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2024墓参行。一番の衝撃は豊臣国松公墓所だったか。国松は享年7…。そして木曽義高12歳、平敦盛15歳、武田信勝16歳、さらにさらに…。幼な児の死はただただ…。●唐招提寺・鑑真まさか鑑真さんの墓が周囲を池に囲繞されいたとは。今まで何を見てたのか…、ったくもう。鬱蒼とした樹木たちも鑑真を守る。昨年は、長駆南九州の鑑真上陸の地へ。鑑真像は自らのふる里を見つめているが如くだった(見えないのに…)。あらためて映画『天平の甍』を見た。泣けた!●奈良三笠霊苑島左近「治部少
仲源寺から、最後の目的地の誓願寺へ河原町を下がって蛸薬師を曲がった所に最近…と言っても何年か経つが…スシローがビルの地下に出来てるちょっと早いが昼を、ここでするかということに開店は11:00で、を見ると11:03じゃもう開いてると、地下に降りて行って、ひょっとしたら我々が今日の初客か…と思いきやそんなに狭くない店内の半分とまではいかないが1/3~1/4位が埋まってるえ三分でもっと早く開いていたのか…不思議だ新京極と河原町の間に通称、裏寺という通りがあって誓願寺なら
薩摩に、秀頼墓を訪ねた時にふと思った。家康は秀頼が一子、国松をも断罪していることを。その後、国松の墓所を知った。それまでは深く考えもしなかった。秀頼は母淀君とともに、大坂城内で自刃した。今「自刃の地」と碑が立つのは大坂城内の山里丸。観光客の通り道からややはずれていることもあり、ほとんど参じる人はいない。豊臣時代の城郭と、現在の徳川時代のとはかなり城郭内の様相は違っていたようで、秀頼遺骸は、京橋口から外堀を越えてすぐの三の丸辺りから、40年ほど前に首・胴の骨、愛馬の骨などが
✨ブログをご覧いただき✨✨ありがとうございます✨2022年12月31日大晦日今年最後のご挨拶となりました。一年を振り返ると👀健康で変わらずに過ごすことができました🤗毎月大阪で対面鑑定ができ毎年恒例の伊勢巡礼熊野巡礼(代理祈願)を行うことができました👏一つだけ心残りブログの更新を頻繁にすることができませんでした😢特に伊勢巡礼から帰ってきた10月後半から大晦日まで撮り溜めた画像が増えていきました。撮り溜めた画像来年2023年でお届けできればと考えています🌈
✨ブログをご覧いただき✨✨ありがとうございます✨ただ今東京です❣️対面鑑定は東京です🤗🤗お伝えするのに間が空いてしましました💦大阪出張(7/10〜13)で巡礼した時の模様大阪城完結編🏯お伝えしたいと思います✨はじめからご覧いただく場合『大阪城のパワースポット①石垣と刻印石』✨ブログをご覧いただき✨✨ありがとうございます✨大阪対面鑑定ご予約をいただきありがとうございました🤗直前のおしらせにも関わらずご予約をいただけてめっちゃ…ameblo.jp
✨ブログをご覧いただき✨✨ありがとうございます✨ただ今東京です❣️対面鑑定は東京です🤗🤗東京へ帰ってきましたが大阪出張(7/10〜13)で巡礼した時の模様をお伝えしたいと思います。大阪のパワースポット大阪城🏯をシリーズでお届けします🌈大阪城天守閣大阪城天守閣は、豊臣時代・徳川時代に続く3代目のもので、昭和6年(1931)市民の寄付金によって復興されました。現在まで90年以上の歴史を刻み、国の登録文化財にも指定されています。www.osakac
今から407年前の今日・1615(慶長20)年5月23日、あの豊臣秀吉の直系が途絶えました。なぜなら、豊臣秀頼の子、即ち秀吉の孫である豊臣国松が亡くなったから。国松は1608(慶長13)年、秀頼と側室・伊茶の間に生まれました。秀頼の正室・千姫との間に子がなかったことを憚り、国松は生後すぐに秀頼の伯母・常高院の嫁ぎ先である若狭京極家に預けられた後、乳母の兄・砥石屋弥左衛門の養子に。そして大阪冬の陣が始まると、彼は常高院と共に大阪城に入り、その時初めて父・秀頼と面会。その翌年、
国松君のお墓にまいりかわいそうにな数えで言うとうちの長女とおなじ歳だありがとう黒龍〜阿弥陀ヶ峰を降りて先程までのできごとを反芻しつつ大仏殿跡地からわあ〜ギラギラ!!の太陽10月なのねこれが方広寺を抜けてこんなにぐりぐりとチョークかなにかで無造作に囲ってしまってよいものかまあええか戦時中に大砲玉にされなくてよかったわその時は気づかなかったあとから観たらこれも龍かなちょっとー聞いてよ殿下さっき大変だったのよと言いたいあー本殿上にもあれ龍と見ていいかな
【6月19日】京都市東山区の豊国廟さんへ。この日は旧暦で豊臣国松の命日でした。限定御朱印。画像は撮ってませんが御朱印は2種類有り各8枚限定で1人1枚限定でした。
心に期するものがあるらしくオットは初詣は太閤殿下の墓参りと決まっている!!というのでまあそれもええかな、と正月4日豊国廟にお参りしてきました阿弥陀ヶ峰を階段で登山する、ていう感じ風葬の地鳥辺野の付近です京女(きょうじょ)の真ん中つききるかんじ道の左右にキャンパスがあるほんとは京都駅の八条口か河原町四条のマルイの西側バス停からプリンセスラインというバスに乗るのがらくこの右手の灯籠の奥に赤いテントが見えるけどここまでバスで連れてきてくれる太閤坦さーのぼろ!!前半戦は
先月に、引き続き豊臣国松公の御朱印です。8歳で亡くなられたこともあり、8枚限定です。
5月24日♪日曜日♪なんかさすがに窮屈カンジる伝書バトさんみたいな今日このごろ…通勤のついで以外に家出てへん…(;・ω・)ヘ(ё)ヘホンマはこんな日は大文字山に登りたいケド…(過去blog:登山編♪火床編♪頂上編)(*´-ω-`)ゞ今は歩いて行ける範囲でガマンしとかなね…(((^^;)鴨川♪七条大橋から♪七条をひたすら東へ♪東山七条♪智積院んトコで北に屈折して再び東♪平安京の昔は風葬場やった鳥辺野…今は名門女学校を抜けて…七条の東の先は、アノ
京都市東山区の豊国廟さんへ。5月23日は豊臣秀吉の孫の豊臣国松の命日でした。豊臣国松のお墓。8歳で処刑された事もあり、8枚限定で授与されていました。旧暦の6月19日にも内容は変わるかも知れませんが、8枚限定で授与される予定です。
豊国廟の中にひっそりと五輪塔が建っています。豊臣秀吉の墓所へとつながる長い石段の入口の左側奥に本当にひっそりと。気づく人がほとんどいないためか、参拝する人は少ないようです右側の大きな五輪塔は松の丸殿こと京極竜子。その左側に建つ小さな五輪塔は豊臣国松のものです。松の丸殿は京極高吉の娘として産まれ、秀吉の側室となります。もともと京極家は近江源氏の流れを汲む佐々木氏を祖とする家系です。鎌倉時代末期には北条得宗家の御相伴衆として仕えた佐々木道誉(京極高氏)が
ラストスパートこの階段の先に豊臣秀吉の墓所が一気に行こうこれで、終わりだと思うと速度があがる到着ここが、豊臣秀吉の墓かなり、でかい念願叶う秀吉が愛した京都の街が一望できる高台寺に眠る、北の政所ねね様は、この秀吉が眠る阿弥陀ヶ峰の方をむいているらしい墓の周りを一周あれだけの階段を登りきったが滞在時間はわずかお墓だしね中間地点まで、戻ってきましたよふと、門をくぐって上を見る天照皇大神久々能智神豊受昆賣大神彦狭知神手置帆負神そして豊国大明神天照皇大神
連載400回マンガ「さやかさん」~33年の歴史を振り返る君津市特集マンガ「さやかさん」の歴史.祝400回.昭和58年7月号から“広報きみつ”で連載が始まったマンガ「さやかさん」。今年で連載33年目を迎え、話数は今月号(.語り部と歴史探訪参加募集16日/和歌山毎日新聞すさみ町の語り部団体「長井坂クラブ」が、16日に実施する「すさみ歴史探訪ウオーク」の参加者を募っている。定員50人(先着順)で、申し込み締め切りは7日。(聞きたかったこと広島)夫婦で歩む、平和の道