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この前のNHKの「ブラタモリ」は、わが滋賀県の近江八幡だった。タモリさんははじめての近江八幡だったようだ。近江八幡は豊臣秀吉とその甥の豊臣秀次が作り上げた街である。信長が作ったその城下に住んでいた安土の街の商人たちが信長亡き後近江八幡に移住させられたとか。年間200万人の観光客が訪れる滋賀県でも人気の街。[近頃ではたねや(クラブハリエ)の力もものすごく大きい]「ブラタモリ」を見ていて私がはじめて知ったことは、近江八幡の近江商人たちが行商して全国各
人の一生を四季にたとえることがよくある。種が芽吹き花が咲きはじめる春は、人生の始まりや可能性に満ちた若さをあらわしており、人生でもっとも活動的でエネルギッシュな季節の夏は、情熱をもって目標に向かって努力する姿をあらわしている。収穫、成熟、そして物事の完成の秋は、豊かな経験や知識をえて実りを楽しむとともに、冬の近づきを前に衰えや終わりを意識しはじめ、そして、雪景色がすべてを覆う冬は、人生の終焉をあらわしている。数ある日本史の英傑のなかで、その生涯を四季になぞらえるにふさわしい人はいないかと見
先週のブラタモリでは安土城に続いて近江八幡を紹介していました。自分は安土城跡には以前行ったことがありますが近江八幡は初めてなのでとても参考になりました。本日はその備忘録です。「近江」のイメージと聞かれて軽くジョークを飛ばしながらのスタートです。そう言えばこの番組には以前近江アナウンサーが登場してましたね。最近彼女どうしているんでしょうか?こちらは近江八幡の観光マップですがこうして見るとの信長の安土城跡や六角氏の観音寺城跡も随分近くにありますね、ここ八幡山城跡も含めて全て廃城ですからこの辺りは
来ていただいて、ありがとうございます今日の文字は6日の「ブラタモリ」は「豊臣と近江八幡」お題は「近江商人を生んだ豊臣の町づくりとは?」先週に引き続き、安土の城下町に信長によって集められた商人たちは信長亡き後、どこへ行ったのかということで、今回タモリさんたちがやって来たのは滋賀県「近江八幡」京都から電車で1時間ほどどうして「近江八幡」に集団で移住することになったのか?まずやって来たのは「近江八幡」という名前の由来になった神社です
名称:豊臣秀次居館城郭:居館築城年:1585年築城主:豊臣秀次主要城主:豊臣秀次所在地:近江八幡市宮内町家臣団館跡家臣団館跡石垣秀次居館跡へ秀次居館跡石垣豊臣秀次公銅像縄張図
八幡堀(八幡山城下)重要伝統的建造物群保存地区白雲橋八幡堀石垣白雲橋常夜燈
名称:八幡山城別名:近江八幡城城郭:放射状式連郭山城築城年:1585年築城主:豊臣秀吉、豊臣秀次改修者:京極高次主要城主:羽柴秀次、京極高次所在地:近江八幡市宮内町続日本100名城本丸へ石垣本丸虎口本丸跡(瑞龍寺)西の丸西の丸より琵琶湖
昨晩は滋賀県近江八幡市にある八幡山城の麓で車中泊しました。意外とひっそり出来たけど、夜に子供たち10名ほどが奇声を上げながら真っ暗の城巡りを始めました。きっと肝試しだったのでしょう。今日は1日自由な日で、翌日の昼から福島県郡山市である用事に間に合えば良いので、滋賀県の城を4ヵ所巡ることを目標に夜は栃木県辺りのサービスエリアで車中泊出来れば良い計画です。昨日が思いの外進まなかったので城四つ詰め合わせ+大移動ですね。朝の支度を済ませたらそのまま登城開始。最近の車中泊は可能な限りサービスエ
秀次事件は400年経たないと解明できない事件であった事が秀吉直筆の手紙で分かる「太閤の手紙」桑田忠親著近江八幡市図書館)秀次は謀反人でもなければ、秀吉から切腹命令も受けていない、こんな事を言えるようになって来ました。それは秀次事件が400年経たないと真相が見えて来ない事件である事が分かって来たからなのです。秀吉は足軽とか百姓とか言われてますが、下から上がって関白になった人です。大大名が「はは~」と豊臣家に頭を下げると共に、すべての大名に位を与えて支配する立場を得られた
本日も晴天の散歩日和。近江八幡市に来て散歩したよ。●江戸時代の街並みが残る、滋賀県の有名観光地。春も美しいが、紅葉🍁の季節も素晴らしい。●近江商人の発祥の地で、古い商家も残る。理財に長けたこの地から、日本全国に商人が移住して各地方の経済を支えた。●古い街並みも美しいが、散歩をしていると多くの住民の方から「おはようございます」と挨拶を受ける。挨拶運動でもしているのか?とても気持ち良い。●近江八幡の街は、秀吉の甥の豊臣秀次が築いた、近江八幡山城と城下町から始まる。その後、秀次失
願成就寺に向かって歩いてる時に立派なお堂が見えたので、帰りに寄って見ることにしました見えたお堂は本願寺八幡別院でした本願寺八幡別院の寺号標と山門この表門は明和4年(1767年)建立本堂享保元年(1716年)建立浄土真宗本願寺派寺院の本願寺八幡別院は本願寺八幡別院と号し、御坊さんの名称で親しまれています永禄元年(1558年)本願寺第11世顕如が、江州蒲生野に創建した金台寺を前身とします天正8年(1580年)織田信長の寺地寄進により安土城下へ、文禄元年(1592年)豊臣秀次の寺地
正倉院展の翌日は、近江八幡に行ってきました。その街並みやお堀の風情は以前からCMとかでもよく見てて、私の大好物である重伝建でもあることからずっと気にはなってたんですが、これまでなかなか行く機会がないままに・・。正倉院展の後、当初の予定としては久しぶりに室生寺五重塔を見に行くことを考えていたんですが、前夜、ホテルでクマさんのニュースを見てるうちにふと気になってネット検索してみたら、室生寺辺りにも出没記録があるとのことで👀!急遽予定変更!そうだ近江八幡、行こう。となった次第です。笑そんな
この前のブラアラキ近江遠征2日目10月14日(火)の最後前回記事最後に訪れた長等神社から車で約25分小槻神社所在地:滋賀県草津市青地町創建:不詳垂仁天皇の皇子で古代豪族である小槻氏の氏神神社祭神は二柱あり於知別命は小槻氏の氏神で天児屋根命は藤原氏の氏神の一つ隣接していた地域が藤原氏氏神である春日大社の所領であった事と関係があると言われておる社号標鳥居を潜り右手に進むと、左側に社殿へ上がる石段上の境内に昇ると鹿の銅像鹿島
おはようございます♪ご覧いただきありがとうございます♪手術から22日目リハビリがありました仕事復帰1日目です滋賀旅行の旅行記です1日目疲れてしまった&旦那との会話もなくカウントダウンTVライブライブ観たらテレビも電気も消灯9時に寝たからなかなか寝付けなかったけど、、、9時間過ぎた朝の6時にはパッチリ寝覚めてしまった7時に朝食に行き8時にはホテル出発予定は、9時出発して、安土城ラコリーナ近江(休みをもらったお菓子を買おうかと)三井アウトレット滋賀
大僧正天海(89)「(寛永元年九月)是より先薩摩宰相家久は家臣伊勢兵部を使して、土井大炊頭利勝に申しけるは、神祖統御ましましてより此方殆三十年、誰か三朝の国恩を仰がざる者あらんや。世のため国のためをはかるに、諸大名江戸にある事、封地にあるより安心すべし。よろしく議定あらんにやとぞ申ける。其建議を然るべき旨仰下されしかば、家久まづをのが妻子を引きつれて、けふ府の邸に引うつりしとぞ。」(「大猷院殿御實紀」)上記は、島津家久(忠恒)が妻子を江戸に連れてくる話であるが、この
烈風を斬れAmazon(アマゾン)高野山で自刃し、その妻妾子女は残らず三条河原で斬殺された関白・豊臣秀次。諸国をまわって歌舞を披露する一座の一人が、秀次の子を身ごもっていた。後に三好孫七郎を名乗り、大坂冬の陣を前に豊臣方へ味方するよう「勧誘」の旅をする物語?真田信繁、長宗我部盛親、明石掃部、毛利勝永へは目的をもって勧誘に赴きますが、後藤又兵衛だけは向こうから現れる。何だこの差は?孫七郎の存在が「はてな」なので、正直なところ今一つ集中できませんでした。また大坂冬の陣
こんにちは、philosophiaです2026大河ドラマの予習第1弾の続きで第2弾『豊臣家の人々』司馬遼太郎著を選んでみました。豊臣秀吉が天下統一して豊臣家の栄華と没落を司馬氏の筆が人物ごとに描いていく長編作です。ちなみに、カバーは<大坂城図屏風>で、中央の極楽橋が特徴です。登場人物は第一話殺生関白第二話金吾中納言第三話宇喜多秀家第四話北ノ政所第五話大和大納言第六話駿河御前第七話結城秀康第八話八条宮第九話淀殿・その子です。司馬遼太郎氏
三条大橋を西に渡り、木屋町方面に歩を進めると、瑞泉寺がある。門構えからしても、小さな寺だが、この寺は、歴史の分岐点に存在している。山門来年のNHK大河ドラマは「豊臣兄弟!」だ。主人公は、存命であれば、豊臣政権は盤石だと言われた豊臣秀長だが、当然、ドラマに甥・豊臣秀次が登場する。豊臣秀吉という人物が、本能寺の変後、なぜ、天下を手中にできたのかということは、清州会議以後の歴史で明らかなのだが、出自も明確にされていない秀吉が、信長の家臣となるまでの歴史には、諸説ある。ただ、秀吉が天下人になったこ
◆◆◆くじょうみやび日録第二期◆◆◆SF特にショートショートの大家・星新一が歴史小説を書いていたとは!長編ではなく短編集で、表題の「城のなかの人」から始まります。城のなかの人とは……ずばり、豊臣秀頼!生涯をほぼ城のなかで過ごした秀頼の物語。大坂城の外に出ることは禁じられていました。父である秀吉のこともよく知らず、たまにくるちょっとうざい爺さんくらいに思っています。女たちに囲まれ、関白になるための教養を身に付けさせられ、武芸はさせてもらえず。原因不明の悪夢、恨めし
令和7年9月9日(火)長命寺から日牟禮八幡宮に向かう。08:55長命寺山上駐車場を出発し下山する。↓09:10日牟禮八幡宮に到着する。日牟禮八幡宮は八幡山(八幡山城跡、豊臣秀次)の麓にある。八幡山には城趾に瑞龍寺や展望台があり、ロープウェイで上がることが出来る。〈日牟禮八幡宮(ひむれはちまんぐう)〉楼門。この先に、ロープウェイ乗り場がある。山上に豊臣秀次が築城した八幡山城跡がある。境内。拝殿。手水舎。能舞台。祈祷所。地元の人達は七五三をはじめ結婚式など、祈願・祈祷
大僧正天海㊽【家光元服】「(七月)十七日、大坂城修築。藤堂和泉守高虎があづかる所は、先月廿一日頃成功に及ぶ由注進す。」(「台徳院殿御實紀」)京都の町が和子入内に沸き返っていた頃、藤堂家の大坂城修築が終わった。この後は、小堀政一(遠州)が、奉行として外郭及び櫓の構造物を担当する。「お疲れさまでございました。」と遠州が労うと、「うむ、後は頼むな。」と高虎は力なく頷いた。「やはり、もう少しお休みになられた方がよろしいかと思います。」と遠州は心配そうに
笑顔創造って、エーちゃうん!のエーちゃんです。さて今週もびわ湖108霊場巡りの続きです。第七十三番札所は近江八幡市の名前の由来となった八幡様にありました。八幡様の楼門楼門·近江八幡市,滋賀県Googleマップで地図を検索。乗換案内、路線図、ドライブルート、ストリートビューも。見やすい地図でお店やサービス、地域の情報を検索できます。世界地図も日本語で、旅のプランにも便利。maps.app.goo.gl日牟禮八幡宮日牟禮八幡宮·近江八幡市,滋賀県Googleマッ
蚊の対策グッズ教えて!▼本日限定!ブログスタンプ蚊取り線香かな?…😄「蚊の日・モスキートデー」1897年(明治30年)イギリス🇬🇧の細菌学者ロナルド・ロスが羽斑蚊(はまだらか)からマラリアの原虫を発見しました。ロナルド・ロスは翌年1898年(明治31年)に実験にて明らかにし、この功績で1902年(明治35年)ノーベル生理学・医学賞を受賞しました。蚊(モスキート)と言うと若者にしか聞こえないという「モスキート音」ですね…飛行機好きだとイギリス🇬🇧の名機「デ・ハビランドモスキート」とい
「ざわつく日本美術」展東京の乃木坂のサントリー美術館で開催している「ざわつく日本美術」展を見に行ってきました。▪️美術館入口「ざわつく」って一体何にざわつくのでしょうね、、芸術作品なんだから「ざわついて」当たり前なのにね。▪️会場入口▪️展覧会風景この展覧会は「ぎゅうぎゅうする」、「おりおりする」、「らぶらぶする」「ちくちくする」など6つの章に分かれていますが、「ぎゅうぎゅう」も「ちくちく
八月二日です。文禄四年(一五九六)の今日、豊臣秀次の妻子三十余名が京の三条河原で処刑されました。七月に秀次が切腹したことによる余波です。特に有名なのが、駒姫ですかね。最上義光の次女で、秀次に側室として嫁ぐ前に秀次が切腹したのにも関わらず、処刑されてしまいました。これも豊臣政権の崩壊の要因の一つになったと思うんですよね。昭和二十年(一九四五)の今日、水戸空襲が発生しました。これによって、約一五〇〇名の死者が発生しました。そして、水戸城の御三階櫓が焼失しました。御三階櫓は、天守のような
三条大橋西詰下ルの瑞泉寺は、現在鴨川に面した裏塀を全面的に作り変えているようです。元々裏側には勝手口しかなく、こちらからも入れる旨の案内はあったももの、木戸を開けてまで入るのはちょっと気が引けたので、ちゃんとした入口を作ってくれるんだとしたらありがたいんですが。瑞泉寺は豊臣秀吉の甥で、秀吉の後継者と目されながら、罪を得て自害させられた豊臣秀次とその妻子たちの菩提を弔うために建てられたお寺です。・・・よくよく考えてみたら、来年の大河ドラマは『豊臣兄弟』だそ
七月十五日です。七月も折り返しですね。ゑ、今日は二つのお題を。・嵯峨天皇。・豊臣秀次。【嵯峨天皇。】承和九年(八四二)の今日、嵯峨天皇が崩御されました。延暦五年(七八六)九月七日に桓武天皇の子として誕生。弘仁元年(八一〇)、平城太上天皇の変(薬子の変)が起きます。この際、嵯峨天皇は巨勢野足や藤原冬嗣を蔵人頭に任じました。この後、約三十年にわたって治世が続きます。『弘仁格式』をまとめたこと、蔵人頭や検非違使を設置したことが有名かと思います。橘逸勢や空海とともに「三筆」と称される
楽器屋クロちゃん黒崎楽器楽器はやっぱりクロサキね!当社、昭和のテレビCMはこんな感じ。人気ドラマ、「太陽にほえろ」の直前。お客さまの音楽ライフを支援する地域になくてはならないコミュニケーションスペースを目指すこんにちは、クロです今日は滋賀に出掛けた為、道中日記となりますパソコンは車内保管中にリチウム電池が爆発しないように、クーラーボックスに、保冷剤をいれて管理今春息子が、南草津で
豊臣秀次公の菩提寺今日は法要と稲荷神社の開眼法要に出席してきました厳かで賑々しく多くの出席者の祈りによって行われましたこの日までの関係者の方々門跡さんのご苦労は計り知れませんたいへん心に残る法要でした。
「烈風を斬れ」砂原浩太朗双葉社舞台は大阪、時代は関が原の戦いが終わり、大阪の陣が始まる気配が漂い始めている頃主人公は、豊臣秀次と旅芸人の母との間に生まれた「孫七郎」お腹に孫七郎を宿したまま秀次の元を離れる際に書付と脇差を証として渡された秀次の幼名と同じ名前の孫七郎、母親が勝手につけた名前本人が生まれたのは秀次が亡くなった後になる6歳の時に木村重成の元に預けられ密かに養育されていたが、密使として全国に散らばる牢人たちに大阪入りを説得するため、元は木村家の家臣で今は孫七郎の家臣となって