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川崎駅から小田操車場(川崎新町)を結んでいた貨物線の廃線跡を歩いた。川崎市に川崎駅から浜川崎駅まで廃線跡を復活させて電車を走らせる計画がある。住宅が建ち並んでいるところに昭和50年代なかばまで貨物線の築堤が残っていた。本日発見したのは廃線跡に新しくアパートを建てていて、これでは、川崎駅から浜川崎駅まで電車を走らせるのは困難だと感じた。この路線は絵に描いた餅で終わりそうだ。Stellatransit、Stellatransit読後は下記ボタンにて投票にご協力
羽越本線貨物支線(酒田港線)JR東日本羽越本線酒田駅から貨物支線(通称:酒田港線)が分岐している↓この先(酒田港)に酒田港駅がある↓分岐があってここは廃線跡レールが錆びているし,雑草がすごい
かつて平成28年まで、福岡県苅田町の日豊線小波瀬西工大前駅から苅田港駅までの4.6キロに及ぶ路線が存在しておりまして、その名を「苅田港線」と呼ばれた路線が存在しておりました。この「苅田港線」は、実際は日豊線の貨物支線という扱いとなっておりまして、JR貨物の第1種免許区間でもありまして、かつては、石炭やセメントを苅田港から積み出すために運行されていた路線でもありましたが、その後は駅の近くにあります金属工場の完成品や、近くにあります日産自動車九州工場(現・日産自動車九州)で製造されまし
現在の長崎駅は高架化され、2022年9月に西九州新幹線の開業で駅前はガラリと変わりました。地上駅時代、さらに国鉄時代には長崎駅から貨物支線があり、約1㎞先の長崎港駅まで線路が延びていました。1930(昭和5)年に開業し、当初は上海航路との貨客接続を目的として、連絡船接続の列車が乗り入れていました。戦後に貨物専用線となり、1982(昭和57)年に貨物列車が全廃。国鉄分割民営化前の1987(昭和62)年3月31日に廃止となりました。今回は少しだけあの跡を歩きたいと思います。駅の
田川後藤寺から日田彦山線に乗って添田を目指します。2両目の車内はご覧のようにガラガラで、私を含めて3人だけでした。10月の中頃で日中はまだ暑いものの、窓を開けると気持ちいい風が入ってきます。まもなく豊前川崎に着きます。草むらの向こうの道路は1988(昭和63)年に廃止された上山田線の跡。豊前川崎に到着。上山田線があったころは2面3線の駅でしたが、現在は1面1線になってしまいました。豊前川崎で2両目の2人が下車して、とうとう私だ
探索日2016/05/03田端操駅(現田端信号場)と須賀駅を結んでいた貨物線廃止は1971年3月1日田端操駅から王寺駅の北までは北王子線と共通この先が北王子線との分岐点須賀線はこっちへのびてくる踏切跡北王子線の右に須賀線のレールがあったここが須賀線跡道路左沿いが廃線跡撮影地点が廃線跡須賀線跡および須賀線と北王子線に挟まれたデルタ地帯は王子四丁目公園になっている柵沿いが廃線跡道路左沿いが須賀線跡植え込みの位置が廃線跡
探索日2016/05/02水戸駅と那珂川駅を結んでいた貨物線廃止は1984年2月1日那珂川駅からは日本専売公社水戸工場専用線が分岐左の線路の位置が貨物支線跡軌道は当時のもんやない右は水郡線水郡線左が那珂川線跡むこうが水戸駅那珂川駅方面を見る水郡線の位置に支線があった支線跡は水郡線付け替えに利用されている左が旧水郡線跡右奥へ続く道路が支線の跡上写真の道路上に来た支線は切通しからここへのびてくる道路が廃線跡水戸駅方面を見
川崎市南部市場への廃線跡を歩いて来た。2021/6/20取材※「南部」と「南武」でややこしいけれどいずれも固有名詞なんで。かつて、南武線の矢向-川崎河岸間の貨物支線(廃止)から分岐する形で川崎市南部市場への引き込み線があった。昭和の御代から川崎市に住んでいるに令和になって読んだ南武線に関する本で知った。同書には川崎市南部市場への引き込み線が描かれている古い地形図も載っていておおよその場所が特定できた。そこは何度も通ったことのある場所でここを貨車が走っていたとは知らなんだ
敦賀港駅北陸本線の敦賀駅を起点として2.7kmの貨物支線がありました。しかし、輸送量の減少、低迷により2009年(平成21年)には列車での取り扱いからトラックでコンテナを輸送する敦賀港オフレールステーションに改められましたその後、需要拡大には至らず2016年(平成28年)4月1日に貨物支線の事業を休止し、関係自治体とも協議のうえ2019年(平成31年)4月1日に廃止となりました現在は敦賀港新営業所として引き続きコンテナのトラック輸送が行われています資料では2006年に19千トンあった輸
お絵描きする方が自分のオリジナルキャラクターを考案することはごく普通に見られます。一般的にそのキャラクターのことは、考案者から見て「うちの子」と呼ばれることが多く、また他人からは「よその子」と呼ばれます。私もお絵かき関係の方とTwitterで相互関係にあることもあり、「よその子」を見かける機会も多いです。本日も私と相互関係のとある方が「うちの子」を発表しているのを見かけました。かわいい…!いつか描かせていただきたい…!と思ったのですが、それはさておき。今回の話題はその名前につい
探索日2015/08/07八戸線貨物支線(湊線)湊駅を所管駅としていた専用線湊駅の廃止は1985年3月14専用線の廃止もその付近と思われる駅から途中までは日本高周波鋼業八戸工場専用線と共用左の道路は湊線跡、右奥へのびる緑地帯が専用線跡動輪は湊線を記念したモニュメント遊歩道になった日東化学、日本高周波線道路をななめに横断踏切の跡が浮き出ている歩行者用道路となって続く二社共用線跡各社線分岐点軽自動の位置が日本高周波線跡、右の遊歩道
探索日2015/08/07本八戸駅と湊駅を結んでいた貨物線廃止は1985年3月14日同線の一部は、1977年の八戸線高架化に合わせて高架化されたよって廃線に新旧線が存在することになる左の高架橋は八戸線、右が貨物支線支線は本八戸駅から続いていたので、駅からここまでは複線高架になっている貨物支線の高架橋廃止から30年経ってるけど当時のまま地平線時代の支線は手前を走っていた道路をまたぐ箇所は撤去されている高架貨物線が使用されたのは8年だけ
2019年9月6日(fri)厚岸駅は大正6年(1917)、現在は廃駅となっている浜厚岸駅と釧路駅間の開業とともに誕生している。浜厚岸駅は厚岸湾に向かって1.2㎞先にあった貨物駅で、海路と陸路を結んでいたが、昭和57年(1982)貨物支線の廃止とともに姿を消している。現在の厚岸駅舎は昭和40年(1965)建設された二代目駅舎。釧路駅と根室駅を除くと花咲線で唯一の有人駅である。厚岸駅といえば、氏家かきめしが有名だ。かつてはホームで駅弁の立ち売りを行っていたが、平成23年(2011)営業
前日は郡山での高速バスの渋滞で、新幹線への乗り換え時間のなさにドキドキし、夜には新潟で宝塚歌劇の公演を見て、結構ハードな一日でした。さて、旅三日目の4月4日は帰るだけなんですが、それだけでは面白くないので、少し寄り道をして帰りたと思います。ドーミーイン新潟に宿泊し、朝は7時に起床。朝ごはんを食べて、8時過ぎにチェックアウト。この日は曇天でしたが、雨は降りそうにありませんでした。朝の新潟駅は、出勤する人たちでやや混雑気味。駅に行くと、予定していた列車より
1968(昭和43)年に廃止になった、紀勢本線紀伊由良駅からの貨物支線跡。1975(昭和50)年紀伊由良付近「国土画像情報(カラー空中写真)国土交通省」より。すでに廃止された後ですが、線路跡がはっきり残っています。紀伊由良駅。紀勢本線にも223系が進出してきて、旅が快適になりました。駅の跨線橋から南の方向を眺めます。線路右側の雑草のあたりが、貨物支線跡ですかね?私以外は誰も下車せず、閑散とした昼間でした。紀伊由良駅の駅舎は192
仙台市内を4時半に出発海沿いの駅に立寄りながら石巻に到着石巻線の貨物列車までは時間があるのでまずはここへ残念ながら機関車は見当らずコキが停泊していただけでした。5時56分昇ったばかりの朝陽は見えませんが立ち上る水蒸気がいい感じ仙石線貨物支線石巻港駅撮影:2019年3月20日
撮影日2018/08/16仙石線貨物支線石巻港駅駅北にある踏切踏切から陸前山下駅方面を見る拡大投影盛り上がっているとこで国道398号線をオーバークロスするディーゼル機関車はDD40A1左は日本製紙石巻工場駅には同工場の専用線が接続する
皆さま、こんにちは!これまでブログで、昨年訪れた網走駅周辺のあれやこれやを挙げてきましたが今回が最後です。網走駅は大正元年に開設された駅ですが、開業当時は現在の位置ではなく、現在よりも東方約1キロの地点にあったのですよ。下は昭和23年に撮影された旧・網走跡駅周辺の航空写真ですが、中央に巨大な駅舎と、側線に数多くの貨車が留置されてるのが見えますよね?当時は網走川沿いに貯木場があり、ここが物資輸送の拠点であったことがわかります。ちなみに新旧・網走駅の位置関係はご覧の
皆さま、おばんです!前回のブログで石北本線・網走駅の訪問記をUPしました。(前回のブログもぜひチェックくださいね)【まったり駅探訪】石北本線・網走駅に行ってきました。(平成28年5月21日)網走駅は石北本線と釧網本線が乗り入れる道東エリアの主要駅。現在は定期運行される列車は旅客列車のみになりましたが、昭和59年までは網走市内にも貨物列車が運用されてたのです。取り扱われていた駅は網走駅ではなくて浜網走(はまあばしり)駅。網走駅から西方1.3キロの地点にある貨物駅でした。実
探索日2014/10/11信越本線貨物支線東新潟港駅を所管駅としていた専用線新潟鐵工所大山工場専用線から分岐する※1975年時点での線路配置左が藤田金属線の跡右のレールは信越本線貨物支線(休止中)専用線跡上に来てみたここは跨線橋橋の先で左へカーブし、工場(訪問時は藤田金屬新潟ヤード)へ進入する金属の「属」が「屬」オレッちのいるとこが廃線跡左を貨物支線が並走する踏切跡左は貨物支線のレールここが専用線跡左の住宅地が新潟鐵
探索日2014/10/112002年6月1日から休止中のようやけど、実質的に廃止状態なので廃線として扱う※1975年時点での線路配置焼島駅からのびてくる東新潟港線東新潟港駅方面を見る拡大投影奥へ続くレールが貨物支線左へ分岐するのは北越紀州製紙新潟工場専用線(現役線)踏切のむこうは旭カーボン上沼垂信号場まで2.5宇宙キロ通船川を渡る通船川橋りょうしゅん工昭和42年になってるけど、この線はもっと昔からある架け替えられ
探索日2014/10/11信越本線貨物支線焼島駅を所管駅としていた専用線※1975年時点での線路配置コンテナ車の停まっているとこが焼島駅明道金属線はここへのびてくる専用線はあの車のとこからここへ続く壁沿いが廃線跡塀沿いに路盤跡が続く砂利部分が線路跡道路を横断この道は当時からある踏切先の線路跡は新潟交通新潟東部営業所内に消える
探索日2014/10/11信越本線貨物支線焼島駅を所管駅としていた専用線2008年にコンテナ専用線が新設された際に廃止されたと思われる※1975年時点での線路配置工場(訪問時は北越紀州製紙)への進入口この専用線は四か所で工場内に引き込まれていたこれは一番南の線場内を見てみる奥に向かってまっすぐ構内線がのびていた進入口から焼島駅方面を見る道路のむこうが駅踏切の跡は消えているここからあの門にむかって線路がのびていた中央二つの進入口
撮影日2014/10/11※1975年時点での線路配置こっちにのびてくるレールが貨物支線奥が上沼垂信号場(旧上沼垂駅)E127系電車の走っているとこは信越本線・白新線紅白煙突の場所は北越紀州製紙新潟工場あの右が焼島駅この貨物線は北越紀州製紙の製品発送に使用されている焼島駅構内に入っていく焼島駅コンテナ車が停まっている日本貨物鉄道焼島駅
探索日2014/10/11廃止は1986年10月20日※1975年時点での線路配置中央埠頭へのびていた貨物線駐車場部分と後ろの草むらが廃線跡倉庫前に二線の線路が走っていた埠頭先端まで貨物線が続くこの付近一帯が新潟港駅と思われる道路の左右に線路が引き込まれていた中央埠頭東側線の跡歩道と緑地帯部分に三線のレールがあったここから緑地帯へのびていく中央埠頭線踏切の跡は消えている植え込みが中央埠頭線跡次は北埠頭へのびていた線駐車場
探索日2014/10/11廃止は1986年頃か※1975年時点での線路配置道路の右端付近に線路があったむこうに見えるのは萬代橋あの手前が万代駅終端(1970年代においての)1960年代までは、さらに先に貨物線が続いていたオレッちのいるあたりが廃線跡やけど、痕跡は皆無むこうの高層ビルはホテル日航新潟この先で万代島方面への線が分岐する万代島は再開発が進んでおり、線路の跡が残っているとは思えんのでスルー緑地帯になった線路跡奥へ続く車の列が廃線跡
探索日2014/08/12武豊駅と武豊港駅を結んでいた貨物線廃止は1965年8月20日武豊港駅はオリジナルの武豊駅武豊駅構内線終端貨物支線は奥へ続いていた奥が武豊駅支線はここへのびてくる踏切跡途中までは日本油脂専用鉄道として1980年代まで現役やった砂利部分が廃線跡堀川に架かっていた橋梁の橋台明治時代に開業した線がコンクリートなわけないので、架け替えられたと思われる今も線路用地が残る左はユタカフーズ(旧豊醤油)同工場には
1975年8月28日幌内線三笠駅昭和50年の夏今から41年前です高校1年の夏鉄道趣味での最良な一日だと思います三笠駅の撮影地に信号の側の山の上に向かう途中D51の貨物が撮影しようとしますと山の上から「どけ」との罵声が隅に隠れました隠れながら撮影したD51です山の上は天国でしたD5159拡大三笠駅に戻り貨物支線の29622拡大給水塔がいい味が有ります
撮影日2018/05/01羽越本線貨物支線(酒田港線)酒田港駅一応言うとくけど、酒田港線は現役バリバリやからなJR貨物DE10形ディーゼル機関車DE101728手前はコキ104形貨車コキ104-631駅終端ここにあったレールははがされたかつてはこの先、酒田市みなと市場のあたりまで線路が続いていた
探索日2013/12/31多久駅から分岐、柚ノ木原駅に至っていた路線廃止は1967年12月1日むこうに見えるのが多久駅支線はこのへんにのびてきていた左に新明治鉱業明治佐賀鉱業所専用線、右に柚ノ木原支線が走っていた右端は唐津線見張り台は鉄道関連のものか橋りょう跡があるけど、これは新明治鉱業線のもの奥に支線のレンガ橋台があったらしい貨物支線は小侍川を渡り、奥へ続く橋りょう跡は残っていないこのへんに架かっていた橋の跡もない中央奥へ続く道路