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京都市下京区にある「角屋もてなしの美術館」というとこに行ってきました筆者、古い建物が好きで時間があるときにはぶらっと見に行ったりしてますこの建物は、何かと言うと以前、料亭として使われていた建物とのこと新撰組の刀傷とかあったりして歴史を感じますね〜純和風の建物もなかなかいいですね(^^)綺麗な景色もいいですが古い建物でも目の保養になる筆者でした
前回からの続き(8月18日のこと)です東鴻臚館址の石碑から東へ行くと、すぐ十字路があり、そこを右へ曲がりますそこに石碑と駒札長州志士久坂玄瑞の密議の角家の石碑と住所・京都市下京区西新屋敷揚屋町(角家前)角家の駒札角家(すみや)角家は江戸時代に繁栄した旧花街・島原を代表する揚屋(あげや・現在の料亭)で、明治時代にお茶屋業に編入された後も、昭和60年(1985)まで営業が続けられた。島原は、我が国最初の官許の花街で、当初は二条柳馬場に開かれ、その後、六条三筋町に移転し、更に
かつて京都にあった花街、島原。宴席の場となる揚屋・茶屋と、芸妓さんを派遣する置屋で構成され、一般人から皇族に至るまで様々な身分の人々をもてなしました。老若男女問わず非常に開放的で、京都の文化の発展に大きく貢献したと言われています。どのくらい開放的だったかというと、実のお母さんを親孝行として揚屋に招いた人もいたくらいだそうです。そんな風に多くの人で賑わった島原でしたが、1851年、大火でほとんどの建物が焼失。以降かつての賑わいが戻ることはなく、徐々に衰退していったとのことです
本願寺(西本願寺)を見た後、島原に行きました。島原は京都の花街の一つです。西本願寺から10分ほど歩くと島原大門。島原の入り口です。大門の横に島原の説明版と地図があります。大門の内側は石畳の道内側から見た大門大門のすぐ近くに置屋の輪違屋があります。さらに島原の奥に進みます。古い建物が残っています。こちらはBarとのこと。そして目的地の角屋(すみや)に到着。角屋は島原の揚屋(料亭みたいなものら
西本願寺特別公開『西本願寺特別公開【国宝・書院飛雲閣】』親鸞生誕850年今、京都は親鸞そして親鸞です。西本願寺世界遺産5月16日から21日まで、期間限定で国宝書院と飛雲閣(外観)の特別公開中です。予約は不要てす…ameblo.jp親鸞生誕850年西本願寺特別公開を観覧して次は、龍谷ミュージアム。龍谷大学の博物館です。初めて、行きました。西本願寺の近くにあります。↑ベゼクリク石窟復元回廊館内は、撮影禁止でした。この壁画のみ、撮影OK。展覧会は、親鸞生誕850年「真宗と
昨日は久しぶりにゆっくりと京都に行ってきました~たまに美術館に行ったり、取引先もあり足を運ぶ機会もあるけど、観光することがめったになかったから、ちょっと新鮮です!!「角屋もてなしの文化美術館」友人の案内ガイドで、たっぷり2時間館内を観せてもらいました~江戸期の客人をもてなす饗宴のための施設、今でいう料亭にあたるところです。改めて日本人の「もてなす」ことの意識の高さにびっくりでした!!是非行ってみてくださいませ。。。観てまわるのに結構時間かかるので、余裕もって時間配分くださいね
京都、島原に角屋もてなしの文化美術館という江戸のころに使われた揚屋があります。高級料亭です。現在は重文になり、完全予約制にて公開されています。手前にある島原大門角屋外観入口で受け付けパンフレットと入館証をいただき、案内人さんと見学ここには幕末、新撰組も通っていました。優美ですこちらが当時使われていた玄関みなさま籠にてご到着されていたようです。刀を置く箪笥1階の松の間1863年新撰組はこの角屋で大宴会を催します。初代局長芹沢鴨はここでぐでんぐでんに酔っ払い、その夜宿
京都4日目。最終日でございます。この日は。京都在住のブロ友Rちゃんと。JR丹波口で待ち合わせRちゃんとは。前回京都で初めて会って。意気投合年齢差はありますが。とても気の合う友達でございます。この間。2度京都行きをキャンセルたまいゆい。そのたびに。Rちゃんを振り回していたので。今回は仙台空港旅立ち直前に連絡。最終日に会う約束をしておりました。JR丹波口での再会。
島原と聞くと、九州島原の乱を思うのですが、こちらは、京都の島原、しかし九州のそれと時期を同じゅうして移転騒動があり、それがきっかけとなり「島原」と呼ばれるようになったそうです。地名には島原はないそうですよ。さて、その島原は、江戸期以来の公許のいわゆる歓楽街だったのですが、遊郭とはちがう花街(かがい)だそうです。和歌俳諧等の文芸活動も盛んに行われていたのだとか。また、歌舞伎練場も開設されていたとのことです。こちらは、花街の東の入り口である大門(おおもん)今では
蔵出し京都画像~京都画像クイズNo.123は、ちょっと難問だったようですね。久しぶりに解答を寄せられた方皆さん正解とはなりませんでした😥。もっとも、出題者としては、してやったりです🤣。それでは正解と解説です。松の間から臥龍松を観賞する庭園島原にある角屋もてなしの文化美術館前身の揚屋「角屋」は、幕末の久坂玄瑞をはじめ多くの志士達の密議に使用されています。討幕派の志士達だけでなく、壬生に近いことから新撰組との関わりも深く、芹澤鴨が暴
京都の続き西本願寺から歩いて10分位で島原へ。太鼓楼から新撰組の隊士も島原へ通ったんでしょうねー住宅の中に突如現れる島原大門この門の様子は明治や大正の古い写真と比べても殆ど変わりなく、見返り柳の枝が少し寂しくなってる位かな?タイムスリップ感があっていいですね〜門を入って進むと所々に良い感じの建物が残ってますさすが元花街京都の古い建物の屋根に乗っている護り神の鍾馗さんの置物、良いですよね創業元禄元年の元置屋の輪違屋さん。素敵です、維新の名花といわれた桜木太夫を抱えていた置屋で
京産大ギャラリーのあと、五条通を南に渡って、西に入ると花街の島原です。江戸の吉原、大阪の新町と並ぶ、昔の三大遊郭。ここには、その面影が残っています。大門をくぐって、路地を南に入ると、置屋兼お茶屋の輪違屋です(非公開)。軒行燈に、歴史を感じますね。明治から平成にかけてあった、歌舞練場の記念碑です。古い街並みに、スーパー銭湯やホテルが並んでいるのが、当世か。鍾馗さん、発見。西に歩くと、10世紀頃に渤海国の施設を歓待した、東鴻臚館址です。こちらは、西門
本日のメインイベント角屋もてなしの文化美術館へ。公益財団法人角屋保存会(島原角屋公式サイト)公益財団法人角屋保存会(島原角屋公式サイト)sumiyaho.sakura.ne.jp以前から、「行ってみたい場所ナンバーワン!」だったにもかかわらず。ちょっと不便な場所なのよね。立地条件の悪さから、明治以降、寂れて閉まったという歴史にも、肯けるかんじ。だけど今回は、ひとり旅。自転車を漕いで、(けっこう遠かった)たどりつきました、、かつ
久しぶりに7月京都のブログを更新します。諏訪開諏訪神社から島原へ。島原を散策するのは8年ぶりかな。島原大門島原は江戸の吉原と並ぶ代表的な遊郭。初め二条柳町に開かれ、その後六条三筋に移転。寛永十七年(1640)突然現在地への移転命令が出され、翌年の騒動が島原の乱の騒ぎに似ていたことから、また、その構成が島原城のように一方口だったため、島原と称したと言われます。当初は西新屋敷と呼ばれ、江戸幕府公認の京都唯一の遊女街として発展します。画像の大門は何度か建て
こんにちばんは´ー`)ノ当ブログ、癒し喫茶エコーのオーナー綾瀬ベル兄です暑くなりましたね食中毒になりやすい季節です生ものには充分気を付けて下さいねさて、再び京都の島原に足を運びましたよく江戸の吉原と比較される京の島原は江戸時代に、六条三筋町(現在の東本願寺)と呼ばれた遊郭が全身で1641年(寛永18年)に現在の場所に移されてきました。その移転騒動が島原の乱を思わせる感じだったところから、島原と呼ばれるようになった。というのが現
10日間の連休も終わって、また仕事の日常。連休明け出勤したら「10日も休むと飽きて…」という話がそこここで聞かれたのですが、わたしはなんだかしたいことをしきれなかったので、まだまだもうちょっと休みたかった感じ。関西旅行したのは1週間以上も前のことになってしまいましたが、最後に連休の関西旅行でラッキーだったことを記録しておきます。1.ダブルブッキング宿泊先は今年の初めにささっと予約をしてあったのですが、4月中旬を過ぎた頃、そのホテルから予約を多くとりすぎてしまい、ダブルブッキング状態なので
奇数月に1泊2日で京都、5回目の今月は29時間ほどの滞在、日帰りを除けば今までで一番短かったのではないだろうか。それもそのはず、元々の観光の予定が「京都鉄道博物館」と「島原」、「京都府立植物園」だけだったので、テンションが上がらぬままの上洛となった。そしていくつかの失敗をともなった京都の休日になってしまった。(1)「角屋もてなしの文化美術館」が休館中閉館ではなく、9月14日まで休館中、なんでも文化財の保全のためだという。下調べをしておけばなんでもなかったのだが、何度も京都を訪ねるう
この春から京都近郊の大学に進んだ息子君が、高校から痛めていた肩の手術をする事になり、看病の為に京都入り…あいだあいだの時間を使っての京都見物中料理屋、料亭の元祖である「花街」京島原の揚屋「角屋」へ今現存する揚屋はこの角屋さんのみ…江戸後期の書物の中で「響すを業とする也」と定義されてる様に太夫や芸妓を呼んで遊宴を行なう施設で明治維新後衰退します。入り口お台所番頭さんのいる受付新撰組も使っていて柱には刀跡があったり……普通は入り口で刀を預けるのですが、新撰組は見回りだから預けなか
春の京都新撰組巡り続き③でございます(*´∀`*)日にち変わりまして、この日は角屋もてなしの文化美術館へと行って来ました♪角屋さんの前には桜が満開!天気も良くて最高の花見日和(*´∀`*)唯一現存する、寛永期の揚屋建築。(国指定重要文化財)多くの藩士や文化人が出入りしており壬生の屯所からも近いため新選組も多用した。(るるぶ薄桜鬼より)角屋さんの前には石碑と…是非ともこちらの看板をよく見て頂きたいです(笑)見えますでしょうか?角屋さんの説明看板なのですが新撰組の説
こんにちは京都旅行2日めですが、朝食の後はバスで壬生・島原方面に向かいました大政奉還から150周年ということで、色々特別展など催しもあったようです新撰組に関わる名所がたくさんでしたまずは旧前川邸へ通りすがりのご近所の方と思われるおじさんから声をかけられ、15~20分ほど解説を受けるハプニングもありました誠の旗は逆向きですが、お互い記念に写真を撮りました看板を見ると、すごいお屋敷だったんだな~と改めてびっくりしましたそして八木邸へ今回中へは入りませんでしたが、券を買うと、八木邸の
前回、映画『沈黙─サイレンス─』を見ての感想を書かせていただきました。その舞台は、いわゆる島原の乱が起きてから数年後の長崎とその近くの西九州の島々だったと思いますが……。島原の乱が起こったのは、寛永14年(1637)から翌年にかけてのことです。いきなり、今回のテーマとは関係のない話から入ってしまいました。いつものとこですが、スミマセンね。関係のない話のついでに──。「五花街(ごかがい)」が今も残る京都の人は、"ヤヤコシク"て"ヤリニクイ"のですが──。その京都の人によりますと、花街と遊
土曜はこちらへお参りしてきました。子どもの時は立ち止まりもせず、遊びに行く時や、駄菓子屋さんへ向かう時、走って通りすぎてた小さなお堂。いわれも知らず、ただ、あったことは知ってただけ。伯父にそのお堂の話を聞いたのは今年8月。古い木像が祀られてる、と。実家の納屋からすぐの場所。路地を抜けて、何十年ぶりか。行ってきた。畑の中にぽつんと建ってるのは変わりなく、すぐ近くにはマンションが建ってた。調べてみると、(ざっくり)昔、その場所に海正寺というお寺があり(うん、町名は海正寺町)、