ブログ記事90件
ウィトゲンシュタイン「論理哲学論考」の「演算」に関する記述、「5.2」から、「内的関係の特色を、私たちの表現法で強調すれば、次のように言えよう。私たちは、ある命題を記述するのに、特に他の諸命題〔すなわち演算の基〕からそれを作り出す演算の結果として、その命題を叙述する、と。論理哲学論考5.21」「すなわち演算とは、演算の結果の構造と演算の基の構造との関係を表現するものである。同5.22」「演算は、可変項の内に、自らを示している。ー同5.24」「演算は、形式の印ではない。諸形式
あくまでも…、”ド素人の門外漢”としての感想ではあるのですが…、前期ウィトゲンシュタイン「論理哲学論考」の重要なテーマ(主題)だったのは、「同一性(=イコール記号)批判」にある…と感じております。そして、その「同一性(=イコール記号)批判」と同等に重要だったと思われるのが、「恒真命題(の重要性)」ではないでしょうか。以前にも述べましたが、(自分の愛用する)中公クラシックス「ウィトゲンシュタイン論理哲学論山元一郎訳」の224ページには、「ウィトゲンシュタインは、1913年11月(日
改めて、今回の「演算概念式」の「内側・内包的意味・意義」と「外側・外延的意味・意味」を考えていきたいと思います。前期ウィトゲンシュタイン「論理哲学論考」には、「命題は、論理的形式を叙述することはできない。論理的形式は、命題の内に映し出されるのである。言語の内に映し出されるものを、言語が叙述することはできない。言語の内に自らを表現するものを、私たちのが言語で表現することはできない。命題は現実の形式を示す。命題はそれを呈示する。論理哲学論考4.121」「示されうるものは、語られえぬものであ
「同一性」も、今回のシリーズの「演算・操作」の回数、周期である…と考えてもいいと思うんだが…。Wikipedia等でネット検索すれば、「~同一性は西洋の哲学上、もっとも重要な概念のひとつ~」であり、「あるものが時間・空間を異にしてもあり続け、変化が見られないこと。」、「物がそれ自身に対して同じであって、一個の物として存在すること。自己同一性。」、「人間学・心理学で、人が時や場面を越えて一個の人格として存在し、自己を自己として確信する自我の統一をもっていること。自我同一性。主体性。」とされます…
自分の愛用している「ウィトゲンシュタイン論理哲学論山元一郎訳中公クラシックス」の224ページには、「ウィトゲンシュタインは、1913年11月(日付け不詳)のラッセル宛ての手紙に、『論理学のすべての命題は恒真命題の一般化であり、恒真命題のすべての一般化は論理学の命題であります。それ以外に、論理学の命題はありません。〔私は、このことは決定的なことであると考えます〕』とも書いている。論理学の本質に迫る極めて重大な発言であり、その後現在に至るまで、多くの異論や論争を巻き起こした発言である。」
前回のブログは、少々”おさらい(復習)”感がありましたが、かなり考え方が整理出来たような気がしております…。ではここで、また改めて”ウィトゲンシュタイン”と絡めて考えていきたいと思います。(ご存知のように!?)当ブログでは、「ウィトゲンシュタイン・同一性・恒真命題・矛盾命題…」等の考察に、かなりの労力を費やして参りました…。その甲斐あってか…、今回の「演算概念式」に見事(!?)当てはまってくると考えております。図式化してみると、(恒真命題)一次元的時間の
概略図世界言語→事実→命題(=文)→事態→要素命題→対象→名(=シンボル)・世界Weltは事実Falletc.から構成されている。事態Sachverhaltは起こりうる事実の全てである。・あらゆる事態を全てまとめたものを論理空間logischRaumと呼ぶ。・言語Spracheは世界を映しとったものである。この変換作業を担うのが思考Gedankeである。いわば言語は世界の写像Abbi
前回で、(今回の)”当ブログ謹製”である「演算概念式…」を、”何となく…”はイメージ出来たかとは思います…。今回は、前回図式化した、この「演算概念式」の「内側(モナドの演算・操作、過程・意義・内包的意味)」と、「外側(演算の冪・結果・意味・外延的意味)」との関係について説明したいと思います。今回の「空間数」という考え方は、基本的に今までの常識的な数の概念、既存の数学的な考え方と、ほぼ同じと考えていきます。例えば、「100」という数と「110」という数とでは、常識的(外延的…)には「110の方が
前回のブログの終わりの方で、「~『同一性』とは『周期性』になってしまう~」と”思わず”述べてしまいましたが…、結構これは、”面白い見解”なのではないでしょうか…。もっと具体的には、「~『同一性』とは『(演算の)周期性』~」になると思います。改めて考えれば、この「周期性」とは、(ある程度)「独立している…」のものである故、「モナドロジー(単子論)」的でもあります。前期ウィトゲンシュタイン(論理哲学論考)でも、「事態と事態とは、相互に依存していない。論理哲学論考2.061」とあり、このような考え
このタイトルにもある「演算(演算子・操作)」とは、当ブログでも”馴染み深い”「インタラクティブ・モナドロジー(対話型単子論)」の「モナド(モナドA,個体)」に相当します。この「モナド」を”大胆にも”「演算」と考えてしまう訳です…。と…その前に、ウィトゲンシュタインが「論理哲学論考」で定義(!?)していた「意義」と「意味」について、改めて述べていきたいと思います。Wikipediaでは、「~意義(内包的意味)は、命題が表す事態、意味(外延的意味)は指し示す対象のことである。現実と言語は、名前(名
永井均先生は、論理哲学論考の『私が理解する唯一の言語』のことを「私だけが理解する言語」と理解してしまうひとが多い、と仰ります。ここは、論理哲学論考を理解するか理解できないかの「肝である。」と思います。自分自身が確りしていれば、多少他人の影響を受けようが過度の干渉や洗脳されなければ、人生まで左右されないでしょう。安田記念◎13ソウルラッシュ◯①シックスペンス▲④ウインマーベル▲18ブレイディヴェーグ様々な予想を拝見しましたが、私的にはこのようなものです。因みに、来週の宝塚記念
今回のシリーズでは、(何と!?)「数概念」について、改めて考えてみたいと思います。取り敢えず(!?)ではありますが、前期ウィトゲンシュタイン(論理哲学論考)に倣って、(大雑把ではあるんだが)「『数』とは、形式概念の可変項(命題変項)である…」として考えていきたいと思います。ここで、自分の”オリジナリティ”として…、「『数』とは、形式概念に於ける”二次的(副次的)”なものである…」と考ます。つまり、「数(数概念)」とは、ある意味「~初めから(ゴロっと!?)あるようなもの~」ではなくて、「演算」の
えんじゅさんのコメントより「>gd-fgさん>ドゥルーズのテキストに、「ここはこういう風に読まなければならない。」という唯一無二の解釈はないと思います。もちろん、どのような解釈も自由という訳ではありませんが、複数の読みはあって然るべきかと思います。それは当然ですが、一定の蓄積は踏まえた上での<読み>でなければ、やはり独善的になってしまうのではないでしょうか?(同様のことを國分功一郎さんも度々指摘しています)「1,2,3,…」という話がありましたが、差異は空間的にだけではなく、時間的(とい
論理哲学論考(岩波文庫)Amazon(アマゾン)ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインの「論理哲学論考」は、哲学史上非常に重要な著作です。ですが、その内容を簡潔に要約することはとても困難です。しかし、その核心的な思想をいくつか挙げることで、概要を把握していただければと思います。「論理哲学論考」の核心的な思想言語と世界の論理的構造:ウィトゲンシュタインは、言語と世界は共通の論理的構造を持つと考えました。命題は世界の像であり、その真偽は世界の事態との対応によって決定されます。
フェリックス・ガタリジル・ドゥルーズルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン『お疲れ様です。…今回もコメントが遅れてしまい誠に申し訳ありません…。ここ数日間で、雪も大分少なくなって…、かなりホッとしております…。問題の「オイディプス・コンプレックス…」の件なんですが、(拙ブログの)「中央集権システム・ヒエラルキー構造…」等として、これまで考察してきた通りではないでしょうか…。「オイディプス…」は、(拙ブログ謹製の)「インタラクティブ・モナドロジー(対話型単子論)」では、「(実体を持たない)二
前々回のブログでは、「中期以降のウィトゲンシュタイン哲学」を踏まえながら、「証明」に関する”ラディカルな”考察をしました。前回のブログで、(当ブログのメイン・コメンテーターである)gd-fgさんの仰る「分断・対立」、「同一性のファシズム」に関して”思うところ”がありましたので…、改めて考えていきたいと思います。「有意義的な命題は、何事かを述べている。そして、それを証明するということは、それが述べている通りになっていることを示すことである。しかしながら論理学においては、全ての命題は、それ自ら証
『当たり前のことであるが、資本主義経済は貨幣経済であり、貨幣によって商品を流通させる。そのため、貨幣がなくならない限り、芸術作品の商品化は避けられない。そして、貨幣経済を無くす或いは、変えるには減衰する〈徐々に価値を減らす〉貨幣を導入するしかない。グレシャムの法則「悪貨は良貨を駆逐する」、という訳である。『アンチ・オイディプス』はフロイト=ラカンの精神分析を批判するとともに、商品経済も批判している。しかし、それを書いたドゥルーズ=ガタリもマイナーとは言え言説が流通したのは、それが「商品」となり
前回のblogは、QueenとMarxの初期テキストから、以下のような問いを立てた。『僕は、ウィトゲンシュタインが言うように「証明が非本質的である。」ことは「資本論についても言える。」と思う。資本論は「永遠不滅の真理ではない。」のである。実はそのことは「論理哲学論考」にも言えるのではないか?ウィトゲンシュタインは後半生で、「論考の立場を完全否定した訳ではない」が、言語と論理についてあまりにも追及し過ぎて〈言語を肥大化させ過ぎて〉、その欠点も目に付くようになったのではある
ここのところ、些か先に進み過ぎた感があるので敢えて〈立ち止まり〉たい。「9むすびあるいははじまりウィトゲンシュタインにならって言えば、本稿はのぼったあとで投げ捨てるべき梯子として書かれている。今それをのぼりきったあなたは、さらに高みにむかって歩きはじめることができる。」浅田彰「構想と力」p.109〜ウィトゲンシュタイン「論理哲学論考」6.54〜より「・・・とは言え、ドゥルーズ=ガタリは、精神分析の家族主義(ある種のイデオロギー)から逃れるにあたってラカンの一般的な論理構成に
こんにちは。お疲れ様です。コメントありがとうございます。ご覧の通り、「ウィトゲンシュタインはこう考えた」は、相当役に立ちます。ところで、えんじゅさんはblogでウィトゲンシュタインのことを批判していますが、メルロ=ポンティにも通じるドゥルーズ=ガタリも俗っぽく読めば彼等の1.同一性批判2.権力批判3.ファシズム批判を見落とす訳で、手軽な宇野邦一訳ではなく、市倉宏佑訳の「アンチ・オイディプス」を読めば、そういう例えば、吉本隆明や柄谷行人流の「大まかな差異を解放する」のでは
こんにちは。お疲れ様です。僕も哲学書はいいだけ喰い散らかしていますが、しばしお付き合いをお願いします。僕はそれこそ「無意味に柄谷行人・浅田彰批判をしている」訳ではありません。彼らはそれほど哲学に通じている訳ではなく、それ故に「〈資本主義の〉商品となって節操を失って」います。6.1261論理学においては、過程と結果は同等である。(それゆえいかなる驚きも生じない。)6.1262論理学における証明は、複雑な命題について、それがトートロジーであることをより簡単に知るための機械的な補助手段
順番が変わってしまったが、『』の中の論理哲学論考の部分は前にも書いた「繰り返し」なので、流して読んでください。長くなったので機会みてこのblogは何れふたつに分割したい、と思います。次のblog『グレン・グールドとマウリツィオ・ポリーニ』に短縮版を載せました。少し読みやすくしましたので、できればそちらを読んでください。1.ひとつの出来事〈命題〉は起こるか起こらないかであり、その中間はない。〈◯◯は何%の確率起こったとは言えない〉。2.過去のデータを何10年集めても、それによって正しい推論が
「人は物語が好きです。人生の全般を、ストーリー仕立てで理解しますから」「感情移入が必要なストーリーから、必然性の連鎖という、全くの因果関係に置き換えることが近代化だったということでしょうか」「いえ、そんなことはないですよ。それは全時代とは違いますが、数学的な物語が新たな嗜好の対象として登場したにすぎません。2+3=5は、そういうストーリーです」「またすぐに極論に走る。それは基本的なので、因果関係ではないですか?」「因果関係は1の次が2であるという定義です。そこから、2+3=5という二次的
前回のブログでは、前期ウィトゲンシュタインの「写像理論」は、「交換様式C(商品交換・貨幣と商品・等価交換)」である資本主義社会に”適用出来る”のではないか…という見解でした。これは、「私の言語の境界が、私の世界の境界を意味する。論理哲学論考5.6」「論理が世界を満たしている。世界の境界は論理の境界でもある。~同5.61」は、ほぼそのまま「資本主義経済限界説」に応用・適用出来てしまうのではないか…と思うのです。柄谷行人氏の「交換様式論(交換様式A・B・C・D)」に関しても、その
前回のブログでは、柄谷行人氏の「交換様式論(交換様式A・B・C・D)」を、「~『交換様式』とは『外部・他者』を前提に成立している~」という見解をしました。すると、この「交換様式論」の視座・視点も、「外部的・他者的」にならざるを得ないのでは…と思うのです。そして更に、「~『交換様式』とは、『社会形式・社会構造』それ自体をも表している~」と考えます。「交換様式C(商品交換・貨幣と商品・等価交換)」である資本主義社会では、現実の事物である「商品」と、観念的・抽象的価値尺度とも言える「貨幣」が、リア
令和哲学者Noh先生と5人の侍によって開催されている第954回令和哲学カフェ。脳機能を心機能に変えるFriday令和哲学カフェ。テーマは「言語」。11月8日(金):ソシュール(石田さん)11月15日(金):プログラミング言語(大川さん)11月22日(金):ヴィトゲンシュタイン(原田さん)11月29日(金):チョムスキー(岸本さん)12月6日(金):令和哲学的整理(長岡さん)原田さんによるヴィトゲンシュタインについてのプレゼンが行われました。彼の有名な言葉「語り
前々回のブログのコメント欄で、(当ブログのメイン・コメンテーターである)gd-fgさんの「(ウィトゲンシュタインの)家族的類似…」のご指摘を受け、自分としては”ほぼほぼ無意識に”書いていたつもり…でしたが、”なるほど…”改めてと思い知らされました。「家族的類似」とは、後期ウィトゲンシュタイン「哲学探究」に於ける、主要な概念になります。(いつもお世話になっている…)Wikipediaによれば、「~『哲学探究』のなかで、『ゲーム』という語をとりあげ、『ゲーム』と呼ばれる全ての外延(対象)を特徴づけ
同じアメブロ仲間(?)であり、当ブログのメイン・コメンテーターでもあるgd-fgさんが、”自分のコメントに応える”ような形で、わざわざブログに書いて頂きました…。このgd-fgさんのブログ、「gd-fgのブログ”思考されないもの、無意識の世界に迫る・補足”」では、思想的、社会的、数学・科学的にも大変重要な指摘をされています。ここで述べられている「多様性」、「数値化」の問題は、もっと根源的な「数概念」の問題でもあると(個人的には)感じます。つまり、「数概念」から再考察していった方が、より(面白い
「7月19日19時サントリーホール指揮=エリアス・グランディピアノ=マリー=アンジュ・グッチウェーバー:歌劇「魔弾の射手」序曲ショパン:ピアノ協奏曲第1番ホ短調作品11アンコールラヴェル:左手のためのピアノ協奏曲よりカデンツァブラームス:交響曲第4番ホ短調作品98名曲シリーズの名に違わぬプログラム、普通なら触手が全く動かないが、推しのグッチのご来臨となれば話は別だ、前売りは完売だったが、各所に空席が見られたのは、何故だろう、夏風邪のせいか?グランディは読響には3度目
ここで、前回までの考察を図式化すると、恒真命題⇒矛盾命題歴史の始まり文明の隆盛歴史の終焉神話世界宗教終末預言・末法思想ポストモダン(自分自身・独我論?)⇐転回・回帰(ニーチェ・ウィトゲンシュタイン等)という感じになります。上の図式のように、歴史(世界史)を単方向にして考えれば、非常に簡潔で分かり易