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バスでお出かけしたい場所は?▼本日限定!ブログスタンプあなたもスタンプをGETしよう川越、成田、秩父、鎌倉など。【記念日】年賀郵便特別扱い開始日【今日の誕生日】足利義澄(1480年~1511年8月14日)室町幕府11代目将軍後陽成天皇(1571年~1617年8月26日)第107代天皇三木忠直さん(1909年~2005年)鉄道技師、新幹線の車体設計伊東正義さん(1913年~1994年5月20日)衆議院議員、第43代内閣官房長官、第110代外相篠井英介さん(1958年)俳優松
天海②「天正日記」(内藤清成)『十月一日かのへうまはれる王子の御寺御出小田原引付持参也。(中略)せんばのきたいん参る、志のたの、ふどういんこれは京将軍おとしたね也ふどういん、めしるへと仰出されど、宇田川源七出る地わりの事申し付ける。』上記は天正18年(1590年)10月1日に小田原の陣で書かれた徳川家臣の日記である。仙波の喜多院の不動院は将軍の落し胤である、と言っている。つまり、「足利氏ご落胤説」である。これは同時代の一級史料である。同時に天海が小田
天海①「東叡山開山慈眼大師縁起」『慈眼大師(諱天海)陸奥国会津郡高田の郷にて生れ給ひ、蘆名修理大夫平盛高の一そくとなむ、又将軍義澄の末の御子といへる人も侍り、海師いますか内、俗氏の事、人のとひしかと、氏姓も行年もわすれていさしらす、一度空門に入ぬれば、なににもあれ、しりてよしなしとて、の給はさりけれは、その實しりかたし、』僧侶といっても天海ほどの大物になれば伝承に事欠かない。これほど有名で事績の多い人物なのに、不思議なことに出自が不明なのである。通説によ
足利義澄生年月日1495年1月23日(金)日干支壬午同じ日干支の人物(ブログに掲載済みの人物)・徳川秀忠1579年5月2日・宗重正(宗義達)1847年12月13日
細川政元は実質権力を掌握し、足利義澄とも一応の和解をして、やりたい放題でした。特に奇行が目立ちだします。細川政元は修験道・山伏信仰に凝って、女性を近づけることなく生涯独身を通しました。そのため、空を飛び天狗の術を得ようと怪しげな修行に熱中したり、突然諸国放浪の旅に出てしまうなどの奇行がありました。『足利季世記』では「京管領細川右京大夫政元ハ四十歳ノ比マデ女人禁制ニテ魔法飯綱ノ法アタコ(愛宕)ノ法ヲ行ヒサナカラ出家ノ如ク山伏ノ如シ或時ハ経ヲヨミ陀羅尼ヲヘンシケレハ見ル人身ノ毛モヨタ
室町将軍の話を進めていきますと、かならずこの細川政元に触れないわけが行きません。この御仁、自分の都合で、室町将軍を挿げ替えることを平気で行い、無力化している室町幕府にとどめを刺すような振る舞いをしていました。足利将軍もこの細川政元には頭が上がらない状態で、足利義材は細川政元と対立したために、将軍職をはく奪されるという事態になってしまいます。細川政元は足利義材を将軍職から排除した後、足利義澄を将軍に立てるという暴挙に出ましたが、細川政元に盾をつく人はいないので、それが通ってしまいます。今回はその
足利義材が京都を留守にしている間に、京都に残っていた細川政元・日野富子・伊勢貞宗らは同年4月、清晃を11代将軍に擁立して、足利義材を廃する蜂起(明応の政変)を起こしました。細川政元の蜂起の最大の原因は、足利義材が将軍就任時は政務は当時管領だった細川政元に任せると言いながら、成長すると自ら政務を行おうとしたこと、すなわち将軍と管領のどちらが幕政の主導権を握るかにあったとみられています。京都では足利義材派の人々の粛清が行われて市中は騒然となり、自分が任命した将軍の廃立に怒った後土御門天皇は一時は抗
室町将軍第10代足利義材は強力な後ろ盾もなく、それでも、何とか権力を保持しようと、気に入らない大名を征伐するという悪手に出ます。このことで、自分で自分の首を絞めることとなります。足利義材は前将軍足利義尚の政策を踏襲し、丹波、山城など、畿内における国一揆に対応するため、1491年4月に近江の六角行高討伐の大号令を発し、軍事的強化を図りました。この六角征伐は細川一門をはじめ多くの大名が参加し、圧倒的な武力で六角行高を甲賀へ、さらに伊勢へと追い払い、成功裡に終わりました。また、細川政元がこの征伐に反
*2月14日エントリーの続きです。R大学文学部史学科のぜんざい教授と、継子の院生・あんみつ君の歴史トーク、今回のテーマは戦国時代の中国地方。本日は、天下人・大内義興のおはなしです。あんみつ「先生、応仁の乱で大内政弘が西軍に加わったのは、足利将軍家でなく細川氏との対抗上でした。大内氏は東アジア交易の要港である博多を領有し、細川氏は畿内・四国の守護として堺港と瀬戸内海を支配しています。明との勘合貿易の許認可権は足利将軍家にありますから、将軍家
名古屋のシンゾウです本日より《「公式テキスト」重要単語》コーナーを新設します。公式テキストを読みながら、抜き出した単語です。この単語からストーリーが描ければ最高ですね。何処まで続けられるか分かりませんが、利用してください。本日もブログを更新します。――――――――――――本日の問題(274)『小論文対策201:阿弥陀寺』【14291】阿弥陀寺(上京区)、山号と院号は。【14292】阿弥陀寺(上京区)、開山は。【14293】阿弥陀寺(上京区)、どこから京都に移転し
【問題】足利義晴の父は、足利義澄である。○か×か?【選択肢】○×【正解】○【解説】足利義晴は、第11代室町幕府将軍・足利義澄の子として生まれた。大永元年(1521)になって、管領であった細川高国に擁立され、第12代将軍に就いた。
9月6日が命日・忌日の有名人・著名人952年(天暦2年8月15日)30歳崩御(?)朱雀天皇陛下日本の第61代天皇1511年(永正8年8月14日)満30歳没(病死)足利義澄さん室町幕府第11代将軍1945年61歳没(心臓発作)ジョン・S・マケインさんアメリカ海軍大将南太平洋航空部隊司令官1962年64没(?)ハンス・アイスラーさん作曲家『死刑執行人もまた死す』『夜と霧』1994年満50歳没(腸の手術後に生じた併発症)ニッキー・ホプキンスさんミュージシャン
天狗将軍の目次はこちら⬇️目次私、細川政元(ほそかわまさもと)様の忍びであり乳母でもあった紗奈(さな)です。私は政元様の命で政元様亡き後の世がどうなったかを見てきました。それをここで語りたいと思います。その④です。細川高国(ほそかわたかくに)と細川澄元(ほそかわすみもと)の激突が近づいた永正8年(1511年)8月14日…前将軍・足利義澄(あしかがよしずみ)様が近江の水茎岡山城(みずくきおかやまじょう)で亡くなったのです。足利義澄京に帰れる望みが見えてきたのに…享年32歳だったんだ
『天狗将軍』の目次はこちら⬇️目次私、細川政元(ほそかわまさもと)様の忍びであり乳母でもあった紗奈(さな)です。私は政元様の命で政元様亡き後の世がどうなったかを見てきました。それをここで語りたいと思います。その③です。永正5年(1508年)7月、入京した足利義尹(あしかがよしただ)様は将軍職に復帰したのです。足利義尹苦節15年、流浪して流れ公方とか言われたけど、やっと念願叶ったね義尹を支えたのは大内義興(おおうちよしおき)、細川高国(ほそかわたかくに)、畠山尚順(はたけやまひさの
前回まではこちら目次世は争乱…我は室町幕府、第9代征夷大将軍・足利義尚(あしかがよしひさ)である。永正4年(1507年)5月29日、細川政元(ほそかわまさもと)は勅旨により京に戻っていた。勅旨って天皇様の命だから、この場合、後柏原天皇(ごかしわばらてんのう)様の命だね政元は丹後攻めは若狭国の武田元信(たけだもとのぶ)、家臣の赤沢朝経(あかざわともつね)に任した。一緒に細川澄元(ほそかわすみもと)、三好之長(みよしゆきなが)も帰京した。澄元さん之長さんは政元さんと同じ軍勢で一色義有
一緒にバスツアーに行きたい芸能人は?▼本日限定!ブログスタンプあなたもスタンプをGETしようキャイ~ン、出川哲朗さん/はとバスを貸切って東京ツアーしてみたい。『ヒルナンデス!』や『もしもツアーズ』とコラボしてみたい。【今日の誕生日】足利義澄(1480年~1511年8月14日)室町幕府11代目将軍後陽成天皇(1571年~1617年8月26日)第107代天皇三木忠直さん(1909年~2005年)鉄道技師、新幹線の車体設計伊東正義さん(1913年~1994年5月20日)衆議院議員、第
前回まではこちら⬇️目次世は争乱…我は室町幕府、第9代征夷大将軍・足利義尚(あしかがよしひさ)である。文亀3年(1503年)に細川政元(ほそかわまさもと)の家臣、薬師寺元一(やくしじもとかず)が阿波守護家の六郎(ろくろう)を養子に迎える接渉を行なった後、六郎は元服した。六郎くん、14歳で元服したんだよ六郎は将軍、足利義澄(あしかがよしずみ)から一字をもらい、細川澄元(ほそかわすみもと)と名乗ったのだ。細川澄元政元も自らの一字"元"を与えていた。これは京兆家の後継ぎを意味するものだ
前回まではこちら⬇️目次世は争乱…我は室町幕府、第9代征夷大将軍・足利義尚(あしかがよしひさ)である。文亀2年秋…場所は周防山口、大内義興(おおうちよしおき)の館…復元された大内氏館の門大内義興ここには前将軍、足利義尹(あしかがよしただ)が匿われている。義興「御所様(義興の言う御所様は義尹)、京では御弟君の義忠(ぎちゅう)様が細川政元(ほそかわまさもと)の手によって処刑されたと報せが入りました。」義尹「…義忠が…処刑を命じたのは義澄(よしずみ)だな…おのれ!」第11代の将軍
前回まではこちら⬇️目次世は争乱…我は室町幕府、第9代征夷大将軍・足利義尚(あしかがよしひさ)である。「義忠(ぎちゅう)を処刑せよ」文亀2年(1502年)8月4日…将軍、足利義高(あしかがよしたか)は細川政元(ほそかわまさもと)、伊勢貞宗(いせさだむね)に要求書を突きつけた。政元宛の要求書に実相院(じっそういん)の僧、義忠の処刑が書かれていたのだ。義忠さんは前将軍で周防に逃げた足利義尹(あしかがよしただ)さんの弟なんだ政元「御所様(義高のこと)はいずこにおられる!?」僧「今は
前回まではこちら⬇️目次世は争乱…我は室町幕府、第9代征夷大将軍・足利義尚(あしかがよしひさ)である。細川政元(ほそかわまさもと)は養子の聡明丸(そうめいまる)を正式に細川京兆家(ほそかわけいちょうけ)の嫡男とした。嫡男、ようは後継ぎだね政元は急ぎ養子を決めたようだった。話は少し前に戻る。文亀2年(1502年)夏…21歳に成長した将軍、足利義高(あしかがよしたか)は自ら政を行いたいと考えていた。足利義高しかし、実権は政元や幕府政所の伊勢貞宗(いせさだむね)に握られており、何
前回まではこちら⬇️目次世は争乱…我は室町幕府、第9代征夷大将軍・足利義尚(あしかがよしひさ)である。足利義尹(あしかがよしただ)や畠山尚順(はたけやまひさのぶ)の上洛を阻み、幕府を牛耳る細川政元(ほそかわまさもと)は周りから『半将軍』と呼ばれるほど強い権力を持った。細川政元将軍・足利義高(あしかがよしたか)さんは政元によって将軍になれた言わば傀儡将軍だったんだよね権力を握った政元であったが、修験道を極めるために相変わらず鞍馬山で修行を行なっていた。現在の鞍馬山明応9年(150
前回まではこちら⬇️目次世は争乱…我は室町幕府、第9代征夷大将軍・足利義尚(あしかがよしひさ)である。明応8年(1499年)7月…「我に武具を貸せ!でないと寺を潰すぞ!」京の相国寺(しょうこくじ)で将軍・足利義高(あしかがよしたか)が声を荒げていた。現在の相国寺足利義高義高は北から足利義尹(あしかがよしただ)、南から畠山尚順(はたけやまひさのぶ)が攻め上ってくる状況に危機感を持ち、焦っていたのだ。義高さんは18歳。こんな状況は、初めてだったんだ焦る義高を伊勢貞宗(いせさだむ
前回まではこちら⬇️目次世は争乱…我は室町幕府、第9代征夷大将軍・足利義尚(あしかがよしひさ)である。ザクッ!!明応2年(1493年)10月、細川政元(ほそかわまさもと)の家臣同士の喧嘩があり、抜刀し双方斬られた。片方は長潮弥六(ながしおやろく)で、その場で即死、もう一方は丹波国の守護代、上原元秀(うえはらもとひで)は深傷を負った。上原元秀さんは明応の政変で活躍したんだよねそして11月18日、元秀は傷が癒えず亡くなってしまった。政元は明応の政変でも活躍し片腕として期待していた元
前回まではこちら⬇️目次世は争乱…我は室町幕府、第9代征夷大将軍・足利義尚(あしかがよしひさ)である。細川政元(ほそかわまさもと)は自邸の御堂で念を唱えていた。政元さんは修験道に凝っているんだよね明応2年(1493年)の明応の政変により、自ら擁立した足利義遐(あしかがよしとお)を将軍にした。それまであった奉公衆などの将軍の軍事的基盤を崩壊させ、将軍権力は政元の細川氏が支えることになった。ただ、政元が政(まつりごと)を全て握ったわけではなかった。義遐の後見役を伊勢貞宗(いせさだむ
前回まではこちら⬇️目次世は争乱…我は室町幕府、第9代征夷大将軍・足利義尚(あしかがよしひさ)である。「新たな将軍は清晃(せいこう)様改め足利義遐(あしかがよしとお)様である!」義遐さん…後の足利義澄(よしずみ)さんなんだ細川政元(ほそかわまさもと)は高らかに新しい将軍擁立を宣言し、足利義材(あしかがよしき)の将軍職を廃したのだ。京の義材一派はことごく一掃され、義遐一派が制圧していた。河内に遠征していた義材の元には畠山政長(はたけやままさなが)のみが残り、諸大名や奉公衆は京に引き
前回まではこちら⬇️目次世は争乱…我は室町幕府、第9代征夷大将軍・足利義尚(あしかがよしひさ)である。長享3年(1489年)4月13日、美濃にいた足利義視(あしかがよしみ)、義材(よしき)親子が入京した。足利義視足利義材義視さんは応仁の乱では東軍の大将になったり西軍の大将になったりと周りに利用されまくったね我が母、日野富子(ひのとみこ)は義視、義材を住まいの小川御所に招いた。富子は2人を支持していることを周囲に明らかにしたのだ。富子は細川政元(ほそかわまさもと)を小川御所に呼
【問題】足利義澄の子・足利義維は、自らが在所した地名から、次のうち何と呼ばれたか?【選択肢】有馬公方堺公方柳生公方津公方【正解】堺公方【解説】足利義維(よしつな)は、阿波に滞在していたが、細川晴元・三好元長らに擁立されて12代将軍を近江に逐い、一時的に堺に政権を樹立したことから「堺公方」と呼ばれた。
いつもブログを読んでくださり有難うございます。城跡で日本を元気にする為、城跡で地域活性させる歴史エンターティナークリエイターの原一六四です。本日は「謀反・反逆・裏切りから見る戦国史」シリーズです。いよいよ、細川氏の跡継ぎを巡る争いに決着がつく時が来ました!!長らくお送りしてきました「永正の錯乱」も今回が最終回となります。と、その前に原一六四がコーディネートした「城跡ツアー」ですが申し込み受付が、すでに始まっています!!このツアーは定員が25名と決まっていますので、お早めに、
所在地滋賀県近江八幡市牧町特徴元は湖上の島にあった山城で、11代将軍足利義澄を匿った九里氏が城主だった。北麓が登城口で散策道が整備されているが、雑草が繁茂し倒木もあって登城を断念。感想義澄はここで亡くなっていて、来年の冬にでも再度訪問してみたい。
いつもブログを読んでいただき有難うございます。城跡で日本を元気にする城跡で地域活性する歴史エンターティナークリエイターの原一六四です。今回も「謀反・反逆・裏切りから見る戦国史」をお送りいたしましょう。現在は「永正の錯乱」について書いてます。前回の話を確認したい方は、こちらをクリックしてください。【足利義澄、死す】京都の船岡山で細川澄元方と細川高国方との戦いが繰り広げられているとき近江でも、ある動きがあった。以前より近江守護・六角高頼が足利義植を支持するなか、守護