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人が生まれる場合、父の気はあたかも植物の種子のようなものであり、母の胎内はあたかも田畑のようなものである。自分は長年多くの人を観察してきたが、夫が落ち着いて軽々しくなく、妻が素直であるか、または賢いと、生まれた子は腕前のあるもの-敏腕家-が多い。しかし、夫が腕前があっても、妻が愚鈍でしかも虚弱であったり、あるいは悪賢くあったりすると、生まれる子は才能がなかったり、あるいは不良なものが多い。十の中八、九はこのようである。しかし、例外もあって、きっとそうであるとはいわれない。座右版
好みて大言をなす者ありその人必ず小量なり好みて壮語をなす者ありその人必ず怯愞(きょうだ)なりただ言語の大ならず壮ならず中(うち)に含蓄の有る者多くはこれ識量弘恢(こうかい)の人物なり佐藤一斎『言志後録』より世間には大きなことばかり言う者がいるそういう人は決まって度量が小さいまたいつも威勢のいいことばかり言う者もいるこういう人ほど大抵が臆病であるただ大きなことも威勢のいいことも言わずうちに秘めたものがある人は多くの場合見識も器量も弘く大きな人である
篤です。企業理念のブログにようこそお越しくださいました。ありがとうございます。企業理念から応援したい会社を見つけたり、世の中を支える会社をご紹介したりしています。今日は会社の紹介ではありません。7月号の『到知』に「佐藤一斎に学ぶ人間学」というタイトルで、福岡工業大学の上寺氏とジョルダン非常勤監査役の窪田氏の対談記事がありました。佐藤一斎の語録を挙げて、それぞれの解釈を語っていました。その中に「世の中の大きい、小さい様々の人間のする仕事は皆学問
書は妄に読むべからず必ず択びかつ熟するところありて可なりただ要は終身受用せば足る『言志後録』より書物は無目的に乱読してはいけない多く読めばいいというものではない正しく選択して熟読すべきである大事なことは読んで得た知識を生涯にわたって活用することである本は何冊も読むよりも自分の心に響く一冊を何度も読み込んで実践に活かすことが大切なんですね今日は最良の一日さきくませ
今日は、我が愛読誌・月刊『致知』7月号より、巻頭の特集記事を一部編集・抜粋にてご紹介致します。◆◆◆◆学を為す、故に書を読む・・・幕末の儒者・佐藤一斎の言葉である。学を為すために書物を読むのである。書物を読むことが即ち学ぶことではない、の意である。学といえば学校の勉強が思い浮かぶが、そうではない。ここでいう学は人間学のことである。自分を創ることである。人が学ぶのは自分を創るためであり、本を読むことがそのまま自分を創ることにはならない、と一斎
濂渓の周茂叔(号濂渓)と洛陽の程明道・程伊川兄弟らによる復古の新儒学は、実に孔子や孟子を宗(もと)としている。これを承(う)け継ぐ者は、南宋の朱晦庵(紫陽)や陸象山(金谿)及び張南軒・呂祖謙などである。これらは異同があるけれども、純然たる道学-新儒学-であって、決して平凡な学者ではない。元代においては、劉静修と許魯斎、明代においては、呉康斎・薛敬軒・王陽明・湛甘泉などがその代表である。これらは各々異なる所があるけれども、皆その時代の優れた儒学者であって、宋学の祖、周濂渓やに遡れば、
昔の賢人の中には、国家に大きな功労のある大事業をなした人もいた。自らは、それをあたかも軽いもやや浮雲のような漠然とした気持ちで見ていて、大した事業をしたとも思っていない。自分は昔そのような人がいたことを聞いている。今ではそのような人は、夢のような話でとても見られない。座右版言志四録Amazon(アマゾン)2,400〜10,164円
立徳・立功・立言の三つの永久不滅なものは、必ず徳に基づいている。『論語』に孔子が「徳の具わった人には必ず立派な善い言葉がある」と言っている。これによって、徳が立てば言も立つことが分かる。また、徳が具わっておれば善い政治が行われる。これによって徳が立てば功も立つことが分かる。自分はこのような人を古人に求めてみても、この三者を兼ね具えた者は、幾人も見ない。もしも、そのような人がおるならば、自分はその古人を友とするのに、他の事をする暇が無くなるであろうと思っているから、どうして、わずかな
夜は身体が安息して、気が内に集まるからして夢と成る。たいてい昼の間になした事は総て形となって現れるものである。ただ、『周礼』にある六夢だけではない。前条で述べたようなものは、善念・悪念について、その一端を挙げたに過ぎないので、必ずしも事象にこだわってはいない。しかし天地と自分とは同一の気であって、天命-運命-はすでに定まったものである。それで、まれに天機が前に漏れて、その兆候が現れることがある。これを感夢すなわち夢のお告げといっている。ただ、心が清く胸中がさっぱりしてわだかまりのな
一つの善い思いが出始めた場合には、その夜は安眠して少しも夢を見ることが無い。夢を見たにしても、それは心の正しい人を見るか、主君や父を見るか、喜び事を見るかである。これは『周礼(しゅうらい)』にある六夢中の正夢や喜夢のようなものである。また、一つの妄(みだら)な思いが起こった場合には、その夜は必ず安眠ができないので、眠っても雑夢を見ることが多く、ぼんやりとして現れたり消えたりし、つまらない人物を見たり、婦人を見たり、災難に遇ったりした夢を見たりする。これは『周礼』にある六夢中の噩(がく
我が国の風習では、道で柩に遇ったりすると、身分の高い人の場合には、乗り物を担ぐ人夫が、乗り物を持ち上げて走り去り、歩行者は左右を見回して、唾を吐くことになっている。これは理由のないことである。道の傍(かたわ)らに避けて、葬列が通り過ぎるまで、立ち止まって少しかがむのがよい。これは人の死を悲しみ悼むために、姿勢を変えるわけである。また、道で黒い縄で縛られた囚人に出遭った場合には、道の傍らに避けて、真正面から見ない方が良い。これは犯した罪を憎むけれども、その人を不憫に思うからである。な
だいたい古今の人物を批評し論ずる場合には、よしあしを言わない訳にはいかない。しかし、その際に、まずその人物の長所を挙げて、自然に短所を表すようにするのがよい。また、十のうち七つくらいは長所を挙げ、十中の三つくらいは短所を挙げて、これをよくないことであるとするのも、誠実で親切な評論であるといえる。座右版言志四録Amazon(アマゾン)2,400〜10,164円
物事に締まりがなくわがままなのは元来良くないことであるが、ほどよく加減して矯(た)め直すことも良くないことである。ただ、わがままにならず束縛もなく、ゆったりと天然自然の和気を養って行く。これが敬ということである。座右版言志四録Amazon(アマゾン)2,400〜10,164円
物事の道理-筋道-というものは、これを識別して明確にしなければいけない。しかし道理があっても、怒鳴ったり顔色を変えたりしては、人物の小さいことが見透かされる。なお、物事の道理は、これを暗黙のうちに識得-会得-しなければいけない。しかし、いたずらに妄想-想像-をたくましくするようでは、野狐禅になってしまうことになる。座右版言志四録Amazon(アマゾン)2,400〜10,164円
平生、人と応対してごたごたした中でも、常に本心を目覚めさせる工夫を忘れてはいけない。座右版言志四録Amazon(アマゾン)2,400〜10,164円
毎朝鶏が鳴いてから目を覚まし、心を澄まして黙坐すること一時ほど、自ら心に清明な気持ちがあるかどうかを考えてから、寝床を出て顔や手を洗い口をそそぐ。それから聖人の書物を読み、日が出ると仕事を始める。毎晩夕方から午後の十時頃までに、公私の業務を終わり、暇があると、古人の語録類を読むことにしている。夜の十時以後、また澄心して黙坐すること一時ばかり。昼間の行動が正しかったかどうかを反省してから、寝ることにしている。自分は近年これを守って、日常の生活の決まりにしようと考えている。しかしこのこ
『孟子』に三楽を挙げているが、第一の楽しみは親によく仕えることを説いているので、少年時代のことのようである。第二の楽しみは自己の完成について説いているので、中年時代のことのようである。第三の楽しみは人物の養成について説いているので、老年時代のことのようである。自分は「もう年をとって余命が短い。父母や兄弟はみな死亡してしまった。何の楽しみがあろうか」と思った。自分の身体は父母の遺した身体であり、兄弟も同じであるから、自分はいま自愛自重し、正しい行いをし、恥をかくことが無ければ、親が亡
身体から発する生気には、老若の違いがあるが、意気込みには老若の違いが見られない。それで、老人が勉学する際には、一層士気を励まして、若い青少年や壮年の者達に負けてはいけない。若い者達が生い先が長い。たとえ、今日勉学しなくても、いつか埋め合わせする時がやって来る。しかし、老人には本当に将来補う日はやって来ない。朱子も言っているように、今日学ばなくても明日があるといってはいけない。易にも、「人の一生涯は短いから、楽器でも鳴らして歌い楽しまなければ、いたずらに年をとって老いぼれたという嘆き
女性の四十という歳も、また一生涯の内で変化のある時期である。三十歳頃はまだ恥ずかしさがあり、その上、舅と姑がいる。四十歳頃になると、白粉をつけて化粧することも遠のき、人の世話をすることも上手になる。それで、人々から賢婦人といわれるのもたいていこの時期である。しかしまた、恥ずかしさも無くなり、化粧して着飾ることも無くなって、悪知恵を働かせたり、素行が悪くなったりして、大変婦人としての徳を失うのもこの四十歳頃に多い。その婦徳を備える-得る-か失うかは、男性の五十歳の時期と同じようなもので
年齢が五十頃になると、久しく年月を経て、色々と練り磨かれて辛苦を嘗めてきた。聖人においては天命を自覚し、普通一般の人も政治に関心をもつ時期である。この年頃は世間の事によく馴れてきて、驕りあなどる心が生じやすく、遂に晩年に節を失うのもこの時期であるから身を慎まなければいけない。自分は文政四年に美濃の鉈尾に行って、七代・八代の先祖の昔の跡を尋ね、それから京都に赴いて、五代・六代の先祖の墓に参り、その帰りに東美濃の巌邑(いわむら)を過ぎて姉に会った。その頃、年齢が五十であった。それから、
『論語』に「其の以(為)す所を視、其の由る所を観、其の安んずる所を察す」とあるが、自分はこの視・観・察をかえて一生涯に配してみると、三十歳以下は何事も浅く雑にみるから視の時代に似ており、三十歳から五十歳までは視よりも念を入れてみるから観の時代に似ており、五十歳から七十歳までは前よりもより精(くわ)しく考えるから察の時代に似ているといえる。この察の時代には、天命を自覚して、人生を楽しくするようにすべきである。自分の年は六十六にもなって、まだ深く道理の道に至ることができない。まして天命
自分は二十歳頃、一生懸命に読書して、千年も昔の事まで知り尽くしたいと思った。中年以後になってから、一度以前の事を後悔して、心を外に向けることを戒め、もっぱら内心に反省するようにした。このようにしてからは、やや得る所があり、これが聖賢の学に反しないことを覚(さと)り得た。今は老人になってしまって、若い頃に読んだ書物は、半分以上ほども忘れてしまい、ぼんやりして夢のようである。少し心に残っていることも、まばらでまとまっていない。それを考えると、益々といとい半生を無駄な事に精力を費やしてきた
自分が左右に置いて愛用している机や硯やその他の諸器具は、たいていはみな五十年以前に手に入れた器物である。物は古くなれば、棄て去りにくくなるものである。それにつけて思うに、「昔晏子(あんし)が一枚の狐の皮衣を三十年も着用した」といわれているのも、またたぶん必ずしも、けちんぼのためであったわけではなかろう。座右版言志四録Amazon(アマゾン)2,400〜10,164円
孔子は「古い知り合いを忘れない」といっているが、これは美徳-立派な徳-で、これが人情というものである。自分の家の小さい庭には、他の色々な草木などはないが、ただあるのは石榴(ざくろ)ろ百日紅(さるすべり)と木犀(もくせい)の三つの樹だけである。これらの木は四十年以前に植えたものであって、朝夕主人の自分と向かい合って、共に年をとってきた。夏や秋の頃には花が大変美しく咲いて、目や心を十分に楽しませてくれる。これは自分にとっては老友なのである。自分は草木にはやや淡泊ではあるが、この三本の木だ
孫子が「まず、敵が勝つことができないようにしておいて、敵が勝つつもりでやって来る機会を待っている」といっているのは、最初に着手すべきことである。また、孫子が「全勝を期して、天下に争って覇者としての権力を握る」といっているのは、眼の着けどころである。また、孫子が「計画を運らして、敵の実情を探索する」といっているのは、兵法上秘密に属することである。座右版言志四録Amazon(アマゾン)2,400〜10,164円
宋の時代に「武経七書」という名がはじめてできた。この兵法七書の中で、『孫子』と『呉子』以外は全て偽書である。ただその中の取るべき有益な言葉は、その書物が真であろうと偽であろうと、問題にしないのがよい。近世になって明代の兪大猷(ゆたいゆう)や戚継光(せきけいこう)らの兵法の書も実際に益する所がある。座右版言志四録Amazon(アマゾン)2,400〜10,164円
万物の化成は陰陽二気の消長によるが、この二気の変化は、人をしてその本末始終の測り知れないものがあることを知らしめる。道家の荘子はこれを弔詭-至って奇妙-といっている。兵法家の孫子は「兵は詭道なり」(兵法は人を偽りだます戦術にある)といったことも、戦法は臨機応変にすべきで、本末始終の予測できないものがあるということである。座右版言志四録Amazon(アマゾン)2,400〜10,164円
中国古代の兵法に関する書物もまた一読するがよい。兵法の名著である『孫子』や『呉子』はもとより良書である。孫子の文章は彼以前の兵書-六韜・三略-に次いで優れている。彼はもっぱら書を著わすことに意を注いだ。呉子の方はやや実直であるといえる。昔の人もそのようにいっている。座右版言志四録Amazon(アマゾン)2,400〜10,164円
学問は宋学の祖、周濂渓や程明道・程伊川兄弟の宋学に基づいておれば、文字の読方・解釈は、たとえ漢代や唐代のもの-字句の解釈-を用いても別に差支えはない。それは試みに考えて見ると、昔から今までに、孝の字を親に逆らうと解釈したり、また忠の字を君に叛くと解釈したりする者はいない。座右版言志四録Amazon(アマゾン)2,400〜10,164円
中国最古の書である『書経』にも古文と今文との二つがあって、現在伝わっているのは、古文尚書であることは、疑うべきではない。宋代以後この古文尚書についての信疑の論が起こって色々と派が生じた。近世になって、清代の閻若璩(えんじゃくきょ)が『古文尚書疏証』八巻を著して、古文尚書が魏・晋頃の誰かの偽作であるとしたが、同じく清代の毛奇齢が『古文尚書寃詞』を著してこれを反駁した。もっともなことである。およそ五経の中で真実が多いのは、この『書経』に及ぶものはないといえる。無闇やたらにこの『書経』を