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あれこの直垂って、護良親王と伝わるものでは‥今日のXの投稿「令和6年新指定国宝・重要文化財」の内、東京国立博物館所蔵の2件として紹介されているこちら。ただこの赤地牡丹唐草文錦直垂は、なんだか知っているのと違う横置き展示は初めて見たし、色も褪せていて、布がすれている所も‥「伝護良親王」と書かれていないし(模造)とも書かれていない〜今まで馴染みの「伝護良親王の直垂」は、「文化遺産オンライン」や「ColBase」で見られるような新しくて張りのあるこのイメージ。いつも衣紋掛け
今日は愛知県春日井市にある2基の古墳をアップします↑1基目は大留(おおどめ)荒子古墳、西側より移築再現古墳です。場所はこちら:35.254278,137.016655備忘録:左端に写っている軽自動車が今回利用したトヨタレンタカー、ピクシス。↑大留荒子古墳の解説板直径約10メートル、7世紀前半築造の円墳。元の場所は北西へ200メートルほどの箇所。↑横穴式石室の開口部↑石室内部の様子須恵器、金環、鉄刀、鉄鏃などが出土。
(TV鎌倉殿の13人)・・・鎌倉時代(建武元1334)時の征夷大将軍護良(もりよし)親王が父の後醍醐天皇の勅勘(天使から受けるいましめ・確執)によって鎌倉に幽閉され、親王の姫宮、華蔵姫(けぞうひめ)は父を心配して鎌倉を訪れたが、時はすでに遅く討たれた後でした。巫女鳥の神社(お詣り)山武杉「御朱印」姫宮は自身も命の危険を感じ帰路に着きましたが、その道すがら迷い下総・上総を迷いたどり着いたのがこの地てした。姫宮はここに館を建て鎌
一つ前の記事でご紹介した新倉山(あらくらやま)浅間公園は近くに駐車場がなく、たまたま行った日が土曜日だったからか、誘導されて車を停めた無料駐車場は、歩いて10分ほどのところにある富士吉田市立下吉田第一小学校の校庭でした。公園も神社も予想外の人込みに少々疲れて車に戻り、お茶を飲んでひと息つきながらふと前方に目をやると、小学校の敷地のすぐ下にどう見ても神社の屋根としか思えない建物を発見。おっ、こんなところにも神社が・・・と今までの疲れなど一気に吹き飛び、早速見つけたのがこの一の鳥居。社号標
鎌倉旅行の初日に坂東三十三観音札所の杉本寺様へバスで向かう途中、「鎌倉宮(大塔宮)」という地名なのか神社なのかよくわからない言葉を見かけたのです夫に「だいとうのみやって何だろうね❔」と言うと、「そう読む事もあるけど、本当は、おおとうのみやなんだよ。もりなが親王の事だね。もりよし親王とも今は読まれるみたいだけど、本当はもりながが正しいんだ。」と返事が返って来たので、私は「えっ、護良親王」と驚いて、急いでバスの中で大塔宮の事を調べ始めました。私は昨
今年の初め頃かな?鎌倉の寺社の特別参拝、というものがありますよ、と、お参りした、鎌倉明王院で教えていただいた。《✨え?なにそれ?✨👀✨》これ↓うわぁー!うわぁーーーー!!!そそりまくる、なにこれー!!!なんたる素敵企画か!!ここにある寺社全部、普段行ってるけど、そこのスペシャルバージョンを体験できるって。たまらんではないか🩵ということで、自分の予定と照らし合わせて、熟考。当日先着、応募抽選など色々…。結果、第一希望当選鎌倉宮正式参拝。鎌倉宮大好きで、よくお
瑞泉寺から鎌倉駅方面へ散策テニスコートや公園のような所永福寺跡(ようふくじあと)でした源頼朝が建立した寺院の跡です発掘調査でみつかった建物の基壇や池などを復元整備、史跡公園にしています鎌倉宮由緒鎌倉宮(公式ホームページ)鎌倉宮のHomeですwww.kamakuraguu.jp大河ドラマ太平記の関係図が掲示されていました御祭神護良親王が兜の中に入れて出陣したという獅子頭守鎌倉宮さんから徒歩すぐ荏柄天神社(えがらてんじんしゃ)さんご祭神:菅原道真様朱色と梅の絵柄が可愛い
おはようございます昨日は腰痛症が再発して、3か月前の状態に戻って辛かったですが、お風呂で半身浴したあと、湿布を貼って早めに横になったお陰で、今日は何とか出社出来そうです✨さて、3日(日)は午後から横須賀線を利用して、東京駅から鎌倉に移動しました✨午後4時23分鶴岡八幡宮からだと徒歩12分約1キロ先の鎌倉宮にお参りしてきました当日は東京マラソンを観戦しましたが、都内と同様に良いお天気でした。時間に余裕があり運動不足な方には、鎌倉駅東口から徒歩をお勧めします✨御祭神は護良親王(もりよ
聖徳太子の愛犬として伝承・・・聖徳太子信仰と、犬に対する民間信仰が習合しています。■石造雪丸像有形民俗文化財。花崗岩製。総高65㎝。台座は幅37㎝、最大奥行57㎝、最大高50㎝。像部は最大幅34㎝、最大奥行57㎝、最大高50㎝。1791年(寛政3年)大和名所図会の挿絵、1826年(文政9年)道中日記の記述などから、江戸時代の石造狛犬との共通性が見られ、江戸時代造立と考えられます。■石碑雪丸塚■雪丸雪丸くん。男の子。おちゃめで初心な1歳。王寺町公
途中、何社か寄りましたが、鎌倉宮を参拝しました。建武の新政下での征夷大将軍護良親王を祀った神社です。その護良親王は足利軍との戦いに負けて処刑されています。菊の御紋です。奥に護良親王の身代わりとなって戦死された村上義光さんの木像があります。この村上義光さん、北信州の長槍歩兵戦術の考案者村上義清さんの祖先的な関係者なのかな?※武田信玄さんの生涯戦績は2回だけ負けていますが、その2回が村上義清さんです。鎌倉宮の御朱印です。見開きで600円でした。では失礼します。
久しぶりの鎌倉なので、最後はキビヤベーカリーへ行きたいと胸に秘めながら街の中心部に向かって歩きました。車の往来が激しい鎌倉街道から裏通りに入ると、寄ってみたくなる荏柄天神社。学問の神様である菅原道真を祀っています。受験シーズンの真っただ中、多くの若者が訪れていましたよ。梅の花は、ちらほら咲きでした。御神木は、大きな銀杏の木です。高台に鎮座しているので、抜けた空間が気持ち良いですね。御朱印をいただいてきました。
和歌山には立神社(たてじんじゃ・たてがみしゃ)が2つあり、1つはご縁がある神社でもう一つの立神社も興味があったので行ってみることにしました。狭い道の途中にあり、駐車場はなく壁に寄せて止めました🛺上賀茂神社から勘定された神々天照大御神タカムスミの神、オオナムチの神が御祭神境内社には奥深社地主神社氏神社愛宕神社顯国神社天神社が祀られています。戦国時代、大野城で山名義理等が栄えたころ、当神社の祭事は盛んで、財は水田60町に及んだ。豊臣秀吉が大野城を政落した際、当社もその兵火を
さてさて………………【呂川(りょせん)と津川(りつせん)】大原の魚山は仏教音楽である天台声明の発祥の地であるという。その魚山を源とする呂川と津川は、和楽の旋法に因んで名付けられたという。調子が外れた『呂律(ろれつ)がまわらない』という言葉の語源となっているまたひとつ勉強になったこんな道をてくてく歩く……………「今日は【音無の滝】【来迎院】は予定してたけど諦めよう」とつぶやく。【念仏寺】方面に少し歩いて見ると……………すぐに到着したのは………………【大原念仏寺(ねんぶつじ)】
「サムライ開運法」Amazonでは売切れが続いていますねカテゴリ1位を保たれたまま古来から秦氏一族に伝わる「影ながら全体を底上げしていく力」を目撃してしまいましたネ国を護る秦氏一族の頂点に君臨する土御門兼嗣さんによると、本来「侍」とは:天皇や宮家をお護りする立場。おそらく”いい所”の出自ではあるが、誰かは分からないような。さぶらう存在。とおっしゃっていましたが、護良親王推しとしては近臣の【松木宗忠】が思い浮かびました鎌倉で大塔宮と雛鶴姫の最後に寄り添
幸せになる財産をつくろうみなさん、おはようございます雨が降って温かいです2月(如月)春はそこまで来ています今日は「履中天皇(第17代)」御即位応神天皇(15代)、仁徳天皇(16代)の次の天皇ですどちらかと言うと中継という感じですアリガトウ「2月1日」の國史です「吉野落城」元弘3年(正慶2年、1333年)後醍醐天皇の皇子・護良親王(もりよししんのう)は元天台座主、天台宗の最高位で大塔宮と呼ばれます吉野城で鎌倉幕府と戦いもはやこれまでかと
地元参り、鎌倉宮。宝戒寺の聖徳皇太子大祭の後、車の御守りの交換の為に、鎌倉宮へ。河津桜が、咲いてて、かわいい🩷車の御守りにしている獅子頭守、一年経ったと言う事と、車の危機を回避できた御礼に。御守りを授かって、本殿に来たら、晴れたー☀️神様、村上様、今年もよろしくお願いします、と、車の安全よろしくお願いしますのお参り。福豆もあったので、節分用にそして、やはり外せないのは、神苑。めちゃくちゃ神聖で、清らかで癒される。護良親王様の幽閉された場所、お話しして、手を合わ
古来から天皇・宮家をお護りした一族のお話を聞いて分かりました。護良親王の家臣も「侍」だわ。↓【侍】古来の神職は侍だった!?陰徳の一族秦氏の子孫が語る侍スピリット!【第百三十五世深草秦氏祭司兼統理高千穂天磐境大社宮司土御門兼嗣さん②】斎名智子山本時嗣大人のスピリチュアル#秦氏#侍#大名#武士#SAMURAI#古武術#古武道#古流武體術#忍者#秦河勝#都市伝説#口伝#スピリチュアル#斎名智子アワー#ときともチャンネル#斎名智子チャンネル#さいなとも
連日のTOLANDVLOGや土御門さんから考えるのは、推しである謎多き【大塔宮護良親王】。なぜなら彼の軍はめちゃめちゃ強く荒くれ者「山の民」の寄せ集めとdisられていたし「山伏」に変装してあちこち神出鬼没する様子には彼自身までもが「忍者」と伝わるほど実際に熊野、吉野、十津川、と奥深い山々を縦横無尽に活躍した背景には有力な「山伏」の協力が容易に想像できるそれに宮家も宮家、後醍醐天皇の皇子という御立場その家臣団て、秦氏の「侍」のように最強の軍団だったのでは‥【侍】古来の神職は侍
今日は富士吉田にあるとあるお店に行こうということになり、彼が指定したのは、下吉田に有る小室浅間神社の駐車場なり。この場所もなんとも不思議。手水舎からは、見事な吉田富士。待ち合わせ時間にはまだ時間があったので、浅間神社にお参りと、言わずとしれた、南朝の宮さま後醍醐天皇の皇子、護良親王(大塔宮)の墓所へ向かいます。この大桂の樹が、宮さまの墓所となっています。新しい説明文がありました。鎌倉時代からこの桂の樹が存在していたとしたら、そのころは小さな
公式Xで年末にお知らせがありましたが、北畠顕家グッズ?御朱印が登場していました。このアイデア天才じゃないですか大阪府阿倍野神社(以下写真は「逃げ若」公式Xより)初回分は一旦2日に売り切れたようで、授与再開はおそらく神社のFBでお知らせとなるようです。御朱印集めてはいないけど、魅力的なアイデアだなぁこの流れは護良親王にも来るのでしょうか‥どうか宮さまグッズ、来て2024年は「逃げ上手の若君」TVアニメ放送が始ります。明日1/5まではコミック版が全31話無料で読めるそうです
2024年元旦夕方に突如襲った能登半島の大地震で大変な思いをされている方々が少しでも温かい場所で過ごすことができていますよう、また地震でお亡くなりになった方々と、救助へ向かう滑走路の事故でお亡くなりになった海上保安庁特殊救難隊の精鋭中の精鋭5名の方々の御冥福を心よりお祈り申し上げます。新年最初の「奈良ふしぎ旅図鑑」BSTBS、1月3日放送の“吉野町・大橋のふしぎ”では大塔宮護良親王の大鎧姿を拝めました。後半のコーナーでは後醍醐天皇ゆかりの伝説も。
昭和の新聞、何が出てくるかわからないので本当に面白い!今日は昭和52年の記事を見てたら、偶然発見したのがこちら。山梨県の石船神社に伝わる「護良親王の頭」を調査したというもの。石船神社は令和最初の日に訪問していました。『護良親王の首が祀られている石船神社山梨県都留市』富士吉田市から北東へ、都留バイパス北上。朝日馬場と言うところに石船神社はあります。主要地方道35号線沿い。駐車スペースはないため、広い歩道に車を無理やり突…ameblo.jp頭蓋骨に寄せ木細
頼朝の墓一帯を後にして、次は鎌倉宮へと向かいました。ここには護良親王の土牢があります。護良親王は建武の新政で有名な後醍醐天皇の皇子。鎌倉幕府打倒で功績をあげ、征夷大将軍となりました。しかし尊氏との対立に敗れて、鎌倉に幽閉され、中先代の乱の最中、尊氏の弟直義によって殺害されたといいます。鎌倉宮|日本伝承大鑑【かまくらぐう】祭神は、後醍醐天皇の第三皇子・大塔宮護良親王である。親王は6歳の頃には僧となる身として門跡に入り、その後、若くして天台座主にまで上り詰める。しかしその気性は激し
BIRTHDAY記念…主人との鎌倉旅行お宿の鎌倉古今が二階堂地区に有るので朝の6時にお宿を抜け出して、朝散歩…昨年の鎌倉殿の13人ゆかりの地巡りでポイントにもなってなかった場所や寄れなかった場所、色々🔍して繋がる場所を見つけたりしてたので、徒歩で行ける場所をお巡りしましたお宿の裏山辺りが護良親王の墓所なので行ってみると、がけ崩れで封鎖どうも、グーグルマップだと墓所裏山に連れて行かされるらしい…確かに台風被害で墓所の近くまでは行けないけど、入口までは大丈夫らしいから今度、ゆっくりと探して
護良親王の由来がひっそりと、でも確かに残る土地。友人が、たまたま気になったポスターから護良親王に繋げてしまいました。すごい。(笑)山梨県都留市のミュージアム都留で企画展示中のテーマ「森嶋其進郷土の為に尽力した学者」。森嶋其進さんは江戸時代に『甲斐国史』の編纂を命じられ、私財を投じ都留郡地域の主任を務められた方です。その御先祖が護良親王に仕えていたと伝わります。森嶋弥十郎其進氏は山梨県都留市下谷村生まれ。森嶋家は藤原が本姓で、先祖は大和の豪族で代々朝
2023/12/8撮影。鎌倉幕府があった神奈川県鎌倉市。京都同様、沢山の名所があります。鎌倉の紅葉の見頃は、例年11月下旬〜12月中旬になりますが、今年は猛暑で12月としても気温の高い日が続いたので、もっと先まで見られるかもしれません。鎌倉市の名所は、鶴岡八幡宮で有名な「鎌倉エリア」、長谷寺・高徳院(鎌倉大仏)で有名な「長谷エリア」と、「北鎌倉エリア」に分けられます。上の3つは鎌倉でも人気の高い名所ですが、今回はあえてそれらはパスして、12/8の1日で「鎌倉エリア」から2ヶ所、「北
鎌倉散策旧官幣中社大塔宮鎌倉宮1869(明治2)年明治天皇の勅命によって創建された神社で御祭神である大塔宮・護良親王最期を迎えられた鎌倉二階堂の地に建てられました。護良親王は後醍醐天皇の皇子であり鎌倉幕府打倒の立役者として活躍しその功績により1333(元弘3)年征夷大将軍に任じられました。ところが1334(建武元)年足利尊氏との対立から鎌倉二階堂の東光寺に幽閉の身になり翌1335(建武2)年7月北条時行が鎌倉を攻めた中先代の乱による混乱の中で鎌倉から敗走する
「箱根・竹下合戦」旅立つ前に何をしますかみなさん、おはようございます数日間、お休みをいただきました長年、お世話になった人が旅立ちました改めて人生とは何かを考えます次の世代へ引き継ぐこと種の保存みなさんはいかがでしょうかさあ、今日「12月11日」の國史を学びましょう「箱根・竹下合戦」建武2年(1335年)南朝、後醍醐天皇の長男尊良(たかよし)親王を奉じた新田義貞と北朝、足利尊氏と弟の直義の戦いです鎌倉幕府を倒して建武の新政が始まりますが
鎌倉二階堂の名は、奥州平泉の中尊寺に由来する。頼朝が、奥州平定(1189)で犠牲になった、義経、藤原泰衡らの霊を供養するため、平泉中尊寺大長寿院の二階堂(二階建ての伽藍)を模して、※大倉御所から鬼門となる北西の地に、永福寺(ようふくじ)を建立(1192頃)した。伽藍は、二階堂を中心に、薬師堂、阿弥陀堂を両翼に並べる壮麗な寺院で、正面には毛越寺庭園のような浄土庭園が広がっていた。※大倉御所は、鎌倉幕府の行政の中心となる場所で現在の清泉小学校付近。永福寺再現予想CG現在の永福寺跡は市の公園
鎌倉にある護良親王墓です。後醍醐天皇の第三皇子・護良親王の墓。護良親王は後醍醐天皇の建武の新政で征夷大将軍に任じられますが、この地位を欲していた足利尊氏と対立。鎌倉にいた尊氏の弟足利直義に預けられ、東光寺土牢に幽閉。建武3年(1335年)、北条高時の遺児・時行が一時期鎌倉を占領した中先代の乱の時、直義の命令で殺害されました。護良親王の首は打ち捨てられましたが、付近の理智光寺住職が拾って葬ったとされます。明治時代、理智光寺跡地に宮内庁によって護良親王墓が整備されました。