ブログ記事32件
こんにちは。今日は何の日?UFO信じる?信じない?▼本日限定!ブログスタンプ1441(嘉吉元)年6月24日。播磨の守護・赤松満祐が、“宇宙人👽”ではなく、恐怖政治を行った第6代室町幕府将軍・足利義教を騙し討ちにした・・・俗に言う「嘉吉の乱」が起りました。足利義教像義教は、室町幕府を開いた初代将軍・高氏の孫で、南北朝合一を果たして、幕府を全盛期へと導いた義満の息子です。とは言え、義教は5男なので、第4代将軍は長兄である義持が継ぎ、5代将軍はその義持の息子の義量が継ぎと、本来なら
*問題は、「早慶大受験・正誤判定新研究140(問71)」で確認してください。問71正解は➌。とても素直な問題で、選択肢の文章は時代順に並べられている。➊「比企能員とその一族」が滅ぼされ、北条時政が源頼家の弟実朝を将軍に擁立したのは、1203年=13世紀初頭。日本史の基本73(17-1執権の地位の確立)➋5代執権北条時頼によって「幕府創設以来の有力御家人である三浦氏一族」が滅ぼされたのは、1247年(宝治合戦)=13世紀中頃。日本史の基本77(17-
問71標準レベル13世紀末ごろに発生した事件について述べた文として正しいものを、次の➊~➍のうちから一つ選べ。➊将軍の外戚として力をつけていた比企能員とその一族が、彼らの台頭に危機感を強めた北条氏に滅ぼされた。➋幕府創設以来の有力御家人である三浦氏一族が北条氏に滅ぼされ、この戦いの結果、幕政は得宗専制の方向へと進んだ。➌政治改革を主導した安達泰盛と、御内人の代表である平頼綱との対立が激化し、泰盛一族と与党の御家人が滅ぼされた。➍京都での祝宴に招かれた将軍が
21-2嘉吉の変6代将軍足利義教(よしのり)の守護抑圧策が強化されるなかで、不安感を強めた有力守護赤松満祐(あかまつみつすけ)は、1441年、京都の赤松邸での祝宴(しゅくえん)に義教を招いて暗殺した。将軍の死は当時、「自業自得(じごうじとく)」「此(かく)の如(ごと)き犬死(いぬじに)、古来(こらい)例(れい)を聞かざる事なり」と評され、また、この嘉吉の変(かきつのへん)(嘉吉の乱)直後に、「代始(だいはじ)めの徳政」を要求する嘉吉の徳政一揆(とくせいいっき)が発生した。こう
前回まではこちら⬇️目次私、足利義満の娘・智子です。小百合「智子様!!」ゴロン、私「はぁはぁ…」床に転がっていたのは赤松満祐の首でした。私は満祐の首を斬り落としたのです。小百合「智子様!ご無事ですか⁈」私「…間一髪のところでした。あの声がなければ斬られたのは私でした。」小百合「声とは?」私「小百合には聞こえませんでしたか?足利将軍家を守れという声を…。」小百合「私には何も…。」私「そうですか…満祐の首を山名持豊殿に渡しましょう…ゴホッ!」私は再び吐血しました。小百
前回まではこちら⬇️目次私、足利義満の娘・智子です。私は幕府軍の播磨国・城山城の総攻撃に加わり、赤松満祐を追い詰めました。間者の小百合が赤松軍の兵を蹴散らす間に私は奥の居間に入り、そこに満祐がいたのです。私「ようやく会えましたね!」満祐「ん?お前は入江殿聖仙!いや…今は足利智子であったな。」赤松満祐はとても背丈が低くく、三尺ちょっとほどでした。三尺ちょっとで120㎝くらいだったんだ。周りからは三尺入道って呼ばれてたんだ。満祐「殺したと思っていたが…間者がしくじりおったか!何しに
前回まではこちら⬇️目次私、足利義満の娘・智子です。2人の兄・義持、義教の側近であった亡き満済殿が死してなお私のために力を貸してくれていました。満済殿は私が困った時、力を貸すよう管領の細川持之殿に遺言をしていたのです。智子さんの存在を知っているものはごくわずかだったんた。それを満済さんは持之さんに密かに教えていたんだね。私「持之殿、討伐軍はなぜ出立しないのです?赤松満祐を見逃すつもりですか?」持之「見逃すなんてとんでもない!必ず満祐は討ちます!細川の軍は既に出立しました。」小百合
前回まではこちら⬇️目次私、足利義満の娘・智子です。兄・義教殺害から危険を感じ、京の外れの小屋にいた私を一休宗純様が訪ねてきてくれました。一休です。智子殿は私の恋人です。一休「京での将軍殺害を聞き、智子殿のことが気がかりで…もしや、こちらに居るのではと思い来てみました。」私「一休様…!」私は一休様を見て気が緩んだのか、涙が溢れ一休様の胸で泣きました。私「兄が…義教も義持も…赤松に!」一休「おやおや、泣いていてはわかりませぬぞ。まずは落ち着きましょう。」私はひとしきり泣き、今ま
前回まではこちら⬇️目次私、足利義満の娘・智子です。私は兄・義教が赤松満祐に殺害され、守護大名らが赤松討伐にすぐ出陣すると思ったのですが…守護大名は各々の居館に引きこもったままでした。守護大名らは赤松満祐さんが単独で義教さんを殺したのではなく協力者がいると思って様子を見てたらしいんだ。でも実際は赤松満祐さんの単独犯行なんだよ。この守護大名らの状況を見た満祐は居館に火をつけ、領国の播磨に帰っていったのです。満祐の軍は義教の首を槍先に刺し、隊列を組んで堂々と京から退去したのでした。※
前回まではこちら⬇️目次私、足利義満の娘・智子です。兄・義教が殺害され赤松邸の前は大混乱。その中で私は義教の近習の伊勢左馬助に会い、赤松邸で何が起こったのかを聞きました…ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー義教は赤松満祐の子・教康に先の結城合戦の勝利の宴として赤松邸に招かれました。結城合戦は幕府軍と足利持氏さんの残党が関東で戦いだよ。教康は、「鴨の子が沢山できたので泳ぐ様などご覧ください」と招いたそうです。義教と一緒に管領・細川持之、山名持豊、大内持世、畠山持永などの守護大名
前回まではこちら⬇️目次私、足利義満の娘・智子です。私と間者の小百合は急いで赤松満祐殿の居館に走りました。兄・義教の身が危ない!私の不安は増していました。そして、かつて義持を毒矢で襲い、暗殺したのは赤松満祐殿、いや赤松満祐の仕業に間違いありません。足利義持です。既に亡くなってます。義持さんは毒矢が擦り、それが元で亡くなったんだ。あっ!これはこの歴史連載だけの話だよ。やはり私が付いて行くべきだったと後悔が走る私を襲っていました。到着した赤松邸では塀から逃げ惑う者や表門から出てきた
前回まではこちら⬇️目次私、足利義満の娘・智子です。1441年、私は兄・義教の勧めで身体を休めるために相国寺に入りました。私は相国寺にある父・義満や兄・義持のお墓に手を合わせる日々を送っていました。相国寺の創立者は義満さんなんだよ。その頃、義教は天龍寺や石清水八幡宮など寺社の参詣巡りをし、この相国寺にもやってきました。相国寺義教「智子、変わりはないか?」私「はい、兄上。日々、父上と義持兄上のお墓にお参りしております。」義教「そうか。わしも参ろう。」義教は手を合わせてながら語
前回まではこちら⬇️目次私、足利義満の娘・智子です。1441年、関東で起こった結城合戦で敗れた足利持氏殿の遺児、春王丸、安王丸は京へ送られました。私はそれより遅れて京へ向かいました。その途中、嫌な話を耳にしました。それは兄・義教の命で春王丸、安王丸が斬られたというものです。義教は持氏殿の一族は根絶やしにすると言っていましたが、その言葉を実行したのです。京へ向かう途中の美濃国垂井宿で春王丸、安王丸は殺害されたんだ。春王丸が13、安王丸が11の年齢で幼いのに。春王丸、安王丸の墓私は