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みなさんおはようございます~(^_^)今日は出掛けたくない、昨日歩きすぎてます天王寺の曹洞宗の寺院、万松山吉祥寺です禅宗義士の寺だそうです外からもなんだかただならぬ気配ですよね寛永7年創建、浅野内匠頭は吉祥寺に「万松山」の山号を与える元文4年(1739年)には江戸の泉岳寺にさきがけて赤穂義士の墓が建立された義士討入り当時の住職は赤穂の出身で、浅野長矩とも親交があったという現存の墓碑には遺髪、遺爪鎖帷子が埋葬され、浅野本家より内匠頭の墓碑の建立を依頼、大石内蔵助の密命
毎年、書いていますが汗今日は↓の日ですね赤穂義士祭|催し|曹洞宗江戸三ヶ寺萬松山泉岳寺東京都港区、曹洞宗江戸三ヶ寺萬松山泉岳寺。赤穂義士の誠心や武士道を称え供養する「赤穂義士祭」についてご案内いたします。sengakuji.or.jp武士の鑑と称される赤穂義士主君の無念を晴らすため武士として当たり前の行動であったわけですがこれはサムライに限ったことではないと最近思うようになってます「義憤」にかられてそれは家族かもしれません
今日は、義士祭。毎年、赤穂義士たちが討ち入りを果たした12月14日に、その偉業を称え行われる、両国の恒例行事のひとつ。雨の中、赤穂浪士好きや近隣住民が多く訪れていました。日本一きびだんごを社に残っている部下たちへ土産として購入。自分は、会場で暖をとるために、ちゃんこ両国のちゃんこ鍋。昭和38年に創業した老舗のちゃんこ。野菜と豚肉が甘い。適当に振りかけた一味唐辛子が良いアクセント。ごちそうさまでした。
今回はずっと行ってみたかった赤穂義士祭に行ってきました!🙌実は私、歴史とか武士とか、そんなに詳しくないんです💦でも、あの有名な「忠臣蔵」の舞台になったお祭り、一度生で見てみたい!という好奇心だけで、兵庫県の赤穂市までひとっ飛びしてきました。🏯迫力満点!武者行列と赤穂城跡赤穂義士祭って、毎年12月14日に行われるんですよね。この日が、赤穂浪士が吉良邸に討ち入りをした日だそうで、街全体がすごい熱気に包まれていました!写真を何枚か撮ったので、よかったら見てくださいね👀赤穂城
2025/12/14内藤剛志さん大石神社斉藤知事と記念撮影
時は、元禄15年12月14日大石内蔵助義雄(よしたか)赤穂城大石神社(兵庫県赤穂市)花岳寺浅野内匠頭と四十七士遺髪塚大石神社(京都市山科区)大石内蔵助遺髪塚大石くう・りく・吉之進(兵庫県豊岡市)大石りく遺髪塚泉岳寺(港区高輪)浅野内匠頭墓所阿久里(瑤泉院)墓所赤穂義士墓所大石主税墓所大石内蔵助墓所大石内蔵助辞世(播州赤穂駅)あら楽し思ひは晴るる身は捨つる浮世の月にかかる雲なしNHK大河赤穂浪士(作曲芥川也寸志)
きょうは赤穂義士祭が開催されます。赤穂義士たちが討ち入りを果たした12月14日に、その偉業を称え、赤穂市最大のイベントとして開催される「赤穂義士祭」です。
WordPressでブログ書いてます☆彡↓↓リンク先↓↓この時期には。。。(2025.12.14)この時期には。。。(2025.12.14)この時期になると、やっぱり観たくなる🎥322年前の大事件(1703.01.31)📰旧暦では12…mshira1973.wordpress.com白川くんの独り言βnosweatnovictory
「5小倉百人一首(その27」今日は、赤穂義士みなさんおはようございます昨夜から雨でしたいい天気だったのにと思っていると理由がありました今朝は赤穂義士の討ち入りの日でしたオールドメディアもかつては必ず忠臣蔵をやっていましたわが国にとって価値のあるものを伝えることこれが一番大事ですね(笑)終(しま)い佳(よ)ければ、師走、12月大事なことを伝える(笑)「小川翔護とハタラク仲間たち(OHN)」ご参加いただいた皆様、ありがとうございました鋭
今日は赤穂浪士討ち入りの日です元禄15年12月14日の深夜大石内蔵助率いる47人の赤穂浪士が主君浅野内匠頭の仇を討つため吉良上野介邸に討ち入り見事に仇を討ちとりましたちなみに「赤穂浪士」ではなく「赤穂義士」が正しいと思います【考える葦】考えるということは何にもまして尊い人間の特性であるパスカルが有名な「考える葦」の中で語っている言葉もそういう意味であろう「人間は一本の葦にすぎぬ自然のうちで最も弱い葦にすぎぬしかしそれは考える葦であるこれを
12月14日は赤穂義士討ち入りの日です1・山科義士祭、スタートは毘沙門堂、その後瑞光院、〇〇寺、ゴールは大石神社2・同じ日に「義士会法要」が行われる寺院は?3・大石良雄内蔵助ゆかり、泉涌寺塔頭来迎院にある茶室は?4・同じく大石良雄内蔵助ゆかり、血判石、断食石のある山科区の神社は?5・浄瑠璃、歌舞伎「仮名手本忠臣蔵」、七段目に登場する揚屋(宴会場)はどこ?6・12月の「大石忌」で井上流家元が披露する舞は何?7・討ち入りの密議が行われた安養寺の僧房は?8・地蔵院、聖光寺に
12月14日は赤穂義士の吉良邸討ち入りの日これまで何回も見て来た忠臣蔵ですが今年の歌舞伎座での通し狂言仮名手本忠臣蔵はほんとに泣けました自分でもびっくりするくらい泣けました通し狂言をみてはじめて忠臣蔵の良さがやっとわかったような気がします
偶然ですが、12月19日からチャーリーの素顔に迫るドキュメンタリー映画『チャップリン』が全国公開されます。12月7日の勉強会では、ドタバタ満載のコメディー『チャップリンの消防夫』が、チャップリンへのオマージュとして幕を開けます。又、赤穂義士.唯一の粗忽者.不破数右衛門を羅門光三郎の快演でお楽しみ下さい。ただいま好評予約受付中!
時々覗く古本屋の店先にバーゲン本の棚がある。なんでこんな本が、150円から200円で買えるんやという、驚きがあるから好きな棚である。この棚で見つけた。著者は東京大学院情報学環教授ほかに同大学資料編纂所教授を兼任されておられる。江戸時代研究の専門家だ。預置候金銀請払帳大石内蔵助が書いた赤穂城明け渡し以降、討ち入りまでの金銀出納簿だ。赤穂藩家老大石内蔵助が、城明け渡し以降預かった金の収入、支出詳細を、内匠頭正室阿久里への報告書という形式をとっている。収入は金六百九拾両弐朱、銀四拾六匁
本日曇で冬の寒さ。今日は赤穂市に来て散歩したよ。時々小雨も降って寒し。。●忠臣蔵で有名な赤穂浅野氏の居城だった。江戸時代の一国一城令の発布後に築城された珍しい城。●全国的にも他にほぼ無い、江戸時代の城域がそのまま残っている城。広大な範囲の史跡が当時の様子を今に伝える。●僅か5万石の大名が築城したとは思えない、美しい石垣が続く城跡。30万石以上のクラスの見事な城郭。●赤穂市は城跡の整備復元を今も継続しており、再訪する度に往時の姿が甦っている。●本丸には見事な
『旭堂南鈴独演会2025赤穂義士伝・外伝特集』にご来場くださいまして誠にありがとうございました。皆様のお陰をもちまして今年も無事に独演会を終える事が出来ました。感謝申し上げます。今年は俵星玄蕃直助の恩返し天野家利兵衛中入り大石の東下りの4席をさせていただきました。中入り前に3席連続という挑戦で、息切れしないで出来るかなと思っておりましたが、なんとか出来ました。昔の講釈師は毎日2時間くらい喋ってたというのを聞いておりますので、なんとか追いつきたいという思いで挑戦させてい
・築地から泉岳寺まで歩きました散策した日2025年11月03日(月)9時00分~13時30分散策コース築地川公園(暁橋)~築地本願寺~汐留橋跡~伊達家上屋敷跡~浅野内匠頭終焉の地~宇田川橋跡~水野邸跡~泉岳寺~細川邸跡概要元禄15年12月14日、大石内蔵助以下赤穂義士47名が吉良邸に討ち入り本懐を遂げた。一行は、亡き主君・浅野内匠頭の墓前に吉良の首を供えるべく、内匠頭の墓がある高輪・泉岳寺へと引揚げた。今回(は築地・旧浅野内匠頭屋敷跡から泉岳寺まで歩いた。
初めてヘルプマークをバッグに付けて電車でお出掛けをしてみた、ヤモリです去年、札幌に行った時にとってもお世話になった友人彼女から、東京に来る、と、少し前に連絡がありました。わたしの足もだいぶ良くなったので朝から、夜の出発の便までの時間、一緒にお出掛けすることに彼女が泊まるホテルから、帰りの羽田空港への移動を考え泉岳寺と浅草寺・ざっくり浅草散歩、に決めました。泉岳寺、わたし、行ったことなかったんですよ!四十七士のお墓があることは知っていたので1度は御参りしたいな、と思っていました
広島市西区己斐の国泰寺に建立されている「赤穂義士追遠塔」です。※もともと国泰寺は現在の中区に創建されていましたが、1945(昭和二十)年8月6日原爆の惨禍で焼失し、戦後西区の現在地に移転しています(のでこの塔も移設されています)。大正二(1913)年10月に建設されました、正面「赤穂義士追遠塔」の七文字は、旧藩主浅野長勲(1842-1937)の揮毫です。この塔石、台石ともに、もと國泰寺境内愛宕池畔の自然石です。・・・2008年編集
2025年10月10日その①・・・【街散歩/御朱印巡り☆①高野山東京別院】その②・・・【街散歩/御朱印巡り☆②JR高輪ゲートウェイ駅周辺】_____続きです。最後に泉岳寺へ向かいました。このお寺には赤穂義士のお墓があります。12月14日には【義士祭】が行われます。中門中門の案内萬松山大石内蔵助の像仲見世があります。泉岳寺慶長17年、徳川家康により建立された名高い曹洞宗寺院。浅野家代々の墓と赤穂義士四十七士の墓があり、「主
広島市東区二葉の里の明星院・本堂に安置されている「赤穂義士木像」です。※もともとは、義士堂に安置されていましたが、義士堂が1945(昭和20)年8月6日、原爆で倒壊し、(爆心地より≒1,800m)現在本堂に安置されています。明治時代の作とされ、作者は不明。赤穂義士木像は、像高70cm、楠の一木造(いちぼくづく)りです。広島浅野宗家と赤穂浅野分家の関係にあることからここ明星院に四十七義士の木像があるそうです。2005年編集した頁でしたが、今回いまのHP「広島ぶらり散歩」に
cheeseです💕今回ご紹介するのはこちらの一冊📘(童門冬二『真説赤穂銘々伝』平凡社、1999年)講談に「赤穂義士銘々伝」というものがあります。赤穂義士それぞれの物語が語られるのですがこれが素晴らしい内容でしてね脚色された話だとわかっていてもじーんとしてしまいます☺️cheeseの大好きな大高源五にも有名な講談があります。いろんな方がお話されていますがお気に入りは神田陽司さんのものですね⬇️源五の人となりが感じられて最後の場面では、ちょっと泣
2022年11月に東京に行ったときの記録です。2日目の午後は泉岳寺へ向かいます。赤穂浪士関連で言うと赤穂の観光地は巡ったことがあるのですが、赤穂浪士のお墓がある泉岳寺にも行ってみたいと思い参拝しました。駅からして赤穂義士色泉岳寺の中門こちらは山門脇には大石内蔵助像が立っています。御朱印をいただく際には、御朱印帳を預けて、待っている間簡単な写経を行うという経験したことのないパターンでした。本堂にお参りしてから赤穂義士墓地へ。墓地の手前には首洗い井戸とい
東京名所No.0057【赤穂義士墓地】江戸城・松の廊下で刃傷事件を起こした赤穂藩藩主・浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)は切腹を命じられ、菩提寺の泉岳寺に葬られました。主君の仇を討つため、本所吉良邸に討ち入った大石良雄(大石内蔵助)率いる赤穂四十七士も同様に切腹を命じられ、主君の眠る泉岳寺に葬られました。泉岳寺の赤穂義士墓地は、45基の墓と3基の供養墓で構成されており、隣接して浅野内匠頭や夫人の瑤泉院、墓守を務めた妙海尼の墓も建っています。【所在地:港区】
東京名所No.0056【泉岳寺】萬松山(ばんしょうざん)泉岳寺は、1612年に外桜田(現在の警視庁近く)に創建された曹洞宗の寺院です。その後、大火により焼失して現在地に移り、再建に協力した大名の一つ・浅野家は泉岳寺を菩提寺と定めました。江戸時代には境内に壇林(僧侶の学校)が設けられ、これは現在の駒沢大学の前身の一つになっています。泉岳寺は赤穂事件ゆかりの寺院であることから、境内には浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)や赤穂四十七士の墓地、首洗い井戸などの史跡、赤穂義士記念館
2025-06-29トコトコ〜っと歩いていたら、横断歩道の向こう側にギザギザな壁発見お久しぶりに行っとこか吉祥寺皆さ〜ん♪お久しゅうございますぅ〜ご挨拶します大石内蔵助クンでんっ♪まったね〜コースに戻りますトコトコ〜四天王寺ホントはもちっと真っ直ぐ歩いてから入るのだけど、四天王寺の中を通り抜けるコースなので、もう境内へ入っちゃいます亀さんたちはどんな感じかしら〜おや、いないね〜水中を気持ちよさそうに泳いでる亀さんは沢山いました🐢〜ご挨拶して、出ますよ〜トコト
日曜日、良い天気だったので愛犬チワワ10歳(音ノンちゃん🐶)を連れてもうすぐ完成予定の『高輪ゲートウェイ』まで足を運んでみました🚶寝起きの格好のままで出たのに思っていたよりガッツリ散歩💧途中泉岳寺や伊皿子あたりを経由し通っていた幼稚園周辺を小さい頃の記憶を思い出しながら歩いていると変な看板というかオブジェというか…何なのかよく分からなかったけど「笑っていこう!」という意味かなぁと前向きに捉えることにしました😅汗だくになりながらも何とか高輪ゲートウェイ駅到着💦この時既にワンコ歩きたくない症
cheeseです💕松山市駅からほど近い場所にあります興聖寺✨地図でみるとこちら⬇️(画像おかりしました🌸)こちらのお寺さんですね実は赤穂と深い関係があるんですね😳吉良邸討ち入りののち義士たちは4つの藩にお預けになりました。そのひとつが伊予松山藩松平家。お預けになったのは大石主税、堀部安兵衛、中村勘助、不破数右衛門貝賀弥左衛門、菅谷半之丞、千葉三郎兵衛、木村岡右衛門岡野金右衛門、大高源五・・・の10名。そう❣️cheese
cheeseです💕今回ご紹介するのはこちらの一冊📗(谷口眞子『赤穂浪士の実像』吉川弘文館、2006年)⬇️こちらの本が面白かったので、購入。赤穂浪士たちに着目し彼らを仇討ちにむかわせたものは何か数多くの史料をもとに考察した一冊。興味深かったのは「大石内蔵助と堀部安兵衛」と題された章。このふたり討ち入りをめぐって長く対立してたのです😳家老の大石内蔵助と江戸詰(江戸勤務。しかも中途採用)の堀部安兵衛が対立するって会社組織として考えるとちょっと
cheeseです💕梅雨の晴れ間にドライブ🚗💨やってきたのは熊本県山鹿市✨(くまモンがお出迎え✨)日輪寺というお寺にやってきました。こちらのお寺は、赤穂義士と深い関わりがあるのです☺️討ち入り後、幕府の裁定が下されるまで義士たちは四大名家にお預けになりました。大石内蔵助はじめ17名は熊本藩細川家高輪屋敷に預けられます。(熊本藩細川家高輪屋敷跡)ここで義士たちの身の回りを世話をしたひとりに堀内伝右衛門という侍がいます。伝右衛