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放たれた矢が的中!パーン!という的が割れる音が響く。砕け散る。陰陽ぉおおおおおお!叫びながら第二の的へ!おりゃ!的中!ブラボー!続く射手もエクセレント!雅な装束が陽の光に照らされて揺れるエレガント!おまけ・シェー!(違)後姿もいと美し。かっけぇええええ!パーフェクト!お気に入りのベストショット↓終わりです♪Excentric*Kanon
ひとつ前の記事で、神事の序盤を動画と画像で紹介済ですが、デジイチで撮影した流鏑馬画像を此方に掲載します。葵祭の序盤として、葵祭の行粧の安全を祈って行われる禊の神事、騎射流鏑馬の儀。葵の葉を装束の一部として身につけて歩く平安、鎌倉絵巻。雅楽の美しい音色と共に雅な空間が現代に蘇る瞬間、京都に住んでいて良かったなぁとありがたく思います。平安装束、身につけたことがありますが、かなりの重装備。当時の馬は戦なんかだと鎧の重みに耐える強さも必要やったんやろうね。射手だけやなく、馬🐴
内側と外側を整えて望む自分でいるために5月のライフコーチマスター講座中級最終講まで毎日、朝5時30分からウォーキングを30分してブログに投稿しています。かずちゃんさんのプロフィールページはじめまして。夫、3人の息子たち、夫の母と二世帯住宅に住むアラ還主婦です。子供のころから感じていた『この生きづらさはどうして?』辛い日々から抜け出したくて、理解もないままスピリチュアルに依存したり、自ら精神科や心療内科に通って処方された薬を頼ったり、外側の誰かや社会の仕組みに対して恨み節の
京都市平安京創生館に展示されている「源氏物語車争屏風」。京都市歴史博物館蔵の複製。紫式部の『源氏物語』~葵の巻~での車争いの場面が描かれています。賀茂祭が行われる4月、賀茂斎院(斎王)の御禊を見物しようと一条通に人々が集まります。その中で起こったのが、光源氏の正室・葵の上と恋人の六条御息所の車が場所を争う事件。☆☆☆☆☆
賀安倍晴明は四十代で陰陽師として天皇に仕えました。五人の天皇に仕え、職を辞したのは八十代でした。そして、一条天皇から晴明神社の土地を下賜されました。一条天皇から下賜された土地は、現在の神社の敷地より広大だったそうです。一条天皇のお妃には清少納言がつかえた定子や紫式部のつかえた彰子たちがいました。晴明神社近くに一条通りがあります。平安時代は一条大路といい道幅は30mあったといわれています。平安時代藤原道長、紫式部、清少納言などなどの人々が賀茂祭り(葵祭り)を一条大路のどこかで見物したことでし
斎王は、賀茂神社(上賀茂神社・下鴨神社)に巫女として奉仕した未婚の内親王または女王(親王の娘)。嵯峨天皇(桓武天皇の第二皇子)が即位した翌年の810年(弘仁元年)、平城天皇(桓武天皇の第一皇子)が復位を試みて嵯峨天皇と対立(「薬子の変」)。嵯峨天皇は、賀茂大神に「我が方に利あらば皇女を捧げる」と祈願し、争いに勝利した後、約束のとおりに第八皇女の有智子内親王(うちこないしんのう)を捧げます。それが賀茂神社の斎王のはじまりで、1212年(建暦2年)に後鳥羽天皇の皇女・第35代礼子内親王(いやこ
賀茂斎院歴代斎王神霊社下鴨神社の賀茂斎院歴代斎王神霊社は、2018年(平成30年)、式年遷宮事業の一環として再興されました。斎王は、賀茂神社(上賀茂神社・下鴨神社)に巫女として奉仕した未婚の内親王または女王(親王の娘)のこと。斎王は、上賀茂神社と下鴨神社の祭礼・賀茂祭(葵祭)を主宰していました。下鴨神社上賀茂神社☆☆☆☆☆
紅葉橋遥拝所唐崎社は、賀茂斎王が退下した際、解齋(お祓い)のために参拝していた社。現在は井上社に合祀されています。賀茂斎王は、賀茂神社(上賀茂神社・下鴨神社)に巫女として奉仕した未婚の内親王または女王(親王の娘)。斎王が奉仕していた時代の賀茂祭(葵祭)は、斎王が主宰していたのだといいます。☆☆☆☆☆上賀茂神社下鴨神社☆☆☆☆☆
1010(寛弘7年)4月の賀茂祭でのこと。一条大路の桟敷で斎王の行列を見物していた藤原道長は・・・桟敷の前を過ぎる選子内親王に二人の孫(のちの後一条天皇と後朱雀天皇)を抱えて「宮たちを見てください」と申し上げると、選子内親王は合図を送ったのだとか。選子内親王は、村上天皇の第十皇女。円融天皇・花山天皇・一条天皇・三条天皇・後一条天皇の五代にわって斎王であり続け、大斎院と称されました。☆☆☆☆☆
琵琶湖の西岸に鎮座する唐崎神社は、賀茂祭(葵祭)を主宰した斎王が退下したときに参拝したともいわれている社。古くから祓の霊場として知られ、平安時代には「七瀬の祓」の一所として京の人々や公家の姫君がお祓いを受けにやってきたのだといわれています。藤原道長も祓に出かけているのだとか。唐崎神社琵琶湖西岸の唐崎の地は、近江八景「唐崎の夜雨」で知られる景勝地。
琵琶湖の西岸に鎮座する唐崎神社は、賀茂祭(葵祭)を主宰した斎王が退下したときに参拝したともいわれている社。古くから祓の霊場として知られ、平安時代には「七瀬の祓」の一所として京の人々や公家の姫君がお祓いを受けにやってきたのだといわれています。藤原道長も祓に出かけているのだとか。唐崎神社
葵祭は平安時代から続く祭事。上賀茂神社と下鴨神社の例祭です。祭の見どころは路頭の儀(行列)。特に斎王代の行列が人気のようです。斎王代とは、かつて賀茂神社に奉仕していた斎王の代理。斎王には、未婚の内親王または女王がなっていました。初代は、嵯峨天皇の皇女・有智子内親王。第三十五代で、後鳥羽天皇の皇女・礼子内親王が退下するまでの約400年間続きました。村上天皇の第十皇女・選子内親王は、歴代最長の期間を斎王であり続け、大斎院と称されました。賀茂斎院跡の碑(檪谷七野神社)斎王の住まい
葵祭(あおいまつり)は、賀茂別雷神社(上賀茂神社)と賀茂御祖神社(下鴨神社)の祭礼。清少納言や紫式部も見た五穀豊穣を祈願する王朝行事。5月15日の路頭の儀では、風雅な王朝行列が京都御所を出発。下鴨神社を経て上賀茂神社へと向かいます。
【食育クイズ:Vol.1579】「京都府」の「葵祭」おさらいクイズ!明治維新で中断された「葵祭」を再興した「明治政府の要人」とは?↓↓↓↓↓↓問題は下記から↓↓↓↓↓↓∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞コッチラボ国産大豆100%大豆ミートプレミアムソイミンチ粗挽き鶏ミンチ風サラダ・スープに大容量サイズ1kgAmazon(アマゾン)大豆コーヒードリップパックAmazon(アマゾン)たねすはら無
常徳寺常徳寺は、賀茂祭で斎王の還御の行列が通る道筋にあった知足院を始まりとする寺。知足院は、清少納言の『枕草子』にも登場。斎王の還御の行列では、知足院や雲林院が見物の名所となっていたようです。997年(長徳3年)の賀茂祭では、藤原道長と藤原実資が知足院近くに車を停めています。また、知足院は、源義経の母常盤御前が安産祈願をした寺でもありました。
ずっと、式子内親王の墓と伝わるところに参る日を決めかねていましたが、やはりわざわざ遠方から京都に行くのなら、紅葉の時期がいいと、ようやく昨日、11月下旬に決めて、某旅行社のフリープランを利用することにしました。料金は高めですが、自分にとっては本当に大切な機会なので、いつもの貧乏旅はやめようと考えました。主に内親王ゆかりの地(伝・御墓[上京区、般舟院陵]、斎院跡[上京区、櫟谷(いちいだに)神社]、唐崎[琵琶湖西岸、斎院退下後、祓いを行った地)と源氏物語「宇治十帖」の舞台である宇治(源氏物語ミュー
第一回目の歌は、内親王らしさはあらわれているものの、名歌とまでは言えないので、今回は、僕も大好きな歌を挙げる。賀茂祭前日、斎院としての務めを行ったときを後年、回想した歌である。忘れめや葵を草に引き結び仮寝の野辺の露の曙(あけぼの)『新古今和歌集』夏・一八二《歌意》忘れることなどどうしてあろうか、葵を草枕として引き結んで、仮寝をした野辺に露が下りた曙を・忘れめや忘れることがあろうか、い
源氏物語名場面⑨六条御息所と葵の上の車争い車争い住吉如慶画『源氏物語帖』から□葵祭/賀茂祭の*行列見物の場面。*行列のハイライトは源氏の颯爽とした馬上姿◇賀茂祭の行列が通る都大路には源氏の雄姿を一目見ようと物見の牛車がびっしり並んでいる。その特等席の一角で六条御息所の従者たちと葵の上の従者達が牛車を停める場所を巡って争っていた。しかし如何せん多勢に無勢。六条御息所の牛車はたちまち葵の上の従者たちによって退かされ破壊された。葵の上は見て見ぬ振り従
…車争いが書かれている物語は何か?『源氏物語』である。賀茂祭(カモノマツリ)見物で混雑する中で、葵上(アオイノウエ)と六条御息所(ミヤスドコロ)の牛車が駐車場を争う場面は有名だが、この祭りが登場する古典文学は『源氏物語』だけではない。例えば『枕草子』『今昔物語』『徒然草』にも賀茂祭の事が書かれており、いずれも単に「祭」と書かれており、当時は「祭」と云えば「賀茂祭」を指した。正に祭りを代表する「祭」であった事が分る。
初体験だった。といっても、爺さんが不謹慎なことを書こう、というわけではない。今日、大谷大学のキャンパスに初めて足を踏み入れた。京都市内の烏丸北大路交差点にある、比較的小規模な大学の大谷大学。京都に多くある大学でも、規模の大きな大学には、これまでも何らかの機会にキャンパスに立ち入っている。京都大学、同志社大学、立命館大学、京都産業大学、龍谷大学、京都工芸繊維大学、京都府立大学などがそれに該当すると思う。(京都大学)一方で小規模の、特に女子大学であれば、キャンパス
源氏物語54帖夢浮橋薫28匂宮29浮舟23中の君28明石中宮47母尼80代妹尼50代↑横川僧都の↑[文庫セット]マンガ日本の古典[全32巻完結セット](中公文庫Amazon(アマゾン)24,800円Amazon(アマゾン)で詳細を見る楽天市場で詳細を見る母の*中将の君は今どこで何をしているか尋ねてみたかったが、自分の出家に強く反対したと聞いているので思い直した。*中将の君故八の宮(源氏の異腹の弟)に仕えていた女房で浮舟や小
【日本国記】第二章6葵祭・日本とは世界で最も特殊な国である―古くて新しい―土方水月6京都の祭りは葵祭と祇園祭葵祭は賀茂祭。加毛大御神を祀る賀茂別雷神社(上賀茂神社と呼ぶ)とその御祖を祀る賀茂御祖神社(下鴨神社と呼ぶ)の祭りである。欽明天皇の御代に凶作が続いたことから祭礼を行ったのが始まりとされる。江戸期に社紋にも使われているフタバアオイの葉を着けたことからそう呼ばれるようになったという。毎年5月15日、御所から天皇の勅使一行が賀茂御祖神社(上賀
<節のさかのぼり日誌です>本来は前日に行われるはずの「賀茂祭(葵祭)」実は雨天順延となり、初めて沿道での見物が叶いました30℃超えの暑い京都で、行列の先頭から終わりまで堪能しました数百人による大行列、圧巻でした京都の初日は、手ごたえ十分。夜は祇園へまいりましょう!
京都・三大祭と云えば、・葵祭・祇園祭・時代祭を指し、この内正称を「賀茂祭」と呼ばれるのは、上賀茂・下鴨両社の例祭である「葵祭」。これらの祭りの成り立ちや巡行順路は頻出項目で、京都(検定)を語る上では基礎となる。
雨の予報で一日順延となった葵祭り、今朝の京都は朝から大快晴、真夏日の予報となった。いつもなら交通量が半端なく多い、朝の通勤時間のはずなのに、下鴨の通りはやけに静まりかえっている。交通規制のためか、市バスの往来もなく、物静か、というより思いかがけない静寂な雰囲気に街全体が包まれている。上皇様美智子様も入洛されているというニュースも流れて、さらにおごそかな空気に変わっていることを感じる。冬の日に、御所南の丸太町通りあたりまでは道が白くなるほど雪が降っても四条では、一粒も舞いもしないなどとい
賀茂祭通称:葵祭賀茂祭が葵祭と呼ばれるようになったのは、江戸時代の1694(元禄7)年の再興以降のことで、お祭り当日の内裏神殿の御簾(みす)をはじめ、牛車(御所車)、勅使、供奉者の衣冠、牛馬にいたるまで、すべて葵の葉で飾るようになったところによっている。2023年5月の古都の風カレンダー『2023年5月の古都の風カレンダー』4年ぶりに5月15日(月)賀茂祭(葵祭)「露頭の儀」行列が行なわれる。御腰輿(およよ)に乗る斎王代(さいおうだい)2010年簡単にカレンダーが作れるテ
5月16日賀茂祭(葵祭)観に行ってきましたよ賀茂祭|賀茂別雷神社(上賀茂神社:かみがもじんじゃ)公式Webサイト上賀茂神社は、京都でもっとも古い神社であり、雷(いかづち)の御神威により、厄を祓いあらゆる災難を除き給う厄除(やくよけ)明神・落雷除・電気産業の守護神として広く信仰されていますwww.kamigamojinja.jp参列の招待状が届いてたので参列席から社頭の儀を観覧でっす(斎王代さんたちが座る場所↑)行列到着前に参拝したり(行
昨日、葵祭路頭の儀を上覧された上皇様ご夫妻は、昨日の午後から奈良へ行幸された。京都と奈良は皇室と深い関わりがあるので、お元気なうちに何度も帰ってきて余暇を楽しんで頂きたい。(警固は大変だろうが)お二方の国民に対する、慈悲深い微笑に触れるたび、胸が熱くなるのはなぜだろうか?さて葵祭に関して、神事は脈々と続けられていたが、路頭の儀は、4年ぶり
5月16日は、葵祭の「路頭の儀」行列を観に行きました。葵祭2023⇒葵祭2023日程(時代行列・賀茂競馬・鏑馬神事・・・)(kyototravel.info)葵祭は、京都三大祭の冒頭を飾る祭事です。5月1日から始まる「葵祭」のフィナーレを務める「路頭の儀」は、500人に及ぶ人が京都御所⇒下鴨神社⇒上賀茂神社を平安時代の衣装で歩く行列です。その始まりは、飛鳥時代まで遡ります。京都を治めていました賀茂氏の人々は、度重なる疫病や洪水・日照りなどに悩み、それを抑える為神様を
葵の葉かざし列なす賀茂祭(あおいのはかざしれつなすかもまつり)今日は、京都三大祭りの一つである「葵祭(あおいまつり)」の「路頭の儀(ろとうのぎ)」が行われた。これは、京都御所から下鴨神社を経て上賀茂神社までの約8kmの道のりを行列する行事で、平安貴族の装束を再現した衣装を着た人々が参加する。(行列は馬36頭、牛4頭、500余名からなる。)*京都の三大祭り:「葵祭」、「祇園祭」、「時代祭」。例年なら5月15日に行われるのだが、天候の関係で今日に順延された。幸いなことに朝から晴