ブログ記事73件
今日は3月10日、東京大空襲の日だ。あれから80年になる。東京大空襲から80年慰霊の法要|NHK|東京都自分の先祖、と言っても曾祖父と祖父だが、古い戸籍を見ると、大正時代に故郷愛知県の、現在の豊田市かつての挙母町を出て、東京にやってきたようだ。理由はわからない。貧しい土地だったというから、たくさんの兄弟で、家と土地を継げないので仕事を求めて東京に出てきたのかもしれない。ちなみに曽祖父は4男、その兄の3男も時期はわからないが、東京に出てきている。いっしょに出て
毎度!ペットシッターわんにゃん豊川です🐶🐈中日新聞さんの2024年11月18日(月曜日)朝刊三河版【三河】海軍工廠の存在伝える本誌豊川通信局の角の石柱豊川の小中学校全部だったのか?は分かりませんが、私の育った小学校、中学校では毎年、豊川海軍工廠(とよかわかいぐんこうしょう)の空襲をうけたときに、黙とうをしていました。夏休み期間中だったので、その日が学校登校日になっていたのですかね?毎年、毎年、黙とうをしていた記憶があります。今も、多分、同じなのかな?と
あいち生協組合員理事のお仕事。8月24日(土)のことです。平和体験企画「豊川海軍工廠見学」を行い、組合員さんと一緒に、豊川海軍工廠平和公園→桜ヶ丘ミュージアム→豊川稲荷をめぐりました。当初の予定より、多くの組合員さんにご参加いただくことになり、下見と打ち合わせをしっかり行いました。参加者さんとボランティアガイドさんのご人徳でしょうか?早朝まで降っていた雨が止み、暑すぎず、ちょうどよいお天気となりました。豊川海軍工廠平和公園に集合し、まずは映像を観
本日はRCネタでは無く人気の「オカルト話」のコーナー。内容にとある企業を特定できるような文面が有りますが、もうすでに20年ぐらい経過してるので「時効」と言う事で....愛知県豊川市と言えば豊川稲荷が有名ですが、戦前~戦中には「豊川海軍工廠」(トヨカワカイグンコウショウ)っと言う銃器や弾薬などを造っていた兵器工場が有りました。兵器工場ですので当然の様に戦中にB29に空爆され約2.500名ほどの犠牲者が出た様です。戦後
お疲れ様です。今日は8月7日です。79年前の今日、午前10:13に豊川海軍工廠がB29の爆撃を受け、2500人以上の尊い命が犠牲となりました。豊川市ではこの日、戦禍の犠牲となられた方々の御霊供養のため、豊川稲荷境内にて盆踊りが毎年行われています。昨年は思いもよらぬ台風の影響で中止となり、一昨年はコロナ禍のため中止となりました。今年は降雨予想も出ていましたが、雨が降ることもなく、無事に盆踊りを終えることができました。途中で少し体調を崩してしまった子がいたり、町内会の目印に
みなさんおはこんばんにちは昨日は8月6日、ヒロシマの原爆の日でしたね。いつもならヒロシマへの想いを何かしらで綴らせてもらっているのですが、今年はその次の日8月7日、愛知県の豊川市で起きた悲惨な空襲について思いを馳せてみようと思います✍️まず、その空襲で使われた爆弾なのですが…500ポンド爆弾(250キロ爆弾)重量243kg、全長144cmこの爆弾がわずか30分間に3,256発落とされ、2,500人以上の命が奪われました。よく戦争の話題でテレビなどでも見かけ
今日は、広島原爆の日と同じくらい大事な日と想ってる、豊川空襲(豊川海軍工廠空襲)記念日。若者ら2500人以上犠牲の愛知・豊川海軍工廠空襲から79年中学生が平和への決意語る(メ〜テレ(名古屋テレビ))-Yahoo!ニュース戦時中、兵器工場への空襲で若者ら2500人以上が犠牲になった愛知県豊川市で、平和祈念式典が行われました。79年前の8月7日、兵器工場だった豊川海軍工廠へのB29爆撃機などによる空襲では、学徒news.yahoo.co.jp空襲時、海軍工廠内にいた祖父からは詳しい話を聞
1945年8月7日の午前10時13分、豊川海軍工廠がB29の爆撃を受けました。それから79年が経ちました。今の平和な世の中に感謝し、戦没者の方々に対する追悼の意を表し、ご冥福をお祈り申し上げます。★★昨年の黙祷のブログはこちら↓↓『黙祷』本日、8/7は豊川海軍工廠が空襲を受けた日です。一宮町のKさんのお宅に到着した瞬間の10:30、豊川市の防災無線からサイレンが鳴り響きました。昭和20年8月…ameblo.jp
毎年書きます。昨日は広島に原爆が落ちた日そして、今日八月七日は私の地元豊川にあった海軍工廠に大規模な爆撃があった日です。多くの勤労動員の中学生・女学生・国民学校児童達が犠牲になりました。黙祷!
①〜③という連続で愛知県豊川市にあるかつての太平洋戦争時代、東洋一の兵器工場と呼ばれた跡地、とよかわかいぐんこうしょう・へいわこうえん豊川海軍工廠・平和公園についてレポートしてきましたが、一旦この④が平和公園の締めのレポートです🙋♀️✨平和公園の敷地内に一緒に建っている豊川市平和交流館さんに"折り鶴のお手伝い募集"のコーナーがありました💖あの太平洋戦争時のこの場所で30分間で3,256発の爆弾を落とされ、2,500人以上の犠牲者が出た1945年8月7日。
みなさんおはこんばんにちは前回のレポート②に引き続き、愛知県の豊川市にあるわずか30分間で約3,256個の爆弾を落とされ、2,500人以上が犠牲となった悲惨な戦争の兵器工場の跡地、豊川海軍工廠(とよかわかいぐんこうしょう)の平和公園レポート、懲りずにお届けしてまいります✍️✨🍀それではお次は豊川海軍工廠の平和公園の敷地内に建てられている豊川市平和交流館さんについてです館内に入るとまず正面に受付や職員さんがいる窓口があり、レポート①でもお伝えしたあの、
みなさんおはこんばんにちは前回のレポート①に引き続き、愛知県の豊川市にあるわずか30分間で約3,256個の爆弾を落とされ、2,500人以上が犠牲となった悲惨な戦争の兵器工場の跡地、豊川海軍工廠(とよかわかいぐんこうしょう)の平和公園レポート、お届けしてまいります✍️現地ボランティアガイドさんによる無料園内案内で次に向かったのはきゅうだいさんしんかんおきば旧第三信管置き場信管(しんかん)とは…?🤔上の画像のみどり丸🟢のところよく銃のたまの形で目
みなさんおはこんばんにちは突然ですが、この爆弾がわずか30分間に3,256発落とされ、2,500人以上の命が奪われた我が国の戦争の歴史をご存知でしょうか…?私の身長が約、147.5cmなので、模型は数センチの誤差がありそうですが大体このくらいの大きさ。500ポンド爆弾(250キロ爆弾)重量243kg、全長144cm爆弾の種類にもよると思いますが、こんなに大きいのかと、実際に模型の横に立って驚き…よく戦争の話題でテレビなどでも見かける映像。よくよく考えたら飛行
作家の宗田理さんが4月8日に名古屋市内の病院で95歳で死去されました。宗田さんは昭和3(1928)年生まれ、戦争一色の少年時代を生きてこられた方です。学徒勤労動員として働き、特攻隊の訓練も受け、常に死を意識して生きてこられました。『早咲きの花~ぼくらは戦友』角川つばさ文庫2019年を読み終え、主人公の植松真次の姿は、同時代を同年齢で実際に生きた宗田さん自身の体験や思い、願いに重なって描かれていることが理解できました。父親の戦死、父の実家である愛知県三河地方への転居、そこでのガキ
「薄墨の櫻」春空のキャンバスを染める…🌸🌸🌸
愛知県豊川市豊川海軍工廠平和公園~豊川駐屯地さくら祭り~豊川稲荷2024年3月30日去年に続いて豊川の陸上自衛隊駐屯地のさくら祭りを目当てに豊川へ散歩に出かけました去年同様、豊川稲荷駅の手前、諏訪町駅で下車して散歩しながら豊川駐屯地へとむかいます駅前から体育館や野球場が並ぶ大通りを通り自宅の周辺の開花状況からも予想はしていましたが今年の桜の開花は遅め、去年訪れたときには満開だった桜並木もまだ開花に至っていません大通りの突き当り、ここがかつての海軍工廠の正
◎以前から気になっていた愛知県豊川市にある「豊川海軍工廠平和公園」へ行ってきました。昭和14年に海軍が装備する機銃や弾丸、光学機器の主力生産工場として「東洋一の兵器工場」と称された「豊川海軍工廠」が今の愛知県豊川市に開庁されました。しかし戦局の悪化に伴って米軍の攻撃が激化し、終戦直前の1945年8月7日にグアム島、テニアン島、サイパン島より飛び立った爆撃機B29計124機+護衛のP51戦闘機48機が豊川海軍工廠を襲いました。B-29は500ポンド爆弾・3.256発(813トン)を投
お昼を食べてゆっくりしてから時間も推してきたので、竹島は明日に行くとして豊川市方面に走ります。豊川に行く前に今泉医院に立ち寄り。昭和初期の洋館意匠の建物です。個人宅なので外からさらっと撮影。次に着たのは豊川海軍工廠跡豊川海軍工廠とは軍から委託された民間工場を工廠と言い、ここ豊川では海軍の小型の弾(6.6~20粍)を製造していました。平和交流館でボランティアガイドがあります。見学時間、最後の14時20分が過ぎてたけど鍵を締めに行くついでに一緒に見学させてもらいました。
6月の豪雨が爪跡まだ残る地域への台風接近。今日は定時で切り上げて帰宅しました。お盆休みで、普段とは違った場所で台風の影響を受けて不安でお過ごしの方もいらっしゃる事かと思います。影響が長い台風と報道されています。安全にお過ごし下さい。愛知県豊川市砥鹿神社七月の参拝🎋授かった御朱印です。西参道にある石鳥居元々は、旧市田村に砥鹿神社遥拝所としてあったものです。現在も遥拝所は残されています。市田村と言いますと鳥居強右衛門の出身地です。鳥居強右衛門は、三河国市田村(豊
一昨日の8月7日(月)の午前10時30分。僕が住む愛知県豊川市の全体に大きなサイレンが鳴り響きました。黙祷のためのサイレンです。じつは、今から78年前豊川市で痛ましい出来事があったのです。鈴木宏幸@人生コンサルタントの自己紹介は<こちら>当時、豊川市には豊川海軍工廠(とよかわかいぐんこうしょう)という日本海軍の機銃や弾丸を作る工場がありました。
昨日は原爆の日、広島に原爆が投下された日です。そして、今日は私の地元、豊川市の海軍工廠が大規模な爆撃にあった日です。亡くなられた方の中に多くの勤労動員の中学生・女学生・国民学校児童達が居たといいます。昨日の記事で、ヒロシマを訪れたチェ・ゲバラが「きみたち日本人は、アメリカにこれほど残虐な目にあわされて、腹が立たないのか」と憤ったと言う事を書きましたが・・・すこしだけ、自分のなかに爆弾を投下した爆撃機に乗っていた操縦士は、その工場で多くの子供達が働いていた事
[豊川海軍工廠]⑦第3窒化鉛製造場愛知県豊川市穂ノ原3-13-2(平和公園)「名古屋大学宇宙地球環境研究所豊川分室の敷地」内に現存する、豊川海軍工廠火工部の遺構の見学会に参加した。*第3窒化鉛製造場建屋は消滅、土塁だけ現存している建屋跡地。コンクリート片が散乱しているだけ(×_×)戻りますか*工廠内の道路はアスファルト舗装名古屋大学敷地内の見学会は終了m(__)m*平和公園内の資料館をみる
[豊川海軍工廠]⑥原料置場愛知県豊川市穂ノ原3-13-2(平和公園)「名古屋大学宇宙地球環境研究所豊川分室の敷地」内に現存する、豊川海軍工廠火工部の遺構の見学会に参加した。*原料置場2つの小さな建物が並列に建つ。火薬の原料などが貯蔵されていた。戦後は鳥小屋として利用された時期もあった。建物内はガラクタだらけ。おおお?八八式信管の箱(・∀・)88式信管採用:昭和4年1月使用砲種・50径12.7センチ砲通常弾
[豊川海軍工廠]⑤第2・第6火薬庫と防空壕と着弾穴愛知県豊川市穂ノ原3-13-2(平和公園)「名古屋大学宇宙地球環境研究所豊川分室の敷地」内に現存する、豊川海軍工廠火工部の遺構の見学会に参加した。*貯水槽*第2火薬庫平和公園内にある第1火薬庫と構造も部屋数も3室で同じ。プラットホームがほぼ朽ちている(・∀・)機銃掃射の痕第2火薬庫から(平和公園内の)第1火薬庫をみる名古屋大学の実験設備から第2火薬庫をみる
[豊川海軍工廠]④愛知県豊川市穂ノ原3-13-2(平和公園)豊川海軍工廠の主力は火工部(薬莢・弾丸・火薬)19工場で、敷地・人数共々全体の6割以上を占めていた。平和公園の隣、ほぼ往時のままで現存されているのが名古屋大学宇宙地球環境研究所豊川分室の敷地。数年前までは平和公園も含めた広大な敷地を有していたが(全て火工部)、東側の敷地を売り(豊川市=平和公園/津田工業など)、現在は半分以下になってしまった(貴重な遺構も消滅した)。出典:国土地理院1988/10/10(昭63)
[豊川海軍工廠]③第3信管置場愛知県豊川市穂ノ原3-13-2(平和公園)豊川海軍工廠の主力は火工部(薬莢・弾丸・火薬)19工場で、敷地・人数共々全体の6割以上を占めていた。火工部第1~第4信管工場、弾丸工場、第1・第2弾莢工場、機械工場、木工工場、第1・第2装填工場、火薬工場、分析工場などがあった。火薬庫の周囲は爆発被害を最小限にするために土塁で囲った。工廠の南西に位置する地は「名古屋大学太陽地球科学研究所の敷地」になっており、敷地内に火工部の一部施設がほぼ手つかずのまま現存
[豊川海軍工廠]②愛知県豊川市穂ノ原3-13-2(平和公園)*豊川海軍工廠平和公園2018年6月、かつての火工部(北側の一画/3ヘクタール)を整備して開園した。敷地内には第1火薬庫、第3信管置場、街路灯、露天型の小型防空壕が現存している。*火工部第1~第4信管工場、弾丸工場、第1・第2弾莢工場、機械工場、木工工場、第1・第2装填工場、火薬工場、分析工場などがあった。火薬庫の周囲は爆発被害を最小限にするために土塁で囲った。横須賀海軍建設部が錢高組や鴻池組などを契
[豊川海軍工廠]①概要と境界石昭和12年3月頃、海軍の航空機用機銃の生産のため計画され、土地に平坦な第2候補地の豊川に決定した(第1候補は三重県鈴鹿)。昭和13年7月頃から土地の買収開始、昭和14年3月から造成が始まり、昭和14年12月15日に竣工した。海軍工廠として5番目の開廠だった。開廠当初は機銃部(銃身・銃架)8工場、火工部(薬莢・弾丸・火薬)19工場だった。だが翌年も南東側の土地を買収・敷地を更に拡張して、光学部(ガラス・レンズ研磨)10工場、指揮兵器部(高角砲用射撃装
豊川市八幡町上宿きだかピアノ教室木高裕子ですご訪問いただきありがとうございます。今日は、豊川海軍工廠跡地見学会「名古屋大学豊川フィールド内の海軍工廠遺構」に主人と娘達と参加しました。普段は立ち入ることのできない場所、平和公園と違って整備されておらず、鬱蒼としており、爆弾が落ちたくぼみ、防空壕や朽ち果てた原料置き場やトイレ、瓦礫が散乱した製造跡地など戦後そのまま放置された状態で何とも言えない恐怖を感じました。まるで空襲の日から時が止まっているかのよう。小2の次女は「怖い」と私の手をぎ
豊川市八幡町上宿きだかピアノ教室木高裕子です。ご訪問いただきありがとうございます。今日は、主人と娘たちとお友達親子と一緒に、ボランティアガイドさんの案内で豊川海軍工廠平和公園の戦争遺跡を見学しました。当たり前のように平和を享受していますが、それが当たり前ではない時代があって、この場所で多くの方が非業の死を遂げていたこと。丁寧に解説していただき、実際に旧第一火薬庫、旧第三信管置場の中に入ると胸が苦しくなります。いつもはうるさいほど元気な子どもたちも黙って真剣にメモを取っていました。日曜