ブログ記事135件
こんにちは。今回も前回に続いて、春の越中シリーズからです。よろしくお願いします。足利義材騎馬像(放生津橋)足利義材さん、、、ご存知ですかね。正直、私、よくわかってませんでしたし、未だによくわかってないです。解説を読むと複数回将軍になっているだけでなく、何回も諱名を変えているとのこと。政変により将軍職を追われた後、幽閉地から逃れた先がここ越中ということらしいです。銅像のある内川・放生津橋のすぐ近くは新湊であります。ちなみに私の知っていた新湊市はとっくの昔に市町村合併されて
信虎2021年11月12日公開戦国武将・武田信玄の父で、甲斐国を統一した信虎の晩年を描く時代劇。信玄によって追放されていた信虎が武田家存続のために奔走する。あらすじ武田信虎入道は息子・信玄に甲斐国を追放され、駿河を経て京で足利将軍に仕えていた。追放から30年ほど過ぎた1573年、信玄の死が近いことを知った80歳の彼は、復権の好機と考え帰国を試みる。信濃で甲斐入国を拒まれたものの、信玄の息子・勝頼や武田家重臣たちと面会した信虎は、織田信長との決戦にはやる勝頼を危ぶみ、武田家存続のた
・近所の書店で購入する(和田裕弘氏の『柴田勝家』を購入した本屋)。・思った以上に平易な文章で書かれている事に驚く。岩波ジュニア新書っぽい中公新書と言うべきか。・室町幕府後期について書かれた本で最初に読むべき本だと思う。この本を読んでから天野忠幸氏の『三好一族』に挑むべきだったな。要再読。・歴史学だけでなく政治学もきちんと学ぶべきだな、と痛感する。・もし将軍家直属の強大な軍隊が存在していたら室町幕府はどうなっていたのだろう。・191㌻3行目~4行目「大名たちとって・・・」は「大名たちに
足利将軍たちの戦国乱世応仁の乱後、七代の奮闘(中公新書)Amazon(アマゾン)応仁の乱を扱った中公新書の作品が数年前にベストセラーとなった珍事があった。これに刺激されたのであろうか、それとも二匹目の泥鰌を狙ってだろうか、その後も断続的に室町期を扱った作品が出版されている。もっともそのほとんどはこの時代のわかり難さという殻を脱皮できていないようだが。今回は、この題名に魅かれて読んでみた。将軍が乱立したり、くじ引きで決めたり、諸国を放浪したりと、どうもネガティヴな印象しか
1330年7月4日神奈川県生まれ(推定)派手な初代と3代目に挟まれて、地味な印象を持たれがちな義詮。しかし、カリスマ性にまかせて突っ走った父親がばらまいていった問題の収拾に努め、恐ろしく有能なオレ様息子の才能が花開く舞台を整えて去っていった彼の功績は、とてつもなく大きいと思うのです。冥王星が魚座30度、天王星がみずがめ座:時代の性質を表す冥王星が、全ての星座の最終地点である魚座30度にあります。ひとつの時代が終わり、新しい時代をスタートさせていく人物にふさわしい配置と言えるでしょう。この点
1434年3月19日京都生まれ父親の義教が嘉吉の変で暗殺されたため、義勝はわずか8歳(満年齢)で元服し、7代将軍となりました。しかし、なんと8か月後に病気で亡くなってしまいます。赤痢であったといいます。もちろん将軍としての実績はほぼゼロ。そこで、彼がちゃんと成長できていたらどんな将軍になっていたか、考えてみました。木星が獅子座、火星がおうし座、土星がみずがめ座:木星が獅子座であることから、押し出しの良い、威厳を感じる将軍像が浮かびます。火星が現実的でじっくり物事を進めるおうし座なので、おそ
さて、義晴の鑑定の続きです。こうしてみると、やはり地味で面白みのない人物と思われるかもしれませんが、父親の亡命先で生まれ、すぐに親から引き離されて(母親は身分の低い女性だったようなので、義晴の母として行動をともにすることは許されなかったでしょう)赤松氏に預けられ、そこで散々政争に巻き込まれた挙句、誘拐同然で京都に連れてこられ、将軍になったはいいけど、ここでも政争に巻き込まれて度々京都を追われ・・・普通ならとっくに壊れてますよね。こんな状況でも、将軍として生き残りと権威の回復のために戦い続けるこ
足利義晴1511年4月2日滋賀県生まれえーすみません、なるべく初代から順番にいこうと思いましたが、一番好きな義晴の出生図を見たら早く書きたくなってしまったので、もう書きたい順に書くことにします。義晴は、室町時代終盤の混乱期に、なんと25年という長きにわたって将軍の地位にありました。にもかかわらず、地味とか逃げてばっかりとか肖像画がコワイとか言われて、あまり人気がありません。というか、そもそも知らない人が多いというのが実情ではないでしょうか。義晴時代の幕政については、筆マメな側近がいたお
足利尊氏1305年8月18日丹波(京都)生まれ出生地は丹波という説があるようなので、京都府生まれとしました。太陽と冥王星がオポジション(180度の位置関係):太陽星座は獅子座。「百獣の王」だけに、お山の大将気質で、人前に立つポジションが吉。・・・というところは初代将軍にぴったりなのですが、この太陽に冥王星が向かい合っています。義教の回でも書いたように、冥王星は「破壊と再生」の星。これが太陽に真正面から対抗してきます。つまり、王様気質が「破壊」されては「再生」する・・・まさに尊氏ではありま
カエル姫です。さてさて、ブラタモリ追っかけの本番はこちら旧秀隣寺庭園1528年、朽木氏が足利義晴のために築造した庭園が残っている。館はその後秀隣寺という寺になったが移転し、現在は興聖寺が建っている。現在の興聖寺本堂本堂内にもブラタモリのポスター朽木氏子孫がタモリに案内していた庭園安曇川を眼下に見下ろし、対岸に小椋栖山を仰ぐロケーション庭は滝のある池、中島に石橋と京都風の雅な意匠当時もあったのか杉林も美しい500年前の室町時代から時
昨日NHKのブラタモリの「鯖街道」を視聴した時に朽木の話が出てきました。確かブログにしたなと調べたら2021年2月でFC2ブログでのアップでした。朽木に逃げてきた足利将軍の話や金ケ崎の退き口での逃走ルートなど。リンクでも良かったのですが、リメーク版を作りました。京を追われた足利将軍義晴、義輝が住んだ朽木の古刹興正寺。以下2021年2月のFC2ブログのリメーク版で原文をそのままアップします。既に半月ほど経過しましたが、2月14日(日)湖西の今津にザゼンソウの群落を訪ねま
光の日、お寺de開運交流会にはじめて参加してきました。😄💕足利将軍の菩提寺、常光円満寺で開催されました。議題は、どうしたらお寺に人が集まるかでした。アクティブミーティングの手法でさまざまな意見が出て勉強になりました。✏️😌💕最後に住職のありがとうの反対の言葉の説法に感動しました。😊💕#光の日#陰陽六行#お寺de開運交流会#アクティブミーティング#住職の説法#ありがとうの反対の言葉#足利将軍の菩提寺#常光円満寺#占導師皇翔
大阪府箕面市で能学講義二回目先生のツィなお、昨日講座をさせていただいた会場である、箕面市立西南生涯学習センター。一応講師なので、参ると職員の方がエレベーターに案内してくださるのですが、ふと階段に進んでみると、こんな文字が書かれていました。…これは階段上らないとアカンなと思いました💦pic.twitter.com/I9C6SKqax0—柏木ゆげひ(朝原広基)(@kashiwagiyugehi)2023年2月10日こちらは前回の内容の紹介。『能楽講義:踊るポンポコリン・
「日野富子」は悪女か救世主か。|千世(ちせ)|note北条政子、淀君と並んで三大悪女と言われている日野富子。彼女は本当に悪女だったのでしょうか?正直、私は彼女の生きた時代はまだまだ勉強不足で、本当のところの理解には及んでいないのかもしれません。特に「応仁の乱」の理由も、実に様々な要素が絡まっていて、文献を見直すたびに、新たな疑問が湧いてしまい、なかなか細かく事情をくみ取る事が出来ないでいるのです。…note.com
11月に入り、京都は観光のベストシーズンを迎えています。今年の紅葉は、嵯峨野の宝筺院からスタートしました。楠木正行公、足利義詮将軍の菩提所で、紅葉の名所として知られています。↓未だ三分の紅葉ですが、絵になるお庭↓晩秋には紅葉の絨毯を楽しめそう国内も海外からも、観光客が戻ってきています。紅葉が見ごろになると、嵯峨嵐山はちょっと近づけないかもしれません。新型コロナの感染者数が上がっているのが気にかかります。注意してお出かけを続けたいと思います。↓ランキングに
今週のお茶のお稽古のお干菓子は千鳥の団扇と氷?(持ち帰ったものです。)主菓子は桔梗の練り切りでした。皆様こんにちは本日もお読みいただきありがとうございます。🥰昨日、突然スマホの画面が黄緑に実は、昨年買い換えてすぐに写真を撮ろうとして、アスファルトの道路に落としてしまったんです。(忘れもしない大原の紫蘇畑💦)それから少しずつ不具合が生じ始め、だましだまし使っていたのですが、とうとう駄目かも。今、一瞬復旧?したので、慌ててブログを書いています。相国寺の承天閣美術館で開
昨日(7月13日)に守山市に珍しい蓮があるというので見に行きました。妙蓮という蓮で、花びらが2000~5000枚もあるという蓮です。この特徴は、普通の蓮(常蓮という)が一茎に一個の花が咲くのに対し、妙蓮は一茎に2~10個以上の花が咲く多頭蓮です。3個の花が咲いた妙蓮。品字蓮と呼ぶそうな。品という字は口が三つ。実際にどんな順番で花が咲くのか見てみましょう。蕾は、常蓮と同じようです。花弁が一枚ずつ開いていきます。さらに花弁が開く頃、先端部も開きかけ。先端部
等持院は、足利尊氏が天龍寺の無窓国師を開山に迎えて創建したお寺です。足利将軍家歴代の菩提寺になっています。以前に拝観した時は、霊光殿が補修工事中で、中を観られず、庭園のみの鑑賞でした。今回は、補修後の霊光殿で足利歴代の将軍像を拝むことができました。霊光殿の外観は上の写真のとおり。中は写真撮影NG。左右に足利歴代の将軍像がずら~と並んでいる姿は圧巻です。それもみんなお顔、姿が異なっていて、それぞれの人柄がなんとなく分かる像になっています。玉眼なので、リアルです。
山川出版社:山田康弘編:「戦国期足利将軍研究の最前線」の序章を読みました。応仁の乱以降の足利将軍の家系が分かり、重宝しました^^七代将軍の足利義勝と堀越公方の足利政知と八代将軍の足利義政と応仁の乱で負けた足利義視は兄弟だったんですね!しかも恐怖将軍六代将軍足利義教の子。応仁の乱で勝った義政の子が九代将軍足利義尚で義尚は25歳という若さで死去。そこで将軍になるはずがない足利義視の子が十代将軍に。足利義稙。この足利義稙がめちゃくちゃ戦に強くて、日野富子と管領の細川政元が結託して、
足利義晴の時代になると、すでに、室町幕府は有名無実化しています。足利将軍なのに、京都に居られないのは足利義稙がそうであったように、単なる神輿になっている感じになっています。実力者が足利将軍を神輿にして、その神輿を担ぐことによって、権力を維持する構造が完成しています。ですから、将軍が有能では困るのです。後の徳川家康は将軍は無能な方が良いと、秀忠、家光を指名しているように、実際の政治は有能な部下が将軍の名を借りて行うというスタイルは室町時代中頃から完成していたのかもしれません。ただ実力者が2人以上
『戦国期足利将軍の最前線』に先立ち発表された、戦国時代における足利将軍の立ち位置を解説した一冊です。『『戦国期足利将軍研究の最前線』山田康弘編』日本史史料研究会監修の「最前線」シリーズは2020年に出版元である洋泉社が宝島社との吸収合併となり消滅し、今後のシリーズ展開と既刊の再販が危ぶまれていました。…ameblo.jp高校日本史の教科書でも応仁の乱以後の足利将軍について語られる部分は少なく、織田信長が登場するまで言及されることがないため、その間の足利将軍は「あってなきがごとし
足利とは将軍とはそれが何か見せつけてやる足利とは、将軍とは、それが何かゆりかごから墓場まで、最新研究を基に実情を解説した「事典」です。近年の室町時代ブームの追い風を受け、このような将軍に特化した一冊が発売されるようになりました。歴代将軍のみならず、簡潔ながらその子弟にも触れられており、『室町幕府将軍列伝』まで手が出なくともこの一冊があれば一通りは知りたい情報に手が届くと考えています。『鎌倉殿の13人』では兵衛府の唐名(中国風の呼び名)が「武衛」であることから
天津神社からフラフラと歩いてみましたが住宅街のなかを歩くので景色が変わらず、ちょっと遠く感じてしまった臨済宗天龍寺派萬年山等持院山門をくぐって、少し歩くと墓地墓地にはとても目を惹く立像があり近づくとマキノ省三氏でした故津川雅彦氏のおじいちゃんで映画監督イケメンですね~足利将軍家の菩提寺です天龍寺派元管長関牧翁老師筆の祖師像ここにはずいぶん前に1度訪れました霊光院の足利歴代将軍の木像が気味が悪く
好きな日本史をわかりやすく紹介してくれる歴史研究者の本郷和人氏の本を書店で見つける。しかも、井沢元彦氏との共著。井沢元彦といえば、『逆説の日本史』があまりにも有名。即、購入する。読む前からワクワクする。期待を裏切らない面白さ。特に印象に残ったのは、ずばり、『応仁の乱』。今まで、敢えて『応仁の乱』を避けていた自分がいた。理由は、様々な人物が入り混じって複雑すぎるから。守護大名の細川勝元、山名宗全、それに、時の将軍の足利氏の相続争い(義視、義尚)、また、斯波や畠
ちょっとした穴場、等持院へご案内しました…ここには足利15代230余年の歴史貴重な文化財が保存されています足利歴代将軍の木像は壮観です方丈と書院の前に広がる庭園は夢窓国師作庭と伝えられ回遊式で西庭と東庭、2つの庭があります紅葉の枯山水の南庭広縁を静かに歩むと、鶯張りの音がここちよく響きます。芙蓉池の奥の築山にある八代将軍義政好みと伝わる茶室清漣亭と見頃の紅葉四季折々に姿を変える芙蓉池を眺め書院に座してお茶を一服意外と穴場なスポットで極上のひと時です
足利将軍家の菩提寺等持院芙蓉の花がとても綺麗に咲いていました方丈と書院の前に広がる庭園は夢窓国師の作庭と伝えられ、回遊式で西庭と東庭2つの庭があります西庭は芙蓉の花の形「芙蓉池」があり衣笠山を借景にした池泉回遊式です。南の方丈、西の書院、北の茶室・清漣亭に囲まれて茶室の周りにも、今を盛りと純白の芙蓉が咲いています芙蓉は、朝咲いて夕方に萎む1日花ですが、美しい大輪の花を咲かせますここには、足利15代230余年の歴史貴重な文化財が保存されています歴史好きの方には人気
このところ続けております令和3年夏の京阪神遠征、神戸→大阪に続いて今回は京都編になります。残念ながらこのシリーズ、今回で最後です。よろしくお願いします。足利義輝木像(等持院霊光殿)足利将軍家の菩提寺・等持院さん。その中の霊光殿には歴代・足利将軍の木像があります。霊光殿内部は、昔は写真を撮ることが可能だったらしいですが、だいぶ前からもう撮影禁止。上の写真は数年前の「室町将軍展」のHPからの借り物です。足利義輝さんは、あの塚原卜伝さんから剣術指南をうけ「剣豪将軍」とも言われた御仁。
室町将軍の庭しかしこの朽木谷そのものがひとつの庭園安曇川町から、安曇川に沿って上る。荒川橋を過ぎ高岩橋までの間は、著しく屈曲した渓流になっている。谷は険しく、また深く、「近江耶馬渓」の異名のある幽谷である。ここを過ぎると、市場という、その名のとおり少し賑やかな人里につく。道は若狭街道に突き当たって三叉路になっている。若狭街道を右にゆくと保坂(ほうざか)で、さらに谷を下ってゆくと、細長い小浜平野にでる。一方、若狭街道を左にゆく道は、朽木谷を通ってゆく。朽木谷は、安曇川の流れ
足利将軍家の菩提寺等持院へご案内しましたとても美しく手入れされたお庭でした。方丈と書院の前に広がる庭園は、夢窓国師の作庭と伝わります。西庭は、芙蓉の花を形どる池「芙蓉池」があり衣笠山を借景にした池泉回遊式です義政好みの茶室清漣亭は小高い場所にあり、控えめな侘びしい佇まいです初夏の庭園は、6月ならではの半夏生や可憐な紫の桔梗など咲いていました。美しい庭園だけでなく足利15代、230余年の歴史貴重な文化財が保存され歴史好きの方には人気の場所です。