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■━━━━━━━━■「TAO的思考術」■━━━━━━━━■●【凰雲のヒント】◎来年は午年ですね。自分本来のペースで駆け抜け、気持ちよく過ごしていきましょう。自分らしさこそが、午のエネルギーを活用してワープする秘訣です。温故知新…「故(ふる)きを温(たず)ね、新しきを知る」といわれます。今年1年(2025年)を振り返ったとしても、新しい来年の目標を設定したとしても…夢物語を追い続けるカルマに縛られていないでしょうか?それでは、決して、「故きを温ね、新しきを知る」とはいえませ
心願成就の仏新たなスタート巡礼は人生を変えます。不動明王の憤怒の形相は何事にも恐れず私達を救う大きな慈悲の心の表れ。揺るぎない心で導く仏の意志と知恵の力。祈りと行あるところ、必ず現れてくださる不動明王。福寿増長・家内安全・五穀豊穣・息災延命・開運吉祥・良縁成就・心願成就・厄除消除・立身出世・事業繁栄・七難即滅・七福即生…広大なご利益です。☆ご利益の声続出。✨🙏✨【12/19(金)モロトゆーきのミスティカル参拝〜近畿三十六不動霊場〜】(9.10.1
その私(私達)がスポーツに関わる根本要因は、「私」ではない他者と競争し私「だけ」が勝利したい、勝利によって他者から高評価や賞賛と敬意を得たい、そして私の存在価値と意義を他者に完全認証させ沈黙させたい。そのように強く深く激しく願うがゆえに全身体を賭して活動したい、それが人がスポーツに関わる目的です。その目的こそがまさに渇愛、煩悩、我執そのものである。それゆえ私は「スポーツは煩悩の象徴である」と表現したのです。スポーツに激しく深く強く関われば関わるほど、私への激しい執着を生み、その我
はじめに結構勘違いされている人が多いのですが仏教はこれは良くないとか、悪ですよとは言いますが悪だからこの世から無くせとは言いませんなぜ五道(大乗では六道)の輪廻の内人間界にだけ覚りの道があるのか?というと快楽と苦痛の両方を経験し、物事を分別・判断する適切な智慧と意志を持つことができるから覚れるのだと説明されますよねそれって悪や欠点を排除するでもなく、克服するでもなく上手に認知・判断して、工夫しなさいってことなんだと思う要は判断と工夫で苦にも楽にも変えられ
昨日は、MAIKAさんからのお誘いを受けて、「ハジマリのカタカムナ」の講習を受けに、鎌倉に行ってきました。カタカムナの講習の参加メンバーは、僕の他にゆるぴさんと、IseJinguロードを描いてくれたHさん……(2025/12/1ブログ「IseJinguロード」参照)この鎌倉という場所に来たのは、生まれて初めてです。すっかり忘れていたのですが、鎌倉と言えば、石清水八幡宮とか鎌倉の大仏がある名所……駅の案内に「石清水八幡宮鎌倉駅から800m」とか
cheeseです💕今回ご紹介するのはこちらの一冊📘(大愚元勝『これでは、不幸まっしぐら』佼成出版社、2023年)YouTube番組で大愚和尚のことを知ったのは数年前。視聴者からの質問に和尚が答える「一問一答」はcheeseのお気に入り番組です☺️普通の「お悩み相談」系とは異なり仏教的な視点からみた解決法が提示されるのが番組の魅力✨家事をしながら、散歩しながら聴いてます。仏教では不幸の原因を「貪(とん)・瞋(しん)・癡(ち)」という3つの心の毒にある
生命は貪瞋痴によって生かされてる。貪瞋痴によって生きるから、その生は当然苦になるほかない。生きることは必ず苦しみになる。これが生きとし生けるもののデフォルトだ。人間は、貪瞋痴の牢獄から脱出できる自由を与えられてるが、ほとんどの人間は、この奇貨に迷惑し、すぐ土に埋めて忘れ、死ぬまで活用しない。サティ「瞬間の現在(今・ここ)」に気づくこと。ヴィパッサナー実践「瞬間の現在」に気づき続けること。
【予告編】ドッグ・イート・ドッグ【メンバーシップ限定配信中✨】www.youtube.comWikipedia『ドッグ・イート・ドッグ』から引用させていただきます。ストーリー刑務所内で親しくなった犯罪者のトロイとマッド・ドッグとディーゼル。出所した三人は金のために地元ギャングから依頼された汚れ仕事に手を染めていた。そんなある日、三人はギャングのボスから大仕事の依頼を受ける。それは借金を支払わない男の赤ん坊を誘拐するという簡単なものだった。ところが、ちょっとした計算違
「煩悩」とは仏教用語であり、一切の妄念、迷い、欲望を意味します。なかでも「三毒」といわれる「貪・瞋・痴」(とん・じん・ち)が、その最たるものと考えられています。すなわち、・「貪」とは貪欲。節度のない、自制の効かない、過度な妄欲・「瞋」とは怒り。「私の」思う通りに進まないことに対する怒り・「痴」とは無知・無明。物事の道理、真理を理解していない愚かさを意味します。ではその「煩悩」は何をもたらすのか?それは「苦しみ」です。その煩悩と苦しみは何によって生まれる
◆名古屋市女性殺害事件の犯人逮捕【26年前の名古屋市女性殺害事件】(11/4)1999年11月13日、名古屋市西区稲生町のアパートの玄関先で、高羽奈美子さんが刃物で襲われ、殺害されました。「いつか犯人を現場に立ち会わせるため」悟さんは現場となったアパートを、26年もの間借り続けてきました。妻を亡くした高羽悟さんは、逮捕された、安福久美子容疑者と高校の同級生で、好意を伝えられていたということですが、大学時代に、突然訪問をうけていたことを明らかにしました。★高羽悟さん
昨日は、お不動様のご縁日である28日……十年前、芦屋のKさんから深川不動尊のことを教えていただいて、新型コロナウィルスが流行する前には、毎月28日にはいつも護摩祈祷ごまきとう)を受けに行っていたのですが、コロナの流行がきっかけになって、いつの間にか、行かなくなってしまっていました。先日、あるきっかけで、やっぱり一ヶ月に一回はお不動様の参拝をしようと思い立ちました。(2025/5/29ブログ「9ヶ月ぶりの深川不動尊」参照)それ以降、気持ちがとても澄みきって、何となく意志
挨拶をしない人私は週に一度、老人施設に診察にお伺いしております。そこの事務長が、今年代替わりしました。前任者は非常に気さくで気遣いもあり、コミュニケーションもとれる方でした。新たな事務長はどうやらタイプが違うようです。何が違うかというと、無視がすごいです。出勤時、事務所にて施設に入る鍵を貸していただくのですが、「おはようございます。鍵をお貸しください。」とあいさつしても、こちらを見向きもせず無視。机に座ってパソコンをいじっています。ちなみに鍵は事務長の座っているその机の引き出
理趣経第四段四種不染三摩地所謂世間一切慾清浄故即一切瞋清浄いわゆる、世間一切の慾清浄なるが故に、即ち一切の瞋は清浄なり。『理趣釈』「これ(=第一句は)すなわち、金剛法菩薩三摩地なり。」<補説>次の第二句以下とあわせて、金剛法、金剛利、金剛因、金剛語の「四種不染(=清浄)三摩地」となります。「瑜伽者、四種清浄の菩薩三摩地を得受するに由て、世間に悲願をもって、六趣に生ずとも、一切の煩悩の染汚を被らざること、猶し蓮華の如し。この三摩地の、能く諸の雑染を浄むるを以てな
理趣経第三段五種の無戯論智所謂慾無戯論性故瞋無戯論性謂わゆる、慾無戯論性の故に、瞋無戯論性なり。(もっとも簡潔に訓読します。)[T]1)rāga-aprapañcatayādveṣa-aprapañcatā/貪欲(rāgaむさぼり、むさぼること。Cf.anunaya愛着すること)が無戯論であることによって、瞋恚(dveṣa憎悪すること。Cf.pratigha)が無戯論であることがある。慾:「慾」は「欲」の字の旧字体というのではなく、まったく別の字であるとい
第三段降三世品(降三世章、降伏の法門)前半まずは、第三段の説示者(教主)である、釈迦牟尼如来について、『理趣釈』の理解を分析し、ご紹介いたします。ここでは「調伏難調」(duṣṭavinayana-)という形容詞が付いています。『理趣釈』「釈迦牟尼如来とは、閻浮提(jambū-dvīpa)の五濁(ごじょく)末法に於いて九十五種の異類外道を調伏せんが爲めに、八相成道を現じ、皆な化を受けることを得、仏道に致したしたまう。現に(=歴史的人物として)釈迦族姓の中に生じて、乃ち釈迦氏を姓なり
幸福の科学主エル・カンターレ大川隆法総裁先生書籍:地獄の法参照です。🍑地獄界と通じる代表的な「心の三毒」ー貪・瞋・痴マイナスの心について述べましたが、たいていの場合は、よく教えで言っていますように、いちばん代表的なものは「心の三毒」です。「貪・瞋・痴」というこの三つが、代表的な心の毒です。「貪」は、欲望が深いというか欲深いということです。「日本昔ばなし」で言う「欲深じいさん、ばあさん」のような感じの人たちです。欲が深いということは、報いを受けるということになるわけです
佐々木閑訳・監修『ブッダ100の言葉』宝島社2015『ブッダ繊細な人の不安がおだやかに消える100の言葉』宝島社2021はときどき読み返し、そのつど、そのときに気になったことばをひろって味合うようにしています。今夜は後者の100番目「一人で涅槃へ」(Sutta-Nipāta,v.71)です。佐々木閑先生の和訳ではどんな音にも驚かないライオンのように(sīhova)、網に捕らわれることのない風のように(vātova)、水で濡れることのない蓮のように(padumaṃ
藤井風さん悟り動画-YouTubeYouTubeでお気に入りの動画や音楽を楽しみ、オリジナルのコンテンツをアップロードして友だちや家族、世界中の人たちと共有しましょう。youtube.com
最近はルアンポー・プラモート師の法話ばかりを読んでいて、それについて思いついた事を自分勝手に書いていたのですが、昨日「本当の敵は妄想を作り出す自分の心」という仏教的な私個人の見解を書いて、内心間違ってたらどうしましょう、まあ本心だから違っていてもいいか!なんて思ってましたが、今日久しぶりに日本テーラワーダ仏教協会のホームページを覗いてみたら、なんと同じような事が書いてある記事が!よかった!と少しホッとしたのでした。笑もう普通の生き方に興味はありません。しかし煩悩は簡単にそうさせてはくれません
今日も色々と怒りの出る現象は多かったのですが、上手くその瞬間に気づけて直ぐに平静な状態に戻し、優しい気持ちに切り替われました。気づきの実践を知ったことに感謝です。テーラワーダ仏教に出会えたこと、本当に感謝です。さーて、今日もヴィパッサナーのお話し。身体を知るタイミングは、今の瞬間の身体の動き・痛みなど。一方、心を知るタイミングは、欲や怒りが生じたその瞬間のすぐ後であると。なるほど、確かに。心を観ることに慣れていない私たちが、怒りが出た瞬間に気づくのは難しいでしょう。いくら頑張っても、怒り
今日も仕事でしたが、サティは上手く行った方ですかね。良しとしましょう。さて、いつもの仏道のお話し。自分の心が不安を覚えたり、怒りが起こる原因の対象が人であったり環境であると解っていても、その基になっている一番大きな原因は、自分の心がその現象に対して、不安を覚えたり怒りが起きる性格であるということです。しかし自分を責める必要はありません。様々な要因が集まってそうなるしかなかったのですから。特に対象が人の場合は、真理を知らない強力な出来損ないだから仕方がなかったのです。仏道として言えるのは、
自分の心の状態に常に気づけるよう努力していても、直ぐにボーッとして、欲や怒りで生きてしまうのですよ。仏道を知ってもう10年程経つのですが、気づける回数は一日の中でほんの少し。それほど煩悩は強いんですねー。もー嫌になっちゃう。ならんけど。しかし少しずつではありますが、気づける回数は確実に増えています。それと同時に智慧が付いてきているのでしょうか、落ち着きや集中力も付いてきています。煩悩に負けてたまるか!くらいにやっちまいましょう。集中している時間は一日の間でほんの少し今日の法話では、一日二十
私たち凡人は、この身体やこの思考を私のもの、私が考えたのだと思っています。しかし真理は無我です。私というものは脳の錯覚で、本当は何処にも無いのです。身体と心を五つに分けた五蘊(ごうん)を学び、しっかりとそれを観察していくと観えてくるのです。この身体や思考(心)は、私のものでは無いと。この誤解を「正した」時点でもう預流果(よるか)だそうです。正したとは、間違いないと体得出来たレベルで、もう凡人の思考には戻りたく無いと察した状態です。これで悟りの第一段階に到達します。まだまだ煩悩は残っている状
私たち凡人の心は基本的に汚れているのです。自我という脳の錯覚のせいで、放っておくと何処までも汚れていく可能性があります。なんじゃそりゃ!と言われそうですが、仏教の視点から観ると、めちゃくちゃ汚れているんですね。他人の心が汚れているのは観えますでしょうか?もし観えるなら、その視線を自分の心に向けてみてください。自分の中の三毒(貪瞋痴)が観えてくると思います。人間は皆貪瞋痴(煩悩)で汚れています。ですから仏教では、心を清らかにするために法の実践をしているのです。これが進むと自分の中の煩悩が観
三相(無常・苦・無我)とは、仏陀が説かれた最も重要な真理です。この世の全ての現象は無常であり、苦であり、無我であるという三つの真理です。ヴィパッサナー瞑想は、この三つの真理(無常・苦・無我)が本当かどうかを確認する為に行われる訓練なのです。特にこの法話では、無我について書かれていますね。この身体や心には、どこを観ても「自分というものは無い」と発見するためにヴィパッサナーをするんですと。身体と心の構成要素、五蘊(色受想行識)を観察するのです。仏法の説明通り、自分というものはどこにも無いと。
今日の法話から、少しだけ抜粋。心に静けさがあるかどうかで実践の結果を計ってはいけません。無知な静けさは非常に多いのです。心に静けさを求めるならば、それはサマタ瞑想をしっかりと実践すれば得られるのかもしれませんが、生きるとは苦であるこの世を超えようとするならば、サマタ瞑想では対応出来ません。現実に戻った時点で貪瞋痴に汚されてしまうのです。仏道を実践するとは、ヴィパッサナー瞑想を実践する事です。サマタ瞑想はあくまでも集中力を高めるために行う訓練だと私は判断しています。重要なのは、毎日を生きる
眼耳鼻舌身意の6つの器官から情報を得たものを心が勝手に欲や怒り無智に変換させます。これを理解していないといつまで経っても賢くはなれません。このことが少しでも解っているなら、仕事や家庭が上手く回せるようになってきます。なぜなら感情から理性で生きられるようになってくるからです。自分というものは無いと解ってくるからです。何事にも特に気にすることもなく生きられるようになるからです。今まで狭かった視野が、様々な物事を俯瞰して観れるようになるでしょう。今日の法話は、ヴィパッサナーの観るタイミングがイメー
私たちの心というものは、常に欲に向かって暴走します。あれが欲しいこれが欲しい、こうなったら良い、こうあるべきだ、あれは嫌だこれは嫌だ、とキリがなく動き回ります。しかしそれが上手く手に入ったとしても満足するのはほんの一瞬、直ぐに不満に置き換わり、次の欲を追いかける羽目になってしまうのです。殆どのことは欲しても手には入りませんから、結果的には一生の殆どが欲を追いかけ、しかも上手くは行きませんから、残念ながら「生きるとは苦」となってしまうんです。それでも私たちは生きる事が苦であるとは信じません。
中日新聞の、西加奈子作の連載小説「きずもの」を興味を切らさずに、面白く読んでいます。他の動物と違って知能を獲得した人間の自然な欲求として「人間とは何だ」「自分は何なんだ」「生命とは何か」を知りたい、、、要は哲学なんですが、それが自然です。DNAに組み込まれた本能的な欲求はいわば「煩悩」でありそれは「生命の唯一の目的である、生存し続けること」を維持するために必要な生存戦略です。あらがえません。あらがえないので人間はそれにふりまわされ(神戸の事件とか)自分に悩み
今日は仕事がお休みで、一日中自由に行動できるので、学びとヴィパッサナーがやり放題です!観察の仕方を間違わないように私たち凡人は、全ての物事を「自分が好きか嫌いか」で判断し決めつけるので、永遠に苦しみから離れられないのですね。今日の法話は、どのようにして心を観ていくのか説明されています。多くの方がヴィパッサナーが上手く行かないなのは、この観かたが解らない・出来ないからなのだと思います。心の苦を発見しても「それを無くして欲しい」と思ったら、それは欲になっちゃうので、いつまで経っても苦は無くな