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義満が日明貿易をおこなうためには、天皇と肩を並べ、明の皇帝から「日本国王」に封じられる必要がありました。これは、明の柵封国(明を宗主国と仰ぐ国)となることを意味していますが、義満が当代きっての「中国かぶれ」であったのは事実です。孟子や陰陽道に魅かれ、義満が京に創建した相国寺(臨済宗)も、宋の時代に皇帝の権威の象徴となった首都・開封の大相国寺をモデルにしています。そして念願かない、義満は応永9年(1402)、明の皇帝より「日本国王源道義」(足利氏は源姓で道義は義満の出家名
※下記の記事は2007年投稿時のものをそのまま添付しています。日付などにご注意ください。※行事などは過去のものになります。神社に残る最も古い棟札2007年05月22日|神社「大和州阿伽桶庄宮奉加造営之事願主太夫三郎国重大工紀内太夫文中二年発丑九月初八日」と記されています。ところで文中とは日本の南北朝時代の元号の一つで、南朝方において使用されました。建徳の後、天授の前。1372年から1374年までの期間を指しています。この棟札は、この辺が南朝方であったことを明白
★第九十五代花園天皇は鎌倉時代末期の天皇です。永仁五年(1297年)生。在位、延慶元年(1308年)~文保二年(1318年)。御名は、富仁(とみひと)、遍行。御父は伏見天皇、御母は洞院季子。花園天皇の時代は、両統送立で朝廷が二つに分かれ出したときでした。花園天皇の祖父である後深草上皇とその同母弟の亀山上皇の治天の君争い、つまり次の天皇が後深草上皇系(持明院統)になるか、亀山上皇系(大覚寺統)になるかの争いから始まったものです。両統送立とは、鎌倉幕府が間に立ち交互に両
これまでの経過をみてきますと、義満は確実に足利家が皇位を奪うためのステップを踏んできているように映ります。しかし、まず皇位簒奪を確実なものとするには実仁(みひと)親王(のちの第101代称光天皇)を暗殺する必要がありますが、その形跡がありません。義満には皇胤という自負があり、そのために天皇家と対等な立場を求めたものの、皇位を奪うことまでは計画していなかったのではないでしょうか。そしてもう一ついえるのは、義満には皇位を簒奪する必要がなくなっていたということです。義満
夜の部ようやく散髪したようだ。さんすう慣用句水あめを舐めてます一休さんの水あめの話をした。この水あめは子どもには毒じゃ!大人には薬じゃが子どもが舐めるとたちまち死んでしまう。ある日、小僧さんたちが遊んで和尚様の大切なすずりを割ってしまう。周建は閃いた。私に任せなさい。みんなで水あめを舐めてしまう。和尚様が帰宅して、えーんえーん、大事なすずりを割ってしまい死んでお詫びしようと毒を舐めたが死ねません。あれは水あめじゃ。しかしあれは足利義満将軍から預かった大切なすずりじゃ、どうしたも
足利義満が建立した「鹿王院」は切妻式・本瓦葺で四脚門の棟門式の鹿王院山門を潜ると中門にかけての参道には青苔が茂り、竹林・紅葉がつづきます。2025/12/3
足利義満は後小松天皇の第三子で母は典侍の甘露寺経子(権大納言甘露寺兼の嫡女)。伏見宮貞成親王は足利義満の第三子(三男)。++++++++++++++++++霊魂通信「後小松様、足利義満は後小松さまの何番目の子ですか」「み(三番目)」「母は誰ですか」「つねこ(甘露寺経子)」「ご先祖様のおひとり、嬉しき限り、○○○○と申します」「はい」「南無阿弥陀仏・南無阿弥陀仏、ありがとうございます」「はい」霊魂通信「足利義満さま、伏見宮貞成親王は足利義満さまの何番目の子ですか」「
一休さん第188話なわとびをする将軍様ん?なんかおかしくない?片足ずつ交互に飛んでる!?なんて器用な将軍様。その回数を数える、やんちゃ姫「300…」300回も交互にして飛べるとは…将軍様も、やりおるわい。ところで、その回数よりも「なわとび」の歴史が気になった。一休さんの時代は、足利義満の室町時代。と言うことは、なわとびは室町時代にはあったと言う事になる。調べてみたら、室町時代の童歌には「縄を飛びこにして」と言う歌詞が残っているらしいがそれは女の子の話。
令和7年度特別公開で、嵐山にある曇華院門跡(どんけいんもんぜき)にいきました。足利義満三代将軍の母方の祖母が創建された尼寺です。足利幕府や天皇の皇女さまが住職でした。住職のことを御前様というそうです。明治四年、嵐山に移転する前は三条東洞院あったそうです。
11月24日(月・祝)月曜ですが祝日通常は月曜は休みの兵庫津ミュージアムにその前にランチ。洋食みやもと車で5㎞程の距離初代県庁館、1868年(慶応4年)5月23日兵庫県誕生とともに県庁が置かれました旧大坂町奉行所「兵庫勤番所」を復元した施設。兵庫県立兵庫津ミュージアム兵庫津ミュージアム県立兵庫津ミュージアムは、最初の県庁舎を復元した「初代県庁館」、博物館施設である「ひょうごはじまり館」の2館からなるミュージアムです。hy
―似た者どうし?―今回は、足利義満について。ちょいと見です。前回、北朝のため「働いて働いて働いて働いた」お公家さん、二条良基の性格は、「万機輔弼(天皇の政務万端を支える)」、「百官総己(廷臣の統轄)」に徹した人物と言われています。では、北朝とともに室町幕府の栄光をつくった足利義満はどんな方だったのでしょう。一言でいうと「時間厳守・朝儀欠席禁止」が原則な方だったように見られます。例えば、朝廷行事において、現任公卿の全員が参加するよう強制し
事実上の天皇として朝廷に君臨していた足利義満は、応永13年(1406)12月、後小松天皇の母が亡くなった機会をとらえ、義満は正妻の日野康子を准母とすることに成功したのです。父母が崩御すれば天皇は諒闇(りょうあん)といって、1年間喪に服さなければなりません。しかし、後小松の場合、父後円融につづいて母の諒闇となると、一生の内に2回もおこなわなければならず、義満はいくつか不吉な先例があることを理由に、実母の代わりとなる第三者を准母に立てて天皇の諒闇を回避すべきだと強硬に主張したのです
応永3年(1396)正月の関白一条経嗣の日記にこう書かれています。「今回の叙位(人事)について蔵人頭の広橋兼宣がやって来て、従二位近衛良嗣以下五、六人についてどうするかは、室町殿が沙汰すべきこととなり、折り紙をもっておこなわれることになりましたと伝えてきました。その間、主上(後小松天皇)は一切御口入れなさらないようにとのことでした」かつて院政が全盛だった時代、上皇が折り紙という形式の書状をだすことで朝廷人事に介入しました。それと同じ構図です。いや、それより徹底し
さて、「長楽寺」を訪ねた続き。昨日書いたように、「平家物語」で有名な平清盛の娘・建礼門院が、壇ノ浦の合戦で平家が敗れた後、この寺で出家をしたことで知られている。そして時が流れ足利幕府の時代になり、この寺は足利幕府の将軍・足利尊氏から始まり、歴代将軍の庇護を受けて栄える。8代将軍・足利義政の時代には、義政が東山殿(現在の銀閣寺)を築くとき、その庭を作った相阿弥は、前もってこの長楽寺の庭で、そのための試作としたという。この「長楽寺」が、現在、秘仏の八臂弁財天や寺
―南北朝合一―前回、足利幕府と北朝・天皇家が密接な関係にあった話をしました。これでは、坂東以北を監視する征夷大将軍といえども、京都を出ることは無理でしょう。ある学者さんは、南朝が王権至上主義(天皇がすべてを決める。有名な方が、後醍醐天皇)だったのに対し、北朝は王権限定主義(手続きで進めていく)だったと考えています。その後、天皇と相撲をとった、三代将軍、義満によって、一応、天皇家は一つになり(後小松天皇)、三種の神器も北
蘭奢待をご存じだろうか。お笑い芸人の方ではなく正倉院に納められている香木の方。黄熟香とも呼ばれ、この世で最高の香りとされる。過去には足利義満、足利義政、織田信長が切り取ったと言われている。上野の森美術館の正倉院展でその香りを体験できるということで行ってきた。展示されていたものは、大河ドラマで使用されたレプリカだったが香りのサンプルは成分分析から再現されたもの。神秘的な匂いを想像していたが、嗅いだ印象は白檀のような匂いをベースに少しスパイシーな香り。シナモン
足利義満の次男義嗣が皇太子から天皇となって即位したら、これまでの天皇家と血縁的に無縁な天皇が誕生すると書きました。ただし、それは直近の例でみるとそうなるという話です。じつは、父義詮(2代将軍)の死去に伴い、11歳で将軍となった義満の母を紀良子といい、鎌倉時代の初めに即位した順徳天皇の皇子四辻宮善統(よつじのみやよしむね)親王の曾孫にあたるとされています。それが事実なら、義満は天皇の玄孫(やしゃご)で、いわば皇胤(広義には天皇の男系子孫のこと)となります。まずその
—足利氏との関係—さて、前回紹介した「後光厳天皇」ですが。この天皇と足利氏は、けっこう関係が深い間柄でした。室町幕府の最盛期の将軍ともいえる三代将軍、足利義満ですが、彼の母は石清水八幡宮の検校をつとめた、紀通清の娘、良子。また通清の他の娘には仲子(崇賢門院)がおり、彼女は、公家の広橋兼綱の養女となり、後光厳天皇の典侍となり、緒仁親王(後円融天皇)を生んでいます。つまり、義満と後円融天皇は従兄弟関係でした。なお、義満の娘、
明徳3年(1392)、南朝の亀山天皇が京嵯峨野の大覚寺に入り、北朝へ三種の神器を渡して南北朝という皇統分裂状態は解消されました。しかし、一本化された天皇家の前に、ある「モンスター」が立ちはだかります。室町幕府3代将軍の足利義満です。本ブログで過去に書いたテーマですが、再検証してみたいと思います。天皇家が「万世一系」であるという考え方には疑問符がついていますが、少なくとも日本では六世紀に即位した欽明天皇から現皇室に至るまで天皇家は血縁的なつながりを保っていたと考えて
京都・鹿王院(ろくおういん)をご案内させていただきました。鹿王院は、室町幕府三代将軍・足利義満が1379年(康暦元年)に建立した禅寺で、臨済宗の名刹・宝幢寺(ほうどうじ)の塔頭として創建されました。応仁の乱で宝幢寺は焼失しましたが、鹿王院のみが奇跡的に残り、今も静謐な佇まいを保っています。見どころは、義満自筆と伝わる「覺雄山」の扁額が掲げられた山門や、嵐山を借景とした枯山水庭園、そして、古い瓦を幾重にも埋め込んだ「瓦土塀(かわらどべい)」です。瓦土塀は、再利用された瓦
湊川の戦いの詳細マップ。。平家と源氏の「一の谷の戦い」といい、意外と神戸でも歴史に残る戦が度々行われてたことを改めて知る。兵庫大好きー♡な足利義満さんの紹介✋義満さんは「京都スキー♡」なイメージがあっただけに、これはちょっと意外でした。こちらは江戸時代前期に描かれた「摂津国名所港津屏風左隻」。江戸時代初めの兵庫津の賑わいを伝える貴重な資料のひとつだそうです。中央に兵庫津が描かれており、東側に西宮・尼崎。長く伸びる和田岬に多くの船が入ってくるのが分かりますね♪こちらが当時日本で使われ
🌏1404年足利義満、勘合貿易スタート!⚖️勘合貿易の仕組み勘合符(かんごうふ)→明が発行した「渡航許可証」。木札を二つに割り、日本側と明側がそれぞれ保管。照合の手順→日本の船が明に到着すると、勘合符と明側の控え(底簿)を合わせて確認。→一致すれば「正規の貿易船」と認められ、倭寇(海賊)との区別がついた。👉この仕組みにより、安全で秩序ある貿易が可能になりました。📦どんなモノをやりとりしたのか?日本→明(輸出品)銅・硫黄(火薬の原料として重宝)刀剣(日本刀
🌏1401年足利義満、明へ使節を派遣!🌊倭寇退治と国際デビュー当時の東シナ海は、日本の海賊「倭寇(わこう)」が暴れまわり、中国や朝鮮の沿岸を荒らしていました。明は「日本はちゃんと取り締まれ!」と要求。義満は使節を派遣して国交を結び、「日本もルールを守る国」として国際社会の一員になろうとしました。💰勘合貿易で大もうけ義満は倭寇を禁止する代わりに、幕府が独占管理する「勘合貿易」を始めました。「勘合」とは貿易船に与えられる証明書のことで、正式な許可証を持つ船だけが明と取引できたの
⚔️応永の乱(1399年)―足利義満vs大内義弘🔥乱のはじまり1399年(応永6年)、室町幕府3代将軍の足利義満(あしかがよしみつ)に反発して、有力守護大名の大内義弘(おおうちよしひろ)が兵を挙げました。これが「応永の乱(おうえいのらん)」です。義満は南北朝の争いをまとめあげ、強大な権力を握っていましたが、そのやり方は独裁的。大内氏のような大大名にとっては脅威だったのです。🎯乱の原因義満の圧力:大内氏は周防・長門など6か国を支配し、貿易で富を築く超有力大名。義満
鹿王院にいきました。足利義満創建の寺です。相国寺、金閣寺も義満創建の寺だそうです。10月15日だけお釈迦様の歯(仏舎利)を拝観することができます。拝観者は少なくじっくり、ゆっくりできました。アクセスは嵐電、鹿王院駅から徒歩圏内です。
🏯金閣ってどんな建物?―義満と北山文化のきらめきKinkaku-ji:AShiningSymbolofYoshimitsuandKitayamaCulture✨金閣が建てられた時代(1397年)1397年、室町幕府3代将軍・足利義満(あしかがよしみつ)が、京都の北山に「北山殿」という別荘を建てました。その中心が、あの有名な金閣です。当時の日本は、南北朝の争いがやっと終わり、義満が政治も外交もバリバリ仕切っていた時代。義満は中国(明)との貿易も始め、国際的にも日
🌸1392年南北朝の合一―足利義満がついに内乱を終わらせた!⚔️南北朝の対立、60年の長き戦い1336年、兄の尊氏が京都に「北朝」を立てると、後醍醐天皇は奈良・吉野に「南朝」を開きました。こうして日本は二つの朝廷に分かれた状態に。以後60年ものあいだ、日本列島は「南北朝の動乱」に巻き込まれていきました。👑足利義満の登場3代将軍足利義満は、政治の才能に長けた人物でした。まずは国内の有力守護を徹底的に抑え込みます。1391年明徳の乱:山名氏を討伐1399年応永の
京都の外国人旅行者の宿泊者数が日本人を超えたと先日当ブログに書いたが、京都北山の金閣寺などでは、アイスクリームやポテトチップを食べ乍ら歩き回り境内を汚したり食い散らかしたりの外人観光客による被害が急増。直ぐにでも厳しい法改正をして日本の伝統文化そして名所旧跡を守らないと大変な事になる。何度も当ブログに書いているがインバウンド政策は大幅見直し、廃棄が必要だ。浅はかな評論家が、それは外国人排斥、差別だ等と云うが、不良外人の徹底排除は至極当然の事だ。処で、金閣寺はその名の
「正閏論」の「閏」は、閏年(うるう年)の閏です。旧暦(太陰暦)には「閏月」といって、一年が13ケ月ある年がしょっちゅう、ありました。「三月」の次に「閏三月」がある、だからって人々は閏の月に逼塞しているわけではなく、普通に経済活動をしているわけで。南北朝正閏論、と言います。南北朝の話をするとき、私は「足利義満の政治決着で、南朝が正統、これまでの北朝はニセモノということになった」と書いてきましたが。これは、ちょっとデリカシーのない表現でした。閏は「メインではないが、ニセモノってわけでもな
上の画像は10年以上前に訪れた京都五山別格(五山之上)の南禅寺。画像は石川五右衛門の「絶景かな!絶景かな!」で有名な三門です。あれっ?うちのオバサン(カミサン)黄色い服なんて持ってたんだ?💡京都五山格付け第一の天龍寺。↑大阪からロードバイクで訪れた時の見事なサツキ(?)を撮影しました。🌺渡月橋から歩いて直ぐなのでインバウンドにも人気のお寺です。第二は相国寺。これ(↑)は方丈の枯山水か?境内は御所の北側にあたり場所的には紫宸殿より“上座”です。開基