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さてさて…前回の記事で…「足利兄弟」の話をさせていただきました🆕足利尊氏と直義‼️室町幕府初代将軍であり、カリスマとしても武家からの信望を集めた兄‼️兄を補佐して政治面において卓越した手腕を発揮した弟‼️両者は大変仲の良い一歳違いの同母兄弟だったのですが…協力して武家政権を再興させたのち…政権運営や後継者問題を巡り対立‼️遂には幕府を二分する内乱という事態を引き起こしてしまいました⚔️最後は兄が弟を毒殺するという悲劇的な終局を迎えるのですが…この兄弟の生涯については…か
さて…垣根・極楽征夷大将軍を読了。主人公は足利尊氏、正確には尊氏&直義の足利兄弟ですかね。室町時代はあまり分からんけど、充分オモシロイでした。■前書いた垣根歴史小説記事はコチラ『垣根涼介の武田の金、毛利の銀を読了。武田と毛利のどちらが強かったとか。』さて…垣根涼介の歴史小説を読了。これは今年の初め位まで野生時代で連載してた~春頃出て図書館予約が40人待ちとかでした笑。現代小説あまり読みませんが垣根・君たち…ameblo.jp垣根歴史小説は上記本も光秀の定理とかも結構、企画モノ
*11月3日エントリーの続きです。R大学文学部史学科のぜんざい教授と、教え子の院生・あんみつ君の歴史トーク、今回のテーマは婆沙羅大名・佐々木道誉と南北朝時代の社会です。本日は、足利直冬との最終決戦のおはなし。あんみつ「先生、文和元年(1352)十一月、足利義詮と近い佐々木道誉に反発した山名時氏・師義親子が南朝に転じて挙兵、道誉守護領国の出雲を占領すると、旧足利直義派の石塔頼房も摂津から侵攻。義詮方の仁木義長(頼章弟)、土岐頼康軍を破っ
*9月29日エントリーの続きです。R大学文学部史学科のぜんざい教授と、教え子の院生・あんみつ君の歴史トーク、今回のテーマは婆沙羅大名・佐々木道誉と南北朝時代の社会です。今回は、観応の擾乱はじまるのおはなし。🥐あんみつ「先生、貞和五年(1349)八月、高ノ師直の大軍が足利尊氏、直義兄弟がいる土御門東洞院邸を包囲しました。いわゆる御所巻(ごしょまき)、臣下が将軍に政治的な要求を強訴するこの時代特有の行為の初見です。いったい師直は何を企てたので
個人的に、関心を持っている「足利直冬」という人物について。この本から、改めて。足利直冬(人物叢書新装版240)Amazon(アマゾン)${EVENT_LABEL_01_TEXT}足利直冬は、足利尊氏の庶長子と言われています。しかし、生年は、定かではないよう。母親は「越前局」と言われていますが、その名前もまた、定かではない。相当に、身分の低い女性だったようで、もしかすると遊女だった可能性もあるのかも。「太平記」の記述によれば、一度だけ、足利尊氏と越前局との間に、
足利直冬という人物が居ます。南北朝の時代に活躍をした人物で、「足利」という名字で分かるように、足利一族の一人。室町幕府初代将軍、足利尊氏の庶長子、と、言うことになっていますが、どうも、尊氏自身は、この直冬を、自分の実子だと認めていなかったようでもある。なぜかと言えば、直冬の母親の身分が低かったため。直冬の母親は、一応、「越前局」ということになっているようですが、この越前局が、どこの、どういう人なのかは、よく分からないようですね。父、足利尊氏は、自分の息子だという直冬を、嫌い、疎んじ
私本太平記13:黒白帖/吉川英治Amazon(アマゾン)5,000円★★★★★私本太平記最終巻。後醍醐天皇が崩御されても戦は続く。足利尊氏、足利直義、足利義詮、足利直冬ら兄弟親子ら骨肉の争いが続き、高師直兄弟が殺され、足利直義が兄尊氏に毒殺される。誰のため何のための戦なのだろう。。やはり家族は仲良く相和しなければ。親子兄弟に甘えて我を張るようなことはくれぐれも慎もう。
観応の擾乱では、足利直義、足利尊氏、そして足利直冬が南朝に降伏するということがお決まりになっていました。その都度、南朝は京都に攻めては来るのですが、結果的には尻尾を巻いて逃げ帰っています。しかも、乱が収まると、降伏の条件がなかったことになるという足利時代ならではの状況が展開されています。この時代は天皇皇室の権威が一番貶められた時代でもあります。よく、南北朝の争いとひとくくりにされて、教科書で書かれていますが、そんなに単純なものではなく、実情は複雑怪奇な状況であることはお分かりでしょう。特に北朝
観応の擾乱も最終ラウンドになりました。もはや、擾乱の主役の高師直や足利直義もいないのですが、足利幕府を2分した抗争に南朝が割って入るという構図は変わりません。1353年6月、足利義詮と南朝方による京都攻防戦が始まりました。佐々木道誉に手柄を取り次いでもらえなかった、山名時氏、師氏がそれを恨みにして、謀反を起こし、南朝方に着いたのです。そして、京都に攻め込んできました。山名軍に楠木正成の三男・楠木正儀らが加わり京都を奪還します。今回は足利義詮は後光厳天皇を連れ、近江に逃れました。いくら無
足利尊氏も実に魅力的な人というか、よく分からないというか、謎のカリスマのある人です。こういう人が現れるのも鎌倉幕府末期から室町時代初期の面白いところだと思います。意外に足利尊氏のことは深く知られていないのです。僕が思うに、織田信長よりも人間的にデカい人です。ただ、よく思考回路がわかりませんし、謎のカリスマ性があるので、不思議な人ですね。なぜ、足利尊氏のことがあまり知られていないかというと、南朝に味方する人達が明治政府を作ったため、その後の教育で足利憎しの傾向が出た為であると思われます。南朝が正
足利尊氏の弟・直義の息子・直冬は、実は尊氏の長男です。兄弟がのちに対立したため、直冬も最後まで尊氏に抵抗して戦いました。なぜ尊氏は、長男を養子に出したのか?嫌っていたのか?いや、そもそも嫌うとか何とかではありません、直冬は庶子、義詮は嫡子、そんだけです。鎌倉幕府の御家人・足利氏の当主は、代々北条一族から正妻を貰うことに決まってました。その正妻が生んだ子供が次の嫡子になるわけですから、足利氏というのはほとんど「準北条一門」と言っていいわけです。ところが、足利尊氏・直義兄弟の母は、上杉氏で
やっとアンコール放送の太平記が最終回を迎えました。号泣したわぁ…最終回、メチャクチャ悲しかった。悲しさがちょっと異常ですよね?だって正直、足利尊氏のピーク(=盛り上がり?最盛期?)って、多分北条家を倒した時ですよ。全体からしたら三分の一くらいのところ。その後はどんどん身内で殺し合っていくだけなんだもの物語の構成が『起・承・転・結』だとしたら、太平記は『起・転・承・結』って感じ。最終回で実の弟と、実の息子との対峙が描かれましたが、兄弟で戦うっていうと源頼朝vs義経
1349年12月。足利直義は出家しました。完全に政界を引退した形になります。翌1350年2月、足利幕府を擁する北朝は改元し『観応』元年としました。ところが、九州に落ち延びた足利直冬はこの改元を認めず、旧元号の『貞和』を使い続けます。これは自分の勢力が足利幕府とは別個の独立した存在であることをアピールするものです。これは足利幕府に挑戦状を叩きつけるものでした。足利直冬は落ち延びた九州で徐々に勢力を拡大していきました。落ち武者同然で行ったにもかかわらず、福岡、大分をあっという間に制圧し
1349年8月14日、足利尊氏、直義兄弟は将軍御所で、5万人の兵に包囲されている状況です。味方は1000人足らず。この状況をどう、切り抜けたのでしょうか?この事件から、約230年後に同じような事件が起きます。本能寺の変です。織田信長は明智光秀に本能寺を包囲されました。この時は織田信長は討ち取られてしまいましたが…。実は織田信長という人物は過去の歴史に精通している人物でした。織田信長が画期的アイデアで、いろいろな政策をして、天才だ!と言われていますが、実は過去の歴史で行われていた事例を大
高師直が吉野の御所を焼き払ったことで、南朝は壊滅的なダメージを負います。その後には、足利幕府内で内部抗争が勃発します。一つ目の対立が足利直義VS高師直です。以前から、文治派と武断派の対立はありました。くすぶってはいましたが、南朝が壊滅的になったことで、更に対立は深まります。そもそも、この2人の対立を見ていきましょう。足利直義は謹厳実直、伝統重視。公家や寺社などの既成勢力の利益代表。個人的には無趣味で、遊びのひとつもしない。賄賂などはもってのほかで、突き返す人。そ
足利直冬は大河ドラマ「太平記」の終盤で重要な役割を果たします。子役からドラマにちょくちょく登場していましたが、尊氏と白拍子の藤夜叉(宮沢りえ)との間の子という設定だったので、当初はあくまでサイドストーリーの役柄でした。「太平記」では成長してからは筒井道隆さんが演じていましたが、恐ろしくセリフが棒読みで…。他の大河ドラマにも出ていたかなと思ったら「新選組!」の松平容保、「功名が辻」の竹中半兵衛もやっていたんですね…正直あまり印象に残っていません。一時はトレンディドラマなどにも出ていましたが、
学校で、『1338年、足利尊氏、征夷大将軍に就任。室町幕府を開く』と丸暗記させられたと思いますが、今までの経緯を見ると、そんなに単純な話ではありません。さらに、ややこしいのはこの時の足利尊氏の心境が、『この世の栄華のすべてを弟の直義に譲り、出家、遁世したい』です。何言っているのあんた?という感じです。事実ですから仕方がありません。足利尊氏は事実上の隠遁状態でした。実際の政権は足利直義が掌握していました。一方、南朝は1339年の後醍醐天皇崩御後は兵力がガタ落ちし、楠木正成の息子、楠木正行
観応二年(1351年)七月三十日直義は、桃井直常の進言で、深夜に京都を脱出して北陸へ向かった★尊氏の近江出陣、義詮の播磨出陣は、京都に残る直義を包囲する戦略だった、という定説●直義の誤解、実際、近江も播磨も戦争状態だったので、直義に一定の軍勢があれば、尊氏か義詮を後方から攻撃できたかも知れない直義に供奉した武将:斯波高経、桃井直常、上杉朝定、上杉朝房、山名時氏、畠山国清、上野頼兼、吉良満貞、吉良満義、高師秋(中間派?)、長井広秀、二階堂行朝、諏訪直頼、赤松光範(尊氏派から寝
山口市で開催されていた『山口ゆめ花博』からの帰り道(?)に、今年の9月29日にオープンした『十朋亭(じっぽうてい)』さんにお邪魔したRieruです★あ、画像の建物ではないです。この建物の右側に入口があります。訪ねた時はオープンから約1ヶ月しか経っていなかったので、少し緊張しました。新築の建物や、新車に乗る時は気が引き締まるような気持ちになります。・・・身も引き締めたい。イテテ((;´・ω・)努力しなさい、努力を〜☆)門?から入ったその先に入口がありました。地味なので(←
観応の擾乱-室町幕府を二つに裂いた足利尊氏・直義兄弟の戦い(中公新書)929円Amazon足利幕府初期の足利尊氏・高師直と尊氏の弟・直義の権力争いとされる観応の擾乱ですが、著者は尊氏・師直が主導した恩賞充行や守護職補任から漏れて不満を抱いた武士が直義に接近していたところに、たまたま足利直冬の処遇問題に重なり武力衝突に至ったと推定し、元々党派対立は無かったとしています。ちなみに下は伝源頼朝像ですが、近年では足利直義像ではないかと言われています。当初は尊氏・高師直側が破れ
この週末は、世田谷の区民まつりが開催されていました。各地の物産などが出て大いににぎわっておりました。それにしても炎暑です。会場全体が熱風に包まれていました。そんな夏の中でも我が家の玄関にはこんな花が。日々草であります。日々つぼみが付くというくらい生命力のあるお花です。今年もたくさんの花を付けて呉れました。暑いけど、もう少し頑張ってやぁ!!!【時代劇こぼれ話】太平記(5)足利直冬幕府の体制も磐石になったと思われましたが、いまだ吉野には南朝が存在
*11月17日付記事の続きです。R大学文学部史学科のぜんざい教授と、ゼミ生・あんみつ君の今回の歴史談議は、南北朝時代のややこしい時代背景に挑んでいます。勉強を深めつつ、この時代を卒業論文の題目にするかなお考え中のあんみつ君に、ぜんざい教授もいつにない熱弁中。今回は、シリーズ完結編です。***関連超略年表***1351(観応2)8月足利直義、北陸に脱走10月足利尊氏南朝に降伏1352(正平7)2月尊氏、鎌倉
昨年2015年4月上旬のカメラな旅・宮島・尾道・鞆の浦レポの続き。「対仙酔楼」を見学した後は、少ない残り時間を使って、もう少し鞆の浦散策を続けました。対仙酔楼のレポ。http://ameblo.jp/indyaki12/entry-12194457457.html「対仙酔楼」から、路地裏に入り、北に進みます。すると、鳥居を発見。こちらは「小烏神社(こがらすじんじゃ)」。鳥居をくぐり、境内を進みます。拝殿。「小烏神社」の由緒書き。御祭神は、小烏
前回まではこちら⬇️目次私、足利義満の娘・智子です。私は兄・義教が赤松満祐に殺害され、守護大名らが赤松討伐にすぐ出陣すると思ったのですが…守護大名は各々の居館に引きこもったままでした。守護大名らは赤松満祐さんが単独で義教さんを殺したのではなく協力者がいると思って様子を見てたらしいんだ。でも実際は赤松満祐さんの単独犯行なんだよ。この守護大名らの状況を見た満祐は居館に火をつけ、領国の播磨に帰っていったのです。満祐の軍は義教の首を槍先に刺し、隊列を組んで堂々と京から退去したのでした。※