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みなさんごきげんよう先月になりますが、上野公園でのお花見の際に、近くにある境稲荷神社を参拝しました不忍池から徒歩3分ほどで、東京大学池之端門のすぐ隣にあります。そして、拝殿の真裏には、源義経が奥州へ向かう途中に弁慶が見つけ、一行ののどを潤したと伝えられている「弁慶鏡ヶ井」があります。奥に見えているのが拝殿です。写真を撮り忘れてしまったのですが、境内に大きめの岩がありまして、なんだか気になる雰囲気でした。またの折に写真を撮りたいと
戦国時代の幕開けとなる応仁の乱の将軍・義政の正室・日野富子。後世、日本三大悪女などと呼ばれた彼女の人生を『偉人・敗北からの教訓|BS11(イレブン)|』で観る。愛する息子・義尚を将軍にし、支えるために蓄財で力を発揮するも、将軍となった息子の教育には失敗してしまった日野富子(『偉人・敗北からの教訓|BS11(イレブン)|』より)内容と感想日野富子といえば、北条政子、淀君とともに日本三大悪女なんて言われてしまう女性です。確かに、夫で将軍・義政に対して、子の義尚をとに
アンソロジーを作ることは、自他ともに認める知性と見識の反映であり、馬骨のような素人が手を出すものではない。小倉百人一首選者は藤原定家・・・申し分のない和歌史上の最高峰の歌人の一人だが、縁戚に当たる有力鎌倉御家人の依頼で選したもの。そのコンテンツにはなにかと問題があるものの王朝和歌を身近にした功績は大。歌人を百人選びそれぞれの一首を選ぶというプロセス。誰を選ぶどれを選ぶ加えて「歌集」なるものは、全体としてのバランスや統一したフィロソフィーも大事だし、かなりな知力が必要だから、天才に挑
子どもの頃(1983~1984年)に放送されていた『まんが日本史』の歴史認識を照らし合わせたくてヒストリーチャンネルで放送されていたので観ました。足利義政は政治よりも文化で東山文化を生み、民衆たちは山城では国人が一揆を、加賀では一向宗が立ち上がる(ヒストリーチャンネルの『まんが日本史』より)内容について今回は、第8代将軍足利義政が花開かせた東山文化と第9代将軍足利義尚の時代の民衆の動きを描いた回でした。相変わらず政治に興味がなく、新たな文化をたちあげようとする8代
室町幕府8代将軍足利義政は、9歳の嫡男足利義尚に将軍職を譲ってから政治への関心を失い、その周辺にも退廃的な空気が流れた結果、著名な連歌師宗祇が「公武上下昼夜大酒」と嘆く事態に至ります。朝廷・幕府ともに、上から下まで昼間から大酒をくらっていたというのだからどうしようもありません。その一方で、応仁の乱(1467~77年)勃発前には義政が意欲的に政治に取り組んでいたとして評価が見直されています。事実はどうなのでしょうか。15歳で将軍職を継いだ義政が康正元年(1455)
皆様、こんにちは最近ようやく道の雪も溶けて歩きやすい気候になってきましたが、皆様いかがお過ごしでしょうか。今日も前回のつづきで『日野富子』について取り上げたいと思いますところが室町幕府8代将軍足利義政が弟義視を還俗させてまで後継者に指名した翌年、正室の富子が待望の男子・義尚を出産します。そうなると富子は当然、自分の腹を痛めた我が子、義尚を次の将軍にしたいと考え、そのための様々な動きをし始めます。当然、義政の弟、義視側も「冗談じゃない!」とキレて、細川勝元を味方につけます
1980年代の事件◎うっかり…!「うっかり」といえば…八兵衛!長年続いたテレビドラマ「水戸黄門」長寿番組の宿命でもあるが、主要キャストは何度か入れ替わっている。しかしうっかり八兵衛だけは一度も変わっていない。主要キャストの中でうっかり八兵衛を演じたのは高橋元太郎だけだ!それほどまでの当たり役だ。確かに高橋元太郎といえばうっかり八兵衛だ。彼が大岡越前に出ていたなどとは誰も知らないだろう。ましてや歌手だった事実など…知っているものは皆無だ!因みに歌声はこんな感じだ
栗東にある九代将軍足利義尚公鈎の陣所ゆかりの地碑です。室町幕府9代将軍・足利義尚が約1年半滞在し、死去の地ともなった鈎の陣ゆかりの地。鈎の陣は実際には近くの永正寺付近に置かれていたといい、この碑は東海道沿いに建てられています。足利義尚(1465~1489)は室町幕府9代将軍。室町幕府8代将軍足利義政の次男。母は日野富子。応仁元年(1467年)、畠山氏の家督相続争いに端を発した応仁の乱が勃発。義尚誕生前、父義政は叔父の義視を還俗させて養嗣子としていたことから、義視と義尚の将軍後継争いに
ついに駿河今川家の内紛も終焉を迎え、当主として龍王丸に成長も見られるようになりました。長期間京都を不在にしている間に起こった大きな変化、それはまず蜷川新右衛門さん(『親元日記』を記したことで、当時の室町幕府の政務を知ることが出来ます)の死です。解説役がいなくなってしまいましたが、「だいたい説明した」という盛定の言葉もあり、解説が必要な場合でも今後は新九郎が盛定スクリーンをうまく使えば何とかなりそうですね。新九郎が政知の奉公衆となっていたという説も最新のもので、先の龍王丸家督相
京都で「応仁の乱」が起こってから、世の中は「戦国時代」になったと言われています。この「戦国時代」に、室町幕府将軍が、何をしていたのか。畿内の情勢は、とても複雑で、分かりづらい。足利将軍たちの戦国乱世応仁の乱後、七代の奮闘(中公新書)Amazon(アマゾン)この本、前書きで「高校日本史程度の知識があれば、分かるように書いた」と書かれている通り、とても複雑で、分かりづらい、戦国時代の畿内の様相や、足利将軍の動きが、とても分かりやすく書かれています。以下、その紹介です。
著名な歌人を百人選び、代表的な和歌を夫々に一首選びアンソロジーとするある種のアイデア商品なんだが、定家の発案だからか、過度に褒め称えられ今に至る(王朝美學の基準となり、果てはカルタとりにまで)さりながら、、、どうしてあの歌人を外したの?なんであんな凡作を選んだの?、、、とか無節操無定見に崇める向きの一方で疑念の声をあげる、、、まあ天邪鬼な和歌好きもいます。アタシは多少後者かな室町幕府の将軍義尚は「私撰百人一首」を編纂しています。さしたるものでもないが「定家の撰にもれた歌人ばかり百人
国道1号線を草津から米原方面に北上していたところで、「上鈎」という交差点を見つけ、にわかに「鈎の陣」を思い出しました。信号待ちの間に急いでゆかりの場所を探して辿り着いたのが写真の石碑。ただ足利義尚が居住していた「鈎御所」がどこにあったのかについては未だ定説がないのだそうです。足利第9代将軍の義尚は8代将軍義政の実子で、なにかと有名な日野富子の実子でもあります。義尚が生まれたことで将軍職を譲られることが内定していた義政の弟・義視の心がぐらついて、そこに各方面のお家騒動が結びついて大乱に至
「応仁の乱の終了」藤井竜王の37手詰はいつからかみなさん、おはようございます将棋の藤井八冠竜王防衛おめでとうございました37手詰はお見事ですいつから読んでいたのでしょうかさあ、今日「11月12日」の國史を学びましょう「応仁の乱、終了」文明9年(1477年)応仁の乱は足利義政(8代)と日野富子に義尚(よしひさ、9代)が誕生したことから始まりました後継者として坊さんを辞めて義政の養子となっていた義視(よしみ、義政の弟)との争いです有力大名の
<(いくら考えても我が家に迎えるにあなた以上の方は想像ができません。)(物怖じもせず作る食い物は旨い。要するにつまり——)(私自身があなたのことを気に入っている!)>(114頁)これ以上の言葉は、なかなか思いつかないと思います。新九郎は、奉公衆小笠原政清の末娘ぬいと結婚します。奉行衆と奉公衆が引き起こした「文明十七年の動乱」の処理を巡り、御所義尚(よしひさ)と大御所義政のつばぜり合いがありました。御所の勢力が決定的に伸長し、義政は、義尚の求めに応じ出家しました。この間
【食育クイズ:Vol.1341】「京都府」の「応仁の乱」おさらいクイズ!「応仁の乱」の発端の場所となった「京都の寺社」名は?↓↓↓↓↓↓問題は下記から↓↓↓↓↓↓∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞国産大豆100%大豆ミートプレミアムソイミンチ粗挽き鶏ミンチ風サラダ・スープに大容量サイズ1kgAmazon(アマゾン)2,068円Eco&Art太陽パネルの元で育った大豆のコーヒー(浅煎り,100g×2袋)A
室町幕府第8代将軍足利義政の正室「日野富子」さんについて、取り上げます。どんなイメージですか。ちょっと古い人だと、応仁・文明の乱の原因、悪女、銭の亡者、というイメージでしょうか。もっとも昨今、すこーしイメージアップできてるのではないかと思ってます。「悪女」一辺倒ではない感じ。守銭奴イメージだって、足利義政の政治感覚のなさ、高度に発達した貨幣経済などが、彼女をそうさせた一面があったと。つまり、根っからの金の亡者だったわけではないということ。また、嫡子義尚を将軍にするための富
足利義尚生年月日1465年12月11日(水)日干支丁卯同じ日干支の人物(ブログに掲載済みの人物)・黒田忠之1602年12月22日・正岡子規1867年10月14日
応仁の乱の解説書と言えば、かのベストセラー『応仁の乱』(中公新書)がありますが、興福寺の話から始まったり、読みやすいのですが内容を理解するまでに結構読み直す必要があったりします。『『応仁の乱』呉座勇一・著』名前だけは知っている、といっても平城京のことではありません。日本史の転換点と呼ばれる応仁の乱のことです。僕を含め、「足利将軍家のお家争いが発端で・・・」とい…ameblo.jp本書は、室町幕府凋落の原因となった嘉吉の変から始まり、歴代将軍の動向を中心に明応の政変までの時代の
王朝和歌史上における定家の立ち位置は「百人一首」の編纂の功罪をもって決まり手とする。カルタ取りなる稚戯ながら古典に親しむヨスガとなるも、さしたる理由もなく採用されなかった歌人は歴史の中に消えてしまい、あまつさえ定家の選歌以降の歌人は顧みられる事もない。足利義尚もアタシと同じように考えたからかどうかは解らないが「新百人一首」なる私撰集を編纂していますが、落穂ひろいの出来栄えは、、、どうなんでしょう。選ばれて然るべき名歌人ばかりかどうかはなんとも言えないが、、、源順源三位頼政宮内卿俊成
足利義政が無茶苦茶なことを数々してくれたおかげで、室町幕府というものがすでに名目上のものとなり、時の権力者が足利将軍を張子の虎に据えて、好き勝手するという時代になってしまいました。ですから、時の権力者に担ぎ上げられた将軍はコロコロ変わるという混沌の時代になっていきます。その先駆けが足利義材です。この足利義材は良い様に使われては捨てられてを繰り返しますが、権力という絶対的な力は終始持てず、振り回されていく人生となります。名前も3回変えることから、形だけは変えても、その流れは変えることが出来ず、戦
足利義政がしっかりしていれば、ちゃんとしていれば、数々の悲劇や応仁の乱や、室町幕府の衰退はありませんでした。しかし、足利義政は優柔不断でかまってちゃんですし、自分がチヤホヤされないと拗ねて、おかしなことをしだすので、周りからの信頼をどんどん失わせるようなことになってしまいます。しかも、足利義政本人は全くそのことに気がつかず、あくまでもその時の気分で決めてしまいますし、本当に愚かな人物としか言いようがありませんでした。経緯としては長らく実子のなかった足利義政は弟の足利義視を養子にしていたが、足利
室町将軍、第6代の足利義教が強引なやり方であったにせよ、全国を統一し、室町幕府最高の威光となり、室町幕府の権威は最高潮でした。ところがその息子、足利義政が将軍をやっている最中に、室町幕府の権威は失墜し、二度と立ち上がれなくなります。親父が立派でもその息子はまるでダメというのは現在でも通用するパターンですが、まさにその通りの構図でした。祖先が築き上げたものをすべて、自分がぶち壊したのを何とも思っていない、足利義政の行動には呆れるばかりです。元はと言えば、足利義政の失政で、起きた応仁の乱。この時、
1475年2月、甲斐敏光が東軍に降伏し、遠江守護代に任命されました。これも東軍の謀略が功を奏しました。西幕府の管領で甲斐敏光の主君であった斯波義廉も同年11月、守護代織田敏広を連れて尾張国へ下国し、消息を絶ちました。しかし和平工作を行っていた日野勝光が死去したため、和睦の流れは一時頓挫しました。翌年1476年9月には、足利義政が西軍の大内政弘に「世上無為」の御内書を送り、12月には足利義視が足利義政に恭順を誓い、足利義政も足利義視の罪を不問に付すと返答し、和睦の流れが加速しました。足利義政にと
1468年3月17日に北大路烏丸で西軍の大内政弘と東軍の毛利豊元・小早川煕平が交戦、3月21日には、稲荷山の稲荷社に陣を張って西軍の山名側の後方を撹乱・攻撃していた東軍の細川方の骨皮道賢が攻撃されて討死し、稲荷社が全焼しました。5月2日に東軍の細川成之が西軍の斯波義廉邸を攻めたり、5月8日に東軍の細川勝元が西軍の山名宗全の陣を、8月1日に東軍の細川勝元の兵が相国寺跡の西軍の畠山義就の陣を攻めていたが、戦闘は次第に洛外に移り、山科、鳥羽、嵯峨で両軍が交戦していました。管領斯波義廉は西軍に属したも
2018年から連載が始まったゆうきまさみの本格室町大河もはや第8集。第7集まで主人公・伊勢新九郎盛時を表紙に据えていましたが、遂に新九郎の人生に大きな影響を与えた一人、今川上総介義忠が表紙を飾りました。表紙に違わず義忠が遠江へ出陣し大暴れ。この第8集に関しては『新五郎、奔る!』でもいいのではないかと思われる程義忠の従弟である小鹿今川新五郎範満が室町殿の意向に反する動きをする義忠をけん制し奔走する姿が描かれています。足利将軍家も9代義尚に代替わりし、急逝した父・勝元に代り聡明
(手原稲荷神社)JR草津線の手原駅より南に150m。手原稲荷神社前(35.025938,135.999320)から旧東海道を草津宿に向かいます。このあたりまで来ると、京都や大阪への通勤圏に入ってくるのか、かなり現代的な住宅やアパートが増えてきますが、それでも旧道沿いには所々に古い民家が残っています。神社の北西角から360mさき右手、アパートの駐車場わきにあるのがすずめ茶屋跡の碑です(35.026065,135.995278)。小さな石碑なので、ゆっくり走っていないと見落としてしまい
県道116号(旧東海道)に出て直ぐに、草津市から栗東市に入りました。草津市と栗東市の境界線から約100m左手民家の庭先に、「東海道小柿村高札場」と書かれた手書きの看板がありましたが、当時を伺わせるものは全くありませんでした。更にその先数十メートル先左手の、これも民家の庭先に「史跡老牛馬養生所跡」と刻まれた、高さ1.5mほどの石碑が立っていました、そばにある説明板によりますと、江戸天保年間、和迩村榎の庄屋岸岡長右衛門が、牛場で老廃牛馬が打ち剥ぎされている
・足利義政と銀閣と銀閣がある時代~現在に至るまで~1458年季瓊真蘂,足利義政の片腕となる1459年畠山弥三郎病死➜弟畠山政長が擁立されることに1460年畠山義就失脚➜政長支持(足利義政・細川勝元・山名持豊)1464年政長,管領就任➜家督継承1467年義就,持豊の支持を得,政長管領解任➜応仁の乱へ1459年日野富子,男児出産すも,死産(➜今参局(いままいりのつぼね)の呪詛が発覚➜自殺)1460年伊勢貞親,政所執事となる(足利義政の片腕となる)1460年斯波義
応仁の乱についての最大の誤解は、乱の原因が将軍の跡継ぎ問題だ、と思い込んでいることです。むかしは歴史の教科書にもそう書いてあったので仕方ないんですが。これは大きな誤解です。乱のそもそもの原因は、幕府の有力メンバー・畠山氏の相続争いです。それぞれが、幕府の有力者である細川勝元と山名宗全を頼ったため、この両者が派閥を作って対立するようになります。両派閥とも、自分の正統性を主張するための「旗」が必要になります。そこで、もともとなかった将軍家の後継者争いをわざわざ起こさせて、御神輿に仕立てた、という
1465年12月11日(寛正6年11月23日)に室町幕府9代将軍の足利義尚が生まれました。父は8代将軍の足利義政で母は日野富子です。1473年の8歳の時に将軍になり、1489年に享年24歳で亡くなっています。その誕生は応仁の乱を起こし天下を揺るがすものでした。足利義政は長年にわたって子がいなかったため、弟の足利義視を養子にして跡を継がせようとしていました。その時に正室で力があった日野富子が足利義尚を産みます。日野富子は足利義尚に跡を継がせようとしたため、応仁の乱が起きたとも言われてい