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皆さま、おはようございます曇り空で涼しいですね☺雨マークもあるので、そのうち降るのかな?傘忘れてしまって小さい日傘しかないですお外や車の中は暑いぐらいでも、室内はそうでもなかったりするので毎日のお洋服選びが難しいです💦今日は長袖とかカーディガンで大丈夫そうかな••••?私は寒がりなので、職場でもう半袖の方を見ると「元気だなぁ」と感心してしまいます☺そんな私はいまだに職場でホットドリンク飲んでいます☕✨ではでは❤お仕事の方もお出かけされる方もお気をつけて行ってらっしゃい夜勤の
東京・九段に向かい遥拝しましょうみなさん、おはようございます昨日は吉方位に行かれましたか今日から靖國神社の春季例大祭です遠方の方は東京・九段の方に遥拝してください先人に感謝ですアリガトウ「4月21日」の國史です「賤ヶ岳の戦い」天正11年(1583年)羽柴秀吉は賤ヶ岳(しずがたけ、滋賀県長浜市)の戦いで織田家筆頭家老の柴田勝家に勝利します秀吉が信長の仇を討った山崎の戦いに勝家は参加しなかったことが二人の立場を逆転していたようです清洲会議では
【賤ヶ岳の鬼】中公文庫【著】吉川永青柴田勝家の添え物として、賤ヶ岳でやらかした人のイメージが個人的にある佐久間盛政の話。個人をクローズアップすると大体良い人だったり、熱い人になる戦国武将。(書き手によっては、お金の為に書いた歴史小説なのかなと残念になる武将作品もたまにある。)本作もだいぶ熱い戦国武将、佐久間盛政が描かれている。武勇に優れた武将が、知略で豊臣秀吉と渡り合うさまが熱い。ほとんど知らなかった、佐久間盛政という武将が知れて面白い作品。賤ヶ岳の鬼-吉川永青著|文庫|
こんにちは先物見ると月曜日が恐ろしいですね…折角の気候の良い季節。天気も良いのでお出かけしてきました人混みより自然派です賤ヶ岳バトルアスレチック|ウッディパル余呉2024年2月24日(土)より、オープンします。お待たせしました。woodypal.jpかつて余呉で行われた「賤ヶ岳合戦」をモチーフにした巨大アスレチックです。それぞれの武将の城や砦を模した丸太で作られています。青空のもと砦を乗り越え敵陣に攻め入ろう!全部のアスレチックの所要時間は約2時間。■
【問題】≪難問≫賤ヶ岳の戦いで、羽柴秀吉が本陣を置いたとされるのは次のうちどこか?【選択肢】木之本地蔵院竹生島丹生神社尾上浜【正解】木之本地蔵院【解説】賤ヶ岳の戦いにおいて、秀吉は木之本地蔵院(浄信寺、滋賀県長浜市)に本陣を置いたという。この時の戦火で寺は焼失したが、慶長6年(1601)豊臣秀頼の命により再建された。
余呉湖(よごこ)へ、走りに行きました。琵琶湖の北奥に立地する湖で、周回道路が6.8㎞(私のGPS時計での計測では6.7㎞)とれました。「いつか走りに行ってみたい」と温めていたランニングコースの一つでした。ゆるやかな起伏はありながらも、全体としてほぼ平坦なコースであり、車の通行量も多くはないので、走ることに専念しやすい走路でした。コース上のトイレも3つ、確認できました。車を停められる箇所も、数か所あります。13~15時台に、15㎞走(6分10秒/㎞)。三重県の自宅からだと、自家用
田上山城(田上山砦)は、賤ヶ岳の戦いにおいて柴田軍と対峙した羽柴方の事実上の大将であった羽柴秀長が在住したと言われる陣城で、つまりは羽柴軍の本陣となったお城でした。伊香高校の脇の溜池のところに案内板があります賤ヶ岳の戦いは天正11(1583)年の雪解けから始まり、3月12日に着陣した柴田軍に対し羽柴軍の着陣は3月19日とされています。同年4月21日には佐久間盛政の敗走により戦いは終結を迎えていますので、田上山城が機能したのは最大でも1ヶ月ちょっとということになります。柴田側の玄蕃尾城
訪問日:2023/11/23福井県と滋賀県の境にある玄蕃尾城は、柴田勝家公が賤ヶ岳の戦における本陣とした城ですが、勝家公は戦わずして撤退した為、土塁等が良好な形で残っています。県道140号線、柳ヶ瀬トンネル手前の玄蕃尾城への案内板と信号、この信号は日本一長く待たされる信号(6分30秒)として知られています。元々は北陸本線の単線線路が通っていた為、車一台通過がやっとの幅しかありません。うっかりしていると見落としてしまい1352mある狭いトンネルを抜ける羽目になってしまいます。侍ホリタンも長い信
さて、「手取川の戦い」で、織田軍を率いた「柴田勝家」について。柴田勝家織田軍の「総司令官」(中公新書)Amazon(アマゾン)${EVENT_LABEL_01_TEXT}柴田勝家という人。織田信長の家老筆頭として、歴史に、少しでも関心のある人ならば、誰もが知っている有名な人物なのでしょう。しかし、この本を読んで、初めて知ったことですが、どうも、この柴田勝家という人物。確かな史料が少なく、詳しいことが、ほぼ、分かっていないようですね。自身の出自も、よく分からない
ブログのタイトルに、全文を紹介できなかったが、全文は次のとおりである。「落ちぶれているときは平素親しくしている人も声を掛けてくれなくなる。だからこそ、そういう時に声を掛けてくれる者こそ信用できる人間である。」前田利家は、加賀百万石の藩祖である。豊臣秀吉の盟友として、秀吉の天下獲りに大きく貢献した。利家は武勇伝も多く、武勇の名を馳せた人であったが、それゆえにというか、主君織田信長が寵愛していた茶坊主のわがままな振る舞いを許せず、斬り捨てたことがある。信長の逆鱗に
車で移動して古戦場へ。賤ヶ岳リフトに乗りました滋賀県にはたまに行くけどこんなリフトがあるのは知らなかったわ!【公式】賤ヶ岳リフト|滋賀県長浜市の絶景が一望できるリフト南西は琵琶湖と比良山系、竹生島など湖山の美しさ、東は伊吹山、北は羽衣伝説の余呉湖が一望できる、滋賀県長浜市の賤ヶ岳(しずがたけ)リフトの公式サイトです。www.shizugatakelift.jp歩いて登るのはしんどいけどリフトなら行けるよねーリフトを降りてちょっと登ったところから撮った景色琵琶湖山頂展望台
どうする家康新たなる覇者。本能寺で織田信長が、明智光秀の謀反により横死。風雲児織田信長死す織田信長を討った明智光秀は天下を取るため、四方の大名に味方に付くように書状を送る。羽柴秀吉は中国大返しを敢行、山崎で明智軍と激突し明智光秀を破る。明智光秀は、落ち武者狩りに遭い落命。*明智と婚姻関係にある細川が味方にならなかった明智光秀を討った、羽柴秀吉は織田信長の後継者に名乗りだす。織田信長の勢力は、畿内を中心に絶大な力を保持していた。*濃いオレンジ色が勢力織田信長亡き後、重臣達によ
しかし、同時刻、船によって、琵琶湖を渡っていた丹羽長秀が、「一度坂本に戻るべし」との部下に反対されたが、進路を変更して、海津への上陸を敢行した事で、戦局は一変。丹羽長秀の率いる、二千軍勢は、撤退中の桑山重晴の軍勢と鉢合わせし、両軍は、合流し、賤ヶ岳周辺の佐久間盛政の軍勢を撃破し、賤ヶ岳砦の確保に成功する。同日、羽柴秀吉は、大垣城にいたが、大岩山砦等の落城を知ると、即座に軍を返した。羽柴秀吉の軍は、14時に大垣城を出て、木ノ本までの52キロの距離を5時間で移動した。羽柴秀吉が、明
皆さぁ〜ん、大河ドラマ「どうする家康」見てますかぁ〜見るのも感想も1週遅れたなってことで第30話の感想ぉ〜!『本能寺の変』の後、『山崎の戦い』で明智光秀を討った羽柴秀吉。家康は甲斐、信濃、上野を手に入れるべく、北条と合戦。確か『天正壬午の乱』だねここで家康は信濃の真田に恨みを買うことになり、これが後々面倒なことになりますね。一方、秀吉は織田家の跡目を決める『清洲会議』にて、信長の嫡孫、三法師を立て主導権を握りました。三法師くん、何かにつけ利用されまくっているよね秀吉に主導権を握
『母子パッカーがゆく2023④~飛騨·越前編~』『母子パッカーがゆく2023③~飛騨·越前編』『母子パッカーがゆく2023②~飛騨·越前編~』『母子パッカーがゆく2023①~飛騨·越前編~』~プロロー…ameblo.jp7月29日(土)敦賀、長浜6時から展望風呂でいい湯だな~♪はぁびばのんの↓この人寝てたロビーでソーセージパンとサラダの朝食日本海沿いを走り、敦賀(福井)、長浜(滋賀)まで行くぜよ。弁慶の洗濯岩源義経が、兄頼朝に追われ奥州に逃げる途中、洗濯をしたと言われ
▽BS11偉人・敗北からの教訓第7回[柴田勝家]賤ヶ岳の戦いに至る勝家敗北の原因BS11/YouTubeを視聴します。約45分↓柴田勝家写真はネットから拝借しました。
みなさん、こんばんは♪今夜のYouTubeではドラマ独自の設定にはなりますがお市の方の娘・茶々が母の最大のピンチに駆けつけてくれなかった家康に対して憎しみを抱くようになる・・・という展開に共感しつつ、秀吉が、織田家臣団のなかでトップの座を占めるようになったそして天下人への階段を駆け上りはじめた賤ケ岳の戦いにクローズアップして解説させていただきました。ぜひ、ご覧ください♪【日本史】NHK大河ドラマ「どう
8月21日(月)18時以降に『鎌倉殿の13人』の配信再開月曜日から金曜日に毎日2本ずつ配信、9月11日(月)からは配信数を増やして同月14日(木)までに配信完結の予定、とのこと。できれば、今回の件とは関係ありませんが『いだてん〜東京オリムピック噺〜』も配信してもらえませんかね?NHKさん。さて、本日8月6日放送の『どうする家康』は、第30回「新たなる覇者」。清須会議、賤ヶ岳の戦いが描かれました。私が過去に大河ドラマで賤ヶ岳の戦いを観たのは、2011年の『江〜姫たちの戦国〜』。時々しか観ら
いよいよ清須会議だったけど何か薄っぺらい感じがするな、賤ヶ岳の戦いもあっという間に終わってしまった、何か薄っぺらい感じだ😐
8月4日の歴史黒田長政の命日元和9年8月4日(1623年8月29日)徳川秀忠、家光の上洛に先立って上洛病が悪化し京の報恩寺客殿寝所にて最後を迎える享年56歳現在も長政最後の部屋として残っていて特別公開時に拝観できます辞世の句此ほどは浮世の旅に迷ひきて、今こそ帰れあんらくの空正子公也先生の描く長政カッコイイ~!!この長政が1番好きな長政の絵です長政(松寿丸)は幼少は織田家時代人質として羽柴(豊臣)家臣時代は父官兵衛ともに秀吉に仕える備中高松城の戦い、賤ヶ岳の戦い小
滋賀県の観光スポットのお話⛰️滋賀県長浜市にある、琵琶湖と余呉湖を分ける、標高421mの山⛰️賤ヶ岳賤ヶ岳と言ったら、北陸自動車道のサービスエリア、賤ヶ岳サービスエリアが有名✨北陸方面へ車で向かう際にはよく利用するサービスエリアです❗賤ヶ岳と言ったら、古戦場でもあります。賤ヶ岳サービスエリアにしか行ったことがなかったので、先日、福井県に行く際に、初めて、賤ヶ岳⛰️へと行ってきました。この看板を目印に向かいます🚗賤ヶ岳⛰️の駐車場に到着❗❗賤ヶ岳古戦場⚔️賤ヶ岳の戦い⚔️があ
滋賀県の長浜市に帰省した時に、近くの賤ヶ岳へトレランしてきました。賤ヶ岳の戦いを足軽として体験するために、主要な砦への移動を走ってみました。戦国時代の足軽さん達、鎧を着けて、山の登ったり降りたりしてすごいと実感!昔の人は体力あるなーと感心しました。巡ったコース賤ヶ岳の頂上で記念写真。バックの奥琵琶湖がきれい!こちらは余呉湖余呉湖もきれい!砦その1砦その2砦その3賤ヶ岳の戦いの陣構えを確認砦その4砦その5一周目終了!トレランが終わったらカツカレーを食べるぞ!!2周
玄蕃尾(げんばお)城は、滋賀県長浜市と福井県敦賀市との県境、標高439mの柳ヶ瀬山に築かれた山城です。内中尾山(うちなかおやま)城とも呼ばれます。天正11年(1583年)賤ヶ岳の合戦の際、羽柴秀吉と敵対した柴田勝家が陣城として築城しました。ここで賤ケ岳の戦いの概要をおさらいしておきます。天正10年(1582年)本能寺の変で織田信長が家臣の明智光秀に討たれたのち、光秀を山崎の戦いで破り、主君の仇を討った羽柴秀吉と織田家筆頭家老の柴田勝家は対立を深めます。翌天正11年(1583年)3月ついに
3月25日、文化の家「森のホール」で長久手市郷土史研究会主催の「書簡に見る小牧・長久手の戦い発刊記念講演会」が開かれました。ガバメントクラウドファンディング(市内で活動する団体が行う事業に対して市が補助金を交付することを目的として寄付を集める制度)を活用して、開催費用が賄われています。舞台上には、小牧・長久手の戦い同盟都市の市長、町長が出席していました。第1部は中京大学文学部の播磨良紀教授の講演でした。天正10年「本能寺の変」で織田信長、信忠(信長の長男)が死去→山崎の戦い→清須会議→賤ヶ岳の
前回まではこちら⬇️目次天下を競望せず…わしは吉川元春(きっかわもとはる)の三男、広家(ひろいえ)です。「わしは隠居いたす!」元春は妻、優(ゆう)、元長(もとなが)、経言(つねのぶ、後の広家)ら家族の前で隠居宣言をしたのだ。元長「隠居とは⁉︎」経言「父上、隠居はまだ早うございます!」優「殿…」元春は家族其々の顔を見た。元春「すでに元長は吉川家当主として充分な力を備えた。毛利両川の一翼としての力もある。」元長「父上、それがしにはまだまだ父上の力には及びませぬ。」元春「わしは
前回まではこちら⬇️目次天下を競望せず…わしは吉川元春(きっかわもとはる)の三男、広家(ひろいえ)です。天正10年(1582年)10月、本能寺の変から4ヶ月、京の大徳寺(だいとくじ)で羽柴秀吉(はしばひでよし)が織田信長(おだのぶなが)の葬儀を行なっていた。大徳寺この葬儀には織田家の重臣、柴田勝家(しばたかついえ)さんは不在だったんだ筆頭宿老の柴田勝家(しばたかついえ)と秀吉の対立はさらに激しくなっていた。この状況下で毛利輝元(もうりてるもと)のところには秀吉、勝家、双方から味方
【2023年1月7日】成人も遠くになったクソじじいが三連休で岐阜三重に向かう。向かう前には腹ごしらえ。福井回りで下道行脚する。案内板のもんじゅはまだ現役のまま。霧に煙る琵琶湖は海にしか見えん。賤ヶ岳古戦場(の麓)に来た。躍動した七本槍!躍動する猿!…秀吉か?羽柴秀吉なのか?浅井三姉妹にも逢った。どうするも何も家康。安土桃山時代を堪能した1月7日の湯あたりは…天然温泉ロックの湯!失礼を承知で言えば古くてぼろぼろの巨大施設だがお湯のパワー凄い!失われたロックの魂はここ
歴史好きの主人の意向で、七本槍古戦場賤ヶ岳に行きました。七本槍古戦場賤ヶ岳は、天正11年(1583年)4月、近江国伊香郡(滋賀県長浜市)の賤ヶ岳付近で起きた羽柴秀吉と柴田勝家が覇権を争った、賤ヶ岳の戦いの戦場跡です。賤ヶ岳合戦~躍動した七本槍~賤ヶ岳の七本槍とは、賤ヶ岳の戦いで、羽柴秀吉軍にあって活躍した、加藤清正、福島正則、加藤嘉明、平野長泰、脇坂安治、糟屋武則、片桐且元…の、七人の武将のことです。秀吉のもとで活躍し、大名へ昇進していきました。7
1578年3月、上杉謙信が死去し、信長包囲網は大きな打撃を受けました。5月24日、足利義昭は上月城の戦いのさなか、真木島昭光を上月城包囲の毛利氏の陣に派遣し、その将兵をねぎらうとともに、小林家孝を駐留・督戦させました。7月3日、上月城が陥落し、尼子氏が滅亡すると、足利義昭は吉川元春や小早川隆景といった毛利氏諸将の戦功を褒めました。8月、足利義昭は吉川元春の依頼を受け、島津氏に使者を派遣し、大友氏を牽制させ、毛利氏が京に進撃するときは援軍を差し出すことを要請しました。10月、荒木村重が有岡城で
名古屋へとクルマを走らせていたら、『賤ヶ岳古戦場』の看板を見つけて、やって来ました❣️駐車場の大きな看板は羽柴秀吉と柴田勝家が出て来ない看板でした…やはり、この戦ではこの看板にある。『賤ヶ岳の七本槍』と言われている、7人の兵のお話が有名なのかも知れませんね…軽い気持ちで、またまたビーサンで来ました。リフト乗り場まで遠い…リフトの柱には武将の名前と家紋…さぁ着きました…えっ⁉️山頂まで、すぐじゃないんですか?また、計画無しで来て、登山…でも、山頂から見た景色がキレイ過ぎました。