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大阪のこの地も随分と温かくなりました。つい1週間ほど前まで石油ファンヒーターのお世話になっていたなんて・・・。カワヅサクラの木のもとでハーネスをつけられた豚さんを目撃してから、早2週間。昨日は春季講習2周目のスタート日だったのですが、午前11時前に塾舎を開けたものの、体調を崩した生徒さんの欠席の連絡が重なり、まさに「開店休業状態」になり、10分後にはあえなく塾舎を閉めました。最近はこんな形で突然休みの日を天からいただくことが間々ありまして、最近はスーパー銭湯に行
4月のスルーツアーで京都まで遠征することになった。前から色々と気になっていた足利氏について何か読んでみようと思った。この本は、過去の研究者の意見をもとにした研究書であり、筆者がいかに多くの研究書を読んだかを知り、足利氏の何たるかを理解することはできたが、小説ではないので、時代や人物を具体的にイメージすることはあまりできなかった。まるで大学生の卒論のよう。せっかくだからメモるが、今度はもっと素人向けの本をさがしてみようと思った。なぜ、足利氏は続いたか—プロローグ:室町時代(足利尊氏が「
栃木県足利市に足利市観光協会の「太平記館」がある。太平記館太平記館足たびトップ足利市の情報をお届けする公式観光サイト「足たび学び舎のまち足利」。足利市の観光、イベント、お買い物、宿泊、アクセス情報などをお届けいたします。www.ashikaga-kankou.jp足利市の中心部、足利学校の東にある。足利駅からも近いし、駐車場もある。しばらく前に観光協会の製作したオリジナル御朱印帳が販売された。近くまで来たので買ってきた。大きさは縦18㌢✕横12㌢、布張りになる。足利銘
足利氏の菩提寺にある足利義昭木像です。大河ドラマには室町幕府最後の将軍として登場しましたね。
あしかがフラワーパークへ行く前に同じ足利市内の「足利学校」へ紅葉を期待して寄りました観光駐車場からの道すがらに色鮮やかなモミジとイチョウ裏門イチョウがきれい史跡内MAP入徳門門の手前に「孔子立像」右に受付があり入場料金を払うと入学証がいただけます学校門次の門杏壇門の奥に孔子廟きれいに木々が色づいてました1999年に復元された方丈と庫裏孔子廟をお参りし左から庭園を散策きれいに整備された庭園
倉ヶ崎城跡-Google検索www.google.com
足利氏の館跡に建てられた鑁阿寺(ばんなじ)元は平城だったご本尊は大日如来元は城主の館があったのでぐるりとお堀がある平城足利氏発祥の地お寺は鎌倉時代に建てられたとブラタモリで紹介されていた。鎌倉以降はお城🏯は山の方に建てられていた模様プロジェクションマッピング大きな銀杏の木が御神木まだ緑の葉大きさが伝わらないのが残念紅葉するとこんな感じマッピングが無くなるとこんな感じ足利銘仙江戸末期〜明治絹で織られた平織りの着物のがらがポップ予約すれば着ることもできるら
こういう展覧会が開催されているのですね!(。・о・。)!僕は調査不足で全く存じませんでしたφ(・_・”)僕が猿島郡境町で青春時代を過ごしたことは先日もお話致しましたね。境町というのは古くからの交通の要衝でありかつ行政の中心でもあったので,町の人口は決して多くないにもかかわらず沢山のお店が軒を連ね,日常生活を送るには全く不便の無い所です。多くの自治体では「郊外にバイパスが設けられてロードサイドショップが立ち並び,旧道沿いの市街地が衰退してしまう」という問題に悩まされていますが,境町の場合に
浄妙寺から報国寺へ。茅葺き屋根の鐘楼枯山水境内の大木を撮ったら太陽の光が入ったのか超絶神秘の1枚に‼️こんなふうに撮れたのは初めて💕👆境内の奥に不思議な洞穴足利氏の弔われたやぐら龍門石窟を思い出す…石塔と石仏竹の寺、の所以竹林の中に石燈籠苔むした石の上に仏さま鎌倉攻め、鎌倉幕府滅亡の時に命を落とした方々を供養する石塔ひっそりと静かな空間大きな石燈籠お寺を出てバス停脇の川に鯉が悠然と泳いでいた「またコイよ〜っ‼️」by鯉あたくしのヌマ。御朱印デビューを
おはよ〜(*´∀`*)ノ"♡鎌倉市にある「長寿寺」の御朱印です。書置きでしたが、対応していただいたおばさま達がとっても良い方々でした。ありがとうございました。では、(*^-^*)ノ~~マタネー
以前に少し書いているが、逸見氏と足利氏の関係について系譜では足利氏と関連した情報が出てくる・観応元年の足利尊氏の九州征伐の従軍・畠山基国の楠討伐での戦功による将軍からの褒美(将軍は、おそらく足利義満)・足利義尚の鈎の陣での活躍により義尚からの褒美足利氏に被官していたであろうと思われる記載となる。室町幕府期において、領地を持っている様子はなく、幕府内や足利将軍家の近辺にいたと考えられる。以下は逸見氏と足利氏の関係の個人的な推測足利尊氏や義詮が将軍職に就いていても、宗家・嫡流と
豊田の松平郷から、松平氏が頭角を現すまでは足利氏が100年に渡り三河をおさめていたその、足利氏を三河に根付かせたのは誰だったのか!?というお話です(^^)b
2013年現在放送中のNHKの大河ドラマ、「どうする家康」の主人公は、徳川家康である。本書は、「血脈」、特に、「自称」を重視しているため、本来、本項の題名は、「世良田氏」、または、「得川氏」でなければならない。しかし、日本史上有名な、「徳川家康」の解説を重視するために、敢えて、家康の称した、「徳川氏」を本項の題名とした。前述の通り、世良田氏の嫡流、世良田満義の息子、世良田親季は、戦死した。しかし、世良田親季には、息子の有親がいた。有親は、得川有親と呼ばれる。即ち、得川
新田氏の項で、述べた様に、新田義兼は、新田本宗家の家督を継承したが、嫡子の義房に先立たれて、嫡孫の政義に家督を譲った。新田義兼の娘、即ち、新田政義の叔母である、新田尼が、後見人を務めた。しかし、前述の通り、新田尼は、自身の所領の一部の岩松郷を譲ったため、幼少の政義の所領は、少なくなった。新田政義は、足利義氏の娘を正室に迎えた。足利義氏は、鎌倉幕府の執権、北条氏との姻戚関係により、有力御家人であった。1244年(寛元二年)、京都大番役としての在京中、新田政義は、鎌倉幕府に無許
新田氏は、清和源氏の源義家の三男、源義国を真の祖とする。源義国は、嫡男の義重に、上野国の新田荘を開拓させると、長男の義重に新田荘、次男の義康に足利荘を相伝させた。長男の義重は、新田義重を称し、その子孫は、新田氏と呼ばれる。一方、次男の義康は、足利義康を称して、足利氏の祖となったのである。即ち、長幼の順では、源義国の嫡流は、長男の義重の子孫の新田氏なのである。しかし、後述の通り、新田義重は、源頼朝の挙兵の際、様子見して、遅参したため、源頼朝の勘気を被って、新田氏本宗家は、鎌倉
やっと…やっと行けました!中学校の時、吉川英治の『私本太平記』を読んで以来大好きだった足利高氏(のちに尊氏)の故郷、足利の里ーーと同時に、「日本最古の学校」とされ、室町時代中期に関東管領上杉憲実によって再興されてからは、「坂東(ばんどう)の大学」として関東における最高教育機関として全国から多くの学生を集め、あのフランシスコ=ザビエルによって海外にも紹介された、あの足利学校のあるところ!その足利の里に、ようやく足を踏み入れることができました…!(この記事の続きです↓)『北関東の旅①あ
源氏とか足利氏とかこの辺りはいつもややこしい難しい…日本史から見た日本人・鎌倉編(祥伝社黄金文庫)Amazon(アマゾン)597円
金閣寺の近くにある等持院。以前は龍安寺に行ったついでに何度も訪れていました。方丈から眺めるお庭が素晴らしいです。芙蓉池。お庭を散策することができます。心字池。霊光殿には歴代の足利氏の木像が納められています。清漣亭。もう少し後だとツツジが満開になって華やかな景色が見られたのに少し残念!
ここ数年、足利やそ周辺の歴史を学びなおしています。といっても全然進んでいないのですが、知るほどに全く足利のことを知らなかったことがわかるばかりで、一向に進まないわけです。また、足利限定での本があまりみつけられないし、どちらにしろ足利だけで歴史が成り立ってきたわけでもないので、かかわりのある歴史等の本を責めたりしています。その中でも、中心になっているのは、地元出身の歴史家が書かれた足利市に特化した『足利自然ゆたかな歴史のまち』です。本書には、『日本書紀』の頃から登場する足利の歴史はもちろん
今日は、朝から良い天気となりました。でも夕方前頃から曇ってきましたね。日中は、気温も上がって暖かく感じました。その分、花粉もよく飛んでいたような・・・だんだん花粉の影響が大きくなってきました(涙)そろそろ飲み薬も必要かな・・・足利市内のイベント情報です。足利市といえば、足利氏のふるさと。先日のブラタモリでも触れていましたが、鎌倉時代には、足利氏の二代目義兼公が、国宝鑁阿寺を建立し、足利という地域は歴史のある場所です。その足利氏について、学べる講座が、2月22日
足利氏は、清和源氏の源義家の三男、源義国を真の祖とする。義国の次男、源義康は、上野国の足利荘を相伝すると、足利義康を称した。源姓足利氏の誕生である。義康には、四人の息子がいたが、足利宗家の家督は、義康の三男、義兼が継承した。足利義兼には、義純・義助・義氏の三人の息子がいた。足利宗家の家督を継承したのは、北条時政の娘と母とする、三男の義氏である。足利義氏には、長氏・泰氏・義継の三人の息子がいた。次男の泰氏の母が、鎌倉幕府の執権である、北条泰時の娘であったために、足利宗
1月27日のブラタモリ。栃木県足利市がテーマでした。足利市、今まで聞いたことはあっても注目したことは全くありませんでした。足利市のみなさん、申し訳ありません・・・で、番組を見ていて、ある場面から私の意識は足利市の話から、一気に山梨に向いてしまいました。それは、足利氏の館、現在の鑁阿寺(ばんなじ)。この周辺の地形が模型で示されたときのこと。GoogleMapで、鑁阿寺周辺の地形を見たものが、これ。えっこれ、見たことがあるっ行ったこと
12月29日、JR両毛線の足利駅へ。歴史を感じさせる凝った駅名パネルです。駅から北西に数分の場所突き当りに鑁阿寺(ばんなじ)が見えてきました。でも、お寺に着く前、左側に注目。足利尊氏の像ご存知、室町幕府の初代将軍刀をさしています。鑁阿寺(ばんなじ)の山門に着。平安時代後期、源義家の四男・源義国と、孫・源義康(後の足利義康)が堀と土塁がある館を築く。源義康(足利義康)が足利氏の初代。(義国の兄・義忠のひ孫が源頼朝)鎌倉時代、義康の子・
鈴木亜美&後藤真希、クリスマスに初コラボ「話しにくい時代だったのかな」90年代振り返り感慨日刊スポーツ鈴木亜美(40)後藤真希(37)が25日、都内で、コラボレーションコンサート「鈴木亜美後藤真希X'masLive&Talk2022」を開催した。90年…YouTube白石光に密着!早大時代の苦悩とは-テニス365|tennis365.netテニス365-テニスニュース今回は同大会に出場した白石光選手に密着し、2日間の激闘の試合映像、早稲田大学時代の苦悩、ラケ
源姓足利氏3代統領の足利義氏は北条政子の妹時子が母親です。また自身の正室に北条泰時の娘を迎えていますから、鎌倉北条氏とはかなり強い結びつきがありそうです。国宝鑁阿寺の本堂を建立したのも義氏です。『国宝「鑁阿寺」02~国宝に返り咲き~』鑁阿寺は、もともと足利氏の館でした。平氏打倒や奥州藤原氏平定で戦功をあげた二代目の足利義兼は源頼朝に討伐される危険性を感じ出家しました。その義兼が建久7年…ameblo.jpその義氏の墓が法楽寺にあります。そして義氏の墓は解説板に書いてある、
源姓足利氏3代統領の足利義氏は北条政子の妹時子が母親です。また自身の正室に北条泰時の娘を迎えていますから、鎌倉北条氏とはかなり強い結びつきがありそうです。国宝鑁阿寺の本堂を建立したのも義氏です。足利尊氏は5代目の子孫(来孫)になります。『国宝「鑁阿寺」02~国宝に返り咲き~』鑁阿寺は、もともと足利氏の館でした。平氏打倒や奥州藤原氏平定で戦功をあげた二代目の足利義兼は源頼朝に討伐される危険性を感じ出家しました。その義兼が建久7年…ameblo.jpその義氏の墓が隠居寺の法楽
室町時代、古河公方足利氏の家臣野田氏の居城で徳川家康の家臣小笠原秀政が最後の城主になった下総國栗橋城(天正10年[1590年]廃城)江戸時代に権現堂川の掘削により分断され現在は五霞町側に堀や土塁の遺構が残るのみ城址遠景個人宅の入口(この奥に遺構が・・・)日蓮宗法宣寺の境内にも遺構があります堀跡土塁跡権現堂川と人工の浮島これも遺構かな(こんもり高くなってる)庚申塔栗橋城址にある法宣寺『正長山法宣寺[五霞町]』栗橋城址東側にある日蓮宗正長山法宣寺ここから堀などを見
【超閲覧注意】鎌倉武士からのお願い―人の思いは強いものいつもご覧くださる皆様、本当にありがとうございます。心から感謝致します。皆様にとって良い事がたくさんありますように!まず、この記事についてお化けや霊の出てくる話ではないのですが、普通の感覚ではありえない内容ですので、【超閲覧注意】としました。28日に、明け方に見た夢は、何らかのサインがあるという記事を書いたばかりなのですが、今朝(明け方)に見
もともと天台宗のお寺で伝教大師最澄が熱田神宮百日間の参篭した際に洲崎の浜に毘沙門天のお堂を建立したのにはじまる。その後足利一族の厳阿上人が毘沙門堂に移り住み伽藍建立をする。その後厳阿上人が阿真教に帰依して時宗に改めたという時宗四条派の亀井山圓福寺。境内には亀の甲羅が出てきた井戸があり亀井山と号した。また足利尊氏の祈願所として堂宇を建立されている。もともと国道一号線まで境内だった大寺院で尾張名所図会でも紹介されている(名古屋での芝居興行のはじまりの地)山門が閉ざされており残念扁額境内
足利氏館(30/100城)に行ってきた足利氏の住居跡がお寺として残っているらしいです。武田氏館と同じ感じですね本堂で参拝し、嫁はスタンプと御朱印の両方をGFT紅葉も始まっていて綺麗でしたお城の跡ではない場所が、名城100選に選ばれているのはやっぱり違和感があるな