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いつも当ブログ、歴史連載物語をご覧になって頂き誠にありがとうございます。「八幡の武将」の本編は既に最終回を終えております。「八幡の武将」の目次はこちらだよ⬇️よかったら読んでね。八幡の武将・目次「八幡の武将」で数々の武家が出てきましたが、北条氏(ほうじょうし)とずっと敵対してきた安房国の里見氏(さとみし)はその後どうなったか?北条と里見はずっと争ってきたけど「八幡の武将」の中では決着はついてないよね。里見氏の家紋・二つ引両北条と里見は北条二代目・北条氏綱(ほうじょううじつな)の時代
現地設置鉢形城後曲輪配置図(ブログ説明用に白・ピンク字加筆原図は1に掲載)その2では、曲輪をまとめました。本曲輪区域の御殿曲輪、御殿下曲輪、笹曲輪。二の曲輪と辿ります。北東で荒川と深沢川が合流するため、曲輪は南西に向かって広がって設けられている。御殿曲輪は北西に向かって高く三段に区分けされている。氏邦はどこに居たのであろうか。中段から上段の区画をみる。現在南西隅(写真左奥)に遊歩道が入るが、中段区画以外の方向は、土塁を巡らし荒川の断崖と切岸城壁・土塁で侵入を拒ん
氏邦鉢形領紀行、一か月かかりましたが、ようやく鉢形城へと辿りつきました。永禄6年(1562)には一乱は終結し、日尾城周辺のみならず、鉢形領域全域において軍勢・知行の再編が行われる。そして氏邦に付属されていた小田原北条直臣たちが氏邦家臣へと直り、知行宛行の権限が小田原北条当主から氏邦に委譲されていく。(伊藤2011,pp.5-6)一乱を経て鉢形領を制圧・掌握した氏邦は、国人藤田氏統治機構による支配体制から氏邦を領主とし小田原北条勢力を背景にした統治機構へと再編する。氏邦の鉢
鉢形城埼玉県寄居町鉢形に在る鉢形城は、北条氏康四男氏邦が居城し、その小田原北条氏の支城領・鉢形領の政治的軍事的中心地として機能した城として有名である。氏邦は(幼名乙千代)、永禄元年以前に、花園城を本拠とする藤田泰邦の嫡女大福御前に入婿し、藤田氏家督をを継承する。永禄五年10月から同7年6月までの間に元服し藤田氏邦を名乗る。天正10年7月以降同15年11月には北条名字に復し北条氏邦と称している。元亀三年閏正月以降天正4年2月までに受領