ブログ記事17件
邪馬台国の暗号安田哲也昭和20年生まれ昭和45年検事となる地検、高検等を経て最高検検事、鹿児島地検検事正謎を解いていく点と点を繋ぐミステリーのような暗号を読み解く検事らしい推測です邪馬台国以外のこともほーそう解きますかほーなるほどと思うところがたくさんあります個人としては、それは多分あそこの地名のことだと思います。とお伝えしたいところもあります。安田哲也さんの邪馬台国がどこだったかの見解を本書を参考に記事にします色付けされた文は
○昨日、ブログ『嫁坂』を書いて、今日はその続きで、橋野について書こうとして、「三国名勝図会」を見ていたら、「麑藩名勝考」の記述に関する話が出ていて、それが頗る気になった。それで、急遽、話を変えて、末吉郷二之方村の話をしたい。○白尾國柱の「麑藩名勝考」が刊行されたのは、寛政七年(1785年)のことになる。それに対して、「三国名勝図会」が成立したのは、天保十四年(1843年)のことだとされる。両者の間には、五十八年の時間差がある。○ここで気になるのは、白尾國柱の「麑藩名勝考」が『末吉郷二之方村』
○これまで、ブログ『「三國名勝図会」が案内する檍原』、『「三國名勝図会」が案内する檍原(続き)』、『「三國名勝図会」が案内する橘小戸』、『「三國名勝図会」が案内する檍神社』と続けて来た。しかし、「三國名勝図会」の案内はまだまだ続く。したがって今回は『「三國名勝図会」が案内する檍原の辨』である。○『檍原の辨』と言うのも、なかなか変わった題名だが、「三國名勝図会」がそのまま載せているのだから、驚く。とにかく、「三國名勝図会」は住吉神社のことについても、相当詳しく述べているが、檍原についての言及は、
○これまで、ブログ『「三國名勝図会」が案内する檍原』、『「三國名勝図会」が案内する檍原(続き)』、『「三國名勝図会」が案内する橘小戸』と続けて来た。しかし、「三國名勝図会」の案内はまだまだ続く。したがって、今回は『「三國名勝図会」が案内する檍神社』と題して、続けたい。次に檍原とは地名なり。日本紀には檍原の文字を用ひ、古事記には阿波岐原とあり。和名鈔に説文に云、檍梓之属也。日本紀私記云、阿波木今按又橿木一名也。見爾雅注云々。此樹は今青木といひて、我土俗の方言に山竹と呼ぶ。山竹は
○これまで、ブログ『「三國名勝図会」が案内する檍原』、『「三國名勝図会」が案内する檍原(続き)』と続けて来た。しかし、「三國名勝図会」の案内はまだまだ続く。したがって、『「三國名勝図会」が案内する橘小戸』と題して、続けたい。次に橘小門とは、共に地名也。古事記には橘小戸といひ、日本紀には橘小門とも小戸橘ともいふ。其地名を上下せるのみにて皆同じ事也。是橘の邊にある小門と云地名也。故に橘小戸といへり。小戸橘とあるも、又同じことにて、橘小戸と書すとも、亦異なることなし。檍原の北に臨み
○前回、ブログ『「三國名勝図会」が案内する檍原』を書いて、鹿児島県曽於市末吉町南之郷檍に鎮座まします檍神社について、検証した。ただ、『「三國名勝図会」が案内する檍原』は、あまりに長い。それで、今回は、その続きとなる。○それもそのはずで、『「三國名勝図会」が案内する檍原』では、日本書紀原文と古事記原文を丁寧に載せている。それは説明する上では、ある意味、必要不可欠で、当然なものなのだが、こうやって読まされると、なかなか煩雑さを感じる。日本書紀原文と古事記原文両方を並べられると、随分と長い。○今回
○前回、鹿児島県曽於市末吉町南之郷檍に鎮座まします檍神社について、案内した。前々回案内したのは、『「三國名勝図会」が案内する住吉神社』だった。したがって、ここでは、『「三國名勝図会」が案内する檍神社』を案内すべきなのだが、「三國名勝図会」が載せているのが「檍原」項目だから、それにしたがって、ここは、『「三國名勝図会」が案内する檍原』としている。檍原(地頭館より東南、一里許)中裏村にあり。檍原は古事記、日本書紀等に見えたる吾皇国開闢の始め、伊弉諾尊、筑紫日向橘小戸の檍原
○鹿児島県曽於市末吉町二之方住吉山に鎮座まします住吉神社へ参詣した後、檍神社を目指した。檍神社は住吉神社の東、3㎞ほどに鎮座まします社である。檍神社のすぐ目の前には大淀川が流れる。○住吉山が水分(みくまり)神社であるのに対し、檍神社は大淀川沿いの完全に大淀川を祀る神社ではないか。両者はまるで神格が違うと思われる。そういう意味では、住吉神に近いのは、むしろ檍神社の方ではないか。○檍神社境内には、次のような案内板が設置してあった。檍神社と神話にまつわる史跡檍神社周辺一帯は古
○手元に「三國名勝図会」があるので、それが案内する住吉神社について見ておきたい。「三國名勝図会」は、江戸時代の天保14年(1843年)にまとめられたもので、特に神社や寺院については、詳細な史料を残してくれている。薩摩藩の歴史研究には欠かせないものである。○その「三國名勝図会」巻之三十六、大隅國曾於郡末吉郷に、住吉神社項目が存在する。住吉大明神社(地頭館より戌方、二十五町餘)宮路村にあり。檍原の西南邊なり。祭神三座、底筒男命、中筒男命、表筒男命(各石体、)是なり。例祭
○鹿児島県曽於市末吉町二之方住吉に鎮座まします住吉神社へ参詣した後、神社の裏手になる住吉山山頂を目指した。住吉神社は西面して建っているから、ちょうど東側になる。○住吉山山頂(267m)にあるのが姥石である。脇に曽於市の案内板が建っていて、それには、次のようにあった。姥石曽於市指定文化財(史跡)住吉神社のある住吉山の山頂にかまど形の姥石がある。姥石は二基あり、一基は頭部の石が失われている。昭和五(一九三〇)年三月七日、考古学者鳥居竜
○昨日、2020年10月6日は好天気だった。それで、急遽、金御岳から住吉山、檍神社へと回って来た。それもこれも、7月に宮崎の江田神社や住吉神社へ参詣したからである。江田神社や住吉神社が大淀川河口の神社であれば、その最上流が金御岳や住吉山、檍神社になる。○まだ金御岳については、サシバの話をしただけで、何も書いていない。しかし、取り敢えず、先へ進んで、今回は住吉神社の話をしたい。住吉神社が鎮座増しますのは、鹿児島県曽於市末吉町二之方住吉になる。○住吉神社の鳥居脇にある案内板には、次のようにあった
○2020年7月15日、美々津を訪れた帰りに、日向国一宮である都農神社へ参拝した。都農神社参拝も、随分久し振りのことだった。その後、2020年7月29日に、江田神社と住吉神社、都萬神社へ参拝する機会があった。○それで、住吉神がどんな神様であるかを考えてみた。それが次のブログになる。・テーマ「日向国の邪馬台国」:ブログ『日向國式内社:江田神社』https://ameblo.jp/sisiza1949/entry-12627466953.html?frm=theme・テーマ「日向
○前回、ブログ『すゑよしのすみよし』として枕詞「すゑよし」の話をした。ただ、ブログ『すゑよしのすみよし』でも言及しているように、『すゑよしのすみよし』ではなくて、『すゑよしのすみのえ』である可能性も高い。と言うか、本来は、『すゑよしのすみのえ』だったとする方が、妥当なのである。○それは表記「住吉」を何と読むかに関係してくる。現在、私達は、普通に『すみよし』と読むけれども、古代に於いては、『すみのえ』と称したことがはっきりしている。このことについては、以前、「古事記」と「日本書紀」と「万葉集」の
○ブログ『日向國式内社:江田神社』から『江田神社考』、『阿波岐原の住吉神社』、『住吉神考』、『諸県君:古代日向の王』、『諸県の起源と住吉神』と続けて来た。今回お話しするのは『末吉の住吉』についてである。○住吉神がどういう神様であるのか。諸本を見ても、何も教えてはくれない。実際、住吉大社などへお参りしても、同じである。住吉神がどういう時に、何処で誕生し、誰がそれを信奉し、全国に広がったか。案内するものが何もない。○そういう意味で、日向国の住吉山は気になる。ここが諸県氏の誕生地であることは、「二
○ブログ『日向國式内社:江田神社』から『江田神社考』、『阿波岐原の住吉神社』、『住吉神考』、『諸県君:古代日向の王』と、住吉神を追い続けている。住吉神がどういう神であるか。誰も教えてくれない。第一、住吉神を斎き祀る住吉大社や住吉神社が住吉神について、ほとんど何も知らないのだから。○当古代文化研究所は、日向国にあって、日向国のことを研究している。その日向国の中心は、もともと諸県地方にあった。その諸県がどういうところであるかも、実ははっきりしていないのである。前回、案内したブログ『諸県地域』、『諸
○ここまで、ブログ『日向國式内社:江田神社』から『江田神社考』、『阿波岐原の住吉神社』、『住吉神考』と続けて来た。住吉大社HPに拠れば、日本全国には、約2300社余の住吉神社が存在すると言う。その住吉神は何処で誕生した、どんな神様なのだろうか?○諸本を見ても、そういうことを案内するものがない。ただ、「筑紫の日向の橘小戸の阿波岐原」に、住吉神が鎮座ましますことは間違いない。それが『阿波岐原の住吉神社』である。2020年7月29日に、その『阿波岐原の住吉神社』へ参詣してきた。○住吉神が、どんな神
○前回、『日向国と古日向国』の話をした。八世紀に古日向国が薩摩国・大隅国・日向国の三国に分国したと言う話であった。日向国名をそのまま継承した日向国が古日向国の中心だったかと言うと、そうではない。古日向国の中心はあくまで、薩摩半島だった。○そのことは、現代に於いても、そうである。現代に於いて、日向市を名乗っている地域が嘗ての日向国の中心ではない。むしろ、日向国の辺境の地が現代の日向市ではないか。○それに、日向国の国府が存在した、西都市妻辺りが日向国の中心だったと考えることにも、十分留意する必要