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金閣寺を年に幾度も訪れる。それで足利幕府がずっと気になっていた。足利尊氏のことも、足利義満のことも知りたいと思い、これを読んでみた。「将軍」というものが源頼朝以来、いかなるものであったのかわかることができた。プロローグ—規格外の男・足利義満:金閣寺(金箔貼りの舎利殿)を(2018年に)訪れた外国人観光客は216万人いたとある。その舎利殿を著者はキメイラだという。神殿造り、書院造り、禅宗様の混合体だから。そして、異様で主張が強いのは、造らせた足利義満の考え方が異様で主張が強い規格外
昨日、インターネットTV“Will-BeStation”から生放送させて頂きました『歴史のお話』“永享の乱”を御覧頂き、ありがとうございました。室町幕府と鎌倉府の対立、そして、関東の戦国のハシリへと…。絶対に許さないマンと助命嘆願者の思惑…そして…。鎌倉府を創設した室町初代将軍・足利尊氏は、後にこんな事になるとは思っていなかったハズ??☆見逃したというアナタ!こちらから録画を御覧下さい!↓↓↓↓↓https://www.youtube.com/live/Swl7fM-art
本日、4/15(月)PM8:00〜インターネットTV「Will-BeStation」より、『歴史のお話』“永享の乱”生放送!関東における戦国時代のハシリ…??YouTubeライブでお届けします。生放送開始直前に、こちらでURLを公開!↓↓↓↓↓https://www.youtube.com/live/Swl7fM-art0?si=dsiMbXj8Z5rA4r42歴史のお話~第149回「永享の乱」~主演文化歴史学者KickMizukoshi文化歴史学者Kick
明日、4/15(月)PM8:00〜インターネットTV「Will-BeStation」より、『歴史のお話』“永享の乱”生放送!関東における戦国時代のハシリ…??YouTubeライブでお届けします。生放送開始直前に、こちらでURLを公開!↓↓↓↓↓https://www.youtube.com/live/Swl7fM-art0?si=dsiMbXj8Z5rA4r42歴史のお話~第149回「永享の乱」~主演文化歴史学者KickMizukoshi文化歴史学者Kick
皆さま、こんにちはこの間、お花屋さんで初めてお花を買いました🌷🤗❤個人的には1本だけで花瓶に飾るのが大好きです写真のお花はバラカタリナというバラの一種のようです🌹花言葉は、友情・嫉妬とか書いてましたこんなに違う2つの意味があるのは、とても謎ですよね🤔長くなりましたが😅金曜日ですね!週末ですよ~~今日も笑顔で頑張ります😀料理にオリーブオイルよく使う?▼本日限定!ブログスタンプあなたもスタンプをGETしよう•••••cut•••••・1429年(正長2年)3月15日、足
室町時代のお話だと足利尊氏とかの最初のあたりか、応仁の乱後のお話が多いですが、中間地点くらいの時代もなかなかの乱世で面白いです。この本は「永享の乱」「嘉吉の乱」が題材になってます。将軍でいうと、六代目の”くじ引き将軍”足利義教の治世です。わたしは関東管領の上杉憲実さまが好きなので、さぞかし面白キャラ発揮してご活躍されるのだろうと思っていましたが・・・スゴイ実力者ではあったけど、ナレーションのみっていう幻の英傑だったわ。出て欲しかった。しゃべって欲しかった。憲実さま。それは
室町幕府6代将軍は、足利義教である。義教は室町幕府3代将軍・足利義満の子で生母は醍醐寺・三宝院の坊官・安芸法眼(ホウゲン)の娘・藤原慶子(ヨシコ)、4代将軍・義持の同母弟である。幼少より入寺し、天台座主まで務めたが義持の後継者となり6代将軍となる。当初は管領以下の宿老の意見に従って政務を行なったが、将軍専制を志向する様になり、将軍の権威確立、幕府の威厳確立をはかり公家を圧迫する。政策が峻烈過ぎて諸将の不満や不安を招き、嘉吉元年に赤松満祐(ミツ
颯々織何と読むかわかりますか?(*゜Q゜*)答えは「ざざんざおり」です*ଘ(੭*ˊᵕˋ)੭*ੈ✩‧₊˚颯々織(ざざんざおり)を訪ねてPart1静岡県浜松市へやって来ました。大河ドラマ『どうする家康』で浜松市は盛り上がっています浜松の伝統織物であるざざんざ織を唯一軒で織っている手織り工房あかね屋さんをご訪問しました。ざざんざ織は双子の繭玉糸を茜、やまもも等草木で染めて昔ながらの手織機で織ります颯々(ざざんざ)とは松風の音で
今日は大村夏越祭りの花火大会。長崎空港近くで花火を上げるので,長崎空港の最終便の飛行機が着陸した後に花火大会は始まるので,9時前後から花火が上がります。社会人からすれば翌日の仕事のことも考えながらの花火の鑑賞となります。さて今回は,昨日話題となった「天最真空パック」。なんやそれって思われそうですが,これって以前教えてもらった歴史のゴロ合わせなんです。すなわち天台宗が最澄,真言宗が空海ってなわけです。ちなみに天台宗は比叡山延暦寺,真言宗は高野山金剛峰寺ですね。最澄にしても
6代将軍を籤引きで決めた理由として、『建内記(けんないき)』(内大臣万里小路時房の日記)には、3回とも籤は「義円(足利義教の出家名でその後還俗)」とでたことから、籤はイカサマだったとしています。つまり、神意を借りて諸大名らを心服させるためにイカサマを仕組んだというのです。しかし、今では『建内記』の内容の真偽が問われ、イカサマ説は否定されています。それでは、義持の真意はどこにあったのでしょうか。謎を解く手がかりは、彼が家督を継いだ当時に隠されています。その
足利義持は5代将軍義量(よしかず)の死後、どうして後継を決めなかったのでしょうか。まず義量が死去した際、まだ19歳だった彼にも、父の義持にも、後継となる男子がいなかったこと。次に義持の正室や側室との間にまだ男子誕生の可能性があったことです。事実、義持は石清水八幡宮(京都府八幡市)の社前で男子出生の可否を籤で占って「吉」と出た日の夜、男子誕生の夢を見て、それを神託だと確信しています。よって猶子(事実上の養子)をもうけなかったというのです。義持の知恵袋的存在
ブログばかり書いている場合ではないのですが…17年聖なる書籍を書いてきて、その多くで出会うのは人間界のウスギタナイ姿がほとんどな現実にさすがに疲れる…(このブログ会社だってそう。ウスッペラな正義感で犯罪補助をし、私のブログに制限までかけた。読者さんなら解るでしょう…ネット社会において、ウスッペラなコンプライアンスとAIの判断で良い人間界が来る訳が絶対にない!これは断言。モ、疲れた…)小さな、こなしていかなきゃいけない仕事もあるが、「チリも積もれば山となる」で、ちょっと山というより岡ぎみに…
”悪党の戦旗”岩井三四二著新人物往来社応仁の乱の10~30年前の話。赤松家の一党が将軍・足利義教を弑した「嘉吉の乱」の後日談。嘉吉の乱の後、赤松家の家来たちが辿った過酷な道を描く。主人公は小寺藤兵衛という赤松家の武士。赤松家再興のため、南朝の手にある神璽を奪い北朝に献上すべく、赤松家の遺臣たちは吉野への潜入を画策する。20年近い歳月を主家再興のために費やした武士たちの壮絶な生き方を描いてあり、とても興味深く読んだ。
山名時熙には、満時、持熙、持豊の三人の息子がいた。前述の通り、長男の山名満時は、父に先立ち、死去した。1428年(応永三十五年)、山名時熙は、重病になると、三男の持豊を山名氏の後継者にしようとした。しかし、六代将軍の足利義教は、自身の側近であった、次男の持熙を後継者にするように命じたのである。山名時熙の病状が、回復したため、後継者問題は、先送りになったが、将軍の意向が、示されたため、山名氏は、動揺した。しかし、1431年(永享三年)5月には、山名持熙が、将軍の足利義教の勘気
山名時熙は、山名義時の長男で、父の義時の死後、山名氏の惣領の座に就いた。しかし、父の山名義時は、山名時氏の五男であったため、長男の師義の息子達、即ち、嫡流である、山名満幸と、山名時氏の四男の四男、山名氏清が、不満を抱いていた。五男の山名義時が、山名氏の惣領を相続したのは、師義の長男の義幸が、病弱であったためである。嫡流の山名義幸は、山名氏の惣領を継承できなかったことに不満を抱いた、様子はない。また、山名師義の次男の山名氏之は、時義の養子になっている。師義の三男の山名義熙は、
こんにちは(・∀・)福岡県那珂川市多次元ライトワーカー光の案内人Greenessence〜緑の滴です。久々の夢のメッセージしかも横向きに寝ていて、足の裏を蹴られて目が覚めるという…午前3時でした😨暗闇に2人が横向きに横たわっていまして。1人は僧侶。後ろに武士❓みたいな人。しばらくすると白骨遺体に変わっていまして。名前も言っていたけれど覚えていませんでした。騙し討ちとメッセージ😨なんだ❗️これは❗️でした😱「騙し討ち」で検索すると4人の延暦寺の僧侶が時の室町幕府の将
こんばんは京都のkojiro(小次郎)です今日(2023年4月13日)の京都市内は朝から青空が広がる絶好の撮影日和でした。こういう日に限って小次郎は朝から多忙…残念な一日でした。さらに、ようやく仕事から解放されると思った直後にめまいが襲ってきて歩くこともままならない状態に…。というわけで、めまいが治まるまで(問題なく歩くことができるまで)コーヒーでも飲みながらブログの更新をします(笑)。さて、今回の「kojiroの京散歩」は、3月下旬に京の寺院で撮影させて
三月大歌舞伎の中の大本命!第一部花の御所始末足利義教:松本幸四郎畠山満家:中村芝翫安積行秀:片岡愛之助足利義嗣:坂東亀蔵陰陽師土御門有世:中村亀鶴茶道珍才:澤村宗之助茶道重才:大谷廣太郎畠山左馬之助:市川染五郎執事一色蔵人:市村橘太郎執事日野忠雅:松本錦吾明の使節雷春:澤村由次郎廉子:市川高麗蔵足利義満:河原崎権十郎入江:中村雀右衛門どうしても、何が何でも観たかった演目それは、ご先祖様が出るから!!昭和49年初演、昭和58年以来の再演ご先祖様
悲しみと怒りのキーウ氷点下の朝、響く国歌-nippon.comnippon.com【キーウ共同】ロシアの侵攻が始まった1年前とは異なり、爆発音も空襲警報もなく、平穏に明けたウクライナ...…続きを読む→祖国の平和のためにバイオリニストの誓い|読売テレビニュース読売テレビQ:空襲警報は続いている?)電気がなくなり空襲警報が鳴る。ロシアの侵略者は住宅に砲撃しています。今日は2回空襲警報が鳴りました」【歴史シアター】斉明天皇の両槻宮、動乱時用の離宮か奈良・酒船石遺跡
1408年(応永十五年)、三河国守護の一色満範に対し、三河国守護代の小笠原明鎮の弟、小笠原長正が、三河国幡豆郡にて、一色軍と交戦し、12月26日、一族郎党と共に敗死した。満範は、直後の翌年、1月6日に死去する。監禁されていた、明鎮の父子は、その二ヶ月後の3月に切腹を命じられ、一色氏の守護代としての小笠原氏は、滅亡した。一色満範の死後、家督を継承したのは、嫡子の次男、義貫であった。しかし、一色満範の庶長子、兄の持範と家督継承を巡って、対立した。持範には、滅ぼされた、小笠原氏の
多喜浜塩田の第一次開発工事定杭打ち計画図公民館広報より1703年と云えば元禄の終わり頃徳川綱吉の時代元禄は1704年まで塩浜は既に松神子と垣生にあり阿島の北にも小規模であったと思う右下の阿島川は塩田開発のため川筋変更の難工事があり岩を切り抜き「切抜」という地名が残る沖に大小の久貢島があった今はどんどん削られている因みに塩田跡は貯木場となり多喜浜中学校もあったゴルフ場にもなったが、今は埋め立てられ工業団地となっている大島・黒島・垣生山(島)島の字は嶋が使われ
嘉吉の乱――室町幕府を変えた将軍暗殺(ちくま新書1683)Amazon(アマゾン)242〜3,010円嘉吉の乱、というよりは室町時代の播磨の豪族・赤松氏の盛衰がまとめられています。足利義満は強大な権力を背景に、複数の国の守護を占めていた山名氏や大内氏など有力大名家の内紛を焚きつけて介入し、その勢力を削ぎ落とします。その子、義持も同じことを企み、目を付けられたのが赤松氏でした。父の跡を継いだ赤松満祐は備前・美作守護の継承は認められましたが播磨守護は没収され、又従兄弟で将
12月12日の京都神社仏閣巡り。2社目は伏見区の藤森神社です。午前8:30に鳥居前に到着!澄んだ朝の清々しい雰囲気の中、まっすぐ伸びる参道を見て心引き締まる思いがしました!神社の前に立つや否や、穢れを祓ってもらえた感じが!ブロ友さんが毎日お参りしてるのが理解出来た感じがしました。帰宅後、写真を見て気付いたのですが、車道の方を歩いてました、俺・・・参道に「人・馬」とあることから、この長い真っ直ぐな参道で馬を走らせる神事があるのでしょう!上の写真、右側の参
2022年3月29日の大阪散策の続き。「中島惣社」をお参りした後は、「崇禅寺」に向かいました。中島惣社のレポ『中島惣社~大阪府大阪市東淀川区の神社』先日2022年3月29日に、大阪の出撃レポをアップしましたが、こちらもまたまた、シリーズでアップして行きますね~2022年3月29日の大阪出撃速報レポ『…ameblo.jp「中島惣社」から東の路地の方に進むと、正面突き当たりに立派な門が見えて来ます。門の脇には「崇禅寺馬場」と刻まれた石
茶湯御政道というと、「信長か!」と思う人がほとんどですが、実は信長の茶湯御政道は、二番煎じでして、最初は全く別の人物が始めたものです。それは、足利義教。足利義教-Wikipediaja.wikipedia.org足利将軍家第六代の公方。織田信長から百年ほど前の人物で、ギリギリ戦国に含まれない室町中期の将軍です。※室町前期は南北朝、室町後期は戦国。彼が茶湯御政道を始めたのは、将軍権力の復活を企図してのことであったと言われます。というのは、彼
中世社会において度々行われた寺社に対する焼き討ち。特に平重衡の南都焼き討ちや松永久秀と三好三人衆の合戦による大仏殿焼亡、織田信長の延暦寺焼き討ちが知られています。彼らに信仰心がないから(特に信長は無神論者の合理主義者のように言われることが多いですが、近年では中世としては当たり前の信仰心の持ち主であったと考えられています)寺社を躊躇なく焼き払ったというわけではなく、その背景には中世人の心性が大きく影響しています。本書は寺社焼き討ちの事例を検討し、寺社を焼き討ちするに至る中世人の信性に
室町幕府は、常に敵対勢力がいたことで全国を統治出来ず、弱体な印象があると言われます。ところが、この常に敵対勢力が居る状態というのが、むしろ室町幕府が存続し得た大きな理由ではないかと思うのです。室町幕府は、建武政権から謀叛として足利尊氏が建武2年(1336年)に討伐を受けたことから始まります。この時点で既に足利軍とは、建武政権という敵対勢力に対する反乱軍という一揆の性質を有しています。つまり、足利尊氏と与力の侍の間は主従というよりは援軍に近い状態であったと思われます。その結果、例え敵対
ロシアのウクライナ侵攻の余波を受けてG20サミットではまたもや共同声明が決められない事態となりました。民主主義では合議制が一番ですが、決められないと組織の機能不全とか言われます。決めやすいのは独裁政治ですがこれは怖い一面をもってます。ただ決められないのは困ると難しいですね。世界は多様性を尊重する方向に向かっているから私の言うことを認めてよ、その代わりあなたの言い分も認めるからということでお互いの言い分を認めていたら、結局決まらなくなるのでは?と思ってます
政治家、政治活動家の暗殺事件は、日本でも海外でも相当な数の事例があるここでは、中学校で学ぶ歴史レベルで日本で起きた政治家、政治活動家の暗殺事件を簡単に振り返る。長くなるので、飛鳥時代から江戸時代までと幕末から明治維新以降に分ける。645年6月12日中大兄皇子と中臣鎌足が、聖徳太子の没後に飛鳥時代の政治を支配していた豪族蘇我氏の権力者、蘇我入鹿を暗殺する政治クーデター「乙巳の変」を起こしたまた、蘇我入鹿の父蘇我蝦夷が自害した。後に、「大化の改新」と呼ばれる政治改革の序章とされる政変と言