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国道1号線を草津から米原方面に北上していたところで、「上鈎」という交差点を見つけ、にわかに「鈎の陣」を思い出しました。信号待ちの間に急いでゆかりの場所を探して辿り着いたのが写真の石碑。ただ足利義尚が居住していた「鈎御所」がどこにあったのかについては未だ定説がないのだそうです。足利第9代将軍の義尚は8代将軍義政の実子で、なにかと有名な日野富子の実子でもあります。義尚が生まれたことで将軍職を譲られることが内定していた義政の弟・義視の心がぐらついて、そこに各方面のお家騒動が結びついて大乱に至
「応仁の乱の終了」藤井竜王の37手詰はいつからかみなさん、おはようございます将棋の藤井八冠竜王防衛おめでとうございました37手詰はお見事ですいつから読んでいたのでしょうかさあ、今日「11月12日」の國史を学びましょう「応仁の乱、終了」文明9年(1477年)応仁の乱は足利義政(8代)と日野富子に義尚(よしひさ、9代)が誕生したことから始まりました後継者として坊さんを辞めて義政の養子となっていた義視(よしみ、義政の弟)との争いです有力大名の
<(いくら考えても我が家に迎えるにあなた以上の方は想像ができません。)(物怖じもせず作る食い物は旨い。要するにつまり——)(私自身があなたのことを気に入っている!)>(114頁)これ以上の言葉は、なかなか思いつかないと思います。新九郎は、奉公衆小笠原政清の末娘ぬいと結婚します。奉行衆と奉公衆が引き起こした「文明十七年の動乱」の処理を巡り、御所義尚(よしひさ)と大御所義政のつばぜり合いがありました。御所の勢力が決定的に伸長し、義政は、義尚の求めに応じ出家しました。この間
【食育クイズ:Vol.1341】「京都府」の「応仁の乱」おさらいクイズ!「応仁の乱」の発端の場所となった「京都の寺社」名は?↓↓↓↓↓↓問題は下記から↓↓↓↓↓↓∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞国産大豆100%大豆ミートプレミアムソイミンチ粗挽き鶏ミンチ風サラダ・スープに大容量サイズ1kgAmazon(アマゾン)2,068円Eco&Art太陽パネルの元で育った大豆のコーヒー(浅煎り,100g×2袋)A
室町幕府第8代将軍足利義政の正室「日野富子」さんについて、取り上げます。どんなイメージですか。ちょっと古い人だと、応仁・文明の乱の原因、悪女、銭の亡者、というイメージでしょうか。もっとも昨今、すこーしイメージアップできてるのではないかと思ってます。「悪女」一辺倒ではない感じ。守銭奴イメージだって、足利義政の政治感覚のなさ、高度に発達した貨幣経済などが、彼女をそうさせた一面があったと。つまり、根っからの金の亡者だったわけではないということ。また、嫡子義尚を将軍にするための富
足利義尚生年月日1465年12月11日(水)日干支丁卯同じ日干支の人物(ブログに掲載済みの人物)・黒田忠之1602年12月22日・正岡子規1867年10月14日
応仁の乱の解説書と言えば、かのベストセラー『応仁の乱』(中公新書)がありますが、興福寺の話から始まったり、読みやすいのですが内容を理解するまでに結構読み直す必要があったりします。『『応仁の乱』呉座勇一・著』名前だけは知っている、といっても平城京のことではありません。日本史の転換点と呼ばれる応仁の乱のことです。僕を含め、「足利将軍家のお家争いが発端で・・・」とい…ameblo.jp本書は、室町幕府凋落の原因となった嘉吉の変から始まり、歴代将軍の動向を中心に明応の政変までの時代の
王朝和歌史上における定家の立ち位置は「百人一首」の編纂の功罪をもって決まり手とする。カルタ取りなる稚戯ながら古典に親しむヨスガとなるも、さしたる理由もなく採用されなかった歌人は歴史の中に消えてしまい、あまつさえ定家の選歌以降の歌人は顧みられる事もない。足利義尚もアタシと同じように考えたからかどうかは解らないが「新百人一首」なる私撰集を編纂していますが、落穂ひろいの出来栄えは、、、どうなんでしょう。選ばれて然るべき名歌人ばかりかどうかはなんとも言えないが、、、源順源三位頼政宮内卿俊成
足利義政が無茶苦茶なことを数々してくれたおかげで、室町幕府というものがすでに名目上のものとなり、時の権力者が足利将軍を張子の虎に据えて、好き勝手するという時代になってしまいました。ですから、時の権力者に担ぎ上げられた将軍はコロコロ変わるという混沌の時代になっていきます。その先駆けが足利義材です。この足利義材は良い様に使われては捨てられてを繰り返しますが、権力という絶対的な力は終始持てず、振り回されていく人生となります。名前も3回変えることから、形だけは変えても、その流れは変えることが出来ず、戦
足利義政がしっかりしていれば、ちゃんとしていれば、数々の悲劇や応仁の乱や、室町幕府の衰退はありませんでした。しかし、足利義政は優柔不断でかまってちゃんですし、自分がチヤホヤされないと拗ねて、おかしなことをしだすので、周りからの信頼をどんどん失わせるようなことになってしまいます。しかも、足利義政本人は全くそのことに気がつかず、あくまでもその時の気分で決めてしまいますし、本当に愚かな人物としか言いようがありませんでした。経緯としては長らく実子のなかった足利義政は弟の足利義視を養子にしていたが、足利
室町将軍、第6代の足利義教が強引なやり方であったにせよ、全国を統一し、室町幕府最高の威光となり、室町幕府の権威は最高潮でした。ところがその息子、足利義政が将軍をやっている最中に、室町幕府の権威は失墜し、二度と立ち上がれなくなります。親父が立派でもその息子はまるでダメというのは現在でも通用するパターンですが、まさにその通りの構図でした。祖先が築き上げたものをすべて、自分がぶち壊したのを何とも思っていない、足利義政の行動には呆れるばかりです。元はと言えば、足利義政の失政で、起きた応仁の乱。この時、
1475年2月、甲斐敏光が東軍に降伏し、遠江守護代に任命されました。これも東軍の謀略が功を奏しました。西幕府の管領で甲斐敏光の主君であった斯波義廉も同年11月、守護代織田敏広を連れて尾張国へ下国し、消息を絶ちました。しかし和平工作を行っていた日野勝光が死去したため、和睦の流れは一時頓挫しました。翌年1476年9月には、足利義政が西軍の大内政弘に「世上無為」の御内書を送り、12月には足利義視が足利義政に恭順を誓い、足利義政も足利義視の罪を不問に付すと返答し、和睦の流れが加速しました。足利義政にと
1468年3月17日に北大路烏丸で西軍の大内政弘と東軍の毛利豊元・小早川煕平が交戦、3月21日には、稲荷山の稲荷社に陣を張って西軍の山名側の後方を撹乱・攻撃していた東軍の細川方の骨皮道賢が攻撃されて討死し、稲荷社が全焼しました。5月2日に東軍の細川成之が西軍の斯波義廉邸を攻めたり、5月8日に東軍の細川勝元が西軍の山名宗全の陣を、8月1日に東軍の細川勝元の兵が相国寺跡の西軍の畠山義就の陣を攻めていたが、戦闘は次第に洛外に移り、山科、鳥羽、嵯峨で両軍が交戦していました。管領斯波義廉は西軍に属したも
2018年から連載が始まったゆうきまさみの本格室町大河もはや第8集。第7集まで主人公・伊勢新九郎盛時を表紙に据えていましたが、遂に新九郎の人生に大きな影響を与えた一人、今川上総介義忠が表紙を飾りました。表紙に違わず義忠が遠江へ出陣し大暴れ。この第8集に関しては『新五郎、奔る!』でもいいのではないかと思われる程義忠の従弟である小鹿今川新五郎範満が室町殿の意向に反する動きをする義忠をけん制し奔走する姿が描かれています。足利将軍家も9代義尚に代替わりし、急逝した父・勝元に代り聡明
(手原稲荷神社)JR草津線の手原駅より南に150m。手原稲荷神社前(35.025938,135.999320)から旧東海道を草津宿に向かいます。このあたりまで来ると、京都や大阪への通勤圏に入ってくるのか、かなり現代的な住宅やアパートが増えてきますが、それでも旧道沿いには所々に古い民家が残っています。神社の北西角から360mさき右手、アパートの駐車場わきにあるのがすずめ茶屋跡の碑です(35.026065,135.995278)。小さな石碑なので、ゆっくり走っていないと見落としてしまい
県道116号(旧東海道)に出て直ぐに、草津市から栗東市に入りました。草津市と栗東市の境界線から約100m左手民家の庭先に、「東海道小柿村高札場」と書かれた手書きの看板がありましたが、当時を伺わせるものは全くありませんでした。更にその先数十メートル先左手の、これも民家の庭先に「史跡老牛馬養生所跡」と刻まれた、高さ1.5mほどの石碑が立っていました、そばにある説明板によりますと、江戸天保年間、和迩村榎の庄屋岸岡長右衛門が、牛場で老廃牛馬が打ち剥ぎされている
・足利義政と銀閣と銀閣がある時代~現在に至るまで~1458年季瓊真蘂,足利義政の片腕となる1459年畠山弥三郎病死➜弟畠山政長が擁立されることに1460年畠山義就失脚➜政長支持(足利義政・細川勝元・山名持豊)1464年政長,管領就任➜家督継承1467年義就,持豊の支持を得,政長管領解任➜応仁の乱へ1459年日野富子,男児出産すも,死産(➜今参局(いままいりのつぼね)の呪詛が発覚➜自殺)1460年伊勢貞親,政所執事となる(足利義政の片腕となる)1460年斯波義
応仁の乱についての最大の誤解は、乱の原因が将軍の跡継ぎ問題だ、と思い込んでいることです。むかしは歴史の教科書にもそう書いてあったので仕方ないんですが。これは大きな誤解です。乱のそもそもの原因は、幕府の有力メンバー・畠山氏の相続争いです。それぞれが、幕府の有力者である細川勝元と山名宗全を頼ったため、この両者が派閥を作って対立するようになります。両派閥とも、自分の正統性を主張するための「旗」が必要になります。そこで、もともとなかった将軍家の後継者争いをわざわざ起こさせて、御神輿に仕立てた、という
1465年12月11日(寛正6年11月23日)に室町幕府9代将軍の足利義尚が生まれました。父は8代将軍の足利義政で母は日野富子です。1473年の8歳の時に将軍になり、1489年に享年24歳で亡くなっています。その誕生は応仁の乱を起こし天下を揺るがすものでした。足利義政は長年にわたって子がいなかったため、弟の足利義視を養子にして跡を継がせようとしていました。その時に正室で力があった日野富子が足利義尚を産みます。日野富子は足利義尚に跡を継がせようとしたため、応仁の乱が起きたとも言われてい
前回まではこちら⬇️目次世は争乱…我は室町幕府、第9代征夷大将軍・足利義尚(あしかがよしひさ)である。長享3年(1489年)3月末…足利義尚我の葬儀が営まれた。義尚さん、近江の六角征伐の最中に亡くなったんだ我の亡骸は京へ帰り、我が母・日野富子(ひのとみこ)や細川政元(ほそかわまさもと)が葬ってくれたのだ。政元は葬儀に参列するため、入京しようとしていた足利義視(あしかがよしみ)、義材(よしき)親子を美濃に留め置いた。我が政元に残した言葉…『そなたが将軍になるのだ。』そのこと
前回まではこちら⬇️目次世は争乱…我は室町幕府、第9代征夷大将軍・足利義尚(あしかがよしひさ)である。「最後の出陣…そなたと一緒で…嬉しかった…。」長享3年(1489年)3月26日、我は死んだ。細川政元(ほそかわまさもと)は我を抱き、陣まで運んでくれた。我が母、日野富子(ひのとみこ)は…富子「…義尚、起きなされ。いたずらにこの母を騙してはなりませぬぞ。母はわかっておる。こうして母を困らせようとしているのであろう………義尚!義尚!うっううぅぅぅ!」日野富子像富子は泣いた。物言わ
前回まではこちら⬇️目次世は争乱…我は室町幕府、第9代征夷大将軍・足利義尚(あしかがよしひさ)である。長享3年(1489年)3月、我は決心した。義尚「皆の者!今より陣を出でて総攻撃をかける!」それを聞いた我の側近は尻込みをし出した。側近の代表格である結城尚豊(ゆうきひさとよ)は我を止めた。尚豊さんは義尚さんの寵愛する側近で近江守護にもなったんだよ尚豊「御所様の出陣はお体にさわります。命に関わります。御所様は京にお帰りなり、義材(よしき)様に代わっていただきますゆえ。」義尚「尚
前回まではこちら⬇️目次世は争乱…我は室町幕府、第9代征夷大将軍・足利義尚(あしかがよしひさ)である。年が明け、長享3年…六角征伐は相変わらず膠着状態を抜け出せず、我が鈎の陣(まがりのじん)はただただ無駄に時が過ぎていた。鈎の陣跡(現在の滋賀県栗東市)六角勢は攻めては逃げる、相手が疲れたのを見て攻めるの繰り返しをしていたんだ我の体は日々、酒と水しか受付けず弱っていた。その頃、美濃国の革手城(かわてじょう)…城主の美濃の守護、土岐成頼(ときしげより)はここで我の叔父、足利義視(
前回まではこちら⬇️目次世は争乱…我は室町幕府、第9代征夷大将軍・足利義尚(あしかがよしひさ)である。長享2年(1488年)秋…京は東山現在の東山山荘銀閣細川政元(ほそかわまさもと)は東山山荘で我が父、足利義政(あしかがよしまさ)に会いに行った。義政さんは政から引退して東山で山荘造りに熱中していたんだ。ちなみに銀閣寺は義政さんの死後に完成したんだよ義政は幼児を連れていた。政元「大御所様(義政のこと)、そちらは?」義政「これは我が甥、清晃(せいこう)じゃ。」政元「清晃様、堀越
前回まではこちら⬇️目次世は争乱…我は室町幕府、第9代征夷大将軍・足利義尚(あしかがよしひさ)である。「うぅ…」六角の甲賀衆に襲われそうになった細川政元(ほそかわまさもと)を庇って助けたのは天狗だった。政元さんは威信をかけて六角を攻めにかかったんだ政元は天狗の面を取った。政元「そなた…いや…あなたは…母上!!」天狗の面から現れた顔は行方知れずになっていた政元の母、里(さと)だった。里って名前はこの物語の創作だよ里「政元…」政元「行方がわからず探しておりましたが…なぜ天
前回まではこちら⬇️目次世は争乱…我は室町幕府、第9代征夷大将軍・足利義尚(あしかがよしひさ)である。長享2年(1488年)の真夏…細川政元(ほそかわまさもと)は六角征伐を終わらせるべく意を決して甲賀攻めに乗り出たのだ。六角征伐は六角高頼(ろっかくたかより)が甲賀山中に逃げて戦線は膠着状態になってしまっていたんだ。政元「皆のもの、山中の六角勢を残すな!一人残らず一掃せよ!」政元に従うは上原賢家(うえはらかたいえ)、薬師寺元長(やくしじもとなが)、香西元長(こうざいもとなが)、
前回まではこちら⬇️目次世は争乱…我は室町幕府、第9代征夷大将軍・足利義尚(あしかがよしひさ)である。長享2年(1488年)夏、我は血を吐き倒れ、床に伏した。細川政元(ほそかわまさもと)は医師に我の病状を聞いたようだ。義尚「政元…我のこと、医師は何と言っておる?」政元「…今は安静にすることが大事です。」義尚「されど、六角高頼(ろっかくたかより)の兵がこの鈎の陣(まがりのじん)をかく乱しておる。放ってはおけない。」政元「御所様には大名を初めとする軍勢がおりまする。」義尚「大
前回まではこちら⬇️目次世は争乱…我は室町幕府、第9代征夷大将軍・足利義尚(あしかがよしひさ)である。長享元年(1487年)9月、我は2万2千もの大軍勢をもって近江国の六角高頼(ろっかくたかより)征伐に出陣した。高頼は自らの居城、観音寺城から甲賀に逃れた。観音寺城跡観音寺城は標高432mのきぬがさ山の山上にある山城なんだよ義尚「高頼め、逃げても無駄だ!甲賀まで追いつめて討つのだ!」我は軍勢に命じた。しかし、六角勢は小軍勢で奇襲、待ち伏せといった思いもよらぬ戦法で我が軍勢を
前回まではこちら⬇️目次世は争乱…我は室町幕府、第9代征夷大将軍・足利義尚(あしかがよしひさ)である。長享元年(1487年)9月、近江の寺社や公家の荘園は六角高頼(ろっかくたかより)が勝手に押領していた。我は細川政元(ほそかわまさもと)と謀り、六角を征伐するため出陣することにした。政元さんはあまり乗り気ではなかったんだ政元は我に出陣を思い留まるよう、何度か説得してきた。政元「御所様、今、六角に領地押領したことの詰問を書状にて行なっております。その返事から来てから征伐の判断をし
前回まではこちら⬇️目次世は争乱…我は室町幕府、第9代征夷大将軍・足利義尚(あしかがよしひさ)である。長享元年(1487年)春…「攻めよ!奪え!」それは近江国で起こった。近江国の守護、六角高頼(ろっかくたかより)が寺社や公家の領地である荘園や将軍の奉公衆の領地を押領し始めた。押領って他人の領地の田畑や年貢を略奪・支配することなんだよ。悪いやつらだ六角氏の家紋、隅立て四つ目鶴の丸高頼「奪え!近江は我が領地、荘園や幕府の御所地など関係ないわ!」この頃、近江だけでなく各地の守護や