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場所栃木県足利市樺崎町1261足利氏の氏寺の奥の院跡です。足利氏館の奥にこんな史跡があるのを最近図書館で知りました。下乗橋から。ここも寺の敷地だったのかな?石仏が建ち並んでいます。下乗橋。ここで馬から下りて参拝したと云う。広い敷地。ここにも堂宇が建ち並んでいたのかな?川沿いを南下。東を見る。ここには何があったのだろう?足利萬古窯跡付近の畑の中に五輪塔が残っていました。樺崎八幡宮参道を進む。一の鳥居。社標。神橋?復元された浄土式庭園の池。絵図。二の
岡崎市で足利氏関連の展示をおこなっていること!いつもご覧くださる皆様、本当にありがとうございます。心から感謝致します。皆様にとって良い事がたくさんありますように!昨日に引き続き、源平箱推しネタです。愛知県岡崎市にある、岡崎市美術館は今年で25周年です。それを記念して、特別企画展を開催しているのですが、第1部は足利氏が登場します。岡崎市は三河国であり、鎌倉時代には、最初は安達盛長が守護で、後には足利義氏が守
鎌倉時代には宗家の当主が代々北条氏と婚姻関係を結ぶほど格が高かったとはいえ初期には結城朝光から同格であると主張された足利氏が室町幕府が衰退してからも<武家の王>として一定の地位と敬意を各地の大名から得ていました。それどころか江戸時代になってから将軍家こそ断絶しましたが、生き残った一門が高家旗本となったり地元から一定の敬意を表される存在でした。本書では足利氏が<武家の王>になるまでの経緯とそれに伴い身分を上昇させた足利一門、そして足利氏の衰退の理由を解説し、さらに足利一門の定義
源頼朝から徳川慶喜までの将軍をわかりやすく読み解く試み。鎌倉幕府の源氏の後の将軍のように存在感がなかったり、足利義稙のように2度もつくことになったような軽い存在のものまで様々に歴史の流れに翻弄されたものや、江戸幕府の徳川将軍のように磐石な政治体制安定したものまで、武士の世の実態の象徴だった存在からその実態が見えてきて、読み応えのある一冊だ
門葉また御門葉とは、鎌倉幕府において源頼朝から同族待遇を与えられた清和源氏の御家人を言います。江戸幕府における親藩に近い概念となり、鎌倉幕府おいては最高待遇を与えられた御家人でした。そのため、関東御分国と呼ばれた頼朝の直轄国の国司となったのは、いずれも御門葉また凖門葉でした。具体的には、源範頼三河守源広綱駿河守平賀義信武蔵守山名義範伊豆守大内惟義相模守足利義兼上総介加賀美遠光信濃守安田義資越後守となります。ところが、上記の御門葉は特別待遇
南北朝時代の天皇として最も知名度が高い天皇は後醍醐天皇でしょう。というより、後醍醐以外この時代の天皇を大半の人は知らないのではないでしょうか。僕も「南朝=後醍醐天皇の子孫、大覚寺統」「北朝=南朝とは別系統の皇統、持明院統で、鎌倉時代は大覚寺統と交互に即位していたが、後醍醐に皇統を奪われ完全に分裂。その後足利氏に担がれて即位した」くらいのイメージしか持ち合わせていませんでした。本書では皇統が分裂するきっかけとなった鎌倉時代の話から始まり、後醍醐と敵対した足利将軍家に担ぎ出される過
森高千里FNS歌謡祭夏栃木県足利市Wikipedia足利市(あしかがし)は、栃木県南西部にある市。旧足利郡。地方拠点都市。古くは足利庄が栄えて清和源氏義家流・足利氏発祥の地としても知られ、フランシスコ・ザビエルが「坂東の大学」と呼びルイス・フロイスが日本全国で唯一の大学と記した足利学校がある。足利荘(あしかがのしょう)は、下野国足利郡(栃木県足利市)にあった荘園。荘域は足利郡全域と安蘇郡の一部(赤見郷)。成立当初の田畑、約100町ずつからなる。『延喜式』には下野国足利駅、
皆沢の水(かいさわのみず)皆沢八幡宮のそばにある皆沢の水。桐生川沿いにあってロケーションは最高。この周辺には、ほかにも「石鴨の水・閉篭里の水・大州の水・西方寺沢の水」など、名水の採水地があるとか。ポリタンクやペットボトルに65リットル汲んでみた。皆沢八幡宮は足利忠綱を祀る神社。足利氏というとてっきり源氏と思っていたら、足利忠綱は藤原氏系足利氏。下野の国足利荘は昔からの大国だったので、そういう混同が起きたのだろう。小山氏・結城氏も藤原系なので、親戚でもありライバル。結局、小山氏
浄明寺から下って、鎌倉行きのバス停浄明寺の脇を入ってしばらく坂を登ると、紅葉🍁で有名な竹の寺、報国寺に着きます❗ここも足利氏ゆかりの寺ここには入らず、さらに坂を5分ぐらい上がると、前から行きたかった旧華頂宮邸が現れるよ
足利氏ゆかりの禅寺(初めは密教(真言宗)であったが臨済宗に変わった)らしい概観なり右上はお茶をいただける別邸(喜泉庵)の前に広がる枯山水左下は、紅葉散策路からは衣張山が見える❗石窯ガーデンはアナベルが満開でした
こんにちはなんと…!!記事の内容は、またまた月日を遡ります✨県内足利市のこちらへ出掛けましたのは2月のことです☆初めて訪れたのは、もう10年以上前のこと。日本100名城巡りのひとつでお邪魔しました。その後何度も訪れております、足利氏のお館跡、鑁阿寺(ばんなじ)です。いつ訪れましても、季節を感じながら散策を楽しめます。心を落ち着けて、参拝しました。樹齢550
鎌倉~戦国時代の西尾を治めた吉良氏に端を発した足利一門研究を続けている、新編西尾市史執筆員の谷口雄太先生が、『〈武家の王〉足利氏戦国大名と足利的秩序』を吉川弘文館(東京都文京区)から出版されました。室町幕府の将軍だった足利氏による支配が、時に実力を失いながらもなぜ250年続いたのか、というなぞに対し、西尾市が本拠地だった吉良氏など足利一門の系譜から迫っています。四六判、182㌻。1870円。谷口先生によると、戦前の「足利氏=逆賊」観や、戦後の「室町幕府=守護大名の連合政権」イメージ、
読者のみなさま、おこんばんわm(__)m本日もご訪問いただきましてありがとうございます。幸運エネルギーをONにして人生を書き換える一生開運アチューメント2300名以上の実績安心感のあるヒーラー神仏・宇宙メッセンジャーのskipperですこれまでのラジオ放送はプロフイール欄最下部より昔の盛り上がりは今はコチラリアルタイム更新facebookお友達申請待ってまーすお願いだから一言添えてね、怖いから・・・今日は曇りで過ごしやすかったわ~
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昨日が栃木県足利市に行きました\(^o^)/足利学校に続いて行ったのは、鑁阿寺(ばんなじ)です足利尊氏像鑁阿寺(ばんなじ)足利氏の屋敷跡で、日本100名城の1つです周りが堀に囲まれているので、橋を渡って入ります本堂大銀杏多宝塔byXPERIAXZ3
久しぶりに晴れた日曜日の爽やかな朝明るい朝の光に誘われて、ぷらっと出かけたくなりました。出かけたのは鎌倉報国寺の竹林の中の茶房「休耕庵」、朝の9時から営業しています。三密を避け開門の10分ほど前に着きました。美しい竹林で有名な功臣山報国寺です。山門をくぐると石畳の参道が続きます。石段の先に報国寺の本堂があります。本堂の脇に茅葺き屋根の鐘楼がありました。鐘楼の横に竹林に通じる小径があります。本堂裏には枯山水の庭園、その先の崖にいくつもの横穴が見えました。報国寺は足利氏の菩提寺で
山門から続く緑豊かな日本庭園を歩いて行くと階段があり階段を登ったところに本堂があります。手を合わせてお参りします。👇足利氏終焉の報国寺竹の庭入り口に向かいます。鐘楼もかやぶき屋根お寺の歴史を感じます。ここで拝観料を払います。拝観+抹茶900円真っすぐに伸びる竹林は圧巻です。この竹も最初はたけのこだったんでしょうね。お抹茶がいただける茶屋があります。竹林を見ながら優雅なお時間ですね。しかし時間に限りがあるツアーなので先を急ぎます。竹林を抜けると
前回訪れた、臨済宗建長寺派の浄妙寺より南東に460mほどの鎌倉市浄明寺4丁目付近には足利公方邸跡地があり、浄妙寺は足利幕府と、とても縁が深かったことも想像できますね。足利尊氏公もこの場所に居住されていたようで、この地より当時の日本の政治に大きな影響を与えました。南北朝などの時代を挟む多くの出来事も、史実事では鎌倉幕府の色濃い影響を見ることができると思います。歴史好き、戦国時代、中世の歴史が好きなかたは歴史教科書や、創作上のお話ばかりではなく実際
足利氏宅跡・鑁阿寺(ばんなじ)真言宗大日派の本山です「金剛山仁王院」源姓足利氏二代目の足利義兼が建久7年(1196年)に邸内に持仏堂(じぶつどう)を建て守り本尊として大日如来を祀ったのが始まりといわれていますその後、三代目の足利義氏が足利一門の氏寺としました約4万平方メートルに及ぶ敷地は、元々は足利氏の館(やかた)であり大日苑(鑁阿寺)は周囲に土塁と堀を巡らしたお寺です鎌倉時代の武家屋敷の面影を今に伝えています境内には国宝指定の本堂など貴重な建物が多くまた大正
おはようございます。(*--)(*__)ペコリ恒石八幡宮の境内にあがってきましたよ~.+:。ヾ(◎´∀`◎)ノ。:+.これまた立派な二ノ鳥居ですね~*。・+(人*´∀`)+・。*脚には長門厚狭郡棚井恒石八幡と彫られていました。.゚+.(・∀・)゚+.゚建立時期は見忘れましたこちらの額束にも八幡宮とありました。(人´з`*)♪四脚燈籠も年代を感じますね~*。・+(人*´∀`)+・。*こちらも建立時期は寛政十二年(1800年)です(゜∇^d)!!そしてこちらが恒石八幡宮で
足利の毘沙門天を目指して移動しました日本三大毘沙門天のひとつだそうですすてきな場所でした大晦日の夜、大声で悪態をつきながら(ばかやろー!等)お詣りするというお寺です運慶作と書かれる仁王様です運慶作なら国宝なのでは?と思いますが。。お詣りが終わり昔からの参道を見下ろすと気になるものがありましたので下りて行ってみました↓まず巨岩がありました謎の塔がありこれには説明がありませんお堂にはなんと足利氏による鎌倉時代の層塔が!!わりあい綺麗に残っているように見えましたが
11/14冠稲荷神社➡️世良田八坂神社参拝後、お隣栃木県足利市へ向かいました妻は買い物で私はこの時期紅葉が綺麗であろう鑁阿寺へ特別御朱印千手観音頂きましたこの日に頂けた御朱印太鼓橋楼門(山門)鑁阿寺は、鎌倉時代、建久七年(1197年)に足利義兼によって建立された真言宗大日派の本山。山号は金剛山。本尊は源氏、足利氏の守り本尊である大日如来(だいにちにょらい)を祀る。約4万平方メートルに及ぶ敷地は、元々は足利氏の館(やかた)であり、現在でも、四方に門を設け、土塁と堀がめぐらされており、
週末は、GoToで足利に行ってきましたが宿泊したホテルの部屋まら見えたお寺、敷地も広くてかなり立派レッツゴー鑁阿(ばんな)寺公式サイト元々は足利氏の邸宅跡だったそうです。この連休は、紅葉が丁度見ごろで、たくさんの参拝客で賑わってました。御朱印は、翌日、再度訪れいただきました。このお寺のこと、全く知らなかったので、なんか得した気分でした。
足利市の鑁阿寺(ばんなじ)へ。鑁阿寺は足利氏宅跡として有名です。室町将軍の足利氏の出身地です。鑁阿寺の周りには堀が。門の上にはハトがまるで門番のよう。
足利氏の氏寺、鑁阿寺(バンナジ)の大イチョウの黄葉です毎年見に行きますがここのイチョウの黄葉は見事なものですまだイチョウの葉があまり落ちてないのでまだまだ輝き続けると思います----------------------------------------------------------------------------この目の覚めるような明るい黄葉を観ていると心が浮かれますまさに元気が貰えるビタミンカラーです
もうここの田んぼはすっからかんでしょうね。麦でも作るとかしないのかな?EF62形も末期は・・・京浜急行といえば。宇治川の流れは急なものでした。なるほど、京の都の南の防御線と言われたのが理解できました。足利氏も幕府を伏見あたりに置いておけば、また違った展開になっていたかもしれません。こんなシーンもありました。
大河ドラマ『麒麟がくる』で、室町幕府、14代征夷大将軍・足利義栄(あしかがよしひで)が登場しましたね。義栄さんは大河ドラマでは初登場だね一方、先を越された足利義昭(あしかがよしあき)。この義昭、そして足利義輝(あしかがよしてる)の父は…第12代征夷大将軍・足利義晴(あしかがよしはる)なんですね。義晴のことを調べたら…まさに傀儡将軍。細川氏の傀儡で京や近江を行ったり来たり。義晴を語るには…人間関係が複雑で、あまりにも周りの状況がややこしい〜細川氏も2つに割れてたし、さらに細川氏の家