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前回の記事にも書きましたが書こう書こうとずっと思ってて、延び延びになっていたことがあります。それが慶応2年の、近藤らが再西下した時の近藤の帰京日です。(慶応元年11月に長州尋問使に随行して、近藤勇らが西下。翌年1月に再び長州処分通達使に随行する形で、広島へ。その時の帰京した日、ということになります)一般には近藤の帰京日は、3月12日と認識されています。が、実は4月14日だったらしい。(個人的には4月12日~14日の間と思っていますが、これは追々)「ちょうど150年前の本
谷の槍は「道場槍だ道場槍だ」という訳で、谷の稽古を受けるものが一人も無いという位になって終った。何んか武道の話が出て、谷が一口でも入れようものなら、「先生の御議論は毎々伺っています、それよりも一つ御腕前を実地におみせ下さいませんか」という。谷は赤面して黙って引き下がった。この谷が、祇園石段下で、何者にか斬殺されたのは、介錯失敗の一ヶ月後、即ち慶応二年四月一日のまだ夜の宵の口であった。『新選組物語』(子母澤寛)収録の「隊士絶命記」では、新選組の谷三十郎は慶応二年(1866)四月
『近世名匠談』には森寛斎と新選組に関する逸話がもうひとつあります。寛斎がかつて住みたる蛸薬師堺町の家は、その失踪せしより以来、新撰組の穿鑿(せんさく)もっとも厳しく、両三回もその町年寄なる八木良則を西本願寺の屯営へ喚(よ)びて詰問し、もし隠匿せば斬に処すとまで威迫せしとぞ。※.穿鑿=細かく調べること森寛斎が文久年間に住んでいた堺町通蛸薬師の家(の周辺)は、寛斎が行方をくらました後も新選組の探索厳しく、町年寄の八木良則は三度も西本願寺の屯所に呼び出されて「もし隠し立てをすれば
渡邊昇の談話によれば、渡邊が京で黒装束の新選組隊士(と渡邊が思った人物)を斬ったのは慶応三年(1867)の大村騒動の前のことだとしており、必然慶応二年(1866)の出来事だったということになります。そうなると、渡邊が斬った新選組隊士というのは誰だったのか、その答えは絞られてきます。なにしろ慶応二年に不審な死に方をした新選組隊士は一人しかいないからです。それは谷三十郎です。谷三十郎は慶応二年四月一日の夜、祇園社(現在の八坂神社)の石段下で斃れていました。その死に関しては「卒中にて急死せ
農家の三男坊として生まれた谷川辰吉こと吉次郎でしたが、当時のご時世もあってか剣術を学ぶことになります。入門したのは美作国津山藩(現・岡山県北東部。越前福井藩の分家松平氏)の剣術指南役・井汲唯一(いくみただいち)でした。井汲唯一は美作国津山藩の藩士井汲政智の次男として文政十二年(1829)十一月に生まれました。はじめは幸右衛門と名乗っていましたが、のちに唯一に改めています。また、諱(いみな)を貫(「つらね」か)と称し、淡水と号しました。井汲唯一は津山藩の御家流であった野方一流(今枝流
備中倉敷の出身で、のちに新選組に加入することになる谷川辰吉は、ぜんざい屋事件のきっかけを作った人物といえます。その谷川辰吉は、幕府の直轄領であった備中国窪屋郡倉敷村(現・岡山県倉敷市)の百姓・和栗仁左衛門(謙次)とゆき夫妻の三男として生まれました(生年不詳)。本名を和栗吉次郎といいます。ただし、百姓なので和栗は隠し姓なのかも知れず、「倉敷村の吉次郎」と呼ぶべきなのかも知れません。また、谷川辰吉という名は新選組時代に名乗ったものとして、西村兼文の『壬生浪士始末記』に書かれているのですが
ぜんざい屋事件に関連して、こういう話もあります。『壬生浪士始末記』(西村兼文)ここに谷川辰吉と云える隊士あり。元備中国倉敷在の産にして、時勢に習い剣柔を好み、有志士に交際し、本国に於いて嫌疑を蒙り、国を脱して大坂に来たり。所々に潜伏中、土州人片岡源馬(この時、仮名那須盛馬)、濱田辰弥(のち田中顕助)、大村刀三郎(のち浅井道之助)、大橋(慎三)、多里偵佶(=大利鼎吉)、田村道太郎など秘かに謀るところありて大坂に出、道頓堀鳥毛屋某方に滞在す。谷川はその頃、近藤勇に交わり深き備中人谷万太
事件後、谷万太郎は弟子の正木直太郎と連名で、京都にいる近藤勇と土方歳三宛に事件の報告書を書いて送っています。書翰をもって申し上げ奉り候。ちょっと申し上げ候召し捕りもの、何気なく四人にて入り込み候ところ、存(おもい)のほか手剛(てごわ)なる者にて、直太郎右の腕四寸ほど手を負い、三十郎は足を少々、私は胸元を当てられ、しかし一人は切り伏せ候えども、余人は逃げ去り、誠に残念至極、お察し下さるべく候。しかし書類手に入れ、取りあえず目当り候ものには長州への建白これあり、その他色々これあるべしと相
では谷万太郎とはどういう人物だったのでしょう。その人柄をうかがわせる逸話をいくつかピックアップしたいと思います。・備中松山藩を脱藩後、居候先の岩田文硯(中山大納言家の元侍医)に見そめられ、娘スエの婿となった上に新居と道場を借り与えられる。・「鉄の規則」の新選組に加盟しながら大坂で道場経営を続けるという特殊な立場を認められている。道場は結構繁盛していたという。・池田屋事件で計二十両の報奨金を得るという隊中屈指の働きをし、なおかつ兄・三十郎は副長助勤の幹部、弟・周平は局長近藤勇の養
では、襲った新選組の方はどうだったでしょう。“新選組”と一応いいましたが、実際にぜんざい屋に乗り込んだのは新選組平隊士ではあるが、ほとんど大坂にいて道場経営を続けていた谷万太郎と、その兄で新選組副長助勤の谷三十郎、新選組を脱走したあと万太郎の道場に潜り込んでいた門弟の阿部十郎、それに同じく門弟の正木直太郎の四人だけでした。そういう意味では彼らを“新選組”と呼んで良いものかどうかは微妙なところがあります。そんな四人の中でも、僕が特に気になるのが阿部十郎です。阿部十郎はのちに『史談会速記
さて、まずは土佐浪士の側から見ていきましょう。元治二年(1865)一月八日の夜、大坂城焼き打ち計画の首謀者であった濱田辰弥(のちの田中光顕伯爵)、大橋慎三、那須盛馬の三人は同志に会うために道頓堀の鳥毛屋に行っていて、ぜんざい屋を留守にしていました。だから、ぜんざい屋にいた浪士は大利鼎吉ただ一人だったというのですが、果たしてこれは本当なのでしょうか。この点については、いささか疑問があります。そもそも前にも書いたとおり、もう一人の同志・池大六の、この夜の所在が不明であること。更には、谷万
それは元治二年(1865)正月八日の夜のことでした。大坂・松屋町のぜんざい屋こと石藏屋に、新選組の隊士で大坂南堀江町二丁目に剣術道場を営んでいた谷万太郎と、その兄で新選組副長助勤の谷三十郎、万太郎の門弟正木直太郎、同じく門弟で、一度新選組に入隊したものの脱走し、この度再度入隊するべく三十郎・万太郎兄弟を頼ってきていた阿部十郎の四人が踏み込みました。これは同志として直前までぜんざい屋にいたものの、大坂城焼き打ちという土佐脱藩浪士たちの無謀すぎる計画に同意出来ず、抜け出して万太郎の道場に逃げ込
濱田辰弥(のちの田中光顕)ら土佐脱藩浪士たちが進めていた大阪城焼き討ち計画は、故郷土佐で獄中にあった土佐勤王党首領武市半平太の耳にも入り、獄外にいる同志へ送った密書の中に「大坂一挙もいかが候や。只々一日も早くあれかしと祈ることに御座候」と、その成功を祈るとする言葉がある一方、別の手紙では「大坂一挙の事、すこぶる急務に御座候えども、とても事は得挙げ申すまじ」、つまり「大坂城焼き討ちはただちに実行されなければならないが、とても成功するとは思えない」と、本音を吐露してもいます。その頃、ぜんざい屋
おはようございます先日備中松山城に登城した際猫城主のさんじゅ―ろーに御対面しましたぁぁ城主らしいカメラ目線でバックに見事備中松山城天守閣カッコいい惚(待受画面にして毎日パワー貰ってますぅぅ)ネームプレートもちゃんと付いてますよ役職は備中松山城猫城主とても可愛いく人懐っこいですよぉぉまったりしている所をパシャパシャしていても撮られ
今回、備中松山城に行ったのには、ある目的がありましたそれは、城主殿にお目通りすることでしたお待ちしていると、さすが城主殿、定刻通り御成になられました客人、よう参られた城中の見廻り時間が、午前10時と午後2時と決まっているので、その時間に間に合うように上らないと行けないんですちょうど、観光客がほとんどいなかったので、写真取り放題でした管理人さんからもらったご飯を夢中で食べてますなかなかジッとしてくれません草を食み食み城壁に昇って、ライオンキングみたいんにゃあ最後の最
東京宝塚劇場、水曜日の13時半公演だったので高速バスで東京方面に向かいましたが首都高渋滞に巻き込まれ八潮からつくばエクスプレスで秋葉原へ有楽町から歩くのが嫌だったので、秋葉原から日比谷線で日比谷シャンテへ・・・長男のお嫁さんと合流暫く日比谷駅は利用していなかったけれど、ミッドタウン日比谷日比谷シャンテに直結しているのですね~「壬生義士伝」吉村貫一郎(望海風斗)は守銭奴と、からかわれながら外見はカッコ悪くても、「家族を守るため」を貫くカッコよさと太刀裁きは見ごたえあ
おはようございます最近では事務所内で扇子や団扇でパタパタ新撰組の好きなスタッフは誠の文字入りの扇子武士道の教えの中にある「誠」は「言」を「成」す一度言葉にしたことは必ず成すという成り立ちの漢字です誠の旗の掲げる意味についてもお聞きしてみたいと思いますぅぅ熱中症ならないように注意しましょうちなみに扇子の裏は
雪組公演『壬生義士伝』で谷が小川切腹の介錯を務めることになったが腰抜け谷は失敗。そこで介錯補佐の吉村貫一郎が出て見事役目を果たします。その時の望海風斗さん(吉村貫一郎)の剣の構え方のカッコいいことったらないです。介錯失敗の谷の腰抜けっぷりに怒り狂う斎藤一。「谷ーッ!!!」っと鬼の形相で谷を蹴り倒すのですが、このシーンでの斎藤役のあーさ(朝美絢さん)と谷役のにわさん(奏乃はるとさん)との谷を蹴り飛ばす斎藤と蹴り飛ばされる谷のタイミングが抜群にいいんです。そしてそんなあーさとにわさんの芝居が
では、またお馴染みのおまけ編です!その一谷三兄弟!参上!長男谷三十郎!次男谷万太郎!三男近藤周平!って、苗字が違うのはご愛嬌!現実でも仲良しだったらいいな〜。その二売り子の源さんどうやら源さん、実家でコーヒーを製作したらしく、売り込みをしてました!引退したら喫茶店開くのかな?その三何やってるの?何やら、隊長達が話し合い中お題・もしも土方さんの俳句を見つけたら?永倉さん「何見てるんだ?総司?」沖田さん「な!いきなり声をかけないでくださいよ!?」斎藤さん「総司、
まなはる(真那春人)が、今回の壬生義士伝では、近藤勇、新選組局長を演じました。そして、組長の奏乃はるとは、谷三十郎。雪組は、この数年、幾度も新選組の作品をやっていますが、その中の、『星影の人』と、『誠の群像』この二本の作品で近藤勇を演じたのは、奏乃はると。なので、今回、『組長は、局長ではない…』と、舞台を観ながら、私の中で、数回自分に言い聞かせました谷三十郎という事は、頭ではわかってるのですが、近藤局長の奏乃さんを、知らず知らず、探してしまう私
新選組に谷三十郎、万太郎、周平という三兄弟がいた事は結構有名な話だと思うのですが、このうち、長男の三十郎と次男の万太郎に関して、記録や証言に結構な混同が見られます。つまり、三十郎の逸話らしきものが万太郎の事として語られていたり、その逆だったり。ふうん、そんなものか・・・ぐらいに、これまでは、あまり深く気にかけていなかったのですが、よくよく考えてみると、なんとも奇妙な話ではありませんか。というのも長男の三十郎は、新選組の幹部としてほとんど京都にいた(はず)なのに
今日は、🌙月組公演東京千秋楽。私…みやちゃん(美弥るりかさん)の事についてブログでは殆ど触れなかったのですが…辛すぎて触れられなかった💦今日が最後の舞台…という事で今思う事を一言だけ。まずは、今日一日最後まで無事公演を終えられますように…。そして、みやちゃんの『弥』には、行き渡るという意味があるそうで。『弓』の両端に『弦』を張る→“端まで渡る、繋げて遠くまで行き渡らせる、一面に広がる、普遍…”…と。みやちゃんの普遍の美はこれからもあせること無く、みやちゃんの繋いできた絆もまた、途切
雪組、観劇してまいりました。ネタばれになります。私の見方が斜め過ぎるのか感情移入できなかったです。新撰組という素材は人の命が粗雑な扱いになるのは仕方ないことなのでしょうが。人の死で笑いを取るのはどうも違和感。史実なんでしょうが組長さんの役。谷三十郎。普通の人ですよね。よくいるタイプの人です。私もどっちかというとそういうタイプそんな真面目じゃないわ。でも、新撰組では死に値すると…私は原作も読んでないし、映画も見てないのでこの舞台の感想だけをのべますが。吉村の死はやは
岡山新選組の隊士の皆さま、暑い中のパレードお疲れさまでした!早めに連絡しておけば良かったのですが私が日野に行くことになったのは直前のことでしたので当日、現地で遭遇というサプライズになってしまいました。気づいてくれるかなー?気づかなくても写真だけは撮ろう!と思っていましたが、我らがH副長(娘はH氏の事は副長と呼んでます!)に気づいていただけて良かったです!Mさんとも久しぶりにお話出来てうれしかったです!岡山新選組の旗が見えたときにはとても
立派な石段を進んで行くと二の丸到着はるか下に高梁の町並み本丸へ上がるといました❗殿です~~~さんじゅーろー🐱連日の観光客のお相手で少しお疲れぎみだそうです(^_^;)殿がお出ましになるとわらわらと取り囲まれてなかなかその姿を撮れません💦名前の由来は備中松山藩出身の新撰組隊士谷三十郎にちなんでいるとか1日2回城内の見廻りもしてます🐱殿にお似合いのかわいい天守です😄登城はかなりしんどいですが訪れてみてはいかがでしょう😊
オバンデスっ仙台に帰って来ました(一週間前に)宮城テレビの天気予報で流れている曲を聴くとあ〜仙台に帰って来たなぁ〜って思います今日は、ねこの日ですねねこちゃんと言えば…備中松山城のねこ城主、さんじゅうろーに会いましたねこじゃらしに夢中になっていたところへお邪魔しましたさんじゅうろーは、平成30年7月の豪雨の後、備中松山城三の丸で保護されたそうです推定3歳のオスねこちゃんで備中松山藩の藩士から新選組の隊長になった谷三十郎にちなみさんじゅうろーと名付けられました1日2回、1
岡山県高梁市にある備中松山城に住み着く猫の【さんじゅーろー】が猫城主としてデビューしたと報じられている。朝から猫の微笑ましいニュースを読んで笑いが止まらない("⌒∇⌒")山陽新聞によると【さんじゅーろー】の名前は備中松山出身の新選組隊士谷三十郎にちなんだものという。今一つ人気の低かった谷もこれで脚光を浴びる?
7回表、中西球道の163kmのストレートをとらえた山田のホームラン。ライナーでラッキーゾーンへ。山田には珍しいラッキーゾーンへのホームラン。今だったら2塁打かな?最高試合の1つとされる試合はこんなにもラッキーゾーンに左右される試合だったという事です。そして訪れた里中の変調。4連投、気温の上昇、明らかなオーバーペース。気持ちでは体力を誤魔化せなかったという訳です。ここで思うのが2つ。「何故球道は無理に粘って三振したのか?」「何故山田は立たないのか?」理由はいずれも里中のプライドとされます。
新撰組のメンバーで好きなのは?▼本日限定!ブログスタンプあなたもスタンプをGETしよう新撰組の構成メンバーを全員言えますか?ってところからはじまりますね。れっつ、リスト!■局長芹沢鴨近藤勇■会津局長山口二郎(斎藤一)■函館局長土方歳三大野右仲相馬主計■総長山南敬助■参謀伊東甲子太郎■副長新見錦※2人、支部局長と重複あり■組長、組頭、副長助勤一番組組長沖田総司二番組組長永倉新八三番組組長斎藤一四番組組長松原忠司五番組
ブラポニョ梅田いつもなら、一駅でも地下鉄で向かう“淀屋橋“。昼一に現地に着けばいいのだが、10:00頃に会社を出発。駅までの道程、あの森友学園の保育園前に今日も報道陣が。週末の報道を見ると“猫バス“に乗って移動してたんだ、後部の窓が布で覆われていたのが不思議だったんだけどそんな中、横断歩道で“お洒落な格好をした子供“の後で信号待ちをしてたんだけど、もしや?と思って顔を拝見したら吉本新喜劇の池乃めだか師匠でした(笑)今年初めて出会いました。大阪駅“時の広場“はふと休憩するには持っ