土院という浄土宗の寺。かつてこの地には、平安時代初期に創建された天台宗・浄土寺がありました。平安時代末期、後白河法皇の近臣・平業房が浄土寺に御堂を寄進。業房は鹿ケ谷の陰謀に加わり、伊豆配流になるも途中で逃亡し殺害されました。業房の妻・高階栄子は夫の死後、丹後局の名で後白河法皇に出仕。後白河法皇の寵妃となって従二位に上り、政治介入。後白河法皇が崩じると、院御所の六条院及び持仏堂の長講堂とそれに付随する膨大な荘園群・長講堂領は丹後局所生の後白河法皇第六皇