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幕府方に討伐された一連の騒動を何と云うか?足利義教は強権的な政治を行い、自らの意に添わない守護大名や貴族を弾圧した。義教はことに、守護大名の家督争いに介入する事が多かった。義教が播磨・備前・美作の守護である赤松満祐の所領を没収すると云う風聞が起き、危機感を抱いた満祐は自邸に義教を招き、宴の席上で将軍を暗殺した。これが「嘉吉の変」である。
「嘉吉の変」くじびき将軍みなさん、おはようございます将棋の藤井聡太棋聖はまさかの逆転負けでした驚きましたこの負けが自分の勝ちばかりを考えず将棋界全体を盛り上げるための結果とすれば日本人の魂の大きさを感じます独り勝ちはいけませんなんとなく、嬉しく思いましたさあ、今日「6月24日」の國史を学びましょう「嘉吉の変」嘉吉元年(1441年)守護大名の赤松満祐が6代将軍・足利義教(よしのり)を自宅に招き猿楽の宴中に殺害しました4代将軍・義持は5代将軍・義
嵐山城(姫路市景福寺前)別名:景福寺城永享十二年(1440)赤松満祐の下知を拒んで閉戸追放された渋谷二郎太夫長秀が城主。(※兵庫県中世城館・荘園遺跡より)遊戯広場展望広場お花見広場嵐山城遠望姫路市の城
那胡山構(姫路市名古山町)別名:名古山構永享十二年(1440)赤松満祐の下知を拒んだ結果閉戸追放になった14名の姫路地方の豪族のうちに那胡山構主那胡七十郎頼三がいる。この人が初代構主とされているが、『飾磨郡誌』には「輕き浪人也」とあるのは、この追放のことを言っているのかも知れない。(※兵庫県中世城館・荘園遺跡より)須弥山仏舎利塔今は何の遺構も残されていない姫路市の城
名古屋のシンゾウです73歳になりました。昨日は、久しぶりに女房と食事に出掛けました。勿論、彼女の奢りです。海老フライ定食を注文しましたが、出された海老の小ささに愕然としました。写真に偽り有りでした。折角、彼女が御馳走してくれるのに....腹が立ったので、殆ど残して店を出ました。こんなこともあるんですね。名古屋飯!!危うし!!でも、この日のことは強く記憶に残る筈です。ありがとう!!本日のブログを更新します。◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆本日の問題(608)◆◆◆◆◆◆
和坂構居(明石市和坂)別名:和坂構・和坂城・蟹ヶ坂構嘉吉元年(1441)の嘉吉の乱の際に、赤松満祐方の本陣として、須磨・明石方面を守る要害となった。和坂構居跡(坂上寺)明石市の城
22.04/09sat.10:30-15:15JR播磨新宮駅から北口西側は「塩っぺ」「アラ!」の「ブンセン」東側は、揖保乃糸で「はりま製麺」の工場工場に突き当たり、左折右折して北西に新宮宮内遺跡弥生時代の集落跡生活の跡は縄文時代から平安時代まで及ぶ新宮こども園、新宮小学校を過ぎて北西にたつの市立埋蔵文化財センター遺跡、古墳からの出土品の展示その出土地のパネル展示嘉吉の乱、赤松満祐の終演の地城山城(きのやまじょう)は龍野城との中程の山…また次回の楽しみに、北西の山裾
小谷城(加西市北条町小谷城山・西鴨谷・鴨谷町寺尾)伝によれば赤松満祐の弟・上原民部大輔祐政が築いたといわれるが確証はない。嘉吉元年(1441)、満祐が将軍足利義政を殺害した嘉吉の乱が起こると、小谷城には満祐の弟で龍門寺の禅僧直操が入り但馬の山名氏に備えた。直操は良・宇野・佐用氏らを率いて生野峠に出陣したが、大山口の戦いに敗れ、直操は敗戦の責を負って自害、小谷城は落城、赤松満祐も城山の戦いに敗れて滅亡した。嘉吉の乱後、播磨守護は山名氏が任じられ、その間、小谷城は廃城となたのか、山名氏の支配下にあ
◎明源寺概要について寺院名天橋山明源寺読み(てんきょうざんみょうげんじ)宗派浄土真宗本願寺派いわゆるお西のお寺住所兵庫県たつの市新宮町觜崎253番地電話0791-75-3561~歴史~1430-70年ごろから始まり、現在まで550年以上の歴史ある寺院です。東には揖保川「寝釈迦の渡し」・県内最古といわれる摩崖仏が現存し、西には明源寺のルーツ城山城跡が残る亀山を望む出雲街道沿いに立地しております。城山城城主赤松満祐の弟
【3月2日(水)】古代山城(神籠石)と中世山城(嘉吉の乱で赤松満祐が滅んだ城&尼子晴久が播磨侵攻で拠点とした城)が同居する城です。城域が広大で、比高差も400m以上あり、馬立の大手登山道から登り、兵糧道を下野田へ下山する行程で5時間50分を要しました💦所在兵庫県たつの市新宮町登城令和4年2月26日①馬立登山道(大手道)馬立古墳群の中を登っていきます。②山中にある亀の池(きのいけ)広大です。③亀岩ほかに蛙岩なんかもあります💦④北端の堀切と土塁。⑤石塁3⑥
足利義教は将軍就任、当初は有力守護大名による衆議によって政治を行っていた足利義教だが、長老格の畠山満家、三宝院満済、山名時熙の死後から次第に指導力を発揮するようになっていきました。待ちわびていたことだったと考えられます。足利義教は将軍の権力強化を狙って、斯波氏、畠山氏、山名氏、京極氏、富樫氏の家督相続に強引に介入し、意中の者を家督に据えさせました。1439年の永享の乱では、長年対立していた鎌倉公方足利持氏を滅ぼした。比叡山延暦寺とも対立し、最終的にこれを屈服させたものの、僧侶達が根本中堂を焼き
「紫雲山定願寺跡」は見つからなかったけど、移築した教信寺はすぐに解りました。勝手に官兵衛紀行では来ないままやったな。野口城跡でもあるんやな。司馬遼太郎の「播磨灘物語」では織田信忠に攻められたんやったかな?本堂はリニューアルしたとはいえ600年も前の建造物とは思えんな。御所と称してたのに山名氏に焼き討ちにあわなかったんかな?圓教寺の威光が効いてた?この説明文やと、廃れてしまった定願寺は「如意輪寺」が管理してたんかな?飾り瓦が珍しい。総門には牡丹の花?教信上人のエピソードが凄いな
皆様、明けましておめでとうございますm(._.)mすてれんきょの全くの独断と偏見による拙ブログにご訪問いただきありがとうございます。皆様のご訪問とコメントが何よりの励ましに成っております。2022年もなにとぞよろしくお願いいたします。始にお断りしておきますが、すてれんきょのブログはほぼ予約投稿です。この記事も予約投稿しています。で、ここからが本題ですが、書写山圓教寺周辺をレポートをやるぞ!なんて言って、坂本城跡を最初に紹介したんですが、話の繋がりで、表題の「紫雲山定願寺跡」をレポー
まさき:武川佑先生の3月に出た本なんですけど、室町幕府6代将軍足利義教の時代を片腕の少女小鼓(こつづみ)が駆け抜けていく様を描いた時代青春小説です。恥休:なるほど、義教が征夷大将軍になり最後は嘉吉の乱で赤松満祐に殺されるまでの話ですか。まさき:この小鼓の父親が南朝再興に加担して義教(将軍になる前は義園)に追われ、その時に小鼓は左腕を斬られてしまう。小さい頃から父親に兵法を教
河合城(小野市新部町小字構・河合町城成)別名:堀殿城・新部上月城守護赤松氏の側近衆上月氏の居城である(『上月文書』)。嘉吉の乱(1441)に赤松満祐が将軍足利義教の首を持ち寄ったと伝えられている。赤松氏の東播磨進出以前にこの城が存在していたかどうかは不明である。(※兵庫県中世城館・荘園遺跡より)なお、圃場整備の工事前には「源氏屋敷」と称する主郭の東に高さ3m、基底部幅12mの土塁が残存していたとある。現地説明看板河合城平面図西郭西堀跡主郭東堀跡東郭小野市の城
・・・幕府方に討伐された一連の騒動を何と云うか?足利義教は強権的な政治を行い、自らの意に添わない守護大名や貴族を弾圧した。義教はことに、守護大名の家督争いに介入する事が多かった。義教が播磨・備前・美作の守護である赤松満祐の所領を没収すると云う風聞が起き、危機感を抱いた満祐は自邸に義教を招き、宴の席上で将軍を暗殺した。これが「嘉吉の変」である。
Webサイト等でリリースされた様々な歴史情報を閲覧等しやすいようにまとめさせていただきました。皆様のお役に立つことができれば幸いです。※詳細はリンク先note記事をご覧ください。★歴史情報サマリーβ版★(0048)|reki4|noteWebサイト等でリリースされた様々な歴史情報を閲覧等しやすいようにまとめさせていただきました。皆様のお役に立つことができれば幸いです。<INDEX>1.田沼意次の後を継いだ松平定信が用いたイメージ戦略裏でワイロも2.“秘策”が満載!高知
坂本城(姫路市書写西坂本字構江)坂本城の築城年代は明らかでないが、本城の利用者に羽柴秀吉、山名持豊、赤松満祐、足利尊氏らが挙げられているところからみると、あるいは赤松円心時代に既に何らかの形が出来ていたのかもしれない。しかし本城が有名になったのは嘉吉の変(1441)にあたり、将軍足利義教を殺して播磨に引き揚げてきた赤松満祐が最初に曲輪にしたのがこの坂本城であったからである。満祐はここに三千余駒を集めて室町幕府の追討軍と戦ったが、敗れて城山城に転進した。嘉吉の変後は山名持豊は播磨国を領し坂本城に
城山城(たつの市新宮町馬立字亀山・菖蒲谷・下野田字菖蒲谷・平井字亀ノ山)城山城は赤松則祐が築いたとされている。『教王護国寺文書』巻一の「矢野荘年貢算用帳」によると、文和元年(1352)の頃に城山城築城人夫のことがあり、貞和元年(1362)にも矢野荘から城山城へ材木運搬のことが記されている。貞和二年になると兵糧米や塩が運びこまれているから、ようやく城ができて軍兵が駐留していたことがわかるが、なお倉作人夫や材木が矢野荘から運搬されている。すなわち、城山城は全盛時代の赤松氏の権力をもってしてもなお1
白旗城(赤穂郡上郡町赤松・野桑)この城の創建については、源季房の白旗出現の夢見による築城が伝承されている。すなわち、源季房が播磨国の国司に任ぜられて播磨の加古川に留まっていたとき、ある夜の夢枕に、播磨国の西方の険しい峰で、前に川が流れていて人跡希なところに一流の白旗が天から降るのを見た。その後幾日か経て、赤穂郡赤松荘の人々が夜ごとの夢に白旗が現れるという不思議が起こり、このことを村の人々が国衙に訴え出た。季房はこれを聞いて直ちに赤松荘に赴いて格好の山を求めてここに城を築いた。これが白旗城である
室町時代といえば金閣、銀閣。勘合貿易に応仁の乱、以上❗️のイメージで、実際大学入試の日本史でもやらなければあとはあまりいらないよね。その金閣銀閣の間の時期に比叡山と敵対し、部下にも非情な対応をし、挙げ句殺されてしまうという、元祖信長のような将軍がいたのです…6代将軍、足利義教。そもそも将軍になる予定ではありませんでした。金閣を建てた3代義満の息子ですが、跡継ぎではなかったため比叡山延暦寺に入り、僧侶になります。めちゃくちゃ優秀だったらしく、比叡山ト
岩屋城(加東市森尾小字小谷山・谷垣内および新定小字高町・奥木谷)各種古城記に、城主は赤松兵部少祐之(赤松満祐の弟)であったと記されている。岩屋城は旧岩屋村(現「森尾」も旧岩屋村の一部であった)と旧新定村の村境で、北方より南方に伸びる尾根の先端が東西に分岐し、背後より僅かに高くなったところにあった、といわれている。それらを便宜上「東の城」「西の城」と呼ぶ。「東の城」および「西の城」の最高部の標高は、それぞれ131mおよび123mで、その間には深い谷が入り込んでいた。(昭和47年東条町1/2500
バサラ(lookanim.gif)(2galsd2.gif)(comic12.png)(kiyoma5.png)(himiko92.jpg)(himiko22b.gif)デンマンさん。。。今日は女子プロレスのお話でござ〜ますかァ~?(kato3.gif)。。。ん?女子プロレス?そうですわァ〜。。。この記事の冒頭に女子プロレスのイラストが出ているではありませんか!でも、バサラと女子プロレスが、どのように関係しているのですか?あらっ。。。デンマンさんは羽沙羅
ゲーム『桃太郎電鉄』シリーズに負債をゼロにする「徳政令カード」が登場するなど、現代でも借金帳消しの代名詞的存在となっている徳政令。借金は返さなければいけないのに、なぜ返さなくても良いという方が存在したのか。その疑問に答えるのが、講談社現代新書から発売された本書です。本来「徳政」という言葉は文字通り理想の政治を表すスローガンのようなものでしたが、中世の経済、気候、政治等様々な要因が複雑に絡み合った結果困窮していた御家人を救う目的で土地を元の持ち主に返す法令が鎌倉時代に出され、
えーろうです。今回、嘉吉の乱が勃発した二条西洞院の旧赤松満祐邸を散策して来ました。ここは源氏物語でも出てくる平安時代には荒れ果てた二条院候補地で、その後荒地に室町時代赤松邸を造築したと考えられます。嘉吉の乱についてはこちら。https://ja.m.wikipedia.org/wiki/嘉吉の乱最近は歴史マガジンにも〝劇画調で〟取り上げられ益々関心が高まっているのかもしれません。正式には赤松兵部少輔左京大夫満祐という官職で幕府の要職を担っていたそうです。しかし二条西洞院にはその痕跡
こんにちは、城跡で日本を元気にする「城跡地域活性活用専門アドバイザー」であり「日本マイナー歴史研究専門家」の原一六四(ひろし)です。本日は「謀反・反逆・裏切るから見る戦国史」シリーズを書いていきます。「応仁の乱」の続きです。前回は一色義直邸での戦いで東軍・西軍に分かれたと書きました。戦いはドンドン激化していく様相を見せています。一色義直邸での戦いの後に起こったのは、一条大宮の戦いが起こります。時は応仁元年6月8日、突如として将軍家に将軍旗である牙旗が室町御所に翻し
富樫家の家督相続へ介入していた畠山氏に内訌が勃発します。実子のいなかった畠山持国は甥を養子に迎えて家督を継がせようとしましたが、側室に義就が生まれると心変わりします。勝元・宗全にとっては持国追い落としのまたとない機会の到来です。持国は勝元と宗全に家督争いへ介入され、失意のうちにこの世を去ります。ちなみに、持国の甥も他界してしまいますが、その弟の畠山政長が義就とその後も家督を争い続け、家中が二分され、名門畠山は没落していきました。こうして畠山との政争を制した
ここで勝元と宗全の関係を振り返っておきましょう。勝元が細川宗家の家督を継いだ三年後の文安二年(1445)、畠山持国に代わり管領職につきます。しかし、勝元はいまだ一六歳。やがて管領職はふたたび持国の手に帰してしまいます。こうして中央の政局は勝元と持国が交互に担うという構図となります。その勝元は一〇代半ばで宗全の婿になっています。つまり、若干一六歳の勝元が管領につけたのも実力者の義父宗全の後押しがあったからでした。当時はまだ、二人は蜜月の関係
嘉吉の乱から一〇年以上のちの享徳三年(1454)、自刃した赤松満祐の甥にあたる則(のり)尚(ひさ)を幕府に出仕させようとする動きがでます。赤松一族は宗全を敵と思っています。しかも、宗全は満祐自刃ののち、播磨を分国としていました。宗全にしたら、とうてい赤松家の再興は認められません。宗全は「将軍(義政)が親(義教)の仇を取り立てるとは何事か」と罵ったといいます。その声が将軍の耳に達し、宗全追討の話が持ち上がります。このとき、娘婿であった勝元が義政を宥
多趣味人の勝元に比べますと、宗全はわずかに連歌を嗜むものの、趣味という趣味がありません。強いていうなら、当時流行していた犬追物が大好きなことくらいでしょうか。馬場に放った犬を騎馬で追いかけて矢で射る競技のことです。いまなら確実に動物虐待との批判を招くことでしょう。その宗全には「赤入道」という渾名がありました。頓智で有名な禅僧の一休宗純は宗全のことを漢詩で「山名金吾(宗全のこと)鞍馬毘沙門化身」と歌っています。一休は歌の中で「赤面」の鞍馬寺の多聞天(毘沙門天)