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親藩、譜代、外様というのは、単なる区別であって、階級ではありません。ときどき「この順番で偉い」とか「なにかと優遇される」と思っている方がいますが、それはあんまり正しい認識ではありません。江戸城での詰所の部屋が将軍に近いか遠いか、とか、確かに滅茶苦茶こだわる大名もいましたけど、実際のところ実益があるわけでもない。親藩、譜代、外様の区別に何の意味があるかというと、幕藩体制においての役割分担、です。江戸幕府というのは、言ってみれば、三河の田舎大名だった松平家の家政機関が、そのまんま大きくなったよ
独自色を打ち出そうとした5代将軍徳川綱吉の都合で大老職を解かれて失脚した忠清ですが、彼のような譜代の名門が失脚することそのものが異例です。そのため、後世そこに何かあると勘繰られた面は否めません。とくに忠清には宮将軍招聘の一件があったがために、興味本位で下馬将軍などの尾鰭がついたのではないでしょうか。例の女中の懐妊の話を踏まえますと、忠清はもしかすると、綱吉の器量を危惧したのでなく、彼が将軍になって女中の子が男児だった場合、6代将軍の座を巡り、必ず騒動が起きると考えたので
城下町だった尼崎金澤成保尼崎が城下町であったのは、意外と知られていないのではないだろうか。瀬戸内海の海運が、旧淀川を奈良や京へさかのぼる川運へ切り替えられる湊町として、尼崎周辺は古代より発展していた。城下町として建設されるのは、江戸時代に入った元和3年(1617)、譜代大名の戸田氏鉄(うじかね)に尼崎城を築城させ、大坂の西の守りとしたことに始まる。尼崎藩の領地は、現在の神戸須磨までの阪神間に広がり、石高は5万石であった。戸田氏が転封された後も青山氏・(櫻井)松平氏と
2023年の大河ドラマは「どうする家康」という事でタイトルにも惹かれて購入しました(笑)なかなか参考になる内容でしたよ!徳川家康の人間関係学――最後に勝ち残る男の選択Amazon(アマゾン)1,584円オススメ度…★★★★響いた内容…・人生訓「人の一生は、重い荷を担いで遠い道を行くようなものだ。急いではならない」・「水はよく船を浮かべ、またよく覆す」船を家康、水を部下にたとえれば、意味ははっきりしている。それだけ部下は信用できないということ。・経営体が活性化さるためには
さて、全くあてのないノープランな旅。次はどこに行こう?と、とりあえず南下していきます。そしていつか泊まってみたいねと話していた道の駅くじに行ってみました。駐車場はあまり広くないわりに、車の出入りは激しくほぼ満車状態でした。レストランの海鮮丼は八食センターより美味しそう次回はここで食べてみようと思います併設のスーパーも美味しそうなお刺身が激安向かい側にはレトロ広場なる場所も美味しそうなものが売られているお店が並んでいましたがこちらはあまり遅い時間までは営業していなさそうです。
1江戸時代の親藩、譜代、外様江戸時代の大名は、親藩、譜代、外様に区分されました。親藩は、基本的に初代家康の子孫ですが、家康の異父弟である久松松平家が含まれます。徳川を名乗ったのは、御三家と御三卿ですが、3代家光の弟忠長、4代家綱の弟綱重とその子綱豊(6代家宣)、同じく弟の綱吉(5代)で、その他は松平でした。譜代は、家康が征夷大将軍になった時、家臣だった者が大名に取り立てられました。徳川四天王と呼ばれた酒井、本田、井伊、榊原などです。家康より前に枝分かれした松平家傍流も譜代とされました
白山羊さんからお手紙ついた郵便受けを開けると、なんか手紙が届いている。珍しいこともあるもんだと差出人を見てみると、昔の教え子。結婚するという報告であった。そうか、この子も結婚する歳なのかと思うと同時に、私も歳をとったんだなぁという認めたくない現実と向き合わねばならない事実を突きつけられて涙目。そりゃ、こんな日は「オープンキャンパスのスゝメ」の続きを書く気になんかならんわけですよ。何がいいかねぇさてさて、今回は何が良いやら。ネット
ロックバンド「T-BOLAN」「T-BOLAN」のドラム担当、青木和義さん(54歳)が8月27日、自身のオフィシャルブログで活動休止する事を発表されました青木和義さんは、「私、T-BOLANドラム青木和義は本日を持ちましてT-BOLANの活動を休止することをご報告させて頂きます」と発表。「長い間、T-BOLANを応援してくださっている皆様には多大なるご心配をお掛けしますことを本当に申し訳なく思います」と謝罪の気持ちを記されました活動休止の経緯について、「自分自身T-BOLANド
「旧国名」である令制国(りょうせいこく)で、尾張の国、三河の国にあたる愛知県には「岡崎の子守唄」「東雲(しののめ)節」「十四山(じゅうしやま)音頭」「津具(つぐ)馬車曳き唄」「名古屋甚句」「名古屋囃し」「糸紡(つむぎ)唄」「築城木遣り」「花火道行唄」「花火おねり唄」「祝い花火の唄」「機織(はたお)り唄」「田植え唄」「麦打唄」「麦刈唄」「粉ひき唄」「米搗(つ)き唄」「臼挽(ひき)唄」「餅搗き唄」「綿打唄」「茶摘み唄」「馬方節」「田の草取り唄」「艪漕(ろこぎ)唄」「地曳網唄」「雨乞唄」「山の神唄」
外様、って、様がついている、つまり充分に尊敬されてる存在なんですよ。まあ「敬遠」って言ったほうがニュアンス正確かも知れんけど。譜代、外様というのは「徳川家の家来(内)か、お客様(外)」か、という区別です。徳川が天下を取る前から家来だった家が譜代、徳川と同格の「同盟者」だった家が外様、です。幕府の職というのは、いわば徳川家の台所、帳場の仕事ですから、これは昔から徳川の下働きをしていた家の出身の「じいや」がやる仕事です(つまりこれが若年寄とか老中とか大老とか)。これが「譜代」です。徳川家の「外
「関ヶ原の戦いの前から徳川氏に臣従しているのが譜代大名」という文言を、誤解して、「関ヶ原で東軍だったのが譜代大名なんだ」と誤解しているひとが、まだ、います。違いますよ、って話を、(何度目か知らんけど)また書きます。臣従、というのは「徳川の家来になる」という意味です。東軍に参加、というのは「徳川の味方をする」という意味です。家来と味方は全然違います。関ヶ原で「味方」だっただけで「家来」だったわけではない大名は、徳川にとっては「お客様」なので、「外様」というんです。譜代というのは「三河松
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「譜代」「外様」という区別はあくまで大名の分類であって、「譜代旗本」と「外様旗本」という区分はありません。「譜代大名」というのは関ヶ原の前から徳川に臣従していた大名、外様は関ヶ原のあとに臣従した大名、という説明がよくなされますが、これはとても誤解を招く表現です、なんだか、締め切るに間に合ったどうか、早い者勝ちで待遇が変わる、みたいに思いがちですけど、そういうことじゃあないわけで。。これは、こう解釈すべきです。「徳川が天下を取る前から大名だったものは外様大名、徳川のおかげで大名にしてもらった
家来と味方は全然違うんですよ。関ヶ原で「味方」だっただけで「家来」だったわけではない大名は、徳川にとっては「お客様」なので、「外様」というんです。譜代というのは「三河松平家時代から、代々仕えてきた家」という意味です。それに対して、外様というのは「徳川が将軍になった時点で、部下になった家」です。だから、一応「関ヶ原以前と以後」みたいに分けるとは言われていますが、時期の問題じゃあないんです。その大名家の存立由来で分かれているんです。つまり「徳川が天下をとる前からもともと大名だった家」は外様大名
関ヶ原の前後に徳川に従った者を、なんとゆうか。答えは外様大名。多分、正解。だけど。うーん、どうなんだろう。「従った」という言葉の曖昧さが問題です。関ヶ原は「豊臣対徳川」ではなく、豊臣家の家臣である大名たちが東西に分裂して争った戦争です、これは皆さんご存知のはず。関が原で東軍に所属した大名たちは、総大将である徳川家康の作戦指示の下に入るわけですから、これは「従った」ということだ、と言えそうなものですが。ただし東軍の諸将は、この時点でもあくまでみな、独立した大名です。おのおの自主的判断で家
【問題】大坂冬の陣の際、徳川家康は譜代の井伊家に次のうちどのような指示を下したか?【選択肢】井伊軍総勢で篠山城に待機させた軍役を免除し大砲の鋳造を命じた井伊直政の次男に軍を率いさせた軍を解体し他の譜代に振り分けた【正解】井伊直政の次男に軍を率いさせた【解説】井伊直政には長男・直継(直勝)があったが、病弱などの理由により、家康は大坂の陣に際して次男である直孝に井伊家の軍を率いるよう命じている。
「譜代」と「外様」を分ける基準は何か、という話をします。今までも何度もしtれますけど、もう少し詳しく。江戸幕府に「譜代大名」「外様大名」の区別があるのは教科書にも載ってますけど、譜代、外様の区別というのは幕府だけではなく、どの戦国大名にもあったことです。譜代というのは「先祖代々、その家の家来だった」家のこと。外様というのは、もともとは独立した別の大名だったもの、つまり「お客様」のことです。だから「外様」といいます。外様というのは、力が強いから従っているだけです。恩を受けて領地を与えら
松平といっても、いろいろだからです。1、家康の遠い親戚である、三河時代から続く十八松平と呼ばれる家。これは代々「松平宗家→徳川家の家来」ですから、譜代大名の扱い。2、越前・会津などの「家門」、御三家の分家「連枝」は、徳川ではなく「松平」を名乗る。これはまごうかたなき家康の男系子孫だから、親藩。何かのはずみで御三家の当主を継ぎ、なにかのはずみで将軍になる可能性がある。そういう男子は幕政には関われない。お家騒動のモトになるから。3、外様の大大名が、将軍の親戚扱いをしてやる、ということで「松平」
27-4大名の区分将軍と主従関係を結んだ知行高(ちぎょうだか)(石高(こくだか))1万石以上の武士を大名(だいみょう)といい、大名の領地とその支配機構の総称を藩(はん)という。大名は将軍との親疎(はん)の関係で親藩(しんぱん)・譜代(ふだい)・外様(とざま)に分けられ、幕府は、親藩・譜代大名を要所に、有力な外様大名をなるべく遠隔地に配置する方針をとった。この方針からもうかがえるように、もともと戦国大名の一員にすぎなかった徳川氏(とくがわし)にとって、全大名の頂点に君臨する体制